|
第五章 深淵を覗く者
1
ノックしても、返事はなかった。
扉を開けようとして、出入口の表示に目が止まる。
小田切直人様、真行琥珀様、瀬名あさと様。
「ってマジ? 男女で同室になっちゃったわけ?」
少し驚いて、ノブにかけた手が止まってしまっている。
そんなのってあり? てか、小田切直人って誰だろう。どこかで聞いた名前のような気がするけど。……
「ちょっと君、そこは家族以外、立ち入りできないよ」
渋面の白衣の医師が手を振りながら近づいてくる。「見えない? 思いっきり看板が出てるでしょ、面会謝絶」
もちろん、最初から見えている。
「いや、実は家族なんです。真行君の」
「えっ?」
「遠方に住む従兄弟になります。先日初めて、門倉さんから知らせを聞いたものですから」
永瀬海斗は適当なことを言った。
「そう? じゃはいって。琥珀君、なかなか見舞が来ないからね。よかったら度々来てやって」
医師の先導で、永瀬は病室に入った。
カーテンで、三区画にしきられた部屋。一番奥に、瀬名あさとが、それから真行琥珀、見知らぬ男と続いている。
ようやく永瀬は思い出していた。そっか、小田切直人。現場に最初に踏み込んで、意識不明になったっていう刑事の名前だ。
しかし、なんだって、三人一つの同部屋なんだ?
「男女の同室って、ありなんですか」
カーテンを開こうとした医師に、永瀬は訊いた。
「普通はないよ。でも彼らは特別だから」
「はぁ」
「門倉さんから、説明受けてないかな。三人の脳波を、同じ条件で調べる必要が出てきてね。しばらくの間、三人並べて経過を見ることになったんだよ」
「へー……」
脳波を調べる? そりゃまた、いったいなんのために。
医師は、真行琥珀のベッドを覆うカーテンを開けると、傍らの機械の表示画面を確認した。
「変わりないね。じゃ、何か変わった事があったら、コールして」
医師が出ていった途端、部屋の中から人の生気がなくなったような気がした。
無機質に響く機械音。等間隔を刻むノイズ。
真行琥珀は、きれいな顔で眠っていた。
女顔だと幼い頃からからかわれ続けた片鱗が、目を閉じた寝顔にうかがい知れる。
長い睫、筋のとおった鼻、形のいい唇。髪が肩のあたりまで伸びているせいか、美しい 眠り姫のようにも見える。
「俺がキスして起こしてやろうか、びっくりするくらいディープなやつで」
半ば本気でそう言って、誰にもつっこまれない虚しさに気づいて肩をすくめる。
そして、ふと気付く。掛け布団から、細い腕がのぞいている。琥珀の腕 ? 永瀬はかすかに眉をひそめた。それこそ、驚くほど筋肉が落ちている。
過去十五年、竹刀を交えて一度も勝ったことがない相手。今なら容赦なく叩きのめせるんだろうな、と思い、寂しさにも似た苦笑が漏れる。
ずっと、嫌いだった。ずっと妬ましかった。そう、揚羽の言うとおりだ。
だから、瀬名あさとに固執していたのかもしれない。彼女自身に強い魅力を感じていたのも確かだ。でも、多分、それ以上に。
「瀬名が俺のものになったら、お前がどんな顔するだろうって、実はずーっと楽しみだったりしてたんだぜ。俺って性格悪いだろ。あ、知ってるか」
言葉が途切れた。
憎んでいるのか 愛しているのか、揺れる感情が、自分でもよく判らなくなる。
自称、親友でありながら、心の底ではずっとその存在が疎ましかった。消えていなくなればいい。そう思うからこそ、自分の一番近くにいてほしいという矛盾した感情。
「お前さぁ、今度目が覚めたら、優しくしてやれよ。瀬名ちゃんに」
永瀬は乱暴に、動かない琥珀の頬を拳でこづいた。
「なぁ、琥珀、お前は覚えてないだろうけどさ。三年前も、俺はわざわざお前を見舞ってやってんだぜ。お前がいっぺん死にかけた時。そん時、なんつったか覚えてないだろ」
琥珀は目覚めたばかりで、まだ、会話もおぼつかない状態だった。
医師の許可を得て、わずかな会話を交わしたのだが、後日、琥珀はその日の話した内容を、きれいさっぱり忘れていた。不思議な気がしたが、それも、記憶障害のひとつだったのだろう。
(三途の川っていうより、森の中だな。目が覚めたら雅がいたんだ。……そうだな、今の雅じゃない、まだ、ちっちゃかった頃の雅だ)
門倉雅を語る時、さすがにその瞳には苦渋の色が滲んでいた。
(雅が、俺を連れてってくれるんだと思ったら、不思議なくらいほっとした。そしたら……声がしたんだ)
誰の、と永瀬は訊いた。
(瀬名の声だった。瀬名が、俺を呼んでくれたんだ。びっくりした。こっちに来てんのかと思って、慌てて目を開けたら、その瞬間目が覚めた)
(……夢かな、でも、夢じゃないような不思議な気がした……あれは、なんだったんだろう)
