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4
「先生、丁度よかった、お電話ですよ」
診療室に戻ると、丁度、恩田佳織が、受話器を持っているところだった。
「常盤記念病院の原田さんと仰る方ですけど」
「ありがとう」
佳織が驚いたような眼でこちらを見ている。多分、よほど、ひどい顔をしているのだろう。
「もしもし、お電話変わりました、瀬名です」
『確認しましたが、ご照会の件、該当ありませんでした』
受話器の向こうから響いてきたのは事務的な声だった。
「そうですか……」
やはり、その線は潰れたか。
「あの、例えば、内科や婦人科でも構わないんですが、小田切研修医がおられた期間、該当の女性が診察に訪れたという記録は」
『全診療科のデータと照合しましたから、間違いないと思います』
志津子は、丁寧に礼を言って電話を切った。
風間には悪いが、これで全ての可能性がつぶれたことになる。
この病院のみならず、小田切が研修医としてバイトに出た全ての病院で、門倉雅の診療歴を照会した。
結果は全滅。
それ以外の場所で会っていたとしても、志津子に確認する術はない。
「やっぱり、小田切先生のこと、調べていたんですね」
背後から、嘆息まじりの声がした。恩田佳織。
唇を噛んでいた志津子は、はっとして振り返る。
長年連れ添ったパートナーには、さすがに勘付かれているとは思ったものの、それでも暗黙の了解で黙し合っていた。うっかり、小田切の名を出してしまったのは、志津子のミスだ。
「昔の診療記録に、いったい何があるっていうんですか? 小田切先生のバイト先まで調べるなんて、瀬名先生、まるで警察みたいですよ」
佳織の目が、本気で志津子を責めている。
「……彼を病気だと思っている人がいるのよ」
観念して、志津子は椅子に腰かけて頭を掻いた。
「は? 実際、病気みたいなものですよね」
「心の病気。精神的なものが原因で心を閉ざしてるんじゃないかって。彼の親友がそういうの。だから、色々調べてるんだけど……」
ああ、頭がひどく混乱する。それより、永瀬海斗の告白を、早く風間に伝えなければ。
「で、収穫なしですか」
「なし。てか、最初から半信半疑だったから。ちょっと出てくるわ。後、頼んでもいいかしら」
「先生、だったら一つ、見落としがありますよ」
「……?」
志津子が見あげると、佳織は、わずかに暗い目になって、観念したように息を吐いた。
「最初から、相談してくださればよかったのに」
「……どういうこと?」
横顔を見せ、佳織は看護師の制帽を外した。
「小田切先生、無断でバイトをしていたんです。バイトっていうのかな……、きっと無報酬だったと思うから」
「どういうことなの?」
「彼、高校時代に、色んな店で掛け持ちのアルバイトをしていたそうなんです。……あまり、性質のよくない店でも仕事をしてたみたい。その時、お世話になった個人経営の医者がいて……表向きは内科、外科が専門ですけど、保険証のない外国人の治療とか、未成年の堕胎とか、そういうことまでするような病院で」
「どこにある、なんて病院なの」
急くように、志津子は強い口調で訊いている。
「新宿の、信愛クリニックです」
新宿。 。
何かが、カチッと、音をたててはまった気がした。
「小田切先生、その先生には随分お世話になったみたいで、何度か隠れて手伝いに行っていたそうなんです。もちろん、無届だったと思います。私がそれを知ったのは……彼の後を、尾けたことがあるからです。彼に誰にも言うなって言われて、その口止めに、何度か食事に連れて行ってもらいました」
同時に、ようやく判った気がした。
あれから六年たってもなお、まだ色あせない恩田の想いの深さの理由が。
潤んだ目を誤魔化すように、佳織は綺麗な笑顔になった。
「……私、本当にうれしかった。……だから絶対に、誰にも言いませんでした」
5
『はい、確かに該当ありますね』
志津子は受話器を持ち直した。自分の声が震えるのが判る。
「本当ですね?」
『 平成十一年八月二十七日に、夜間外来で、門倉雅という女性が診療に訪れています』
「それで、当直医は」
やはり そうなのだ。
『うちには、先生は一人しかおられないですからね。院長の曽根が診たと思います。ただ、曽根は大変多忙にしておりまして』
