「お食事をお持ちしました」
 サランナが去った後、入れ替わるようにやってきた黒服の女が、卓上で食事の支度を整えはじめた。胸元に十字の文様が入っているから、おそらくは法王庁に仕える者たちだろう。
 並べられたのは、具のないスープと薄いパンが二切れ。
 それが「クシュリナ」に対する処遇の表れなのか、この城の窮状を表しているのか    あさとには判らなかったが、正直、わずかな食欲さえ湧いてはこなかった。
 ダーラの……埋葬が済んだばかり……。
 妹の言葉が、まだ胸の中を鋭く傷つけ続けている。
 つまり、あの惨劇の夜から、さほど日はたっていないということだ。
 というより、一番夢であってほしい忌わしい記憶……あれもまた、現実だった。ダーラは……本当に死んでしまったのだ。……。
 照明が乏しいせいか、気が滅入るような薄暗がり。
 ベッドの上で食事を取れとでも言うのか、卓が傍に寄せられる。
 給仕役の女が、皿を顔の前に近づける。クシュリナは顔をそむけていた。何も、口にしたくない。
「お食べくださいませ」
 冷やかな声がした。立ったままのジュールである。
 女らが食事の支度を整える間、ジュールは監視でもするかのように、じっと腕を組み、部屋の隅に立っていた。
「そうでなければ、この者たちが、常の持ち場に戻れませぬ」
「……食べたくないの。欲しくなったら、自分で食べるわ」
「ここは、金波宮ではございません」
 冷淡な声が返される。
「ご正気に戻られたなら、どうぞ、それなりにお振る舞いくださいませ」
     どういう意味……?
 明らかに配下だった男に、今、ひどく侮辱されたような気がする。
 湯気の立つスープに視線を転じながら、あさとはここ数日来    自分のとったであろう行動を考えていた。
 あれから、自分はどうしていたんだろう。アシュラルやジュールの反応をみるに、ただ、眠っていただけではなさそうだ。
 曇ったガラス越しに外を見ているようなおぼろな情景。 霧がかかった曖昧な記憶。
 ひどく……ひどく遠い声。
 
    今は……まだ、早いと思います。もう少しお待ちいただけないでしょうか)
 
 ラッセル   
「ラッセル、は……?」
 あさとは、胸を衝かれたように顔を上げた。
 それが妄想でなければ、ついさっきまで、ラッセルがこの部屋にいたはずだった。アシュラルも言っていた。ラッセルが    ずっと自分の傍にいてくれたと。
「どうぞ、先にお食事のほうを」
 眉ひとつ動かさないジュールの返事は、それだけである。
「食べるわ」
 あさとは、気おされながらも、強い眼差しでジュールを見上げた。「だから私の質問に答えて、ラッセルは……どこにいるの?」
 表情を変えずに唇を引き結ぶジュールは、こうして間近で対峙すると驚くほどに背が高い。鋭い眼、太い首、がっしりとした手足の厚み、一種異様な圧迫感を覚えてしまうほどだ。
 今、男が身に着けているのはバートル隊の隊服ではない。リネンのシャツとカフスのついた黒の上着。普段、野蛮にしか見えない男は、私服姿になると随分知的で、口髭など一流貴族のように美しく、むしろ優雅な印象がした。
「ラッセルは、すでにこの城にはおりません」
 事務的な声がようやく返される。
「ではどこ? どこにいるの?」
「申し訳ありませんが、私は知る立場にございません」
「………」
 冷やかな沈黙。ジュールの目はすでに空を見ており、背後の女たちも何も言おうとはしない。
「……そう」
 仕方なくスプーンを取り上げながら、あさとはそれ以上訊きただす勇気を失っていた。
 多分ジュールも、アシュラルと同じ理由で怒っているのだろう。
 ラッセルとの結婚式の日、ダーラは、ここに立つジュールに何事か語りかけられ、涙ぐんでいた。同じカタリナ修道院の出身、フラウ・オルドでは接点は見いだせなかったが、きっと、深い信頼で結ばれていたに違いない。
 もちろん、あの夜、あさとを逃がすために犠牲になったのは、ダーラ一人だけではない。、
 アシュラルの目に燃える怒りも、ジュールの冷たさも、多分、根は同じところから来ているのだ。
 そして、ラッセルが垣間見せた憤りも。   
 あの夜、ラッセルは、どんな思いで自分を見つめたのだろうか。どんな思いでダーラを屠ったのだろうか。
 なのに、そのラッセルに、私は……。
 あさとは目を閉じ、両膝で拳を握った。
    出ていって、もう二度と来ないで、私の前に顔を見せないで!)
 二人の間に飛び散った水滴。苦しげに伏せられた眼差し。
 思い出すだけで胸が痛み、苦しさで張り裂けるようだ。
     サイテーだ……私……。
 自分のことしか考えていなかった。ラッセルの苦悩など、判っているようでまるで理解していなかった。
 感情をぶつけてくれないのは、それができないからだ。
 普段通りの態度を取るのは、そうするしかなかったからだ。
     私はこの国の皇女で、彼はそれに仕える騎士で……最初から感情を出せないのは当たり前だったんだ。
 あさとは、唇を噛んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
 すくったスープを無理やり口に押し入れる。
 気持ちはすぐには切り替わらない。でも、今は無理にでも替えなければならない。
 後悔しても何も変わらない。先に進まなければならない。とにかく、この場面から一歩でも先に。
 
