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6
これが、私の……。
いや、クシュリナと言う女性の、運命なのだろうか。
昼間と同じベッドに横臥したまま、あさとはぼんやりと考えていた。
顔のあたりに、薄い月光が射しこんでいる。ようやく見つけた灯り取りの小窓。それは天井近くに一つだけあったが、到底手の届く高さではない。
どうしても外の景色を見たかったあさとは、卓を苦心してベッドの上に持ち上げて、その上に乗って自分で窓をこじ開けた。
ひらひらしたスカートを、腿までたくしあげて縛り付け 細すぎる腿に唖然としたが、もう自分の非力さにいちいち驚いている余裕はない。なんにしても、体力のないあさとには、全身汗みずくの作業だった。
外を見て、ようやくあさとは気がついた。ここは……地下だったんだ。
すぐ眼下に地面が見える。薄く生えた雑草。とすれば、この部屋はほぼ八割がた地下に埋まっていることになる。
空には、丸く輝く月が浮かんでいた。
あの蔵に似ている……。
雅と最後に会った場所。じっとりと湿った蔵の地下 そこにも、確かこんな小さな窓が天井近くについていて、大きな月が見えたはずだ。
そう、だんだん思い出してきた。確かに雅がいると聞かされたのに、地下には誰もいなかった。ただ壁の一部が、青白く発光していて、 その光に、近づいた途端。
「…………」
あさとは、嘆息して目を閉じた。
この世界はそもそもなんなのだろう。 前世? それとも来世だろうか。
欠けない月、忌獣が闇を支配する世界。
あさとの知っている世界の過去ではないことだけは間違いない。だとしたら 来世?それとも、全く別の、異次元の世界なのだろうか。
門倉雅と同じ顔を持つ私 有栖宮クシュリナ。
ここまでそっくりだと、雅の生まれ変わりか、生まれ変わる前の姿としか思えない。わからないのは、どうしてあさとの意識がこの身体に宿ってしまったかということだ。
あれから雅の声は、一度も耳に届かない。
そもそも雅の意識は、本当にこの身体の中に同居していたのだろうか。今となっては、それすらよくわからない。
少なくとも、あさとは「クシュリナ」が生まれた時からこの身体の中に存在していた。ずっと――瀬名あさととしての記憶を無くしたまま、クシュリナとして生きてきた。言ってしまえば、誕生から十七歳までを、あさとは再度やりなおしたことになる。
それとも私自身が……。
迷うような気持で、逡巡する。
私が……クシュリナの生まれ変わり……?
そこまでいくと頭は混乱して、いくら考えても結論は出なくなる。
そしてもう一人、真行琥珀と同じ顔を持つ男、聖将院アシュラル。
信じられないことだけれど、あの男が琥珀の生まれ変わり……なのだろうか。顔は瓜二つでも、どうしても、彼の中に琥珀がいるとは思えない。思いたくない。やはり、外見は前世と関係ないのだと思いたい。
そして。
そのアシュラルと、はっとするほど良く似た顔を持つ男 獅子堂ラッセル。
彼は、なんだろう。
琥珀とも違う。
小田切さん……?
