13
 
 
 これは剣道の稽古ではない。実戦だ。
 あさとは木太刀を握り締めながら自分自身に言い聞かせた。    そうだ、経験がないわけじゃない。一新館の稽古で繰り返し覚えた型がある。実戦剣法、神道無念流の型である。
     型。
 足を踏み出しながら、あさとの脳裏をよぎったのは別のことで    けれど雑念を意識できたのはそこまでだった。
 五加五形。身体と心で覚えこんだ型が、自然とあさとの腕を動かしていた。
 まずは、上段。
 あさとが振りかぶると、アシュラルも、同じように上段に構えた。相打ちになった木太刀が、鈍く重い音を立てる。
 明らかにリーチが違う。不利    あさとはすぐに、剣を離し、飛ぶように後ずさる。
 ざりっと靴が砂を擦った。間髪をいれず、すぐに次に手に打って出る。
 下段。
「鋭っ!」
 左斜め下から竹刀をすくうように振り上げる。
「む、」初めて、男の唇からわずかな声が漏れた。がっきと、竹刀がぶつかりあう。利き腕を封じられているせいか、跳ね返す力が弱い。片や、あさとは渾身である。
 交差した竹刀を、ぐっと相手の胸元に押し付ける。アシュラルが、それでも本気で力を込めていないことが、あさとには判った。
 見てなさいよ。   
 片足を軸に、飛ぶようにして竹刀を翻す、次の瞬間、水月を狙って、それを鋭く突き込んだ。
 男の唇から、微かな舌打ちが漏れる。
 が、次の一閃、木太刀を落としていたのはあさとの方だった。たまらずに膝をついた。打ち据えられた手首が震えている。骨が軋むほどの痛みである。
「つ……っ」
 前もそうだが、タイミングは完璧だった。あらためて思い知らされる。アシュラルは相当に腕が立つのだ。仮に「クシュリナ」ではなく「あさと」の肉体で対峙したとしても、到底勝ち目はなかっただろう。
「……お前」
 しかし、悔しさに駆られて見上げたアシュラルの顔には、初めて見る険しさが浮かんでいた。
「一体いつ、そんな技を覚えた」
 それを説明しても、どうせ理解してはもらえない。
「もう一本」
 あさとは機敏に身を起した。先ほどの立会いではっきりと判ったことがある。道場で稽古を重ねていた記憶は、心に蓄積されている。身体さえ満足に動けば、剣術はあさとにとって、この世界で生き抜くための大きな力になるはずだ。
 靴を脱いだ。下は草地だ。踵のある靴より、素足のほうが何倍も動ける。
 次は、    中段。
「やぁっ」
 地を蹴るようにして、アシュラルの喉元目がけ、突きを入れた。それは簡単に剣先でかわされ、かわすと同時に、今度は彼の太刀が、正面に振り下ろされる。
 むろん、あさとには読めている。受け止め、払い、今度は左からすくいあげた。
 決まる    と思ったそれは、思わぬ鮮やかさで止められる。
 右! 休まずに、攻撃の矛を反対側に移す。
 わずかに後ずさったアシュラルは、それでも見事な太刀さばきで、あさとの攻撃を受け止める。払って、正面、それもまた、交わされる。
 あさとにも、アシュラルの手が読めているように、アシュラルもまた、あさとが繰り出す技を知っているかのようだった。
 再度、激しく組み合う木太刀。髪が流れて、汗が散る。向き合う顔と顔、一瞬、視線が強く絡んだ。
     琥珀……?
