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「だから、記憶の書き換えなんですよ」
 自分の口調が興奮しているのを感じながら、それを志津子には抑えられなかった。
『先生、お願いだから落ち着いてください』
 電話の向こうで、風間は困惑したような声を上げる。
『もう少しゆっくり説明してください。それが、どうしたっていうんですか』
 まだ、朝の八時前だった。
 そのせいか受話器越しの風間の声に覇気がない。非常識なのは判っていたが、それでも誰かに伝えなければ気がすまなかった。
 携帯は充電があやしいので、ホテルの据え置き電話から架けている。
「雅ちゃんは、自分の前世の記憶を、自分で書き換えようとしたんです。あの文章はそういう意味のものだったんですよ」
 志津子は続けた。
「つまりですね。本来なら、私がすべき精神治療を、自分自身の手で行おうとしていたんです」
『どういう、意味でしょう』
 風間の声が戸惑っている。
「前に説明しましたよね。退行催眠でトラウマの原因を取り除く方法のひとつに、記憶の書き換えというやり方があると」
 志津子はまくしたてた。
「父親からの虐待、母親や妹から憎まれ軽蔑されていた事実、愛情の伴わない性行為、    そういうマイナスの過去をですね、雅ちゃん、自分の中から消し去ろうとしていたんだと思うんですよ」
 電話の向こうで風間は唸った。
『しかしですね……、瀬名先生、結局クシュリナ姫は、そのぅ、嫌いな男に乱暴されて、死んでしまっているんですよね』
 志津子は首を横に振った。
「いえ、あれは多分死んではいないんです。離人性症候群の発作なんですよ」
 志津子は風間に、離人症の説明をした。
「症状として、本人は自分を死んでいるように感じることもあるんです。多分……これは仮定ですけれど、乱暴されたショックで、クシュリナ姫は、離人症の発作を起こしてしまったんじゃないでしょうか。もしくは、人格解離を起こしてしまったのかもしれない。いずれにしても、あの時点から、彼女は自分自身の記憶を自身のものと認識していないんです」
『それが門倉雅の、前世からのトラウマですか』
「それで間違いないと思います。彼女がやろうとしていた記憶の書き換えは……多分、途中で失敗してしまったんでしょう」
 考えながら、志津子は答えた。
 多分、    その部分の記憶があまりに強烈すぎて。
「おそらく、完全に消し去ることができなかったんです。逆に言えば、その事件が、彼女の人格を歪めてしまったそもそもの原因だということになるのかもしれない」
『しかし、そんなことが……』
 風間は言葉を失ったようだった。
『本当にできるものなんですかね、自分で自分の記憶を書きかえるなんて』
「強い自己暗示をかければ、私たちだってある程度は可能なことです。でも雅ちゃんだったら、それはかなりの確率で効果があるはずなんですよ。何故なら彼女は」
     解離性同一障害。
「多重人格者だったから」
 
 
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 風間は、多分絶句している。
 無理もないな、と思いながら志津子は続けた。
「ずっと、ひっかかっていました。どうして雅ちゃんは、あんな文章をわざわざ残していたんだろうって、それで    思い出したんです。多重人格者には、人格間の記憶の共有がないって言いましたよね。でも、自らが多重人格だと認識している人は、記憶を残せない代わりに、文章にして残すんですよ。自らの体験したことを」
 受話器の向こうで、一瞬風間が息を引くのがわかった。
『そうか……』
「そうなんです。恐らく雅ちゃんの人格のひとつが、今の状況をなんとか脱しようと、何とか自分自身の病んだ心を救おうと    そう思ってですね、それで、あの文章を敢えて創作したのではないでしょうか。別の人格である自分自身にそれを読ませるために」
     ここから先は推測だ。
 なに一つ根拠も証拠もない。昨夜の夢が教えてくれたインスピレーション。
「そして、その思念の中に……なんらかの原因で、あさとや小田切君、琥珀君が同調して、結局取りこまれてしまったんじゃないでしょうか」
 永瀬海斗も今、同じように同調しかけている。あれは彼自身が雅ちゃんの前世に存在したという夢ではなくて、雅ちゃんの強い思念が、彼の意識に食い込んでいるとしたら。   

 口で上手く解説できる問題ではない。志津子はもどかしく話を続けた。
「解離を起した人格の中に、特殊な才能を持つものが出現することは、決して稀なことではないんです。例えば霊視が出来る、予知能力がある、記憶力が異常に発達したいわゆる天才。そんな特異な能力を持った人格が現れることは、実例としてあったりするんですよ。もちろん断定はできません。でも可能性として、考えてみてください」
 風間はもう、何も言おうとはしなかった。
「異常に強い思念を生み出すことの出来る……自分の思念の中に、他人すら取りこむことができる……それは一種のテレパシーだと思うんですが、そんな能力を持つようになった人格が、あの過去世を文章化して、実体として作り上げてしまったとしたらどうでしょうか」
 その思念の檻の中に、あの三人が閉じ込められているとしたら。
「正直私にもわけがわからないです。馬鹿なこと考えてるって判ってるつもりです。でも、……いずれお話しますけど、高崎守莉君も、やはりイヌルダの世界の夢を見ているようなんですよ。というよりこの夏、彼はイヌルダから来たレオナと言う人そのものになりきっていた可能性があるんです。私はもう一度彼と会って、雅ちゃんの残した文章と、彼の記憶の内容を照合してみるつもりです。そしたら   
 手元のバックの中で携帯電話が鳴っていることに、ようやく志津子は気がついた。
 
