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「勘弁してもらえませんか」
 玄関まで出てきたのは、おそらく高崎守莉の母親なのだろう。腺の細い、見るからに疲れた顔をした女性だった。
 大きな純和風造りの家だった。駅にほど近く、周辺を高い塀と木々に囲まれている。資産家なのだろう、と一目で察せられた。
「お電話いただいたそうですが、主人が勝手にお返事してしまったことは謝ります。ここまでの電車代もお支払いします。ですから、……お願いですから、そっとしておいてもらえないでしょうか」
 志津子は、もう一度来訪の意を繰り返した。自分もまた、被害者の家族で、警察の捜査とは関係ないことを強調した。
「それはよくわかっています。お嬢さんのことは同情もしています。でも、……守莉も、今が一番大切な時なんです」
 母親は、本当に泣いてしまいそうな顔になった。
「あれから、何回も警察に呼ばれましたし、マスコミも押しかけてきました。本当に気持ちの休まる暇がなかったんです。ようやく世間の噂も収まってきたところですし……お願いします。そっとしておいてもらえないでしょうか」
 その切羽詰まった口調に、志津子はふと不審を感じた。
「守莉君に、何か変わったことでもあったんでしょうか」
 母親の乾いた肌が、わずかにひきつったような気がした。
「事件の後遺症が、トラウマになって残ることはよくあります。傍目には普通に見えても、心の底にストレスが蓄積されて、思いもよらない形で出てくることもあるんです。ご心配なら、私の方でお話をお伺いしてみますけど」 
「……そういうことではないんです」
 母親はか細い声で言った。
「守莉は、少しおかしくなってしまったんです。きっと、何もかも忘れてしまえば上手くいくんです。思い出させたくないんです」
「……?」
 何もかも忘れてしまえば上手くいく   
 高崎守莉は、夏の記憶を失くしたままではなかったのか。
「もしかして息子さん、何か思い出されたんですか」
 はっと母親の眉が、厳しく寄せられる。
「だから、そういうことではないんです」
「あの、もしかしてそれは」
 不思議な世界の夢を見ているのではありませんか?
 言葉を繋ごうとした志津子の面前で、ばたん、と扉が閉められた。
「高崎さん!」
 再度、呼び鈴を鳴らしたが、玄関からの応答はなかった。
 志津子は溜息をついた。ここまで来て    空振りか。けれど、同じ事件に巻き込まれた家族として、高崎家の事情も気持ちも痛いほど理解できる。
 バックの中には、風間からもらった少し前のアイドル雑誌。
 わずかなスペースではあるが、高崎守莉の写真が掲載されている。初見の時と同じで、やはり、はっとするほど可愛らしい男の子だった。
 地元のタレント養成所に通う高崎守莉は、少年服のモデルや、CMの子役などを務める、いわばタレント予備軍のような仕事をしていたらしい。夏休みを利用して、オーディションを受けるために上京し    、行方がわからなくなった。
 見つかった場所が、事件現場。親としても、ただ混乱するばかりだろう。
「奥さん、明日、また来ますから」
 志津子は大きな声で言った。
「絶対に、ご迷惑はお掛けしませんから」
 扉の向こうから返事はなかった。
 
  
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 住宅街は閑散としていて、タクシーが通る気配はなかった。
 志津子は途方に暮れながら嘆息した。
 まずは、車通りの多い道路を探さなければいけない。
 日が傾きかけていた。気のせいか東京よりはいくらか肌寒い感じがする。駅に戻って、今夜の宿を探さなければ。   