 はっと、あさとは戸惑って視線を逸らしていた。
 そうだ、琥珀なら知っているはずだ。この型は、古来剣術神道無念流の基本形、道場で    手足がそれを覚えこむまで繰り返し共に学んだ型なのだから。
「あっ」
 次の瞬間、左腕に激しい痛みが弾けた。心によぎった雑念、それが勝敗の全てだった。
「何を、呆けている」
 頭上から投げられるアシュラルの声は、一糸の乱れも感じさせない。
     いけない……。
 あさとは肩で息をしながら、落ちた木太刀を拾いなおした。
 脚が痛い。腕も肩も限界だった。手首はもう感覚がないくらいに痺れている。
     心臓……壊れそう……。
 頭では動けている。けれどまだ、身体が上手くついてこない。
「さっさと立て」
 アシュラルは木太刀を左手で軽く振り上げ、冷たい口調で言い放った。
「お前以上に俺は忙しいんだ。どうした、もう音をあげるのか」
 あさとは荒い息を吐きながら、奥歯を噛みしめた。こいつにだけは、絶対に負けたくない。
 どうする……?
 太刀を構えながら逡巡する。額から零れた汗が、頬から顎に滴る。
     どう、攻める…?
 髪が邪魔だ。汗で首筋に張りつくし、動く度に視界を遮る。
 腕が重い、    太刀を構えるで、もうやっとだ。上段に振りかぶるのも、左右に打ち分けるのも無理だろう。
 一か八かだ。
 どうせ後はない。
 腹を決めたあさとは、木太刀を緩く中段に構えた。二度の勝負で、アシュラルが自分に合わせた戦い方をすることは判っている。余裕からくる慢心なのだろうが、相手に合わせ、決して自分のペースにもってこようとはしない。
     見てなさいよ……。
 かすかに木太刀の先端を動かす、あさとは右小手を狙う素振りを見せた。当然、アシュラルの太刀はそれを防ごうと下段に出る。
     来た!
 そのタイミングを突いて左小手に照準を移す。間髪入れず、アシュラルの太刀が上に逸らされた。それが、あさとの待っていた一瞬だった。
「えいっ」
 裂帛の気合。
 振りかぶって右側から    仕留める!
「……!?」
 はっと見開かれた男の目、黒い髪が風に揺れる。
 アシュラルの左手首に、確かにあさとの放った剣が吸い込まれていく。
 が、同時に、後先考えない捨て身の攻撃は、あさとの重心も崩している。
 剣を突く勢いのままに突っ込んだあさとは、アシュラルの胸に思いっきりぶつかっていた。
「……!」
 目がくらんだようになって、その刹那、何が起こったのか判らなかった。
 倒れた自分を抱きとめて    そして共に抱き合うようにして倒れたのが、顔を見るのも厭わしい男だと    そう理解できるのに、数秒を要していた。
「……って…」
 頭でも打ったのか、仰向けになったアシュラルは眉をしかめている。
 あさとは慌てて身体を起こそうとした。けれど彼の腕があさとの腰を抱いたままになっている。そのままの姿勢で、咄嗟に動けなくなっていた。
「………」
 息が触れるほどの近さに、憎んでも憎み足りない男の顔がある。
 形良い額。きれいな輪郭を描く頬。凛とした鼻筋。強い光を抱く瞳。
     琥珀……。
 あさとは逃げることさえ忘れたまま、目の前の顔に見入っていた。
 似ている、……悔しいくらいに似ている。あんな残酷な真似をした男なのに。今だって、殺してやりたいくらい嫌いなのに。彼が琥珀だったら    本当に琥珀だったら、自分はどうすればいのだろう。
「……? 何だ?」
 けげんそうに、眇められる目。
「……別に」
 あさとは男の腕を振り解くと、素早く立ちあがった。
 嫌いなのに……憎んでいるのに   
 その顔で見つめられたら、その声で語りかけられたら    どんな感情を抱いていいのか判らなくなる。
「お前が、古来の剣の型を知っているとはな」
 アシュラルは乱れた髪をかきあげながら、立ち上がった。
「久しぶりにその型で打ち合った。五輪の型だ、天、地、人、陰、陽」
