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9
眩しい……。
まず、陽射しのまぶしさに、あさとは目をすがめていた。
生まれて初めて外にでたモグラってこんな気持かな、と思う。
もちろん、陽射しは異世界も元の世界も変わらないけれど、それでもこの世界で あさとは初めて、地下から地上に出たのだった。
あれから、四日。
思いの他、異世界生活にも順調に馴染みつつある。
というのも、最も忌むべき最悪な男と一度も顔を合わせずに済んだばかりか、皆の態度や雰囲気で、あの男が、すでにこの城にいないのが判ったからだ。
いい天気だな……。
城の周囲は見渡す限り、濃淡を異にした緑の森が広がっている。生い茂る葉の隙間からは、透明な木漏れ日が煌いている。
どうやら、クシュリナとあさとには、ひとつだけ共通の性格があるようだった。
つまり なんの根拠もない楽天家。
後は、ヴェルツ邸からの迎えを待つばかりだと判っていても、なんとなく それでも、なんとかなるのではないかと思っている。その場になれば、なるようになると、どこかで安穏に構えている。
あさとは、被っていたケープを取り払った。日焼け止め……ま、いっか。そんなものあるわけないし。
深呼吸して 何度もして、初めてこの世界で、人らしさを取り戻した気持になれていた。
バスティーユって、確かパリの牢獄の名前じゃなかったっけ。
そう思いながら、自身が閉じ込められていた城を見上げてみる。
白茶けた石でできた、幅広の建物。塔には三角屋根がついていて入口は高い。黒い螺旋階段が二階近くに作られた扉に向かって伸びている。
窓はどの部屋にも、小さな灯り取りしかなく、外観だけみると、まさにそれは牢獄だった。
法王領を護る城だと、確かサランナが教えてくれた。だとしたら、いかめしい造りにも納得がいく。おそらく、徹底的に防御に適した構造になっているのだろう。
城の周囲は四方八方、深い木立に覆われていた。広がっているのは迷路のような闇深い森。迷い込んだら、二度と出てこられなくなりそうだ。
いずれにせよ、皇室領から殆んど足を踏み出したことのないあさとには、今自分がいる場所が何処なのか、正確には判らない。
「クシュリナ様」
背後から低い声で呼ばれ、あさとはつられるように振り返った。
「瀬名あさと」として覚醒してからは「クシュリナ様」と呼ばれることに戸惑いがあったが、ようやくそれにも慣れつつある。
美しい口髭と長い黒髪。褐色のケープを肩に羽織り、あさとの背後に立っていたのは、加賀美ジュールである。
「お支度はよろしいですか」
いつものように、抑揚のない声がかけられる。
「……本当にいいの、私を外出させても」
あさとは少し皮肉な口調で言い返した。「どさくさにまぎれて逃げ出すかもしれないわよ」
「そうかもしれませんね」
「言っておくけど、半分は本気よ」
「それは、……困りますが」
口ごもるジュールの表情が、心なしか人間らしく見える。陽射しでも目に入るのか、細くすがめられた男の双眸。その眼差しに、何かもの言いたげな気配を感じた。
「何……?」
「いえ」
「私の顔に何かついてる?」
あさとがそう言うと、まっすぐな男の口元に、初めて柔和なものが浮かんだ気がした。
「女官が驚いておりました。クシュリナ様におかれましては……ここ数日、かなり食欲が旺盛だそうで」
「えっ」
さすがに羞恥で頬が赤らんだ。
そ、そんなことまで干渉されるの? と、言いかけた言葉を唇で押さえ込む。
確かによくお腹が空く。今だってかなり空いている。
もともとクシュリナは食が細いから、用意される食事の量も少ないのだ。でも、あさとは昔からよく食べる方だった。それに、 毎日目一杯動いている。
身体を鍛えてるからだなんて、とても言えないわ。
あさとはジュールから視線をそらして肩をすくめた。
誰もいない部屋で、例えば腕立て伏せをしたり、腹筋をしたり、そんな姿を見たら、多分ジュールは卒倒するだろう。
私だって、雅が自室で筋トレしてたら、仰天するだろうな。
想像したら少し可笑しくなった。
「育ちざかりなのよ」
「なるほど」
納得したのか聞き流したのか、そのままジュールが歩き出したので、あさともその後を追った。今日 ジュールが自分を何処かへ連れ出そうとしているのは承知していたが、その行き先が何処なのかはまでは聞かされていない。