「なぁ、琥珀」
永瀬は琥珀の前髪を、そっと弾いた。
「お前にとって、瀬名ちゃんは、かけがえのない光なんだ。早く、そのことに気づいてやれよ」
2
「ええ、そういうことです。お手数をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします」
そう言って、瀬名志津子は電話を切った。
溜息が漏れる。前夜からの疲れが、指の先まで蓄積している。
「びっくりした、先生、ご存知でした?」
声と共に診療室に駆けこんできたのは、恩田佳織だった。
「って、知らないわけないですよね。あさとちゃんと小田切先生、真行君、みんな同室になっちゃったんですか」
「そうなの」
椅子に座ったまま、志津子はもう一度、溜息をついた。
「夕べ、脳神経外科の喜谷教授からお話があってね。一緒にして、しばらく様子がみたいって言われるから」
その件では、正直、まだ頭が混乱している。
(どうもね、不思議なんですよ。瀬名先生)
首をかしげながら、喜谷は脳波の電磁記録を志津子に示した。
(この三人の脳波にね、時折不思議な一致が見られるんですよ。例えばこの振幅、ほら、全く一緒でしょ? 殆ど同時刻に激しく震えて、しばらくかなりの大きさで揺れて……また、同じ瞬間に、元にもどる。これは、あさとさんと、琥珀君の脳波において、最も多くみられた現象ですがね)
(小田切君とあさとさんの脳波にも、同じようなことが、再々起きている。琥珀君と小田切君にも、たまに、似たようなことが起きている。これは……一体、どういうことなんでしょうかねぇ)
聞きたいのはこっちの方だ。
もしかして。 。
志津子は、喉元まで出かかった答えを理性で留めた。
それは、三人が、どこかで共通した夢を見ているから ?
(とにかく、昏睡に陥っている原因もわかりませんし、非常に珍しい症例ですから、しばらく経過を見てみたいんですよ)
喜谷は最後にこう締めくくった。
(それが、目覚めを誘導するきっかけになるかもしれませんしね)
「そう言えは、あの刑事さん、最近来なくなりましたね」
恩田佳織の声で、現実に引き戻される。
「刑事さん?」
「ほら、あのでっかい人、ちょっと感じが阿部寛に似てなくもない」
全然違うし、と、志津子は吹き出しそうになっている。恩田佳織は唇に指をあてた。
「来ると長くなるから、うざったいなぁ、と思ってましたけど、来ないと拍子抜けするというか、ちょっと寂しいですね」
「そうね」
まぁ、寂しさまでは感じないけど。
「なんか、真面目で気が弱そう。ああいう刑事さんもいるんですねぇ」
あの人、刑事じゃないのよ。
そう言おうとして、やめた。説明するのも面倒な気持ちになっている。
「……先生、最近なんか、おかしくありません?」
黙っていると、ためらったような声がした。志津子は無言で、机の傍に立っている佳織を見上げる。
「昔の診療記録を調べたり、あちこちに電話をかけたり……。一体、何をなさろうとしているんですか」
佳織は 不安そうな目をしている。
明るく振る舞っていても、彼女なりに、何年も連れ添ったドクターの異変を感じ取っているのだろう。
確かに、心配されるのも、最もだった。自分でも、馬鹿なことをしていると思うし、動機を口にすれば、ますます恩田は不安になるだろう。
「ねぇ恩田さん、前世って、信じる?」
それでも、思わず、呟いてしまっていた。
「前世? 前世ですか? 信じるも、何も……あれは、患者が無意識下で作り上げた架空の世界で」
言いかける佳織を、志津子は手で制した。
「わかってる、わかってるんだけどね。……でも、アメリカで行われた前世療法の記録を見ていると、理屈じゃ通らないことも沢山起きてるのよ」
「はぁ」
「別の人に、それぞれ異なった場所で退行催眠をかけた結果、同じ前世の記憶を共有していたとか。絶対に本人は知り得ないはずなのに、何百年も過去に実際に起きたことを、催眠状態で言い当てたとか」
「まぁ、それは、そうなんでしょうけど」
「そうね、それはごく稀な例……本人に、何か特別な霊感があったのかもしれない。でも、だからこそ、ひょっとしたら、前世って、本当にあるのかもしれないって思ったりするのよ」
「……先生、少し休暇をとられたらどうですか」
恩田の言いたいことは判っている。実際、疲れているのかもしれない。
それとも、……風間の妄想が感染したのか。
「そうね……」
志津子は、微笑して立ち上がった。
「あさとの部屋へ行ってみるわ、午後の診療までには戻るから、電話があったら、掛けなおすと言っておいて」
3
エレベータを降りた時、いつも閉ざされている扉が、微かに開いているのに気がついた。
誰か、部屋に……?