事前に調べ得た情報から、半ばモグリすれすれの診療をやっている曽根稔彦が、医者仲間から蛇蝎のごとく嫌われているのは、よく知っていた。
おそらく、まともに訊いても、何も教えてはくれないだろう。
「では、先生に、助手のような人はいなかったでしょうか。アルバイトというか、手伝いをしていた者でも構いません。その女性を、現在大学病院で治療している者ですが、どうしても、過去の症状をお聞きしたいんです」
『先生は、助手など、おかれない方ですから』
「当時、小田切という研修医が、よく手伝いに入っていたと訊きしまたが」
『あのですねぇ』女の声に、馬鹿にしたような苦笑が混じった。『うちに研修医が来ると思います?』
「正式な形ではなかったと思います。あの……決して他には漏らしませんので」
『門倉雅さんは、手足の擦り傷で来院され、一回の治療で完治されておりますよ。いったい今、どのようなご病気かどうかは知りませんけど、なんの関係もないと断言できます』
「………」
失礼します。一方的に挨拶がなされ、電話が切られた。
心臓がまだ震えている。平成十一年八月……その年の十二月に静那は殺された。同じ新宿の、一区画違いの場所で。
ビンゴだった。間違いない。その時期小田切は研修医で、ほぼ確実に信愛クリニックに出向いており、門倉雅は同病院で診療を受けている。
「なるほど、判りました。だったら後は、僕のほうで調べてみます」
すぐに電話した、風間の声も興奮していた。
「平成十一年以降、信愛クリニックを辞めた看護師を探してみます。小田切とペアだった一課の横谷って刑事が、協力してくれることになりましてね。明日には判ると思いますよ」
「あの、話を伺う時は、ぜひ、私も同行したいんですが」
志津子の願いを風間は快諾し、電話は切れた。
まだ、興奮が指を震わせている。
風間の予感は的中した。
小田切直人と門倉雅は出会っていたのだ。小田切静那が殺された、四カ月も前に。
それは、何を意味しているのだろう。
6
「それにしても、さすがは瀬名先生ですよ」
墓石の前で、風間は何度目かの台詞を口にした。
墓前には、風間が用意した線香の煙が、ゆるやかに立ち昇っている。
「今日は、月命日なんですよ」
ここへ来る途中、風間は寄り道の理由をそう説明してくれた。「行くついでがあれば、立ち寄るようにしてるんです。小田切が、必ずそうしていましたからね」
これから、二人は、信愛クリニックを辞めた元看護師を訪ねることになっている。
志津子は無言で、用意してきた花束を墓石に添えた。誰かがすでに訪れていたのだろう。名前は知らないが小さな花束が添えてある。
手を合わせていた風間は、顔をあげた。
「僕が言いだしたことですが、正直、半分は、あきらめていました。自分のありえない妄想に、瀬名先生を巻き込んでしまったと……、後悔していたくらいです」
「本当かしら」
笑いながら、それでも、今回、小田切の過去の片鱗が判ったのは、決して自分のせいではないと、志津子は内心思っている。
親友にも洩らさなかったヤミ医者とのつきあいが浮彫りになったのは、恩田佳織の こう言っていいなら、ひたむきな恋のなせる技だ。
でも。 。
「風間さん、正直に言ってもいいですか。私、なんだか怖いんです」
「怖い?」
「…………」
膝をつき、両手を墓前に合わせたまま、しばらく志津子は自身の感情を噛みしめていた。
もし、門倉雅がこの事件に噛んでいたとして、それを知って、果たしてどうなるのだろう。いったい誰が救われるのだろう。
風間には悪いが、まだ、衝動的な殺人であったほうが、救いがあるような気がする。確かに結果に比べて罪が軽すぎるのには、赦しがたいものを感じるはするが。……
「わかりません。でも、こんなことをして、本当に小田切君は、目覚めることができるんでしょうか。それが……なんだか、判らなくなって」
風間は、静かな目で墓標を見つめている。
「僕、一人で行きますよ」
「いえ、それは」
「瀬名先生のお気持ちは判ります。それは、僕も同じですから」
「………」
ようやく志津子は気がついた。すでにそれらの葛藤を乗り越えた人に、無意味な質問をぶつけてしまったことに。
「先生……僕は何も、門倉雅の罪を糾弾したくて、こんな真似をしているんじゃないんです」
「え?」
風間の声が、風に流れた。
