大丈夫……。
 
「今は……まだ、早いと思います。もう少しお待ちいただけないでしょうか」
「お前に指図される必要はない」
 
 どこか遠くから、声が聞こえる。
 まるで暗い海の底から、地上の声を聞いているように。
 
「けれど」
「出ていけ、これは命令だ」
「………」
「お前は、死んだ女房の供養でもしているんだな」
 
     平気よ、ラッセル。だから私を放っておいて。私は大丈夫、……だって。
 
 扉の閉まる音。近づいてくる乾いた靴音。
 
     だって、私は私じゃないもの。
 
「……狂ったか」
 冷たい指が、顎を抱いて持ち上げる。
「それとも芝居か?……ガキのくせに、こざかしいな」
 何も感じない、痛くない、怖くもない。
 だってこれは、夢だもの。
 私は私じゃないんだから。
「ではもう一度、同じことをしてみてやろうか、クシュリナ姫」
 私は    何処にもいないんだから。
 
 
 
 この感覚。……何?
 離人感……?
 
 
 
第七章 祈り
 
      
 
 
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「あさとーーっ」
 迸った声と共に、身体ごと布団から跳ね起きていた。
 自分に何が起きたのか判らないまま、志津子は肩で荒い呼吸を繰り返した。心臓が怖いくらいにどくどくと脈打っている。
     何? いまのは、一体何の夢??
 視界が暗い。自分が置かれている状況を把握するのに、いくらかの時間がかかる。
 夢……。
 志津子は、汗を拭って自分の周囲を見回した。
 ビジネスホテルの    ベッドの上だ。薄明かりに包まれた部屋。空気が乾いて、唇も喉もからからに枯れている。
 夢の中で、自分を見下ろしていた男の冷たい声。顎に添えられた指の冷たさ。恐ろしいくらいにはっきりと知覚している。
 ダイジョウブ、ワタシハドコニモイナインダカラ。
     あさと……?
 あれは、あさとだった。
 あさとの意識が、確かにそう告げていた。
 どうして、そう思ってしまったのだろう。志津子は混乱しつつ、首を振る。    わからない、でもあれは確かに娘の心の悲鳴だった。
 それは同時に、夢の中の志津子自身の感情でもある。
 どういうことだろう。まるであさとの意識に自分の意識が重なってしまったようだ。不思議なシンクロ。こんなことってあるのだろうか。
 自分が観察する自我で、あさとが行動する自我。
 どこか……暗い水の底から見ているような、歪んだ視界。
     海の底。
 突然、その言葉が志津子の脳裏に閃いた。
     海の底。
     ガラスの中。
 志津子は両手を握り締めた。
 そうだ、門倉雅の発した言葉だ。
 三年前、前世療法の最後で、急に様子がおかしくなって   

 あれは。
 まるで零れた水が広がっていくように、引っかかっていた言葉が頭の中に溢れていく。
 
     離人性障害……。
 
 志津子は生唾を飲み込んだ。
 高崎守莉に起きていたのと同じ、精神疾患。
 実際に志津子自身がそれを経験したことはもちろんない。しかし、今自分が感じた感覚は、知識で知っているその心理反応と、酷似している。
 自己としての自覚がなくなり、まるで海の底から外を見ているような、ガラスの中から外を見ているような、そんな感覚状態に陥ってしまうらしい。
 精神的なショックがあまりにも大きい時、一時的にそんな感覚に陥り、ひどければ慢性化する。自己を自己として意識できない。それが離人性障害だ。
 
     クシュリナ姫。
 
 夢の中で、確かに志津子はそう呼ばれていた。
 自分の頬を掴む冷たい指の感触さえ、はっきりと志津子自身のものとして知覚できた。
「私が……クシュリナ?」
 冷静になろう、志津子は自分に言い聞かせた。
 この夢の意味を、冷静に分析しなければならない。
 自分がクシュリナ姫だということは、もちろんあり得ない設定であり、仮定である。
 いや、そうじゃない。
     そうじゃ、ないんだ。
 開いた両眼から、はじめて何かが落ちたような気がした。
 最初から、志津子はずっと、    思いこんでいただけなのだ。
 夢を見たから、それがその人の前世だと、決め付ける必要は何もなかったのだ。
 そうじゃなくて、これは。
 こういうことがあるとすれば、だけど。
 あさとの意識が、自分の意識の中に入りこんでしまったのではないだろうか。
 あるいはあさとの意識に、自分の意識が一時的に同調してしまったのではないだろうか。
 例えばテレパシーのように。
 志津子は、首を振りながら額を押さえた。
 カーテンの向こうから青い闇が透けて見える。夜明けが近いのかもしれない。志津子の中の答えも、もうすぐ見えてくるような気がした。
 あさとは「クシュリナ」の夢を見ていた。それは    それは、あさとがクシュリナだったというのではなく。
「……あさとの、意識の中に……」
 志津子は呆然と呟いた。
 雅ちゃんの意識が。
 雅ちゃんの意識が入りこんで、そして同調していたとしたら?
 前世の世界は、少なくとも門倉雅の心の中には確実に存在する。その心に、    何らかの理由で、他人の意識が入りこんでしまったとしたら?
 もちろん、常識や理屈で説明のつくことではない。
「待って、……待ってよ」
 志津子は髪に手を入れてかきむしった。
 頭が混乱する。
 そうなれば、あさとは門倉雅と同じく精神的に破綻してしまうのだろうか。他人の心の深淵を覗きこんだ精神科医が、その中に引きずり込まれていくように。
 門倉雅には、何らかの長期的な治療が必要だった。人格解離を起した原因を探し、それを開放してやるために。
 なのに、途中で止めてしまった。止めざるを得なくなった。
 もし、あのまま治療を続けることができていたら    できていたら? 
 私は、どんな治療をしていただろうか?
「………」
 志津子は大きく息を吸った。
 突然、全ての符号が自身の中で一致した。
 門倉雅の前世療法のセッションと、ノートに残された文章との矛盾。
 あれは    あれは。
 
「記憶の……書き換え、だったんだ」
 
 志津子は、呆然と空を見つめた。
 
 
 

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