 
                  
 
 
「……説明……してくれる? さっき、サランナが言ったこと」
 食事を終えた後、勇気を振り絞ってあさとは訊いた。
 ジュールはそのままの姿勢で、同じ場所に立ち続けている。
「私、これからどうなるの?」
「………」
 長身の男は、組んでいた腕を解いた。顎を上げ、目配せめいた仕草をする。あさとの背後にいた女たちは、それだけで素直に退室した。
 部屋の扉を閉めながら、ジュールは抑揚のない口調で言った。
「あなた様の今後の処遇につきましては、サランナ様のご説明に、誤りはございません」
「私は……ダンロビンと結婚するのね」
「おそらくそうなりましょう」
 返事は、しごくあっさりとしたものだった。
「それがヴェルツ公爵の最大限の譲歩ですから」
 あさとはこみ上げた怒りを押さえ込んだ。こんな風に    まるで物か何かのように、自分の人生は簡単に他人にやりとりされてしまうのだ。
「あの男は、サランナと結婚するつもりなの?」
「あの男?」
     アシュラル。
 忌わしい名前は、二度と口にしたくない。
「さっきまで、この部屋にいた男のことよ」
 そっけなく答えると、今度は、逆にジュールが押し黙った。
 感情を消した眼差しは、ただ見つめられているだけでひどく恐ろしく感じられる。息苦しくなって、あさとは男から目を逸らしていた。
「……それならそれで、かまわないわ。でも、だったら」
 悔しさで言葉が途切れた。
「どうして……彼は、……あの男は、どうしてあんな」
     あんな恥知らずな真似を……。
 言いかけた唇が震える。
「それが必要であったからでしょう」
 冷やかな答えに、あさとは、自分が馬鹿にされているのを感じた。
「どういう意味?必要って」
 どう言い繕われても、惨劇の夜、あんなことが必要だったとは思えない。怒りと憤りで握り締めた拳が震え出す。
「女性を暴力でねじふせるのが、あの男にとって必要なことなの?」
 ジュールの目に、こころなしか揺れるような感情の波が掠めたような気がした。
「アシュラル様の目的は、単にあなたやハシェミ公という、個人を超えたところにあるということです」
「……それが、なんの言い訳になると言うの?」
「言い訳ではございません」
 あっさりと返される。
「あの方は、言い訳などされるような方ではないのです。あなたが理解されないことで、お苦しみになるような方でもございません」
「………」
 なにそれ。
 そんなことは、わざわざ丁寧に言ってもらわなくても判っている。
 なんなんだろう、この男は。アシュラルの熱心な信奉者か何かだろうか。
「そうね、何を聞いたって、どうせ納得はできないわ」
 あさとは拳を震わせながら、冷静になるよう、再度自身の胸に言い聞かせた。そうだ    ここで怒ってもどうにもならない。ますます目の前の男に馬鹿にされるだけだ。
「サランナに聞いたわ。私とアシュラルには、結婚しなければならない理由があるって」
「ございました」
 やんわりと、過去形で断じられる。
「が、それは、ハシェミ公とコンスタンティノ法王様のご解釈であり、アシュラル様のご意志とは違います」
「……終末の予言書って、なんのこと?」
    決して公開してはならない。長年に渡って、法王庁が封印してきた……)
「……ほう、そこまで、ご存知であられましたか」
 見上げたジュールの目は、初めて厳しい感情を顕わにしていた。
「サランナが言っていたのよ。でも、内容まで私は知らないわ」
「いずれ、お分かりになるでしょう。我々を衝き動かしているものもまた、その終末の書なのですから」
 それ以上の説明を拒むように、長髪の男は冷たい横顔を向けた。そして言った。
「逆に言えば、そのための障害になるようなら、アシュラル様はあっさりと、あなた方を切り捨てるでしょう」
「……障害…?」
 そのため(・・・・)
 どういう意味だろう。
「ずるいわね、自分が説明するからって、サランナを下がらせておいて」
 皮肉を言っても、ジュールの横顔は微塵も揺るがない。
「覚えているわ、あなたは結婚式の朝、私を捕らえに教会に踏み込んできた……」
 あさとの目の前で、三叉の槍で貫かれた騎士。その断末魔の悲鳴がよみがえる。
「そして、私を逃がそうとしたフラウオルドの騎士を、容赦なく刺殺したわ」
 男がようやく振り返る。鉄面皮のような顔。彼の反応が怖かった。それでも、ひるまずにあさとは続けた。
「あなたは敵なの? 味方なの?」
 男は静かに面を伏せ、そして言った。
「私はアシュラル様のご意志に賛同しているだけです」
「目的のためなら、罪のない人を殺すのだってかまわないということ?」
 鋭く問い詰めたつもりだったが、ジュールは逆に、憐れむような目色を、わずかにあさとの方に向けた。
「私だけではありません。ラッセルも    また、ダーラも、初めからアシュラル様と志を同じくする同志」
「………」
「私もまた、自分の行為を言い訳することを好みませぬ。私どもが敵か味方か、それはあなた様がご判断なさればよろしいことでしょう」
 それだけ言って、男は踵を返そうとする。
「待って」
 あさとは、慌てて止めていた。
 そこで初めて自分が素足で、靴さえ用意されていないことに気がついた。
 この世界は、室内でも必ず靴を履く。  
 つまり、履物はあえて用意されていないのだ。理由は考えるまでもない、「クシュリナ」をこの部屋から出さないためだ。
「私をダンロビンと結婚させて、あの男は、何をしようとしているの?」
 これだけは聞いておきたい。アシュラルの真意と目的は、いったいどこにあるのだろう。
 ジュールは顔を上げ、まっすぐにあさとを見た。右の目がややひきつれているせいか、表情が読みづらい。
「奥州公との取引しだいではございますが、法王職におつきになられることになりましょう」
 
