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7
「前から、思っていたんですが」
ハンドルを右に切って、前を見ながら、風間は言った。
「もし小田切が静那さんじゃなくて、瀬名先生みたいな人と一緒になっていたら……奴の人生も、変わってたんじゃないかな」
他意はないのだろう。けれど志津子は、内心、鼓動が激しく高まるのを感じた。
風間は 少なくとも、小田切と自分が犯した過ちについては知らないらしい。何度か話を重ねて、それだけは確信している。
風間は前を見ながら続ける。
「静那さんは……なんていうのか、浮世離れしているっていうのかなぁ。まるで、この世の別の場所をふわふわ歩いているような、危なかしいところのある女性でしたからね」
すごく上手い例えだと思いながら、志津子も初対面の時の静那のイメージを思い出している。
「それに……これは、僕の勝手な印象なんですけど、少し悲観的すぎるところがあって、……物事を悪いほうへ悪いほうへ考えすぎてしまうというか。小田切も小田切で、投げやりで破滅的なところがあるから、本当にお前ら大丈夫か? 的な不安はいつもありましたね」
「で? つまるところ、私が彼女と違って楽天的だと言いたいんですね」
志津子は笑いでその話題を遮った。少なくとも、故人の墓を見た帰りに、聞きたい台詞ではない。
風間は苦く笑って、肩をすくめる。
「静那さんには、結婚を約束した恋人がいたんですよ。すごい資産家だって聞いたことがあるから、あのまま、あの人と結婚してれば、今頃、セレブな奥様を満喫してたんじゃないかなぁ」
「そうなんですか」
ふと、赤いイタリア車を思い出している。まさか、あれからもう六年だ。
「これは、……今言うべき話ではないかもしれませんが、静那さんが刺された夜、彼女が電話で助けを求めたことはご存知ですかね」
心臓が、今度こそ大きく跳ね上がっていた。
「助け……って、誰に、です」
「その男にですよ。小田切ではなく」
「…………」
「樋口さん、だったかな? 救急車を呼んだのも、病院に真っ先に駆けつけたのも、その男だったと聞いています。……児童相談所務めの男でね。……まぁ、長いつきあいだったんでしょう。静那さんにとっては、兄代わりとも父親代わりとも言える存在だったのかもしれないが……」
児童相談所勤めの男。 その話なら、小田切の口からも静那の口からも聞いている。
「小田切はたまらなかったと思いますね。まぁ、そのことについて、奴がとやかく言ったことは一度もありませんでしたが」
あの夜、携帯を切っていた小田切に、静那からのコールはあったのだろうか。いや、あってもなくても、彼の苦しみは同じだろう。
比喩ではなく殺したいほど……あの夜の自身を怨んだだろう。
「……静那さんも小田切も、互いに好きにならなければ、違う人生が待っていたんでしょうがね」
風間の声が、どこか寂しく胸に響いた。
「人はなんだって、自分以外の誰かを好きになるんでしょう。それが、時に辛いことになると判っていても……」
8
「ええ、小田切さんのことなら、よく覚えていますよ」
信愛クリニックの元看護師、瀬川みすずはそう言って、前髪を直した。
午後の公園には、子供連れの母親が集団を作って、あちこちにたむろしている。
みすずの子供は、目の前の砂場で、大きな山を作っていた。
二十代の後半だろう。年の割には頼りない感じのする女だった。もじもじとベンチに座る姿勢にも、落ち着きのなさが滲み出ている。
「曽根先生、彼のこと自分の子供みたいに可愛がってて……六年前ですよねー、夏だったかな? 先生が肝臓悪くして休みがちだった頃。ちょくちょく手伝いに来てくれてましたよ、確か」
それでも、記憶は確かなほうである。
「肝臓?」
風間が、何故か場違いな言葉に反応を示した。
「ええ? お若い頃からの持病だって」
「院長は、曽根……曽根先生と言われましたよね」
「ええ」
みすずが、訝し気な目を傍らの志津子に向ける。
「あ、いえ、失礼しました」