 ようやく通りかかったタクシーが、志津子の面前で緩やかに止まった。
「広島駅まで」
 乗込もうとした志津子の背後で、別の声がそう言った。驚いて振り返ると、同じ目線の高さで制服姿の少年が立っている。
「瀬名さん? 電話してくれた人?」
 透き通るような色白の肌、黒目がちの大きな瞳、柔らかく波打つ薄茶色の髪。
 一目でわかった。現実でも写真でも見たことがある。
「……守莉、君?」
「うん、そう。来るなら事前に連絡してよ。ママがいない時間を指示したのに」
「そ……」
 そういうわけにも、いかないじゃない。と言う前に、すっと肩を押され、柔らかく車に押し込まれる。
「乗って、僕も駅まで行くから」
 高崎守莉は、そっけない口調で言った。顔立ちは甘いのに、声だけは大人びて冷たい。
 グレーのブレザーに黒のネクタイ。彼は今、中学三年生のはずだから、制服だろう。
 背は余り高くない、百六十五センチの志津子と変わらない目の高さだ。
 守莉は志津子の背を押すようにして、自分も後部座席に身を沈めた。
「精神科の先生ってマジ?」
 前を見つめながら、守莉は言った。「    ばっか、相手にしてんの?」
 あからさまな差別用語。自分の子供なら、一発ぶん殴っているかもしれない、と思いつつ、志津子は頷く。
「君みたいな、情緒不安定な子を相手にするほうが多いけどね」
「はは、そう? あはは」
 何がおかしいのか、乾いた笑い声でそれに応じ、少年はシートに背を投げだした。
「悪いけど、殺人事件のことは何も覚えてないンだ、マジで。しかも、二十歳のオバンのストーカーしてたなんて、バッカじゃね? 俺って感じ」
 他人のことを語るような口調だった。
「殺人事件の現場にいたとか、人ン家に不法侵入したとか、ビックリするようなことを色々聞かれたり、言われたりしたけどサ、マジでなーんの記憶もないの。考えると気味が悪いっつーか、意味わかんねーっつーか。……てか、ぶっちゃけた話、俺、病気?」
 志津子は、なるべく静かな口調で聞いた。
「病院へは、行ってみた?」
「東京で。警察がその手の先生呼んで、診てもらった。思春期にありがちの……なんつーの? 受験と仕事のプレッシャー? しばらく経てば落ち着くと思いますって、とりあえず薬もらったけど、親父は怒るし、お袋もワンワン泣くしで、もう大変」
「君自身は? ショックはなかった?」
「別に? だって、本当に覚えてねぇんだモン」
「じゃあ君は、今、何を悩んでいるの?」
「………」
「私を追いかけてくれた理由は何? 何かを伝えたくて、私と二人になろうとしたんじゃないの」
 少年の冷めた目が、わずかにすがまる。
「もしかして、変わった夢を見ているとか」
「夢? 別に」
 思い切って問った質問は、あっさりと否定される。が、少年が、何か言いたげなのは明らかだった。
「あのさ……ユータイリダツって信じる?」
「……幽体離脱?」
「………」
 再び黙り込んだ横顔は硬くなり、膝の上でしっかりと組み合わされた手は、神経質そうに人差し指だけが動いている。
「そんな感じになるの?」
 こくり、と少年は頷いた。
「時々、ふっと気付くと、自分の中から魂が抜けたような感じになるんだ。確かに自分がやってることなのに、それが自分じゃねーっつーか……意味判る?」
「わかるわ」志津子は頷いた。即座に、離人症性障害を思い浮かべている。
「それは、いつから? 事件の前から?」
「最近……ここ二週間くらい」
 最近。   

