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2
「この部屋から出て行って」
あさとはアシュラルに向かって、再度はっきりと言い放った。
改めて耳朶に飛び込んでくるのは自分の声 であって、今までの自分とは異なるもの。優しい甘やかな、可愛らしい声である。
が、それは確かに瀬名あさと自身の声だった。
「私たちは婚約していたけれど、正式に結婚したわけではありません。まだ、他人です」
そして永久に他人よ。
その言葉は喉元で押さえ込んだ。
アシュラルは無言だった。綺麗な眉、薄く引き締まった唇。肩を壁に寄せ腕を組んだまま、じっとあさとを見つめている。
眩暈がした。どうしてこんなに この男は、何もかも、髪の質感までもが愛しい人のままなのだろうか。
琥珀……。
憎しみの中で、揺れ動く感情の波がある。
この世界に琥珀がいるなら。私のように誰かの肉体の中で生きているのなら、それは、やはりこの人なのだろうか。
いや。
違う、絶対に違う、琥珀なら あんな非道い真似をするはずがない。
あさとは唇を噛み締め、琥珀の顔を持つ男をまっすぐに睨みつけた。
「また同じことをしたら、絶対に許しません!」
あさとの眼差しを正面から受け止め、暗い瞳が冷めた笑みを浮かべた気がした。軽く嘆息し、アシュラルは横顔を見せた。
「笑わせてくれる、お前に一体何ができる。この世界のことなど何一つ知ろうとしない……怠惰で無能な、温室育ちのお姫様に」
あからさまな侮蔑のこもった口調でそう言うと、彼は腕を解き、ゆっくりとあさとの座っているベッドに歩み寄ってきた。靴音だけが、石畳に鋭く響く。
「誰かの庇護なしには何もできない無力なお前に 何ができると言うんだ、言ってみろ!」
鋭い眼光の中に、静かな、けれど烈火のごとき激しい怒りがゆらいでいる。あさとは無言で唇を噛み締めた。
何一つ反論できない。悔しかった、確かにそれは、アシュラルの言う通りだった。
ただ、唇を震わせるあさとを見下ろし、アシュラルは再び、冷やかな侮蔑の眼差しを見せた。
「お前の価値は、所詮その身分と見栄えの美しさにしかない。だったらせいぜい大人しくして、男のいいなりになっているんだな」
男の腕が伸びてくる。
とっさにあさとは身構えた。同時に目まぐるしく考える。
クシュリナは何もできなかった。でも でも、私は違う。
何が? 私には、この世界で生きていくために何ができる?
考える前に身体が動いていた。あさとは素早く身体を反転させると、ベッドを飛び降り、部屋の隅に立て掛けてあった煤払いとおぼしき木棒を手にした。
「…? なんの真似だ…?」
アシュラルの眉根がけげんそうに寄る。
虚をつかれ、刀で襲撃された時の人間は脆い。あさとは木棒を中段に構えた。すり足、一瞬のうちに踏みこんで間合いを詰める。さすがに一歩下がったアシュラルは、しかしそのまま、立ちすくんでいる。
「鋭っ!」
裂帛の気合もろともに、身体で覚えこんだ突きを放つ。
決まった……!