不思議な瞬きをした風間は、取り繕ったように、門倉雅の写真をみすずに示した。
「すみません。では、この子に記憶はありませんか。八月の終わりごろに、信愛クリニックを受診した、門倉雅という女子学生なんですが」
「えー、六年前の患者さんなんていちいち覚えてたら天才じゃないですかー、無理ですよ、そんなの無理」
みすずは、おののいたように両手を振る。が、それでも写真を見た時、目にあっというような光が浮かんだ。
「覚えがあるんですね」
志津子が問うと、あっさりと頷く。そして、ちらっと志津子を見あげる。
「あのう……この子、何か事件でもやらかしちゃったんですか?」
多分 彼女の目には、自分も警察関係者として映っているのに違いない。志津子は、居心地の悪さを感じながら咳払いをした。
「失礼ですけど、やらかしちゃったとは?」
「えー、だって……」
女はもごもごと口ごもる。さすがに元看護師としての守秘義務に思いが至ったのか、言うべきか言わざるべきか、迷うような眼をしていた。
「六年も前なのに、よく記憶されているというのは……何か、印象深いことでもあったんでしょうか」
「ええ、……まぁ、なんていうか、すごく綺麗な子ですよね。モーニング娘。とかに混じってそうな。あ、今月九に出てる女優にも似てる感じ? それだけでも、かなり印象的というか」
「印象に残ったのは、それだけ?」
「そういうわけじゃないですけど……」
迷うような眼が、今度は風間に向けられる。
「安心していいんですよ」実際、安心するしかないような笑顔で、風間はみすずに笑いかけた。
「もし、あなたが匿名を希望されるなら、我々は今日知り得たことを、他の誰にも洩らすことはありません。それに、何も信愛クリニックの不法診療を暴くために、お話をお伺いしているわけじゃないんですから」
「……曽根先生は、見た目冷たいけど、中身は割といい人なんです。迷惑だけはかけないって約束してくださいね」
ようやく納得したのか、あずさは視線をあちこちに移しながら、思い出を手繰るようにして話し始めた。
「確か、あの夜は、すごく夜間外来がたてこんでて……何時だったかな、客が切れかけてたから、八時前くらい? 門倉雅さん? この写真の子が彼氏と二人でやってきたんです」
思わず、志津子と風間はお互いに目を見合わせていた。
「門倉さんには、連れがいたんですか」
聞いたのは、風間だった。
「いましたよ。高校生くらいの男の子。背が高くて、目が綺麗で、まるでテレビのアイドルみたいにかっこよかったなぁ。そうそう、どっちかというと、最初は彼の方が印象強かったのかも。モデルかしらって看護師みんなで噂したりしてー。二人とも、すごくきちんとした身なりで……普通、うちみたいな病院にあんな子たち、来たりしないじゃないですかー」
「確かに、二人で来たんですね」
風間は念を押した。「ひょっとして、この写真の男でしょうか」
多分、中学の卒業写真をカラーコピーしたものだろう。どれだけ用意がいいのか、風間が差し出したのは真行琥珀の顔写真だった。まだ髪が短く、ブレザーにネクタイを締めている。
「あっ、そうです。この子、この子、ちょっと印象は堅いけど」
みすずはそう言って、嬉しそうに笑った。
実際、当時の真行琥珀は中学三年生だった。
しかし、身長は今より少し低い程度で、百七十以上はあったはずだ。私服だったら、高校生にしか見えなかっただろう。
「それで……雅さんの怪我は、どの程度のものだったんですか」
質問を繋いだのは、志津子だった。あの時期、どう記憶を揺り動かしても、門倉雅が怪我をしていたという覚えはない。擦り傷だと電話で看護師は答えてくれたが、その程度の怪我で、わざわざ二人で夜間、かかりつけでもない医者を訪れたりするものだろうか。
「怪我? ああ、そういうカルテ……? んー、これって言わなきゃまずいですか?」
「あなたのプライバシーは必ず守ると約束しますよ」
風間の笑顔は、みすずのような女を安心させるにはもってこいだろう。
「あのぅ、妊娠です。その検査」
「えっ……」
志津子と風間は、同時に息を引いていた。
門倉雅が、妊娠?