まさか。
心に浮かんだ疑念を、あさとは急いで振り払った。印象がまるで違う。小田切は、あんな優しい男ではない。
が、優しくない、そう言いきるほど、自分は小田切のことをよく知っていたのだろうか。
もしかすると、彼は優しい人だったのかもしれない。優しさゆえに人を憎み続けることが出来ず 苦しいほどの葛藤を、一人の胸に閉じ込め続けていたのかもしれない。
小田切と琥珀は、確かにどこかが似通っていた。顔の印象ではない、時折垣間見せる表情と……闇を秘めたような暗い眼差しがよく似ていた。
わからない、考えれば考えるほど理解の範疇を超えている。
ひとつだけはっきりしているのは この世界の私は……。
閉じた瞼から、想いが溢れ出しそうだった。
私は、 ラッセルに恋しているのだ。琥珀ではなく、ダーラと結婚したラッセルを、ずっと想い続けているのだ。
そして、一番琥珀に近い存在であるアシュラルを、どうしようもなく憎んでいる。
この感情ばかりはどうしようもない。十七年のリピート、それが、自分の心を根底から書き換えてしまったのかもしれない。
だとしたら琥珀への あの激しい想いは何だったのだろう。何処へ消えてしまったのだろう。忘れたのだとしたら、変わってしまったのだとしたら、余りに儚くて、 哀しすぎる。
目を閉じたまま、あさとは唇を震わせた。
いったい私という人間の本質は、瀬名あさとなのだろうか、それとも、クシュリナなのだろうか。
瀬名あさととしての自分は、むろん、ダンロビンの妻になることなど考えられない。相手がどうだというより自身の道徳や信条として、愛してもいない人と結婚するなど、考えられない。
けれど、クシュリナは……違う。
逆に、愛のない結婚を当然の定めとして受け止めている。
( 高貴なる者の責務をお忘れなさいませんように)
ラッセルの言葉が、鋭い楔のように胸をえぐる。
ヴェルツは皇位継承者と己の息子の婚姻を成立させるまで、決して争いを止めようとはしないだろう。アシュラルが譲歩しなければ まさにイヌルダは真っ二つに割れ、果てしない血の抗争が繰り広げられることになる。
そしてアシュラルは、それを譲歩というのなら、自身が法王になるのと引き換えに、彼の権利である皇位継承者との婚姻を見送ったのだ。
私さえ……ダンロビンと結婚すれば……。
あさとは強く唇を噛み締めた。
自分のために死んで行った多くの人たち。自分を護るためだけに命を失ったダーラ。一瞬にして妻と子を亡くしたラッセル。
それら全ての咎の責務が、「クシュリナ」としての責務が、 ダンロビンと結婚して、この国に一刻も早い平和をもたらすことにあるのなら。
それが……唯一の贖罪であるならば。
無残な気持ちで、あさとは決意するほかなかった。いずれにせよ、父ハシェミを人質として拘束されている以上、それしか選択の術はない。
雅……。
あさとはベッドから身体を起こした。
気づけば朝の陽射しが、暗かった部屋をゆるやかに明るい色彩に染めつつあった。
素足で床に降り立ち、ゆっくりと 壁に掛けられた鏡の前に立ってみる。
鏡に映る自分の顔、 門倉雅の顔。茶褐色の虹彩が鮮やかな瞳。長い睫、淡く小さな唇。白桃の肌。
瀬名あさとだった頃は、ずっとこの美しさがうらやましかった。けれど自分のものになったそれは、ただ、べたべたと女臭く、どうしても好きになれなかった。そう、子供の頃からずっと 「クシュリナ」は自分の顔が嫌いだったのだ……。
それが、「あさと」の「雅」に対する真実だったのだろうか。
転生した今になっても、雅への嫉妬、邪念、そんなものがどす黒く澱み、胸の奥底に巣食っている。泣きたくなった。それが それが人の心の、私の心の本性なのか。
雅、聞いてるの? あなたはまだ、何処かで私を見ているの?
助けて……。
心が悲鳴を上げている。
これが雅の運命で、辿ってきた想いだったのか。暴力的に陵辱され、愛する人に見捨てられ、誰からも顧みられることのない これが。
夢なら早く覚めて欲しい。狂えるものなら、いっそ狂ってしまいたい。
でも 。
絶対に、逃げない。逃げたりなんかしない。
かすかに震える拳を握り、あさとは自分に言い聞かせた。
例え何があろうが、この先自分にどんな運命が待ちうけていようが。
クシュリナの運命を受け止めて、そして、必ず乗り越えて見せる。
そうすれば。
