第二章 誓い
 
 
                  
 
 

 先に立って歩き出したアシュラルとジュールの後を追って、あさとも慌てて、建物の中に足を踏み入れた。
「あ……」
 思わず、小さな声をあげている。
 薄闇の中、七色の光が美しく、幻想的にきらめいている。それが、ステンドグラス越しに差し込む外光だと、やがてあさとは気づいた。
 肌を撫でるひんやりとした空気    外より、気温が低く感じられる。
 天窓が開かれ、さっと明るい日差しが、室内を白々と照らし出した。
     ここは……。
 礼拝堂だ
 正面に飾られた創造神シーニュの石膏。足もとにうねる長い髪、翼をもった美しい女神が、両手を胸の前で組み合わせ、天に祈りを捧げている。
 聖壇の前には、規則正しく並べられた長椅子の列。
 戸惑いながら見回した視線の先、壇の影、薄暗がりに佇む二つの人影が飛び込んできた。
「ラッセル?」
 思わず声に出していた。
 それは、先ほど別れたばかりの、ラッセルとカヤノだった。
 奥まった壁際で、病み疲れた男は長椅子に半身を預け、それでもかろうじて立っている。カヤノは傍らで、男を気遣わしげに見つめている。
     ラッセル……。
 こんな所にいたのだ。でも、何時の間に。この建物は、どう見ても病室ではない。ラッセルはいつから、ここに立っていたのだろう。
 わずかに動いたラッセルの顔が、あさとの姿を追っているように見えた。遠いのと薄暗いのとで、その表情までは判らない。
 すぐにでも傍に駆け寄りたかったが、カヤノの存在が、あさとの足を委縮させる。
 ディアスは、正面の神像に背を向けて立っていた。
 柔和な目、そして、優しい笑みを浮かべた口元。しみいるような眼差しで、じっとあさとを見つめている。
     似ている……。
 あさとは改めてそう思っていた。初見でもふと感じた。この人は誰かに似ている。初めて見た人のはずなのに、ひどく懐かしい匂いがする    でも、誰の顔だろう、それがどうしても思い出せない。
「ばかな女だ。お前は自分の意思でここに残ったんだぞ」
 ふいに、前を行くアシュラルの背中が言った。
「本当に、ダンロビンの妻になるつもりなのか」
 静かな室内に、彼の声はきれいに響いた。
 振り向きもしない背中を、あさとは怒りをこめて睨みつけた。
「結婚の意味くらい判っているわ」
「わかっているのか、それはあいつに抱かれるということなんだぞ」
「………」
     そんな汚い言葉を、ラッセルの前で、死んでも口にしてほしくなかった。
「……判ってるわ」
 息を詰めるような思いでようやく答えた。
 ラッセルのほうを見ることはできない。
 ダンロビンとの結婚は、最初のラッセルの本意ではなかったのかもしれない。が、アシュラルがそれを望む今となっては、ラッセルにとっても    望ましい結論であるはずだ。そう、自分に言いきかせる。
 アシュラルはようやく振り返った。厳しい目、けれどそれは、どこかいつもの彼とは違ってみえた。
「ならば、その覚悟、俺が預かろう」
「……え?」
「お前を同志と認めてやる。せいぜい、俺のために役立ってみせろ」
「何言って」
 ふいに伸ばされた腕が、抗う間もなくあさとの腰を抱き、引き寄せる。
   ?」
 寄せられる唇、仰天して顔を背けたが、間に合わなかった。
 冷たい感触が唇に触れる。それはあの夜の血の香りを彷彿とさせた。
「……っ」
 全身の力で押し戻す。
 見下ろしている漆黒の瞳には、何の感情も浮かんではいない。あさとは右手を思いきり振りかぶり、渾身の力で目の前の男の頬を打った。
 自分の手が痺れるくらいの衝撃だった。それでも返す掌で、もう一度反対の頬を打った。
「アシュラル!」
 重なった叫び声は、ジュールと、そしてカヤノのものだ。
 あさとは肩で息をしながら、闇の目を持つ男を睨み続けた。
   きつい女だな」
 ほとんど無反応に掌を受けたアシュラルの目は、冷たく冴え渡っていた。口元に持ってきた指先に、白い包帯が巻かれている。薄く笑い、彼はそれに唇をつけた。
