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夕刻、帰宅ラッシュの喧騒に包まれた広島駅に降り立った時、志津子はいつになく意気込んだ気持で、大きく息を吸っていた。
とうとう、ここまで来た。
一体自分が何のために、何を追い、そして、行きつく果てに何があるのか判らない。まだ夢を見ているような気もするし、ひどく馬鹿げたことをしているとも思う。
一課の横谷の協力を得て、夕べ、ようやく高崎家と連絡がついた。
あの少年に会いさえすれば、全ての謎が解けるのかもしれない。そう思うことで、萎えていく気持ちを奮い立たせる。
「さてと、張り切って乗り込みますか」
志津子は、ショルダーバックを肩に掛け直すと、構内の階段を上がり始めた。
門倉雅の部屋から、唯一まともに生還できた中学生。
あの少年、 高崎 守莉に。
第六章 高崎 守莉
1
瀬川みすずを訪問した帰路、風間の運転する車に同乗した志津子は、永瀬海斗から聞きとった話を、風間に聞かせた。
「不思議な話ですね」
説明を聞き終わった風間は、そう言ったきり、しばらく無言のままだった。
「私にも……まだ、信じられません。なんだか幻想をみているようで」
夕闇が、空気を薄桃色に変えている。
門倉雅の妄想にすぎないはずの世界は、あさとと永瀬悔斗の夢の中を侵食していた。それはどういう意味なのだろうか。
あの世界は……。
志津子は無言で眉根を寄せる。
本当に、彼らの前世?
「瀬名先生、どうでしょう、いっそ幻想を見てみませんか」
風間の声は静かだった。
「前世があるとかないとか、もうそこにこだわるのはやめにしませんか。あるんですよ、前世は。少なくとも門倉雅の心の中に存在している」
その通りだ。ただし、それは妄想の が、それを頭から言い切るだけの自信は、志津子にはもうない。
「その世界には、少なくとも真行君がいて、永瀬君がいる。もしかすると、あさとさんもいるのかもしれない。ひょっとしたら、小田切も」
喜屋教授が言っていた、三人の脳波に現れた、不可思議な同調。
志津子は唇を噛んでいる。同じ夢を 見ているかもしれない三人。
「その仮定を前提に、少し話しをしてみませんか? それこそ前世療法のように、架空の世界を前提に、三人の身に起きたことを推測してみてはどうでしょう」
「それは……」
志津子は迷いながら、言い淀む。精神科医の立場では、どう答えていいのか判らない。そもそも、そんな非現実な方法で、本当に全ての問題が解決するのだろうか。
「先生、僕に説明してくださいましたよね。人の心の中にあるものだけが、前世として現れるって」
「それは、確かに」
「だったら、あれほど門倉雅に近かった三人です。彼女の記憶の中に、何らかの形で出てきたって不思議じゃないとは思いませんか?」
「…………」
「ラッセルは小田切だった。僕はますます確信しました。彼の妻、ダーラですか、その女性が静那さんです。今日のことで、はっきりしたじゃないですか。静那さんと門倉雅は、それ以前に面識があったんです」
瀬川みすずの話を思い出し、志津子は眉を寄せている。
「下の名で呼ぶほどだから、よほど親しかったのか……。当時の門倉雅が、『マリア』として活動していたかどうかは定かではないですが、小田切が言っていたように、指導する者とされる者、教師と生徒、そんな形で、新宿界隈で接点があったのだと思いますね」
「風間さん」
いったん言葉を切り、志津子は迷いながら、口を開いた。
「静那さんのことは別として、私には、やっぱり合点がいきません。夢の中の雅ちゃんは、ラッセルが好きだと言ってるんですよ? 過去、三人に接点があったのは判りました。でも、雅ちゃんと小田切君の間に、精神的な繋がりがあったとは、……考えにくいと思います」
「……僕は……」