そうすれば、その先にある何かが見えてくる。
きっと琥珀にめぐり会える。
私は、そこに行きつかなければならないのだから。
7
「何をしておいでなのです」
背後から聞こえた声は、驚いたというより、呆れている。
「なにって」
あさとは、腕をとめて汗を拭った。
「素振りだけど」
扉の向こうに立っていたのは、昨夕別れたきりのジュールだった。
外からは鳥のさえずりが聞こえる。
朝食を下げに来た女たちが、奇妙なものでも見るような目で、そそくさと去っていったから、注進を聞いて駆けつけてきたのかもしれない。
今朝のジュールは、金波宮でよく見た濃紫のクロークを羽織り、腰には大刀、背には三叉の槍を背負っている。これから何処かへ しかも、危険を伴う行軍に出るのだと、あさとは察した。
「すぶり」
ジュールは、何か言いにくい言葉でも口にするように、繰り返した。
「その、棒を振り上げたり下ろしたりする所作のことですか」
「……まぁ、そうだけど」
こっちじゃ、そういう呼び方はしないのかな、と思いつつ、あさとはすす払いを壁に立てかけた。武道に関しては、クシュリナはズブの素人だから、そういった知識にはどうしても齟齬が出る。
「剣の型ってあるじゃない。色々」言い訳がましく説明してみた。
「これも、そのひとつなんだけど」
「……ほう」
疑心に満ちたジュールの目は、すでに半ば、あさとを狂人だと決め込んでいる。
あさとは軽く嘆息した。確かに、そう思われても仕方がない。
あさとが着ているのは、お仕着せにも似たくるぶしが隠れるほどの長いドレスで、あきらかに室内用の衣服である。いってみればパジャマみたいなものだ。
それを 袖は二の腕までまくりあげ、髪はがらくたの中から探しだした紐でひとつに括り、素足で、 鋭い声をあげながら、ジュールの言うところの、「棒を上げ下げしている」のだから。
不思議だった。
どんなに最悪の夜でも、どんなに落ち込んでいても、朝はくる。
明け方近くになってから開き直ったように熟睡したあさとは、目が覚めると、妙に腹がすわった心持で、この世界で最初に為すべきことを実行した。
つまり 体力づくり、である。
「わざと、でございますか」
冷やかな口調で、ジュールが口を開いた。
あさとは眉を寄せて、鉄面皮の男を見上げる。
「それが気の触れた真似ごとであれば、もうおよしなさいませ。あなた様の品位を、貶めるだけにございます」
「………」
むっとしたが、あさとはあえて冷静に目を逸らした。
品位が落ちて困るのは、あなたやアシュラルであって私じゃないでしょ。
咄嗟に出かけたその言葉は、胸の中に抑え込む。
「棒を持って戦う方法は、以前ダーラに教わったのよ。私は……見ての通り力がないから」
両手で、竹刀を握る真似をする。
「いざと言う時は、こうやって相手に向かいなさいって」
正眼――じっとジュールを見据えてみた。
憮然した顔で、ジュールは、やや顎を引く。
「この前は随分怖い目にあったから、気休めでも稽古をしていたいと思ったの。いけなかったかしら」
「もちろん、ご自由に過ごされてかまいません」
不必要なほど恭しくジュールは答える。
「ありがとう」
ジュールがそのまま立っているので、あさとは、肩をすくめてベッドに腰かけた。
ご自由に ね。靴さえあたえずに地下の一室に閉じ込めておいて、よく言うものだ。
「それから」わずかに咳払いをして、ジュールは続けた。
「お探しになられている、首飾りの件ですが」
「あったの?」
はっとあさとは顔をあげた。ユーリから、別れ際に託された緋色の石。彼が手にしていた時だけ、内部で陰火が揺らめくように輝いていたそれを、クシュリナはあの夜、首に大切にかけていたはずだった。
目が覚めた時、すでに衣装からして別のものに着替えさせられていて、装飾品の類は一切身体から外されていた。
今朝、気づいて女官に戻してくれるように頼んだが、そのような色の首飾りは最初からどこにもなかったという。
「着替えなどをさせた者に聞きましたが、当夜、首飾りの類を、姫様がお着けになっておられた形跡はなかったとのことでした。皇都からここまで悲惨な行軍でございましたから、あるいは、道中、落されたのやもしれませんが」
「……そう」
ひどく不吉な暗示を感じて、あさとは唇を引き結んでうつむいた。
なくしてしまった 。ユーリが、命のように大切にしていたペンダントを。