 
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「瀬名先生」
 ICUから飛び出してきた看護師は、全身に抗菌服をまとっていた。
「あさとは?」
 最初の電話を受けてから、もう五時間はたっている。
「まだ、生きているのね?」
 志津子は手早く抗菌スーツをまといながら確認した。自覚はなかったが、手も足も震えている。
 返事の代わりに、若い看護師は無言で眉をひそめる。肯定も否定もしない態度に、胸のざわめきがかきたてられた。
「どうなの? 私は大丈夫だから、はっきり言ってちょうだい」
「先生」看護師は辛そうに視線を逸らした。
「十分前から、……心肺停止状態です」
「………」
 眩暈を堪え、一瞬崩れそうになった身体をなんとか支えた。
 目の前が、暗く歪んで揺れている。
「今、救命措置の最中です、まだ望みを捨てないでくださいね」
 看護師の声も、どこか虚ろにしか聞えない。
 扉を開けて抗菌カーテンをくぐると、ICUから緊迫した掛け声が聞こえてきた。
「あさとちゃん、しっかり」
「目を覚まして!」
 一、二、三、四、五。
 繰り返される心臓マッサージと、機械を使った人工呼吸。
 一、二、三、四、五。
「脈、触れません」
「血圧低下しています」
「チャージ二百五十、完了しました」
「行くぞ」
 ドンッ。
 地面を揺るがすような衝撃音。ベッドの上で、あさとの痩せた体が上下した。
「もどりません」
「チャージ三百、急いで」
 志津子は目を塞いだ。もう見たくない。
 娘は死ぬのだ。このまま、死んでしまうのだ。
「電話でも伝えましたが、彼女一人だけ、急に体温が下がり始めて……とにかく原因がわからないんです。ただその前後、脳波に強い乱れが見られたとしか」 
 背後に喜谷が立ち、早口で説明してくれた。
「夫は?」
「今、北海道から、飛行機でこちらへ向っているそうです」
 答えてくれたのは、最初の看護師だった。
 どうして今、夫が北海道にいるのか、その理由を考える暇もなかった。
 ドンッ。
 もう一度、激しい振動がした。
「……駄目か」
「戻りません」
 無機質でまっすぐな音だけが、心電測定機から流れている。動かないライン。止まっている心臓。
 心臓    心。
 絶望しかけていた志津子の脳裏に、昨日「レオナ」が発した言葉が蘇った。
(……心が戻れなければ、肉体はいつまでも眠り続ける。あちらの世界で心が死ねば、肉体もまた、死ぬ)
 心……。
 志津子は顔を上げた。
 あの少年はなんと言っていた? 心だ、そう、心。
 肉体が死んだわけではない。心が死ぬ    精神的に、死んでしまうということなら。
「あさと!」
 志津子は医師たちを押しのけるようにしてあさとの枕もとに駆け寄り、痩せた身体を思いきり揺すった。
 電極をつなぐため、開かれた胸から薄い乳房がのぞいている。激しいマッサージを受け続けたせいか、白い肌に内出血が沈殿していた。
 蒼ざめた唇。薄く開いた瞼。
「聞こえるでしょ、私の声が、あさと、あさと!」
「瀬名先生」
 止めようとする看護師の手を、志津子は強く振り払った。
「あなたは死んだりしない、あなたは生きている、絶望しないで、あきらめては駄目、大丈夫だから、絶対に、私があなたを助けてあげるから」
 冷たい肌。硬くこわばった頬。
「あなたは強い子よ、絶対に負けたりなんかしない。いい、負けては駄目。お母さんわかったの。あなたは雅ちゃんを救うために、その世界に呼ばれたの」
     そうだ。
 そうなんだ。
 いきなり、自分の視界が開けたような気がした。
 今の今まで、気がつかなかった。門倉雅に一番同調しているのがあさとなら。
 その心の底に入り込んで、雅の精神を開放してやることができるのも    また、あさとしかいないのだ。
 
 これは一種の、形を変えた前世療法(・・・・・・・・・)なのだ。
 
 背後で、誰かが呼んでいる。もう、周囲の声は気にもならなかった。
 志津子は叫んだ。
「前世の記憶を、雅ちゃんが自分で書き換えようとしているの。なんとかして自分の力で暗闇の中から這い上がろうとしているの。あなたが    それを助けるのよ、あさと、あなたにしかそれは出来ないはずだから」
「瀬名先生、落ち着いて」
「あなたが負ければ、雅ちゃんが救われるチャンスもなくなってしまう、あさと! あなたは私の娘でしょう!」
 動かない目蓋。志津子はもう一度声を張り上げた。
    あさと!!」
 いつの間にか溢れた涙が、志津子の頬を伝って零れ落ちた。
     お母さん……。
 志津子は顔を上げた。    幻聴……? それとも。
「……あさと?」
 何処かで、あさとの声が聞こえた気がした。
 
  
 
 
 
 
                                  
 
 
 
 
第三部 終
 
 
 

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