「ご正気を取り戻して以来、人が変わられたようですな」
ジュールが歩幅をあわせてくれる。足元に伸びる影がすっぽりとあさとの身体を包み込んだ。
「それが、何かの企みでなければよろしいのですが」
「………」
ほんっと、疑り深い奴。
が、なんとなく、あさとはこの長身、長髪、美髯の鉄面皮が憎めなくなっている。
何気に靴や薬を差し入れてくれたことだけでなく、多分 「この件に関しましては、私はあなた様を露ほども疑ってはおりませぬ」と言われ時から、敵意は、漠然と緩んでいる。
知らなかったな。
少しだけ好意をこめて、その横顔を伺い見る。
人に信じてもらえるって……前は自分が正しければ当たり前だと思っていたけど……それって、すごく難しくて、だからこそすごく嬉しいことなんだ。
もちろん、ジュールが信じているのはラッセルでありダーラであり、クシュリナではないだろうけど。
が、まだ許せない部分はある。
結婚式の朝、この男はフラウオルドの騎士を、眉ひとすじ動かさずに殺したのだ それがコシラ兵を信じさせるために必要な行為であったと推測しても、やはりその残虐さには耐えがたい嫌悪を感じる。説明してもらえなければ納得できない。
「で、何処に連れて行くつもりなの」
城の裏手。二頭立ての簡素な馬車の前で足を止めると、あさとは疑心のまなざしでジュールを見上げた。
結婚式のことだけではない。ジュールとアシュラルの関係、立場、何もかも、まだ得心がいかない。
「カタリナ修道院です」
ジュールはクシュリナを促し、自分も馬車に乗りこみながら言った。
車内で、男はケープを肩から外す。あさとは少し驚いていた。思いっきり正装だ。黒色の立て襟のコート。白いボウと銀の刺繍を施したボディス。冴え冴えとした横顔は、相変わらず無表情で厳しい。
「カタリナ……?」
あさとはジュールに聞き返した。
法王庁が所轄する貴族の学び舎。ラッセルとダーラが幼少時を過ごし、結婚式を挙げた場所。以前、カヤノに連れられて行ったことがあるはずだ。
皇室領を抜けて 馬車で、さほど時間はかからなかった記憶がある。
「……それは、この近くにあるの?」
皇都から、まる一日かけての命がけの逃避行、随分遠くまで来たという気がしたが、そうでもなかったのだろうか。
「そうです。が、それはあなた様が御存じのカタリナ修道院ではございません」
ジュールの声と同時に、馬車がゆるやかに疾走を始めた。
「……法王庁に、カタリナと名のつく修道院は二つあるのです。一つが、イヌルダに広くその名を知られる法王が庇護する学び舎であり、もう一つが、……公には知られていないカタリナ修道院です」
「……どういう意味?」
「いずれお判りになりましょう」
もしかして 。
「ダーラや……ラッセルは、その、……今から向かうカタリナ修道院で学んだの?」
「そうです。私も、アシュラル様もです」
揺れる車内、それきり寡黙な男はむっつりと黙ってしまった。もともとの仏頂面が何故か一段と不機嫌そうに見えた。
何のために行くの ?
そう聞きたかったが、やめた。冷たい横顔は、それを聞いても何も答えてくれそうもなかった。
10
ほどなくして着いた目的の場所には、本当に小さい 町の教会、といった風情の可愛らしい建物があった。
距離はわずかだった。そして、一本道だった。馬車を降りたあさとは、来た道を振り返る。直感だったが、バスティーユの城は、もしやこの修道院を守るために作られたのではないか そんな気がしたからだ。
建物は美しかった。
白壁に、落ち着いた緑色の屋根。建物の周囲には、白銀の柵が張り巡らしてある。
うっそうとした木立に護られて、まるで建物全体が緑の影で覆われているようだ。
あさとが見あげると、三角屋根から、一斉に小鳥が舞いあがった。
塔の頂点に、クルスのオブジェが煌いている。見るからに古い建物なのに、手入れがいきとどいているのか、印象は綺麗で、清々しい清潔感さえ漂っている。
掲げられている旗に、あさとはふと眼をとめた。
「ジュール、あれ……」
黄地に天秤。それは 以前行ったカタリナ修道院でも目にしたものだ。が、この修道院には肝心の法王旗が掲げられていない。
「あの旗徴、どういう意味があるの?」
「この修道院の成り立ちを意味する御旗にございます」
成り立ち……?