(俺の心は、今、全部君に捧げた)
ユーリは許してくれるだろうか。本当に無事に イヌルダを出ることができたのだろうか。
確かにつけていたペンタ゜ントは、決して落としたりなどしていない。ガイと別れ、一人で走り出した時にも、素肌にしっかりとその硬さを感じ取っていた記憶がある。
が、あの夜、死んでいった多くの者たちの弔いの中、自身の装飾品にこれ以上拘ることなど、とうてい出来ないとあさとは思った。
「わかったわ、もういい……。きっとどこかで失くしてしまったんでしょう。大変な時に、私ごとでわずらわせてしまって申し訳なかったと、皆に伝えて」
「いえ……」
ジュールは妙な歯切れの悪さで否定すると、一度背を向けて扉を閉めた。
朝とはいえ、小さな窓しかない室内は、たちまち薄暗がりに包まれる。
男の視線が、ふと訝しげに開かれた窓に向けられたが、それについては何も言わず、無言のまま居住まいを正した。
「実は、今朝は、私のほうでもひとつ詮議したき儀があってまかりこしました」
「詮議?」
あさとは、警戒して眉を寄せる。
「最初に申し上げますが、これは私の一存にございまして、アシュラル様は関知せぬことにございます」
「………」
「件の薬は、いったいどなたから手に入れました」
声が、不意に厳しくなった。
8
件の薬 確認するまでもない、サランナから託された薬。ヴェルツに捕らえられたきっかけとなった、あの忌まわしい薬である。
「すでにお聞きかと存じますが、あれは禁制の毒薬、人の心を蝕む蛇薬にございます」
あさとは、表情を抑えてただ、床を睨みつけていた。
「お持ちになっておられるだけで、死罪。皇族であろうが、その処遇に差はございませぬ。その決定は、しかし法王庁のコンスタンティノ大僧正様しかお持ちではない」
「……私のものではないわ」
「薬は、パシク立ち会いのもと、確かにクシュリナ様の御寝室から発見されたとの報告を得ております。それが蛇薬であったことは、アシュラル様と法王様、そしてヴェルツ公爵の間で伏せられている。法王様がその職を辞し、またあなた様とヴェルツ公爵の御子息の結婚を了承されたのは、ひとえにその弱みを突かれたからにございます」
「それこそ、あなた方の思惑どおりだったのではなくて?」
正直言えば、あさとはそれが アシュラルの指示を受けてなされた、罠ではなかったかと疑っている。
「質問しているのは、私です」
が、ジュールの眼差しは動じなかった。
「この件に関しましては、私はあなた様を露ほども疑ってはおりませぬ。何故ならあなた様のお傍には、常に 私にとって、非常に信頼できる者がつき従っていたからです」
「………」
それはラッセルであり、ダーラであり……そして、最後に傍付となったカヤノなのだろうか。
どんなにか、「蛇薬」は、あなたの言う所の「同志」であるサランナから託されたものだと言ってやりたかった。
口にしたところで、今さら、サランナにはなんの咎もないだろう。彼女の言う話が本当なら、それは青州公の宮から手に入れたものになるし、彼らにとっての仇敵ヴェルツ公爵の罪を暴くべくして為された振る舞いなのだ。
が、逆に サランナがそう主張すれば、危うい立場に追い込まれるのが、青州である。
蛇薬使用の疑惑が、青州鷹宮家に及べば、今、窮地を脱して青州に向かいつつある鷹宮ダーシーはどうなるのか。
そして、養父殺しの疑惑をかけられたまま、蒙真に向かっているユーリはどうなるのか。
さらに言えば、松園ルシエのことも気がかりだった。
薫州公は、いったいこの政変にどういう立場で絡んでいるのだろうか。サランナはルシエが怪しいようなことを言っていたが、あさとには、あの寂しげな瞳を持つ年上の人が、どうしても悪い人には思えない。
「言えないわ、悪いけど」
あさとは、床を見つめたままで、言った。
「それは、私が信じられないからですか」
「そうじゃないわ。……あなたにも守りたい人がいるように、私にも、……守りたい人がいるのよ」
「………」
「私に言えるのは、あれは何かの陰謀で、私自身が迂闊で愚かだったと言うことだけ。……瓶の中身は知らなかったわ。もちろん、私が使ったこともありません」
冷やかな沈黙の中、ジュールが呆れにも似た溜息をつくのだけが判った。
「あなた様が、仮に火刑に処されるとして」冷淡な声がした。
