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「新宿歌舞伎町には、……いや、巨大な利権が絡んだどの街もそうなのですが、街を支配するボスのような存在が必ず一人や二人いましてね。歌舞伎町など、一見無法地帯に見えますが、実は闇社会のルールというのが、いくつも存在しているんです」
 暗い風間の声が、陰鬱な空気をますます重くする。志津子は立ち上がって、暗くなった空を隠すためにカーテンを閉めた。
「ルール、ですか」
「ええ、破った者は非道い目にあわされ、二度と街に足を踏み入れることができません。ボスというのは表向き不動産会社や風俗産業の社長やらで、いってみれば闇の自治会長のようなものですが……もちろん堅気の連中じゃありません」
 ヤクザ   、つまりは、そういった類なのだろう。
 気付けば、互いの間で、コーヒーはすっかり冷たくなっていた。
「株式会社シージェンシーという会社の、長沼という男が、歌舞伎町の夜を支配する影の支配者です。五十過ぎの親父ですが、一時、十代の若い女をキャパクラから拾い上げて可愛がっているという噂がたちましてね。あくまで噂に過ぎませんが    その女が、歌舞伎町に屯する未成年たちのボスのような存在になった。女の通称はマリア。ふざけた名前ですが、ルールの総締が長沼なら、長沼から未成年部門を任されていたのがマリアだった……ということになるのでしょう」
 一拍置き、風間は軽く息を吐いた。
 志津子には、まだ、風間がどこに話を持っていくつもりなのか判らない。
「平成九年頃から十二年にかけて、マリアの名前は、当時、歌舞伎町を根城としていた少年たちには、恐怖を持って知られていました。薬と集団暴力、なにより恐ろしいのは、バックに長沼がついているという噂です。気に入らない連中は、マリアの取り巻きによって凄まじい私刑を受け、女性ならば、集団レイプされたとも言われています。けれど、……平成十二年の初め頃でしょうか。マリアはぷっつりと、歌舞伎町から姿を消したんです」
「消えた……んですか」
「僕のいる新宿署では、マリア担当とまで言われた刑事がいましてね。なにより長沼を通じた薬の密売ルートを知っている可能性がありますから、やっきになって、その素性を探ろうとしていたんです。が、結局本名も住居も判らないまま、マリアという女は、唐突に消えた。彼女の取り巻きたちも同時期に消え、二度と街には戻ってこなかったと言われています」
「それで」
 少しだけ焦れて、志津子は先を促していた。「そのマリアという女性と、長山加奈子さんの暴行事件は、どう関係していたんですか」
 風間は暗い目をあげた。
「結論から言えば、一緒だったんです。門倉雅の時と」
「え?」
「早朝、歌舞伎町の路上に倒れているところを発見された長山加奈子は、明らかに集団暴行を受けた形跡があり、当初、マリアの犠牲者だとばかり思われていたそうです。が、所持品からは覚醒剤が見つかり、本人にも依存症の兆候が明らかだったことから、病院で緊急逮捕となりました。取り調べでは、複数の男に襲われたことは認めたものの、相手や理由については一切覚えがないとの一点張りで……結局、覚醒剤取締法違反で実刑を受けて刑務所に送られました。それが、平成十二年の夏のことです」
 どういうことだろう。志津子は眉をひそめている。その加奈子を襲わせるよう、教唆したのが、門倉雅なのではなかったか。
 風間の眉が、苦悶したように歪む。
「翌春、小田切は一課に配属なりました。夏……七月頃だったと思います。新宿署に乗り込んできた奴は、思わぬことを切り出したんです。服役中の長山加奈子こそがマリアではないかと。マリアの人相、特徴、目撃証言等を再度本人と突き合わせて再検証するように、当時の担当刑事らに指示したんです」
「………」
「うちの連中は、そりゃ激怒しましたよ。小田切はキャリアとはいえペーペーで、しかも長山加奈子が路上で保護されたのが平成十一年の秋のことです。マリアが平成十二年の春頃まで新宿に君臨していたのは、確かな目撃者や証言がありますからね」
 結論から言えば、一緒だったんです。門倉雅の時と。
 風間の最初の言葉は、何を意味していたのだろう。
 志津子は、軽い寒気を感じている。
「それで……小田切君は」
「……マリアは、交代しているというんです。平成十一年の秋の時点で」
「………」
「つまり、マリアを襲わせたのは、もう一人のマリアなんです。被害者と加害者が同一通称だった。もう、お判りだと思いますが、二番目のマリアが……門倉雅です」
 
 
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「もちろん、捜査はすんなりとはいきませんでした。というより、誰一人耳を貸そうともしなかった。刑事ってのは、ある意味プライドの塊みたいなものですからね。持論を変えさせるには相当しっかりした証拠を突きつける必要がある」
 当時のことを思い出したのか、風間は苦い笑みを浮かべる。
「以来、小田切は新宿署では蛇蝎以上の嫌われ者になりましてね。軋轢やごたごたも、随分あったと聞いています。そんな中で、……奴はよくやったと思いますよ。……一人でこつこつと証拠を集め……それでも、マリアの正体が奴の推論通りだということを周囲が認めたのは、二年も後の話になるのですが」
 言葉を切った風間は、姿勢を低くしたまま志津子を見上げる。