ジュールが手をかけると、銀柵の門扉は簡単に開いた。
敷地内は静まり返っていて、内にも外にも、警備や見張りの類はいない。以前行ったカタリナ修道院がものものしい警備に囲まれていたことを思うと、雲泥の差だ。
手入れの行き届いた芝の両サイドには、淡い色彩の花々が、来客をもてなすように控え目に微笑している。小川でも流れているのか、涼やかなせせらぎの音が聞こえてくる。
素敵な場所だな、と、あさとは思った。
この修道院を統べる者の優しさが伝わってくるようなアプローチだ。
しばらく歩くと、どこか懐かしい掛声が建物の向こう側から聞こえてきた。懐かしい はっと胸が締め付けられるような雰囲気と空気は、あさとが子供の頃から慣れ親しんできたものと同じだった。
「剣術の、道場があるのです」
ジュールが説明してくれた。
「カタリナより選ばれし者が幾人か、この修道院で武術を学び、新しき学問を学び、新時代の長たる思想を学んでおります。私たちはここで、幼き頃より共に育ち、共に学んでまいりました」
私たち 。
「ラッセルも……、ダーラも、なのね」
失った仲間のことを思い出したのか、鉄面皮の横顔に、かすかに暗いものが宿った。
「……他にも、一緒だった仲間は何人かいます。いずれ姫様にも」
その時だった。
「ラッセル!」
風に乗って、甲高く細い声が響いた。
ラッセル?
耳にした途端、あさとの心臓は跳ねあがっている。
声のした方に視界をめぐらす。小柄で、ひどく俊敏そうな女が、庭を挟んだ向こう側から駆けて来るところだった。遠くて顔はよく見えない。くるぶしまでの薄緑色のスカートが、風をはらんで舞いあがっている。
あさとは、みるみる近づいてくるその女を、視線で追った。「ラッセル」とは、彼女が発した言葉に違いなかった。
ラッセル……。
名を聞いただけで、心臓が早鐘のように鳴りはじめている。
おそろしい速さで近づいてきた女は、あさとやジュールなど目に入っていないような切迫さで、白銀の柵に手をかける。くるくるっとドレスの裾をまくりあげてペチコートだけになると、あっと言う間に、その柵を飛び越える。
それは、女の背や柵の高さを考えると、にわかに信じがたい跳躍力だった。
とん、と地に降りて顔をあげる。初めてその横顔が、くっきりと陽に照らしだされた。「あっ」と、あさとは声をあげていた。
カヤノだ ユーリが消えた夜、金波宮から消えた元第一女官。
が、そのカヤノからわずかに離れた距離に立つ人を見た時、あさとの頭にあった何もかもが吹き飛んでいた。
「……ラ、…」
襟高の白いシャツ、黒のくるぶし丈のブリーチズ。痩せた横顔に、以前より少し長くなった髪がかかっている。
ラッセル。
あさとは心の中で叫んだ。胸がいっぱいになっていた。まさか、予想もしていなかった。こんな、こんな所で会えるなんて。
「ラッセル!」
けれど情愛を込めてその名を呼んだのは、あさとではなかった。
駆けよったカヤノは、ラッセルの腕に飛び込んだ。長身のラッセルの胸元までしか届かない小柄な身体。すぐに上を向いたその横顔が怒っている。
「ばか! どれだけ心配したと思っているの! そんな身体で、一体何処に行くつもりだったの!」
ラッセルは答えず、胸の中の女を見下ろした。何か呟いたようだったが、言葉は、あさとには届かない。
「もう、どこにも行かないっていったじゃない……。ラッセルのばか、嘘つき!」
必死に訴えるカヤノの目が、恋をしていることをあさとは察した。
ラッセルは黙っている。少しうつむき加減の横顔からは、表情までは読み取れない。いきなりの抱擁に驚くでもなく、戸惑うでもなく、逆に 愛おしむように、長い指で、そっとカヤノの髪に触れている。
あさとは、不思議な胸苦しさを感じながら、二人の姿をただ見つめた。
ダーラ以外に、こんな風に彼に接する女性がいたことを、今まであさとは知らなかった。
「ラッセル、カヤノ」
初めてジュールが口を開いた。
カヤノは、驚いたように、ラッセルはそれを予期していたかのように、それぞれの目が向けられる。
「ディアス様のお言いつけどおり、姫様をお連れした」
ディアス?