昼休憩だから、回診ではないだろう。むろん、勤務中の夫であるはずがない。
だとしたら門倉祥子だろうか、篤志かもしれない。
志津子は、扉の隙間から、中を窺った。
すぐに、見覚えのある横顔が、視界に飛びこんでくる。
あの子は。 どこかで会った、そうだ、あさとの見舞に、以前家まで来てくれた子だ。
背が高くて、手足が長い。彫りの深い、日本人離れした端正な顔立ち。
ベッドの傍に立ち、真行琥珀の寝顔を見つめている。不思議なくらいの熱心さで、わずかな身じろぎさえせずに。
その姿に、一種異様な迫力を感じて、思わず一歩踏み出してしまっていた。
「……あ」
志津子の気配に気づいたのか、男の横顔が、わずかに狼狽してこちらを見る。
「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
後ろ手に扉を閉めながら、志津子は青年の傍に歩み寄った。
「以前、あさとの見舞いに来てくれた方よね? あの時はばたばたしていてごめんなさい。えー、確か」
「永瀬です。あの、ご記憶にないかもしれませんが、瀬名さんとは同じ道場でした」
「ごめんなさい。仕事が忙しくて、娘の試合を見ることなんてなかったから」
固まる永瀬の傍をすり抜け、志津子はあさとの周辺を覆うカーテンを開けた。
「今日は? 琥珀君のお見舞い? よく中に入れたわね」
「は、はぁ……」
うつむくと睫が長い。綺麗な顔は、女に生まれたらかなりの美人になるだろう。
「あの……、瀬名さんの、お母さん?」
「はい?」
どこか思いつめた口調を訝しく思いながら、志津子は問いかけに笑顔で応じた。
「確か……精神科の、先生、ですよね?」
「? ええ、それが何か?」
青年の形良い唇が、迷うように逡巡している。
「いえ……別に」
が、そのまま唇を閉じ、永瀬は少し照れたような顔つきになった。
「その、門倉雅さんは、どうして一緒じゃないのかな、と思いまして」
「……?」
それと自分の職業に何の関係があるのかしら? 不思議に思いながらも、質問には丁寧に答えた。
「雅ちゃんは、発見されたのが遅かったせいもあって、別の病院に搬送されたの。そのまま、搬送先の病院で集中治療を受けているわ。お見舞いに行きたいのなら、病院を教えてあげるけど」
「え、いや」
とんでもない、と言った顔で、永瀬は慌てて両手を振った。
「…………」
「…………」
なんだろう。この気まずい沈黙は。
彼は、私に何かを話したがっている。しかも、ひどく言いにくい部類のことを。
「あの、永瀬君」
志津子が口を開きかけた時、迷いを振り切るように、彼はいきなり顔を上げた。
「あの、俺の話を聞いてもらえないでしょうか! せ……、瀬名、あさとさんのことで」
あさとの……?