「それでも、あなた様は、今と同じ抗弁をなさるのですか」
火刑 。
おそろしく実感がわかないが、火あぶり、ということなのだろう。中世ヨーロッパの魔女狩りで行われたような 。
ぞっとした。あさとの世界では過去や本の中の出来事でも、ここでは、その残虐な刑は現実なのだ。もちろん、そんな恐ろしい死に方をするなんて絶対に嫌だ。
が……それでも。
それでも、「クシュリナ」であれば、どうだろう。それでも彼女は言わないのではないかと言う気がした。何があってもユーリのことだけは、守り続けるような気がした。
なんだ。
ふっと、あさとは微笑を浮かべている。
クシュリナって案外、いい奴じゃん。
「その時、考えるわ」
クシュリナだったら、そう言うだろう。思いながらあさとは続けた。
「少なくとも私は無実で潔白です。悪いけど、今はそれしか言えないわ」
「…………」
不思議な沈黙の後、ジュールが再び息を吐く気配がした。
「アシュラル様の伴侶として、誰がふさわしいかという話になった折」
あさとは眉を寄せて、ジュールを見上げる。
「その場にいた皆は全員サランナ様をご推挙なされました。私も、むろん同じ意見にございました」
なんだろう。いったい何が言いたいんだろう。
「その選択が間違っていなかったこと。ただ今のご返答で、実によく判ったような気がいたします」
さすがに、あさとはむっとした。
なんて なんて婉曲な厭味だろう。
「それはどうも」
ずっと我慢していた怒りが、さすがに隠しきれなくなっている。
「私もあなたの何もかもが信じられないけど、ひとつだけ感謝していいことができたみたいよ。サランナを推してくれてありがとう。心の底から感謝します!」
「…………」
「…………」
一瞬、本気でジュールが怒りをその目に滲ませ、あさともまた、同じような目でジュールを睨みつけていた。
「出て行って」
「言われなくとも」
怒り任せに立ち上がったあさとは、わずかに眉をしかめていた。やわな足に、少し無理をさせすぎたのかもしれない。見れば、指先あたりが擦れて赤くなっている。
「どうなさいました」
「別に」
せめて、靴くらい用意してくれたらいいのに。
悔しかったが、物乞いみたいに、この男にいちいち頼みたくない。
ますます憮然としたジュールが、挨拶もなしに立ち去った後、あさとは怒りを鎮めるために何度か素振りをし、やがて耐えがたい足腰の痛みに音をあげて、ベッドに倒れ込んだ。
まだまだ……全然だめだ、これじゃ。
もっと走り込んで……体力つけて……それからじゃないと、どんな技も相手には通じない。
悔しい……今度こそ、あいつに一撃をくらわせてやりたいのに。
うとうとして目が覚めた時、部屋には黒服の女たちがいて、食事の支度を整えていた。
「お召し替えを致しましょう」
ようやく、新しい部屋着を差し出される。
「いいわ。後で一人で着替えます」
服を脱がされそうになって、あさとは慌てて遮った。いくら同性だからといって、風呂以外の場所で裸を見られるなんて絶対に嫌だ。
と、その時気がついた。一揃えの衣服の中に、ピロードで出来た柔らかそうな靴がある。
「……これ」
「こちらは、傷薬にございます」
戸惑うあさとの前に、小さな貝様のケースが手渡された。
「ジュール様が、お持ちするようにと」
「………」
ふぅん……。
一人になって、手のひらのケースを見つめながら、あさとは複雑な気持ちであの鉄面皮の顔を思い出していた。
いまさら、思い返すでもないが、惨劇の結婚式の日、「姫様を傷つけてはならぬこと、忘れたか」あの叫び声はジュールだった。想像でしかないが、あの日、彼は自らバートル隊を率いてヴェルツの暴挙を助け いや、助けると思わせ、クシュリナを救おうとしていたのだ。
ジュールは敵なのか、味方なのか。
散々考えたあさとだったが、少なくともラッセルやハシェミにとっては味方であり同志であったとしかいいようがない。その父に 自らを抜擢し育てた甲州公ハシェミに、ジュールはあの日、自ら刃を向けねばならなかったのだ。
あさとは、もう一度薬の入ったケースを見つめた。
そんなに、悪い人でもないのかな。
まぁ、もちろんまだ、信じることはできないけど。 。
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