「女に噛みつかれるのは慣れているが、ここまで激しくされたのは初めてだ」
 全身の血液が、一気に沸点に達したような気がした。
     許さない。
 こんな侮辱、ラッセルの前で、こんな侮辱。
「その傷が、一生あなたに残ればいい」
 震える声であさとは言った。
「あなたを憎み続けるわ。一生    あなたがしたことを、絶対に、私は許さない。指の傷は、その証よ!」
 アシュラルの冷たい眼差しに、暗いものが掠めるように通り過ぎた。
   俺はな、お前みたいな何もできない女が大嫌いなんだ」
 暗い焔を孕んだ瞳。心ごと焼かれてしまいそうなほどの、深い憎しみが揺れている。
 ……何故?
 あさとは困惑しながら唇を噛み締める。昔から、アシュラルが自分を嫌っていたのは知っていた。でも彼が    何故自分をそうも嫌うのか、理由までは判らなかった。
「昔からお前が嫌いだった、顔を見るのも虫唾が走る。お前がそうであるように、俺も一生、お前のことを好きにならない」
 恐ろしい声で、アシュラルは一気にそう言うと、靴音を荒立ててきびすを返した。
 激しい屈辱に、あさとは拳を震わせながら立っていた。
 何故そうも激しく憎まれるのか、アシュラルの口調の底には、ただ嫌悪するだけでない、別の何かがあるような気がする。
 けれどそれを確かめる前に、アシュラルは肩をそびやかしていた。そして、祭壇に向って言った。
   ディアス、俺はもう行くぞ」
 ディアスはゆっくりと微笑した。
「アシュラル様の方こそ、およろしいので」
「かまわない。決めた、お前の言うとおりにしてみるさ」
「わかりました、では、ジュール、ラッセル、お前たちも良いな」
「神にかけて」
 違う場所から、声をかけられた二人は同時にそう口にした。
     何の話……?
 あさとにはわけがわからない。けれどアシュラルはさっさと歩き出し、ジュールもまた、とりつくしまのない目をして立っている。
「クシュリナ様」
 ディアスが、壇上から柔らかな笑顔を向けている。
「いずれ、またお会いできる日が来ようと思います。その折は、私めの長話につきあってくだされませ」
「……? はい」
「今は……早い。まだ、時が至りませぬゆえ」
「え……?」
 問い返す間もなく、壇上の男は、そのまま小さな背を向けて歩き出す。
 即座にセルジエがつき従い、二人は建物から出て行ってしまった。
     どうなってるのよ、一体……。
 アシュラルの姿は、とうに見えなくなっている。遠くで馬のいななきが聞こえる。
 気がつけば室内には、あさととジュール、そしてラッセルとカヤノだけが残されていた。
「ラッセル、戻りましょう」
 カヤノの声で、あさとはようやく我に返った。    そうだ、ラッセル!
 振り返ると、ラッセルはカヤノに腕を引かれ、背を向けかけているところだった。
 一瞬顔を傾けた彼の眼差しが、真正面からあさとの視線と交差した。
     ラッセル。
 迸った言葉は、けれど声としては出てこない。
 わずかに絡み、視線はすぐに逸らされる。
     ……ラッセル?
 あさとは呼吸が出来ないほどの胸苦しさを感じていた。
 カヤノに手を引かれたラッセルの、痩せた背中が遠ざかる。
     なに、……今の?
 視線が絡んだ刹那、彼の瞳に、今までにない激しい熱の色をみたような気がした。 
 気のせいだろうか、あれは、まるで   
「クシュリナ様、バスティーユの城に戻りましょう」
 背後に立っていたジュールが、抑揚のない声でそう告げる。
「え、ええ」
 ジュールに再度促され、あさとは仕方なく従った。
 胸の底に、最後に見たラッセルの眼差しが突き刺さり、きつく心を締め上げている。
 勘違いだ、あさとは自分のくだらない妄想を振り払った。
 ラッセルの眼が   
 まるで、恋をしているように感じられたのは。

 
 
 
 
 
 
 

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