何故か、風間は遠くを見る目になって、わずかに苦笑した。
「何故だか、それもあり得るんじゃないかと、思っているんです」
「ええ?」
「くだらない理由だし、馬鹿にされそうだから、言いませんが」
「まぁ、ひどいわ。馬鹿になんかしません」
「いずれ、話しますよ」
小田切と雅を結ぶ線を突きとめた衝撃で、いっそふてぶてしく腹をくくったのか、風間の声は楽しそうだった。
「いずれにせよ、僕は引き続き賀沢の行方を探します。横谷君が横浜県警に照会してくれたから、もしかすると吉報があるかもしれません」
「怖くは、ありませんか?」
自然に言葉が零れたのは、今日一日で、聞きたくないことを随分耳にしたからだ。
あまりにも悲惨な雅の過去、すでに破綻していたのかもしれない小田切夫婦。……
「真実を知ることが、ですか? 怖いのは、このまま小田切が目覚めないことですよ」
「………」
「ああ、そうだ。一課の横谷君に、明日にでも高崎守莉の連絡先を調べてもらう手筈になっています。ただ、相手方が了承しなければ……対面は難しいとは思いますが。よければ、僕が電話してみましょうか」
「いえ……」
そうだ。何もしないで待っているだけでは、間違いなくあさとの意識は戻らないのだ。
迷いながら、志津子は言った。
「私が電話してみます。警察関係というより、被害者家族という繋がりのほうが、あちらも胸を割ってくださるかもしれませんし」
「よろしいんですか」
「ええ」
それが夢でも妄想でも、今は、やれるだけのことをやるしかない。
ようやく腹を括った志津子は、軽く嘆息して顔を上げた。
「あちらのご都合がよければ、私が会いに行ってみます。私だって、あさとの眼が覚めないこと以外に、怖いことなんて何もないですから」
数日以来、胸の底に淀んでいたものが、初めて晴れていくような気がした。
2
「三篠町まで、お願いします」
志津子は、携帯にメモしていた住所を運転手に告げ、車中の人となった。
広島駅。周辺は、もう宵闇に包まれている。
駅自体は綺麗なのに、少し抜けると、ひどくレトロな街並みに出くわす。レトロというか、驚くほど老朽化した建物の一群。アンティークというよりは、単に薄汚い印象だ。
「駅前再開発が遅れてるんですよねぇ」
運転手が、訛りの混じった口調で説明してくれた。「昔のなごりっていえば、それまでですけど、広島の玄関がこれじゃあねぇ……。この界隈だけ、時から取り残されてるみたいですよ」
確かに、運転手の言う通り、しばらく行くと、近代的で華やかな街並みが現れる。
流れていく景色を見ながら、志津子は、新幹線の中で考え続けていた疑問に再びとらわれていた。
ラッセルが、……小田切君だとすると。
アシュラルは、琥珀君を擬似したものなのだろうか。
それしかないと思う反面、どこかで、腑に落ちない気もする。
志津子の印象では、ラッセルとは真行琥珀だ。常に門倉雅の傍にいて、彼女の罪まで庇おうとしたところも、悲壮なまでにストイックなところもよく似ている。
けれど、ラッセルの妻の死に様は、やはり小田切のそれと酷似している。
とすれば、門倉雅の深層意識の中では、小田切とはああいう役回りになってしまうのだろうか。風間には、何か心当たりがあるようだったが。 。
ただ、アシュラルが琥珀だと言われれば、それはきっちり筋が通っているような気がした。
門倉雅が愛していたのが真行琥珀なら、クシュリナ姫が愛していたのは、アシュラルだ。
残されたノートを翻訳したロム。その文章の端々からも、彼に対する激しい感情が垣間見える。
あの怒りは、強い愛情の裏返しなのだ。ラッセルはおそらく、アシュラルとよく似た容姿、そして正反対の性格ゆえに、擬似愛の対象にされたのだろう。
腑に落ちないといえば、最大の疑問は、もう一つあった。
クシュリナは雅ちゃんに間違いない。けれど、あさともまた、クシュリナの夢を見ている。