 
                 
 
 
     法王職?
 意外な言葉に、あさとは眼を瞬かせた。
 「法王」とは「法王庁」のトップのことで、実質シュミラクール界全ての教会の頂点に立つ役職のことだ。
 広大な「法王領」と「法王軍」を掌握し、各国の教会が持つ軍隊を直接指揮する権限を持つ。その権力は、皇室や他国の王にもひけをとらないばかりか、教会を抱える貴族たちにとっては脅威ですらある。
 代々イヌルダ女皇の夫を選定するのもまた    法王の特権のひとつだった。皇室の者は、基本的に法王の許可がなければ結婚も離婚もできない仕組みになっているのだ。
「まって」
 あさとは口を挟んでいた。
「では、今の法王様はどうなるの? 法王が生前交代した例なんて、なかったはずよ」
 現法王には、「コンスタンティノ大僧正」、つまりアシュラルの養父がついている。
 任期は基本的に終生続く。言い換えればコンスタンティノ大僧正が死ぬまで、法王は変わらないはずだった。
「……まさか……」
 アシュラルは、自らの養父をも屠るつもりで。   
「あなたがお考えになっている真似をなさるような、そのようなアシュラル様ではございません」
 振り返ったジュールは、びしりとあさとを遮った。
「ヴェルツ公爵との取引きはそのためなのです。貴族院と枢機卿全員の承認があれば法王の生前交代は可能です。貴族院五十名、枢機卿十二名、その大半がヴェルツ公爵の息がかかった者たちばかりですから」
 安堵しながら、あさとは同時に冷たいものを感じていた。
「では、あいつが私を助けたのは、そのためなの?」
「あいつ?」
「コンスタンティノ様のご養子よ」
 あさとの言葉づかいに、ジュールはやや当惑しているようだった。
「自分が法王職につくために、私を助けたってことなんでしょう?」
 それにはジュールは答えない。
 考えながら、あさとは続けた。
「……もし、仮に、私があいつと無事に結婚式をあげていたとしても、あの男は、いずれ私をヴェルツに渡すつもりだったのね」
 ジュールは、やはり答えなかった。それは暗黙の肯定を意味しているような気がした。
 わからない……では、ラッセルとダーラも、……それを承知していたのだろうか。
 底なしに沈んでいきそうな気持ちを奮い立たせ、あさとはきっと顔を上げた。
「回りくどいやりかたね。理解に苦しむわ。いずれあの男が法王職を継ぐのは確実なのに、何を焦っていらっしゃるのかしら」
 悔し紛れに出た皮肉だが、 ジュールに、これ以上説明を続けるつもりはないようだった。
「あなた様のお父上、ハシェミ公はヴェルツに拘束されています。あなた様の一存に、お父上の命がかかっている。ご正気なら、それはご理解しておられますね」
 最後に脅すような言葉を吐き、大きな背が向けられた。
「いずれ、ヴェルツ公爵家から迎えが来ます。それまで、くれぐれも軽挙盲動はおつつしみくださいませ」
 
 
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.