むろんこの世界で「クシュリナ」は竹刀など手にしたこともない。けれど、それは、驚くほど完璧なタイミングで目指す男の喉元に吸い込まれていった。 と、思われた。
「お前……」
棒を握る自身の腕がぶるぶると震えている。
あさとは呆然と、突き込まれたそれを、片腕で掴んでいる男を見上げた。
喉もとすれすれ、一歩も引くことなく、アシュラルは木刀を右手だけで受け止めた。あさとの力が弱すぎたのか、それとも、男の反射神経が優れすぎているのか。あさとの常識では考えられない防御である。
「お前、……剣技を知っているな」
威嚇するような低い声。初めて見る、驚きを含んだ目が見下ろしている。
「離して……!」
引き戻そうと、渾身の力を込める。が、掴まれた棒はびくともしない。あっという間に腕ごとねじられ、あさとは鋭い痛みと共に、床に膝をついていた。
痛……。
両腕が、未だびりびりと震えている。それだけの力でつき込んだのだ。まだあさとには、あのタイミングで放った木刀を止められたことが信じられない。 が、次の瞬間、自身の腕を見て、あさとは何度目かの衝撃を感じた。
なに……これ。
人形みたいにすんなりと白い、たおやかで華奢な腕。手首は折れそうなほどに細く、指はまるで精巧な細工物のようだ。
そうだ、忘れていた。これがクシュリナの身体なんだ。
駄目だ あさとは、即座に観念した。今の私には、体力も腕力もない。この身体をもっともっと、動ける程度に鍛えなくちゃ 。
「なるほど、ただのうのうと、この数年を過ごしていたわけではないということか」
馬鹿にしたような声が頭上から響く。
あさとは、きっと顔を上げた。
「次は、絶対に外さないわ」
「面白いことを言う女だ。それほどに俺が嫌いか」
「嫌いよ 」
実際、嫌いなどというレベルではない。
「顔も見たくないわ、婚約者だからって二度と私に触らないで、もう一度あんな真似をされるくらいなら死んだ方がましよ!」
激情のままに出た言葉だった。
が、その刹那、アシュラルの闇のような瞳に、底冷えのする何かが揺らいだ。怒りとも憤りともつかない何かが。
あさとは身体を震わせた。笑みが消えた男の唇の隙間から、ぎりっと歯軋りさえ聞えてきそうだった。
後ずさる。また あの夜と同じことが起きそうな気がした。
急速に距離が縮まる。動けなかった。瞬きさえできなかった。
「 死ぬと言ったな」
獰猛な力で両腕を掴み上げられる。
「死んだほうがましだと?」
怖い……。
「ふざけるな、お前のために、一体何人、俺の大切な同志が死んだと思っている!」
怒りと憎しみのこもった眼差し。
「お前が俺を嫌おうが憎もうが関係ない。身体を鎖に繋いででも、何度でも同じことをしてやるからそう思え」
あさとは抗おうとした。掴まれた両腕はびくともしない。恐怖よりも悔しさ、悔しさよりも情けなさが勝っていた。
唇が震えた。見開いていた眼に涙が滲む。
腕をねじりあげる男の力が、ふと緩んだ。
「……今は何もしない、そんな顔をしなくてもいい」
「………」
「お前には、もうしばらく正気でいてもらわなければならないからな」
掴んでいた手を離し、アシュラルは背を向けた。あさとはうずくまったまま動けなかった。
容良い背中が、扉の向こうに消えた。
3
「お姉様……」
風が囁くような声に呼ばれ、あさとはようやく我に返った。
アシュラルが部屋を出て行ってから 悔しいのと、自分の非力さへの憤りで、立ちあがることさえ出来ないでいた。
サランナ……?
あさとは顔をあげ、声を出さずに呟いた。
狭い木戸の向こうに立っている華奢なシルエット。声は、まぎれもなく妹のものである。
「泣いていらっしゃるの……?」
妹のその言葉で、自分の目から涙が零れていることに、あさとは初めて気がついた。
薄闇に滲み出る人影。頭を覆うヴェールがそっと上げられると、見慣れたサランナの顔が現れる。
「サランナ……」
急いで涙を払ったあさとは妹を見あげ、そして、はっと吐胸をつかれていた。
星を抱いたように輝く印象的な瞳。朱を刷いたような淡い唇。細いのにそこだけが肉感的な胸元 サランナ。
顔を見た途端に、忘れていた現実が押し寄せる。
この妹の前で アシュラルを愛していると言ったこの妹の前で、今どんな反応をすべきなのだろうか。サランナもまた、あの雷鳴の夜に起きた出来事を知っているはずなのだ。
「お姉様、よかった……!」
けれどサランナは、いきなり、あさとの身体を抱きしめた。
「この三日間、ずっと目の焦点があっておられなかったの! ようやく私の名前を呼んでくださったのね!」
感極まったようにそう言うと、サランナはおずおずとあさとを見上げた。
きれいな長い睫には、泣き濡れたような跡が残っている。
震える声でサランナは続けた。
「……ダーラのことは、本当に哀しかったわ。私……あの時自分が何を言ったのか、本当によく覚えていないの。もしそのことで、お姉様が傷ついておられるのなら、私、……なんて謝ったらいいのか」