「本当言うと、こっからが……まぁ、当時の誰にとっても、ちょっと忘れられないくらい異常な出来事だったんですけど。……あの、本当に喋っちゃっても?」
促すように、風間は頷く。
「彼女、診察室に呼ばれる段になったら、急に帰るってだだをこねだしちゃって。動かないし、子供みたいにめそめそ泣くし、彼氏もすっかり困っちゃって……。で、小田切さんが彼氏と別室で話をされたんです。あ、その時私、別の患者さんについてたから、全部、後から聞いた話なんですけど」
小田切と真行琥珀との出会いも、事件が初めてではなかったのだ。
さすがに風間の横顔は強張っていたし、志津子もそれは同じだった。
「で、小田切さんが彼氏と話してる最中のことなんですけど……、待合には、他にお客さんもいなくて、彼女一人と受付担当の看護師が残ってたんですね。そしたら、いきなり見知らぬ女の人が入ってきて」
見知らぬ女の人?
「もう受付時間過ぎてるからって、看護師が断ろうと立ち上がったんです。そしたら、泣いてた門倉さんが、急にすごい勢いで立ち上がって」
当時のことを思い出したのか、みすずの目が不安そうに曇った。
「看護師を押しのけるようにして、その女の人に掴みかかったそうなんです。何かわけのわかんないことを叫びながら、髪を掴んで引きずり倒して」
「……それは、知り合いの女性だったんでしょうか」
声をひそめて、風間が訊いた。志津子もまた、苦く眉をひそめている。
門倉雅……ではない。それは、おそらくマァルちゃんだろう。何が原因がわからないが、人格の交代が唐突に行われたのだ。門倉祥子に暴力をふるう時と、似たような状態に陥ったに違いない。
「それが、びっくりなんですよ。私も騒ぎを聞いて飛び出しましたけど、びっくりしたのはそれから。小田切先生が血相を変えて飛び出してきて、……みんなそこで初めて判ったんですけど、その女の人、なんと、先生の奥さんだったんですよ」
「奥……さん?」
耳にしたことが信じられなくて、志津子は再度、聞き直していた。
「ええ、人形みたいに華奢で弱々しい人、無抵抗で叩かれるままになってましたっけ。すごくショックを受けたみたいで……小田切先生に抱きかかえられても、しばらく死んだみたいに動かなかったですもん」
あっけにとられていた風間が、ようやく咳き込むように口をはさんだ。
「それは、本当なんですね。本当に 小田切の、奥さんが?」
「後で、小田切先生に聞いたんで、それは間違いないと思います。何の用事で来られたのかまでは、わからないんですけど」
風間と志津子は、ただ、目を見合わせる。
まさか そこに、小田切静那が出てくるとは、想像してもいなかった。
「あの……雅さんと、小田切先生の奥さんは、もともと顔見知りだったんでしょうか」
うーんと、みすずは眉を寄せる。
「小田切先生は、何も知らないと言ってましたけど……。知り合いじゃなかったのかなぁ。だって、あの時呼んでたの、多分、奥さんの名前だもん。それに、もともと知り合いじゃなかったら、あんな風にはなりませんよねぇ。普通」
「名前を、ですか」
風間が急いで念を押した。
それは重要なポイントだった。つまり、静那と雅は、その日が初対面ではなかったことになる。
「そうみたいです。静那? ちょっと変わった名前ですよね」
「先生の奥様の反応は、どうだったんでしょう?」
「どうでしょう……? ただ、びっくりしていたようでしたよ。でも、このあたりの学校の先生のようでしたから、繁華街の見回りかなんかで、あれでも指導対象になってたのかなぁって、後で小田切先生も、そんなことを言ってましたっけ」
「先を、続けてください」
強張った眼で、風間がみすずの先を促す。「それから、門倉さんはどうなったんです」
「すぐに、彼氏が飛び出してきて、慣れた感じでなだめてましたけど、……まぁ、彼氏の落ち着きっぷりにも相当びっくりしたんですけどね。でも彼女、なかなか興奮状態が覚めなくて、まだ、先生に奥さんに向かっていこうとするんです。あんなに可愛い子が、鬼みたいな形相になって。子供を返してとか、あんたが私の子供を殺したとか、どういう妄想なのか、すごいことばかり口走って、そしたら、小田切先生が」
小田切が。
「奥さんがひどい目にあって、先生も若いからイライラしてたのかな。……正直、彼氏の前でデリカシーなかったなぁって思ったんですけど」
みすずの眉が、わずかに寄せられる。
「君に子供なんていない。妊娠なんてしていないから、大丈夫だって、はっきり言っちゃったんですよ」
あ。
志津子は目を見開いた。
「そしたら、彼女、今度は別人みたいにしおれて、泣き出しちゃって、絶対違う、お腹の子は彼氏の子だって、……もう、見ていて可哀想なくらい。……」
志津子は耳を塞ぎたくなった。何が起きたのか、おおよその想像はついた。
想像妊娠 もしくは、虚言だったのだ。
なんのためだったのだろう。真行琥珀の心を繋ぎとめるため?