 まだ整わない呼吸を繰り返しながら、あさとはアシュラルのきれいに引き締まった横顔を見上げた。
     そっか。この世界にも、似たような型があるんだ……。
 だとしたら彼が琥珀だという証拠にはならない。安堵したような、落胆したような、複雑な気持ちになる。彼を試したい    勝負のはじめ、心のどこかで、あさとは確かにそう思っていたのだった。
 その時、ふと顔をあげたアシュラルが、何に眼を止めたのか、微かな舌打ちを漏らした。
「アシュラル!」
 激しい声と共に、大きな影が視界を遮る。
 疾風のように駆け寄ってきたのはジュールだった。
「何を馬鹿なことをやってるんだ、お前は!」
 あさとは少し吃驚していた。あの鉄面皮ジュールがこんなに血相を変えている。
「お前の身体は、お前一人のものではないんだぞ! 自制しろ」
 しかも、まるで抱かんばかりの勢いで、アシュラルの肩を両手で掴み、不安気な眼差しで見据えている。
「わかっている」
 アシュラルはうるさげに嘆息した。
 体格の違いのせいもあるのだろうが、こうして二人で並び立つとアシュラルがひどく華奢に見える。
「指の怪我は神経に障るといったはずだ、まだ剣を使うのは早い」
 そう言ってジュールが伸ばした手を、アシュラルは厳しい眼差しで払いのけた。
   俺の傷に触るな」
 傷……?
 あさとは怪訝な思いにかられてアシュラルを見あげた。彼の左手。その薬指に    最初から白い包帯が巻かれていることに、今さらのように気がついていた。
 そういえば、目覚めた時にも、彼は左の手に包帯のようなものを巻いていた。……どこか、怪我でもしているのだろうか。
 あさとの視線に気がついたのか、アシュラルは顔を上げると、かすか笑った。
「忘れたのか、お前がつけた傷だ」
 その言葉が意味することが、気持を瞬時に凍りつかせていた。
「意外に深かった。骨の近くまでやられていた」
 あの夜の    血の味。身体が引き裂かれるような苦痛と衝撃。死にたくなるような無力感。
 忘れていた、この男の顔が余りに琥珀に似ているから   
 こいつは人間じゃない、けだものなのだ。
 両腕が、堪えきれずに震え始めた。
 その時ようやく、自分がまだ木太刀を握り締めていることに気がついた。
「何をぼんやりしている、勝負はお前の勝ちだ」
 黒斗の傍に歩み寄りながら、アシュラルは吐き棄てるような口調で言った。
「約束だ、何処へなりと行くがいい」
 あさとは眉を寄せたまま顔を上げた。先ほどまで二人で立ち会っていた中庭の隅に木太刀が一本落ちている。
 困惑した。    信じられない。本当に私が勝ったのだ。彼は確かに腕を打たれて太刀を落とした。が、最後の一振りに、果たしてそこまで力がこもっていたのだろうか。もう、腕を上げるのも難しい手に、それだけの力が出せていたのだろうか。
 剣道の試合ならば、おそらく無効に違いなかった。あの剣に    有効となるだけの強さはない。
「アシュラル、お前、何を言っている?」
 ジュールが眉をしかめて、アシュラルと、そしてあさとを交互に見る。
「自分が何をしようとしているのか、判っているのか。この方が必要だと言ったのは、お前なんだぞ」
「騎士として賭けをした。俺も、騎士の端くれだからな」
 もしかして……。
 そんなこと、絶対にあり得ないけれど。
 倒れた私を助けるために……彼は、剣を捨てたのだろうか。
 あさとは動揺してアシュラルを見上げた。視線に気づいたのか、男は眉をしかめ、つっと冷たい横顔を見せた。
「行くのならさっさと行け、二度と皇都には戻ってくるな」
「アシュラル、正気か」
 ジュールの声が困惑している。アシュラルはそれを無視して、黒斗の手綱を解き始める。
「お前……いったい、今日、何のために俺がこの方をお連れしたと思っているんだ!」