知らないのだろうか。
あさとは、どう答えていいか判らず、戸惑って視線を逸らした。
まさか知らないのだろうか、あの夜、あさととアシュラルの間に起きた出来事を。
だとしたら 余計に、どうすればいいのだろう。あんなことがあった以上、あの恥知らずの野獣のような男に大切な妹を任せるわけにはいかない。
サランナはあさとの手を握り締めた。
「恐ろしい思いをしたけれど、もう大丈夫よ。ここは法王領を護るバスティ−ユの城。ここにいれば、ヴェルツの追手はおいそれとやってはきません」
「……ええ」
あさとは曖昧にうなずきながら、心では別のことを考え続けていた。
この妹に アシュラルのことを信じて疑わないこの妹に、正直に言うべきなのだろうか。あの夜の出来事、そして、彼の忌むべき女性遍歴を。
「……私たちは、遼州に行くと、聞いていたけれど」
とりあえず、サランナの腕を解き、あさとは訊いた。
冷静になろう。
ゆっくりと自分に言い聞かせる。
この世界で自分が向き合わなければならない問題は、なにも妹と婚約者のことだけではない。とにかく今は、自分が置かれている状況を把握することが先決だ。
サランナは、子供を諭すように、ゆっくりと首を横に振った。
「お姉様、あれから状況が変わったの。もう遼州へ逃げていく必要はなくなったのよ」
「え……?」
「ヴェルツ公爵の方から、アシュラルと和睦したいと言ってきたの」
サランナの目は輝いていた。
「全てお姉様が決断なさってくれたおかげよ。私とお姉様 この国の皇位継承者二人が、アシュラルの手元におかれているんですもの。さすがのヴェルツも譲歩するしかなかったのよ」
ヴェルツ公爵。
「クシュリナ」と父「ハシェミ」を謀略で陥れた男。そしておそらく女皇「アデラ」を暗殺したのもあの男だ。奥州公薬師寺ヴェルツ。
ヴェルツは、サランナと自身の息子「ダンロビン」を結婚させ、サランナに皇位を継がせたいと考えていた。その「サランナ」も、そして「クシュリナ」もアシュラルが押さえている以上、確かに譲歩するほかなかったろう。
「私たち……、では、これからどうなるの」
あさとは眉根を寄せながらサランナを見た。
妹の歓喜も、あさとにはただ虚ろにしか感じられなかった。結果的に自分を庇護してくれたアシュラルの真意は判らない。けれど、彼は、決して皇室や婚約者への情愛の気持から行動しているわけではないはずだ。
多分 あさとやサランナは、彼の野心に利用されているだけなのだ。アシュラルを恋する妹には、それが判っていないのだろうか。
サランナは、ますます嬉しそうにあさとの手を握り締めた。
「どうなるって金波宮に戻るのよ。お姉様とお父様が無実であることを、ヴェルツ公を始めとする諸侯たちに認めさせるの。そうなれば、お姉様は胸を張って金波宮へお戻りになられるわ」
それで?
あさとは、眉をひそめた。そこまでは判る。でもその後はどうなるのだろう。ヴェルツもアシュラルも、そのままで済ますとは思えない。
「宮殿に戻れば……」
輝いていたサランナの瞳がふと曇った。わずかに逡巡して、うつむいた妹は言いにくそうな口調で続けた。
「……お姉様は、きっとお母様の跡を継がれて、女皇に即位なさることになるわ」
私が?
ケープが揺れ、サランナは立ち上がった。その目はもうあさとを見てはいなかった。
「その後のことは私にもわからないわ。全ては、アシュラルとヴェルツ公爵の取引で決まることですもの」
どういう意味だろう。
あさとは顔を上げて妹の背中を見た。
アシュラルの真意は判らない。けれどヴェルツは 間違いなく皇位継承者と己の息子との婚姻を望んでいる。
だとすれば……。
辿り着いた結論は、背筋が寒くなるようなものだった。
それは、 私がアシュラルと結婚するか、ダンロビンと結婚するか、そのどちらかが両者の間で決められると言うことではないだろうか。
「……私、アシュラルを信じているわ」
サランナは呟いた。そしてふいに振り返ると、あさとを見つめた。懇願するような眼差しだった。
「お姉様、私のことを思ってくださるなら、どうかお願い、ダンロビン様とご結婚なさると仰って!」
あさとは言葉に詰まっていた。それは。
「そうすれば全て上手くいくの。私とアシュラルは、皇室を離れて法王庁に戻るわ。私は皇位継承権を捨て、僧籍に入ります。そうすれば、二度と皇室に争いは起こらない」
それは 。
「お姉様は、愛してもおられないアシュラルとご結婚なさるつもりでおられたのでしょう? でしたら、その相手がダンロビン様に代わっても、特に問題はありませんわよね」
それは……。
確かに、そうなのだ。
答えられないまま、あさとは無言で唇を引き結んだ。ダンロビンに対する嫌悪と、アシュラルに対する憎悪。どちらがより勝っているかと聞かれれば、間違いなく後者だ。でも、それでも。
ダンロビンの妻になる? 私が?