「実は今日も、そのことで来てみたんです。でも外来で受診するのもどうかと思ったし、……えっと、そもそも、どこから話していいのか。あのですね、最初に言っておきますけど、俺は決して頭がいかれてるわけでも、妄想癖があるわけでもないですから。最初は……そうだ、あさとさんから、夢の話を聞いたんです!」
永瀬は堰をきったようにまくしたてる。さすがに志津子はたじろいだ。
「ちょっと待って、あさとの、夢の話ですか?」
「そ、そう夢です。今思えば、それがきっかけだったというか、……その、なんて言っていいかわかんないんだけど」
永瀬は再び口をつぐむ。この先を話をすべきかどうか、迷って逡巡しているように見える。
夢 脳波の一致。ふと、喜谷教授の言葉がよみがえる。偶然にしては、できすぎた符合のようにも思われる。
志津子は、表情を改めて促した。
「永瀬君、よかったら場所を変えて話しましょう」
「お母さんはご存知でしたか。瀬名が、不思議な世界の夢を、繰り返し見ていたことを」
志津子を遮るように、永瀬が言った。
思いつめた瞳には、それでも、ふっきれたような落ち着きが宿っていた。
「あいつ、自分がどこかの国のお姫様になった夢を、繰り返し見るって言ってたんです。国の名前はイヌルダ。……そう、イヌルダ。それで、間違いないと思うんですが」
え?
「女王の母親と、父親、それから妹がいて……まるで、西洋史のお城みたいな宮殿で生活していたそうなんです。それから、婚約者がいて、アシュラルって名前の」
「ちょっとまって、永瀬君」
頭が、ただ、混乱する。
「それは、なんの話なの? 雅ちゃんの話ではないの?」
永瀬のきれいな眉が、訝しく寄せられる。
「雅……? いいえ、瀬名が、自分で見た夢だって言ってましたけど」
「…………」
どういうこと?
「……少なくとも……瀬名の話の中には、門倉さんは出てこなかったように思います」
妙に歯切れの悪い言い方だった。志津子から眼を逸らし、永瀬は続けた。
「夢の中の瀬名は、婚約者のアシュラルが大嫌いだったんだそうです。でも、嫌いな理由はよくわからないらしくて。……それから、ある時、城に謀反か何か、とにかく重大な事件が起きて、命からがら逃げ出すことになって」
志津子は鼓動が高まるのを感じていた。
どういうこと? これは、どういうことだろう。
符号している、完全に。門倉雅が残した記号文字のノートの文章と。
「瀬名の逃走を手伝ったクシュダーラという女性が、そのために殺されてしまって……それで、瀬名は一人で逃げて……、まぁ、そんな感じの夢を、何夜にも分けて、ずっと見続けていたそうなんです」
何も言えなかった。ただ呆然と、永瀬の顔を見続けていた。
理由がつけられるとするなら、雅ちゃんから、前世療法の話を聞いたとしか思えない。それか、あの文章を事前に目にしていたか。多分 どちらか、だ。
「で、あの、それでですね。こっからが俺の本題っつーか」
「それは」
今度は、志津子が永瀬を遮っていた。「あさとが、自分で見た夢だと、そう確かに言ったのね」
「? ええ、もちろん」
志津子の反応に、永瀬は不思議そうな顔をしている。
「瀬名……、夢を見るのが気持ち悪いって、すごく不安そうに言ってました。なんでこんな夢を見るのかわからないって。笑いで誤魔化そうとしてたし、俺も誤魔化したんだけど、……眼が真剣で、少し怖かったのを、よく覚えていますから」
「………」
あさとは、絶対に虚言、妄言を吐くような子ではない。
だとしたら……では? 何故? 本当にあさと自身がその夢を見たとして そんなことが、果たしてあり得るのだろうか。
イヌルダは、門倉雅の前世にしかない世界なのに。
「永瀬君、その……夢の中の、あさとの名前なんだけど、何か聞いた?」
「瀬名、自分の名前だけは思い出せないって言ってましたから……僕には」
永瀬は首をかしげたが、その言い方もまた、妙に歯切れが悪かった。
もしかして、クシュリナ姫なのではないだろうか。
でも、そんなこと 判らない。あるはずがない。
もし、仮にあさとが、イヌルダの夢を見ていたとしても、クシュリナ姫は、門倉雅でしかあり得ないのに。
「婚約者の名前が、アシュラル?」
志津子は咳き込むように聞いていた。
「……はぁ」
永瀬は、多分気おされている。
「ラッセルとか、シーニュとか、ユーリとか……そういう単語、他には出てこなかった?」
「………」
「クシュリナって名前、……出てこなかった?」
「………」
「……永瀬君?」
端整な永瀬の顔に、血がのぼっていくのが判った。
志津子は眉をひそめ、永瀬の次の言葉を待った。
|
|