 ジュールの声は、すでに困惑を通り越して、怒りと諦めを滲ませている。
「乗れ!」
 鋭く振り返ったアシュラルが、黒斗の手綱をあさとに差し出す。
 あまりにも突然開けた未来に、あさとはただ戸惑っていた。
     行くって……何処へ、何処へ行けばいいのだろう。
 確かに法王領から領地続きの潦州へならば、女一人でも落ちのびてゆけるのかもしれない。久世公は、きっと優しく受け入れてくれるだろう。青州に、もしダーシーが戻ってきたら、ダーシーを頼れば、彼はきっと命に代えても護ってくれるに違いない。
 でも   
 そうなれば、どうなるだろう。
 すでに同盟を結んでいると言う薫州フォード公と奥州ヴェルツ公、双方と    戦争になるのではないだろうか。
 私の、行くべき道。
 私の、行くべき場所は……。
 あさとは、黒斗の傍に立つアシュラルの横顔を静かに見つめた。その輪郭に、琥珀と同様、怖いくらいよく似た男の影を被せていた。
(姫様……)
(私は、姫様との、約束を護った   
     ラッセル、私……。
 私も約束を、……私の義務を、果たさなければならないのね。
「……行かないわ」
 あさとは呟いた。そう、最初からわかっていた答えだった。
 アシュラルとジュールが、同時に振り向く気配がする。
 あさとは唇を引き結び、二人から視線を逸らした。
 それが、殺したいほど憎い男の野心に加担することになると判っていても。
     私は、……私は、ラッセルとの約束を守りたい。
「行かない……。行けるわけがないじゃない。だって私は、この国の皇女なんだから」
 わずかに眉を寄せたアシュラルは、微動だもせずにこちらを見ている。
「この国を護る義務があるから……だから、皇都を捨てたりは……しない」
     私は私の、義務を果たす。
 この世界で課せられた、私の使命を。
 あさとは決意を胸に秘めて、顔を上げた。
「私が、ヴェルツ公爵家と婚姻することでイヌルダに平穏が戻るなら、喜んでお受けするわよ」
 高貴なる者の義務を果たす。それがラッセルとの約束だから。
 アシュラルは無言だった。その冷めた目は、あさとをばかにしているようにも、呆れているようにも見えた。
「……後悔するぞ」
 彼の唇から低い呟きが漏れた、その時だった。
「三人とも、こちらへ」
 背後で    ひどく低い、けれどしっかりとした声がした。
 恐縮の体で最初に振り返ったのは、ジュールである。
「ディアス様!」
 あさとが振り向くと、くるぶしまでの白い法衣を纏った中肉中背の老父が、まるで幻のように中庭の中央に立っていた。背後には、最初に会ったセルジエという青年が従っている。
 知的で、そして柔和な表情、短く刈られた頭には白いものが多分に混ざっている。年は    六十半ばから七十前といったところだろうか。
「始めまして、クシュリナ様」
 老人は、深く頭を下げた。
「このような場所にお迎えした無礼をお許しください。……この修道院の主、千賀屋ディアスと申します」
 そして、顔をあげた男は、不思議な懐かしい笑顔になった。
「ユリウスの乙女……ようやく、お会いできましたな」
    
 私のこと?
 あさとは困惑して周囲に視線をめぐらせて見る。むろん、他には誰もいないし、アシュラルもジュールも何も言わない。
 そういえば、カヤノも、同じことを言っていた。
 ユリウスの、乙女……? 
 あさとは、疑心を隠せない眼で、目の前の老人を見つめる。ディアスは柔らかく笑んだままだ。
「さぁ、こちらへ」
 ディアスがそう言って、小さな痩せた背を向けた。
 セルジエが従い、長身の男二人は無言でその後についていく。
 三人の行く先は、ドーム状の屋根を持つ建物のようだった。
「ちょっ、待ってよ」
     意味が、まるでわからなかった。
 
 
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.