それは、想像しただけで、絶望的な結婚だった。いや、絶望以上の結末だった。
「 そんなお顔をなさらないで」
膝をついたサランナは、優しい笑顔で姉を見上げた。
「そうだわ、これをお持ちになっていて、花蜜から作った気つけのお酒よ。気持ちが滅入った時にお飲みにってね。気分が楽におなりになるから」
琥珀の液体が入った、手のひらに収まるほどの透明な瓶。何故か禍々しい記憶が喚起される。咄嗟に顎を引いたあさとの顔をのぞきこみ、サランナは心配そうに眉を寄せた。
「今も、とてもご気分が悪そうだわ。杯はあちらね。私が一口、飲ませて差し上げるから」
「そんなことより」
遮るようにあさとは言った。声が少し震えていた。
私にも判らないの、と言いつつ、すでに妹は、定められた結論を告げに来たのだ。
ダンロビンを釣り出すには絶好の餌だからな、この女は。
アシュラルの言葉。あれは……そういう意味だったのだ。
悔しさで、歯軋りしたいほどだった。
私は……ヴェルツから何かの譲歩を引き出すために……そのためだけに命を救われたのだ。
こんなに簡単に結婚相手を変えられるなら、ハシェミが諸侯の嫌がらせに耐え抜いてまで固執していたアシュラルとの婚約は、なんだったのだろう。
何のために、十の年から今まで、自分はあの男を待ちつづけていたのだろう。
「サランナは以前、私とアシュラルの結婚を白紙にできない理由があると言っていたわよね」
冷静になれ、自分に言い聞かせながら、あさとは続けた。「それは何なの。もうそれは……何の意味もないことなの?」
決してアシュラルと結婚したいわけではない。けれど、今までのことを思うと、無償に腹が立って、やりきれない。
「意味なんて、最初からないわ。少なくとも彼にとっては」
サランナは笑った。掴み所のない笑顔だった。
「そういった事情は、もちろん後で詳しく教えて差し上げるわ。だから、その前にこれを、さぁ、少しだけ」
やんわりと、けれど妙に押しつけがましく差し出される銀杯。あさとは不審を感じて妹を見上げた。その時だった。
「サランナ様」
歯切れのよい低音が、二人の会話を遮った。
あさとは振り返っていた。開け放たれていた木戸の向こうに、何時の間にか大きな影が立っている。
「クシュリナ様には、私からご説明いたしましょう。どうか、今宵のところは御引取りを」
深みのある低い声。
加賀美ジュール。
あさとは顔をこわばらせ、心の中で呟いた。
鷲翼隊隊長のジュール。忘れもしない、結婚式の朝、自分を捕縛しに来た男。アシュラルの傍で、傷ついたあさとを無感動な目で見下ろした男。
胸に手を当てて臣下の礼を示し、男はまっすぐにこちらを見ている。切れ長の厳しい眼。長く伸びた黒髪、美しい口髭。
「まぁ……、まるで私に、余計なことは話すなとでも仰るような口ぶりね」
サランナは笑顔だったが、その声はどこか冷たい。あさとはけげんな気持で妹の横顔を見上げた。正直 ダーラの死んだ夜から、この妹の心の底にあるものが恐ろしくなりかけている。
ジュールはさらに深く頭を下げた。
「滅相もございません。ただ、クシュリナ様はひどく御疲れのご様子ゆえ、どうか、今宵のところは御引取りを」
穏やかだが、何かを含んだような言い方である。
「あら、お疲れだからこそ、私がついてさしあげるのよ」
ますます冷やかにサランナは微笑する。ついに、ジュールは膝を折った。
「これは私の一存ではございません、アシュラル様の御指示に、ございます」
「………」
つい、とサランナは長いケープを翻した。
「……ダーラの埋葬が済んだばかりだというのに」
まるで刃のように、その言葉はあさとの胸を貫いた。
「ラッセルもあなたも、お姉様のことを心配なさらなくてはならないのね。騎士って因果なお仕事だこと」
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