そこだけが、どうしても意味が通らない。というより、どういう意味があるのか判らない。
ひょっとして、……過去に、何らかの形で、あさとはあのノートの存在を知っていたのかもしれない。雅ちゃんから話を聞かされていた可能性もある。それが、無意識下にいつまでも残っていて。……
娘が虚言を吐いていたとは思えないが、やはりその可能性が一番高いような気がした。
そして、ユーリ。
志津子は、眉根をきつく寄せた。
一番不可解で、常識では説明できない現象が、永瀬海斗が、夢の登場人物の一人、ユーリとしての夢を見ているという告白である。
(助けてもらえませんか、ここ何日か、夢を見るのが怖くて眠れないんです)
胸の裡全てを吐露した青年は、ひどく憔悴した目をしていた。
(……一番、恐ろしかったのは、……門倉雅さんの顔をした女を、俺が……)
よほど思い出したくないのか、永瀬は蒼白な表情で頭を抱えた。
(正真証明、俺はあの女性に対してなんの関心もないんですよ。まともに話したことさえない。そんな僕が、どうしてあんな夢を見るのか、全くわからないんです)
(……もう、夢の続きを見るのが怖いんです。なんでか知らないけど、俺、はっきり判るんです。……この先、まだ、俺は、なんらかの形で彼女に関わっていって、それが……破滅的な結果を導いていくんだって)
志津子は、門倉雅の書き残した文章を、永瀬にも見せた。彼はしばらく、ものも言わず、幽鬼にも似た表情で、くいいるようにパソコン画面を見つめていた。
(これを読む限り、俺はその、ユーリとかいう男の生まれ変わりなんでしょうか。よく判らないな。……だって、ここには最後までいいお友達だったと書いてあるし、モマの王になったかどうか知らないとも書いてある。自分は死んでいるからって)
納得できないように、永瀬は大きく首をかしげた。
(クシュリナ姫はまだ、生き続けているはずなんです。この文章に続きがあることを、俺は、どうしてだか……知っているような気がするんです)
「………」
志津子は目を閉じた。
一致しない矛盾は、まだ他にもある。
志津子は夕べ、三年前に行った、門倉雅の前世療法の録音テープを聞き直した。
"「……私を、何度もぶつんです。私が悪い子だから、私が言うことをきかないから。鞭で、何度も、何度も何度も何度も、痛くて……痛い、痛い」「お母様は私を憎んでいて、何度も殺そうとしました……」"
クシュリナ姫は父親に虐待されていたのだ。三年前の志津子はそう思った。しかし。
"だから、父は本当に私に優しくしてくれる。絶対に、殴ったり、ひどいことはしない"
それが、ノートの文章では、 念入りに否定されている。いかにも付け加えたような 少し、不自然な文体で。
母親から憎まれ、殺されようとしていたことも、妹から軽蔑されていたことも、全てが微妙にいい方向に変わっている。
それから。
"「彼が……います。きれいな肌がすごく近くにあって、……滑らかで、さらさらして、私の身体に直に触れている感じです。……すごく、熱くて……息苦しくて……」"
ラッセルに、自分の恋人になるように命じ、彼がそれを実行していた場面まで、彼女は生々しく語っていた。それが。
"私はとても悲しかった、彼に、自分の気持ちを告白してしまいたかった。打ち明けてしまえば、彼は私には逆らえないもの。でも……我慢した。彼を困らせたくはなかったから。"
やはり、否定されている。
判らない、だとしたらこの文章は全て、門倉雅の意図的な創作なのだろうか?
そもそも一体彼女は何故、なんのために、こんなものを残していたのだろう。
なんだろう。
何かが、喉元まで引っかかっているのに出てこない。そんな感じだ。
志津子は少し苛だって、窓硝子に額を寄せた。
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