「頻繁に起こるの?」
「んー、一日に数回くらい、多い日で一時間おきくらい?」
 それは、重症だ。
「……その時は、……なんだろう、ガラスの瓶の中から景色を見ている感じかな。ぼやっとして……時々、わけがわかんなくなる。俺なのに、俺じゃない感じ。俺じゃない俺が、喋ったり、食ったり、遊んだりしてんだ、そんな感じ」
 確信は持てないが、離人症性障害の症状によく似ている。
「ほかには? 何か気になる症状がある?」
 志津子は、安堵させるように頷きながら、思いついた精神疾患の症状を反芻した。
 離人症性障害とは、重大な心的外傷を起した人にしばしば見られる現象だ。
「離人」とは、自己あるいは自己の一部の非現実性の感覚で、自分が自分の身体から離れて、外部の観察者になったかのような感覚に陥る症状をいう。
 高崎守莉は、この夏、相当異常な体験をしている。殺人現場に居合わせ、三人が意識不明となった事件の現場にも居合わせた。記憶を喪失したのは、その衝撃からだろうが、警察、家裁、警察病院でも、相当しつこい取り調べを受けたことは想像できる。
 彼自身が、知らず、心に外傷を負っていたとしても、不思議ではない。
「声が……聞こえるんだ」
「声?」
「こればっかは夢かもしれない。だって、目が覚める前に聞こえてくるから。使命がある、誰かが毎晩、頭ン中でそう言うんだ。お前には使命がある、思い出せ、早く思いだせって」
 苦しそうに眉を寄せると、少年は頭を抱えた。
「使命を果たさないと、みんな死ぬんだ。みんな分解して消えちゃうんだ。なに、これ? 精神安定剤とかの副作用? それとも、マンガかアニメの見すぎ? でも、耳を塞いでも塞いでも、声が頭ン中から離れないんだ」
「これも、二週間前からなの?」
「そう、全部同じ頃」
 なんだろう。一種の    脅迫観念に似た症状だろうか?
 志津子は眉をひそめた。
 これでは、母親が心配するのも無理はない。
「その時ね、自分の部屋とか、家の中とかが、知らない場所のように見えたりする?」
 志津子が聞くと、少年は黙って頷いた。
「知ってる人が、知らない人のように感じられたりする?」
「……まるで、別世界の人みたいに思えるよ。母さんも、父さんも。なんだろう……まるで、ロボットみたいな感じ」
 志津子はさらに質問を続けた。おそらくは……離人症性障害だろう。症状が深刻なようなら、本格的な治療が必要になる。一過性のものなら心配ないが、継続して症状が現れるようなら、離人感のために自殺するケースもあるからだ。
「その症状が出ていることは、お母さまもご存じなのね」
 志津子がそう質問すると、少年は唇を噛んだ
「知ってるって言うか、そもそもママが教えてくれたんだ。俺が妙なこと口走るって。ユータイリダツしてる時って、時々、時間の感覚がなくなるから、そん時のことだと思うんだけど、……俺が、自分のことをレオナと言っているって、母さんが……」
「レオナ……?」
     単純な離人症ではない?
 志津子は眉を寄せていた。
 この子も、門倉雅のような解離性同一障害を? まさか。
 解離性同一障害と離人症は、症状の感覚自体はよく似ている。すぐには判断しかねることではあるが。
「レオナって、……それは、あなたの名前なの?」
「知るかよ! んなわけないだろ! 誰かが俺の身体をつかって、勝手に喋ったり、動いたりしてるんだよ!」
 タクシー運転手の背中が緊張しているのが判る。
 突然、激昂し、しばらく志津子を睨みつけていた守莉は、やがて力なく肩を落とした。
「もう、うんざりなんだよ、……頭がどうにかなっちゃいそうだ。自分が自分でなくなるようなさ、そんな不安な気持ちで、……死んじゃいそうだ」
 タクシーが、広島駅のタクシー寄せに滑り込んだ。
 志津子は、料金を払って車を降りた。
「守莉君、とにかく、落ち着いたら家に帰りましょう」
 強張った少年の肩を、あやすように抱きよせる。
 高崎守莉には、何らかのカウンセリングが必要だ。それも緊急に。
「やだよ、まだ話は終わってない!」
 守莉は、いかにも不服そうな悲鳴をあげる。「こわいんだ、なんとかしてほしいんだ、あんた、精神の先生なんでしょ?」
「未成年の君を、保護者の許可なしに私が勝手に連れ歩くことはできないの。もう一度、君のお母さまと話してみるから。それから改めて、君の話を聞くと約束するわ」
「………」
 不意に目の前のことに興味を失くしたように、高崎守莉は、ぼんやりと空を見つめた。
「あれって……夢じゃないのかなぁ」
「え?」
「怖い女の人が、俺のこと、レオナって呼んでたんだ。その女の人は怖いけど、僕は、本当は……その人のことが……」
「?……守莉君?」
 少年の視線が、凝固している。
 何処を見ているのか、止まったまま、動かない。
 おかしい。志津子は、守莉の肩を抱き寄せている。
「どうしたの? しっかりしなさい」
「……テンセキを、探さないと……」
 虚ろな声。
「テンセキ?」
 通り過ぎるサラリーマンやOLが、胡散臭そうな目でこちらを見ている。
「石がないと、……あの三人を助けられない。二度と、戻ってこられなくなる」
 空洞のような少年の目は、もう何も見てはいない。
 離人症の発作が起きているのだろうか。それとも人格解離症状か。
 いずれにしても、今、突き放すわけにはいかない。
 志津子は内心の緊張を抑え、セラピストの顔になって少年の肩を抱き、ゆっくりと、傍らのベンチに座らせた。
「あなたは、レオナね」
「……そう、僕は、そう呼ばれている」
「あの三人って、誰のことを言ってるの?」
「瀬名あさとさん」
 心臓が凍りついたような気がしたが、志津子は冷静に続きを待った。
「真行琥珀さん、それから……オダギリと呼ばれていた男の人」
「その三人は、何処へ行ってしまったの?」 
「……僕の来た世界……でも、どの時間に流れつくのか、それは僕にもわからない」
 もしかして。
 この問いを訊くには、多少の勇気が必要だった。自分の常識を捨て去る勇気が。
「それは……イヌルダという、国のことね」
「そう」
 一瞬息を飲んだ志津子の腹に、何かがすっと落ちた気がした。
「あなたは、その国から来たのね」
 こくり、と守莉は頷く。
「なにをしに来たの?」
「キジュウを、食い止めるためにきた」
「キジュウ?」
「沢山の人を殺すモノ……この世界を、浸食しはじめていた」
 わからない。そんな記述は、門倉雅のノートにもなかったはずだ。
「その世界から、君はどうやって来たのかな、飛行機とか……船で来たの?」
「違う。テンセキの力できた。こちらとむこうを繋ぐことができる、唯一のもの」
 テンセキ   
 はっと、志津子は、表情を強張らせている。その言葉なら、確かノートに記されていたはずだ。カタカナで記されていたということは、ドイツ語として意味をなさない単語だったに違いない。
「その、力で」ごくり、と息を飲みながら、志津子は続けた。「どうやって、二つの世界を行き来することができるの?」
「わからない……。ただ、身体から精神だけを、青の月に飛ばすことができる。……それが、テンセキの力だから」
「青の月……?」
「そう」
 それもまた、意味不明だ。
「じゃあ、あなたの肉体は、まだ、元の世界にいるってこと?」
「そう、眠りつづけている。僕が戻るまで、目覚めることはない」
「………」
 どういうこと?
 それはまるで、あさとと琥珀と、小田切だ。
「眠っているだけ?」
 急くように、志津子は訊いた。「命に別条はないのね。いずれ、ちゃんと目覚めるのね?」
「心が戻れなければ、肉体はいつまでも眠り続ける。あちらの世界で心が死ねば、肉体もまた、死ぬ」
「…………」
「三人が、そうなる前に、なんとかして、呼び戻さないと……」
 混乱して、身動きが取れなくなる。
 これは、いったいどこまでが妄想で、どこまでが現実なのだろう。
 前世療法でさかのぼった雅の前世。彼女が残していたノート。永瀬海斗の夢。そして、高崎守莉に起きている解離現象。
「お願い、教えて!」
 志津子は我を忘れていた。高野の肩をきつく掴んだ。
「どうすれば、あさとは目覚めるの? どうしたら助けられるの!」
 セラピストとしてではなく、母親として叫んでいた。
 人形のような守莉の眼には、それでも感情の欠片さえ戻らない。
「テンセキがなければ、戻れない」
 茫洋とした声がそう繰り返す。
「テンセキ……石のことね? それは、どんな形をして、どこにあるものなの?」
「青い石……形は決まっていない」
「決まっていない?」
 志津子の苛立ちも、守莉には一向に通じていないようだった。
「石は、どこに行けば見つかるの?」
「どこにもない。もう、あの人が持って行ってしまった」
「あの人?」
「瀬名……あさと、さん」
 あさとが。   