どこかで聞いた名前だと思いながら、確認する暇もないほど、あさとの全ては、ラッセルに釘付けになっている。
ラッセル ラッセル、ラッセル。
会いたかった。胸の奥底でいつも彼のことを探し、求めていた。それはクシュリナの叫びであり、同時にあさとの心でもあった。恋しい 今も、見つめているだけで、涙が溢れそうになる。
「ラッセル」
カヤノが、非難の声をあげた。その腕を解いて、ラッセルがこちらに歩み寄ってこようとしていた。
ジュールとあさと、カヤノとラッセル。双方の間を銀の柵が遮っている。
静かに歩み寄ってきたラッセルは、柵の手前で膝をついて、視線を伏せた。
「姫様」
あさとは、声もでなかった。
間近で見たラッセルは、すでに以前の彼ではなかった。
頬は削げ、骨格が暗い影を落としている。窪んだ眼にも、色の失せた唇にも、生気というものが感じられない。それは いってみれば、半ば死者になった者の相貌だった。
「お元気を取り戻されたと、お聞きしました」
硬い声だった。何よりも彼は、うつむいた顔を上げようともせず、向き合う主人の眼を見ようともしなかった。
ラッセル……。
何と答えていいのか、あさとには分からない。
彼が今どんな感情を抱いているのか、下げたままの眼差しからは何ひとつ読み取れない。
こんなに近くにいても、彼の心にあるものが何一つ判らない。
それが……憎しみなのか、憤りなのか、悲しみなのか。それでもまだ、そうであってくれればいいとあさとは思った。彼に何かの感情をぶつけてもらわない限り、あさともクシュリナも、絶対に救われないからだ。
「どこへ行くつもりだった」
背後からジュールの声がした。気遣うような口調だった。
答えないラッセルは、ただ面を下げ続けている。
「身体が戻っていないなら無理はするな、ディアス様には私から言っておく」
……身体……?
さすがに不安にかられ、問いただそうと唇を開きかけた時、カヤノが叫ぶような声をあげた。
「いいえ、まだ熱は高いの。ジュールお願い、この人に無理はさせないで」
熱? あさとは咄嗟に、傍らのジュールを見上げている。
ラッセルに何があったのだろうか。どこか悪くしているのだろうか。
膝をつく男は動かない、顔を上げず、声さえ出さない。
ラッセル……。
何か言いたいのに、話しかけたいのに。あさともまた、彼の顔が直視できないままだった。怖くて……できない。彼の心を知りたいのに、同時に知ることを恐れている。
「クシュリナ様」
柵の向こうから、ようやく低い声がした。頭はまだ下げたまま、まるで囁くような声だけが聞えた。
「…… お許しを」
「………」
あさとははっとして顔を上げた。対峙する男もまた、静かに顔を上げた刹那だった。懐かしい 夢にまで見た顔が、すぐ近くにあった。
ラッセル……。
表情を失った瞳の暗さに、あさとは吐胸を衝かれていた。
こんな表情をしたラッセルを見たのは、初めてだ。彼が失ったものの重さを、その罪深さを、改めて思い知らされずにはいられない。
一瞬交差した視線を逸らし、ラッセルは静かに立ちあがる。
「……あなたのせいよ」
その背で小さな声がした。
カヤノだった。金波宮では、一切感情を見せなかった無機質な瞳に、激しい怒りの色が燃えている。
「あなたを庇ったせいでラッセルこんな怪我を負ったのよ、命まで落とすところだったのよ!」
「よせ、カヤノ」
ラッセルが厳しくそう言い、カヤノの腕を掴もうとする。カヤノは構わずまくしたてた。
「ダーラも死んだわ。あの人がどれだけ、子供が生まれるのを心待ちにしていたと思っているの? みんな、あなたのせいじゃないの!」
「カヤノ!」
「何よ、何がユリウスの乙女よ、そんなもののために」
ぱんっと弾けるような音がした。
「いい加減にしないか」
あさとは息を呑んだ。叩いたのはラッセルで、眼に悔しさをにじませているのがカヤノだった。横顔に激しい怒りを宿したまま、ラッセルは厳しくカヤノを睨みつけた。
「二度とこの方に、かような口を聞くな!」
裂帛の叱責。びくっとカヤノの肩が震えるのが判る。
こんな 怒りを露にしたラッセルの声もまた、あさとには初めてのことだった。カヤノは頬を押さえる事もできずに、うつむいて唇を震わせている。
あさともまた、立っているのがやっとだった。
今耳にした一言一言が胸をえぐり、心の深部を貫いた。私のせい 何もかも、私のせい……その通りだ、すべては、カヤノの言う通りなのだ。
が、ひとつだけカヤノは、理解できない言葉を吐いた。
ユリウスの……乙女?
「クシュリナ様、ひとまずお部屋の中へ」
ジュールが、あさとの肩を抱いて押しやりながら言った。そして、ラッセルを振り返った。
「苦しいなら、無理をするな」
「いえ、ディアス様のお言いつけですから」
「他にも代わりはいるだろう」
「……いえ……」
ラッセルはうつむく。
鉄面皮の男は軽く舌打ちして、嘆息する。
「カヤノ、とにかくラッセルを奥へ連れて行け。随分、ひどい状態らしい」
カヤノは、表情を硬くしたまま、痩せた男の腕をとった。ラッセルは逆らわず、彼女の腕に引かれて背を向けた。
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