「今は上手く言えません……。説明したところで、判ってもらえるのかどうか。でも……そうじゃない、それだけじゃないんです。曖昧な言い方で申し訳ないのですが」
「どういうことですか」
「……いずれ……僕の中で、整理がついてからお話させてください」
「………」
眉をひそめて黙っていると、風間は慌てたように振り返った。
「あ、それ以前に、先生がもうこの件から手を引きたいと言われるなら、話は別ですけど」
志津子は、軽く息を吐いてから、起ちあがった。
「いいです。毒を食らわば皿までですわ。とことんおつきあいするつもりです」
「ど、毒ですか」
風間は心外な目になり、志津子は苦笑する。
そうだ、もう、事態は、小田切と門倉雅の接点探しにとどまらない。
門倉雅の前世の記憶。あさとと、そして永瀬海斗の夢の相似。突き止めなければならないことは、沢山ある。
「私だって、今さら後にはひけません。それに、色んなことが重なって、まだ整理できていないんですけど、後で聞いてもらいたい話もあるんです」
「なんでしょう」
志津子は、いたずらめいた眼で風間を見上げた。
「驚きますよ。……というより、私自身、まだ、驚きの真っただ中にいるんですが」
「え、す、すごく気になるんですが」
「帰りに話します。とても長くなりそうなので」
二人で連れだって、秋風が吹き始めた墓地を歩く。
フェンスの向こうに、場違いに高級な赤いイタリア車が停めてある。白い花束を持って降りる長身の男性に目をとめた志津子は、こんな共同墓地に と、訝しく目をすがめた。
「僕は、賀沢修二の行方を追っているんですが……そっちのほうは、さっぱりですね」
逆方向の信号を見ていた風間が、不意に呟いた。
「行方不明なんですか」
驚いて訊き返すと、風間は軽く息を吐いて頷いた。
「因果応報とでもいうんですかね。賀沢修二もそうですが、羽根田徹も所在不明です。賀沢は事件のあった翌年には両親が離婚して、一家離散状態になりましてね。……罪は逃れても世間の目ってやつが耐えられなかったんでしょうか。横浜のほうでフリーターのようなことをしていたというのが、所在が判る最後ですよ」
賀沢修二。
小田切静那を刺殺した少年。
志津子は眉を寄せている。
「彼、……見つけられたとしても、私たちに何か話してくれるでしょうか」
「どうでしょうかね」
風間は苦々しい溜息をつく。
「まだ、民事裁判の時効が残っていますからね。小田切でなくても、静那の実家で裁判を起す可能性がある以上、まぁ……うかつなことは、喋れないでしょうね」
「彼は、反省していると思いますか?」
「している人間が、遺族に謝罪もせずに、逃げ回っていると思いますか」
風間の声は冷めていた。
「ただ……僕は、彼が少しでも、人間らしい人生を送っていることを望みます。静那さんも、……あの人は、大げさでなく、例え殺されても教え子を怨むような人じゃなかった。絶対に同じように思っているはずですから」
風が、ゆるやかに頬を撫でた。
彼女の想いが、果たして賀沢修二という少年には届いていたのだろうか。
届いていてほしいと思う。志津子は目を細めていた。そうでなければ、あまりにもこの結末は辛すぎる。
「そうだ、あの少年はどうなったんでしょうか。ほら、広島の」
こみあげた気持を誤魔化すように、確認しようと思いつつ後回しになっていた件を、志津子は切り出した。
「琥珀君とあさとが発見された現場に、もう一人男の子がいましたよね」
十四歳、プライバシーを考慮してか、新聞報道では、名前は一切出てこなかった。
被害者の家族でもある志津子には、彼の名前だけは知らされている。
高崎守莉。
「事件とは無関係だったと。警察の方から私が説明されたのは、それだけだったんです。直接会いたいと言っても、住所さえ教えてはもらえませんでしたし。……もし、一課の方にご協力いただけるなら」
「……彼に、直接話を聞くことが出来れば、少なくとも、あの日起きた不思議な現象の説明はつくのかもしれませんが……」
風間は、眉間に皺を刻む。
「先生はご存知なかったですか」
「え?」
「彼、記憶を失っているんです。夏の間だけぽっかりと。だから警察の質問にも、何も答えられなかったそうです」
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