「では、君は、どうやって戻るつもりなの?」
「もう、戻れない」
「………」
「二度と……僕は、戻ることができない」
「あさとは、戻ってこられるのね? だってあの子が石を持っているでしょう?」
「そう願っていた……でも、彼女は、戻ってこない……」
「どういう意味なの……」
「彼女は戻れない、……もともと石を持つ力がないんだ……せめて……せめて、もう一度結界を開くことができたら」
 虚ろな瞳に、ゆっくりと焦点があわさっていく。
 志津子は、高野昌宏のトランス状態が終わりかけていることを感じた。
「待って、レオナ、結界って何なの。どうしたらいいの!」
「門倉、雅……」
「雅ちゃん? 雅ちゃんが、何?」
「わからない……彼女が、……もしかして……」
 抱いていた肩が力を失って、ベンチから滑り落ちそうになる。
 志津子はその身体を抱き支えた。
「守莉君!」
「はぁっ……はぁっ」
 守莉の身体に確かな力が戻っていく。息を吐き、肩を激しく上下させながら、少年は拳を握りしめた。
「っくしょー、冗談じゃない」
 苦しそうな声だった。先ほどの茫洋とした口調とはまるで違う    高崎守莉自身の声。
「判ったでしょ……今、俺、またおかしくなってたから」
 少年に掛ける言葉すら、今の志津子には思いつかなかった。聞きたいことはもっとあった。確認しなければならないことはさらにあった。
 なのに、何一つ言葉として出てこない。
「助けてよ、ねぇ、お願いだから、俺を助けて! 瀬名さんは、精神科の先生なんでしょ!」
 守莉の手が自分の腕を掴んでいる。
 志津子は反応できなかった。
 だから?
 それが?
 もう、精神の病だとか、そういうレベルの話ではないような気がする。もっと未知の、常識の通用しない不可思議な分野。
「精神治療で、退行催眠っていうのがあるって聞いたんだ」
 その言葉で、ようやく我に返った志津子は少年を見つめた。
 退行催眠。
 忘れていた記憶を催眠状態で呼び戻す    門倉雅に施したものと同じ療法。
 守莉の目は真剣だった。
「だったら、俺の記憶、催眠療法で辿ってみてくれよ。今すぐに!」
 その時、志津子の鞄の中から、携帯の着信音が鳴った。少年の肩を抱いたまま、志津子は無機質な着信音を聞き続けていた。
「全部……あの夏から始まってるんだ。おかしなことは、全部」
 訴えかけるような眼が、志津子を揺るがずに見上げている。
「この夏、俺が何を体験したのか、どうしても思い出したいんだよ……」
 
 
 
 
 

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