が、だとしたら琥珀は、何故、なんの確認もしないまま、門倉雅をモグリの闇医者などに連れて行ったのだろう。身に覚えがあったから? そうだとしても、そこまで卑怯な真似をするような男だろうか。それに、今は市販薬でも、妊娠の有無くらいは確認できる。
何故 真行琥珀は、わざわざ病院に、門倉雅を連れて行ったのか?
「その時……彼氏の様子はどうでした?」
怖いものに触れるような気持で、志津子は問った。
「怒ってました。多分、先生に対してだったと思います。推測ですけど……多分彼氏も、彼女が妊娠してないことくらいわかってたんじゃないかなって。何か複雑な事情があって、それ、彼女には信じさせたままでいたかったんじゃないかなって。最後はすごい目で先生のこと睨んで、彼女を抱きかかえるようにして出ていきましたもん」
複雑な事情 病院に、それでも連れて行きたかった理由。
「もしかして、門倉さんの妊娠の原因は」
はっと閃いて、志津子は訊いた。
集団暴行事件の後、初めて門倉雅と向き合って診療を開始したときにも、漠然と思ったことがある。
この子は、ひょっとして、こんな目にあったのは、今回が初めてではないのではないか? 。
「違ってたらごめんなさい。レイプだって、……もしかして、そういうことじゃなかったんですか?」
「………私、そんなことまで言いました?」
みすずは、目を大きく見開いて、唇に手をあてる。
「これだけは、絶対に言わないでくださいね。後で聞いたら、どうも、そうだったみたいです。彼氏、妊娠の検査だけじゃなくて、感染症の検査もしてほしいって先生に相談してたみたい。……でも彼女にその認識がないから……もう一度来ても、絶対に触れないようにって、小田切先生にきつく釘を刺されましたから」
「………」
「きっと、レイプされたショックでおかしくなっちゃったんだろうねぇって。みんなで噂したんですけど。……小田切先生も、さすがに気がかりだったみたいですよ。受付で彼女の住所とか調べてたから、様子くらい見に行ったんじゃないかなぁ」
それ以上、もう何も聞く必要は何もなかった。
当時、門倉雅は中学二年。
『三歳の雅』が出てきて、『マァルちゃん』の人格が支配的になった時期とも一致している。
この時期に、門倉雅の身に何らかの事件があったのだろうとは、おぼろげに思ってはいた。でも、まさか、二度もそんな、残酷な体験を繰り返していたなんて。 。
おそらく、小田切に悪意はなかったのだろう。事前検査で確認していたのだろうし、錯乱を静めるために、あえて口にしたのかもしれない。
が、もし、真行琥珀の子供を宿していると信じることが、あの時の門倉雅を支えていたとしたら?
否定されることを、死ぬほど恐れていたとしたら?
いずれにしても、事件前、四人は最悪の形で出会っていた。
そして四ヶ月後、小田切静那は、生徒のかざした凶刃の犠牲になったのだ。
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