「結論を言えば、全て小田切の読みどおりでした。歌舞伎町の『マリア』は、ひそかに交代させられていたんです。長沼の縄張りの中で、未成年者を統括するという役割とともに。つまり長沼は、長木加奈子を捨てて、門倉雅を選んだんですよ」
 雅ちゃん……いや、違う。あの頃の門倉雅は、『マァルちゃん』だった。……
 志津子は、茫然としたまま、風間の暗い目を見つめる。
 そもそも門倉雅は、どうやって強姦教唆を成し得たのか? 彼女の立場で、加害者集団をどうやって集めえたのか? それらの疑問が、全て解けたような気がしていた。
 それでも、まだ信じられなかった。あの雅ちゃんが……門倉家の一人娘が、闇組織の一員になっていたとは。……
「雅ちゃんが……二代目のマリアだと、警察の方々が、そう確信した理由は、なんなんです」
「……最終的には、当時マリアの近くにいた少年たちの証言です。最も、後日、その証言は全て翻されていますが」
「…………」
「彼らの証言を信じれば、長山加奈子には、一時期、とても可愛がっていた恋人がいたんだそうです。体格は大人並、けれど、まだ中学生で……、かなりの美少年だったそうです。仲間内では、その少年はコハクと呼ばれていたんだとか」
「琥珀?」
 志津子は声を荒げていた。「琥珀って、もしかして、真行琥珀君のことですか」
「人相や、衣服の特長、やたら強かったこと、彼が学校を休みがちだった時期と一致することから……間違いないと思います」
「…………」
 言いにくいのか、風間は苦しげに言葉を途切れさせた。
「琥珀君が一時期荒れていたと、門倉祥子も言っていますね。正確に言えば、その時期は、平成十一年の六月頃から八月の終わりにかけてです。琥珀君は、その間、どうも長山加奈子とつきあっていたようなんです」
「待ってください。それは、本当の話なんですか」
 驚きを飲むようにして、志津子は訊いた。琥珀君が    あの、真面目で穏やかな少年が。
「本当です。警察も、一時は本人への事情聴取を検討していたくらいです。結局は全てが流れてしまいましたが……。いずれにせよ、門倉雅がグループに接触したきっかけは、そもそも琥珀君が連中の仲間だったからだと推定できます」
「流れて……しまった、とは」
 まだ、信じられなかった。信じられないままに、志津子は質問だけを無感動に続けた。
「本格的に捜査を始めようとした矢先に、門倉雅さんが、暴行事件にあわれたからです」
「…………」
 三年前の    あの事件だ。
「琥珀君は生死を彷徨う重症を負い、門倉雅に至っては、過去の記憶を無くしてしまった。が、そこで警察が……ますます門倉雅への嫌疑を強める原因となった事柄がひとつだけあったんです。それが、門倉議員が法務大臣を通じて行った、捜査の中止要請でした」
「………」
「議員は、事件以前に娘が捜査の対象になっていることに、予め気付いていたようでした。全ては推測の域を出ませんが、当時小田切が見つけた証言者が、証言を全て撤回したのも、議員の圧力がかかった直後です」
 さすがに、言葉が出てこなかった。
 門倉雅の病状について、風間がしつこく演技ではないのか、と訊いたのはそのためだ。
 もしや、あの事件は娘が狙われていたのではないか    母親のカンでそこまで察したのは志津子だったが、それ以上の裏があるとは、さすがに想像もしていなかった。
「それでも、小田切一人は粘ったんです。奴は単独で実行犯と思しき少年を補導し、暴行の指示を受けた携帯電話のアドレスから、なんと、当の門倉雅本人のアドレスを割り出したんですよ。マリアの時と同じです。つまりこの事件も、被害者と教唆勘犯が同一人物だったんです」
「それで……」
「それだけでした」
 風間は苦く、首を横に振った。
「捜査本部は確かに騒然としましたが、……メールの内容が即犯行を意味しているかといえば、これまた曖昧でね。しかも、少年はすぐに自供を翻したという話で……小田切の勇み足だということで、全ては終わってしまいました。そもそも、奴がどう頑張ろうと、実際無残な私刑を受けたのは門倉雅さんなんです。彼女の痛々しい姿のほうが……捜査員には、胸に響いたんだと思います」
「………」
「なのに小田切は……逆風に逆らい、悪あがきのように真行琥珀につきまとい、暴力まで振るった。大分への異動で済んだのは、警察幹部の門倉議員への、精一杯の抵抗だったのかもしれませんね」
 
 
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「門倉雅が、どういった経緯でマリアの座を奪ったのか、それは、未だに判らないのですが……、少なくとも、長山加奈子を、私的に恨んでいたことだけは確かだと想像できます。なにしろ、相手は恋敵ですから」
 風間の言葉が、無意味に耳に流れていく。
(琥珀さんにも……判っていたんでしょうねぇ。……私もようやく気付きました。「マァルちゃん」は、雅にとっての邪魔者が許せないんです。私が最たるものでしたが、同時に、琥珀さんに近づく女も許せないんです)
 門倉祥子の供述どおりだったとすれば、そして、もし本当に雅門倉が二代目マリアとして暴行教唆をしていたとすれば、動機としては、あさとの時と同じだったと言える。
 組織としての制裁ではなく、女としての恨み、常識ではありえないほどの凄まじい嫉妬。
「先生、お気持ちが重いのは判りますが、まだ、続きがあるんです」
 そう言う風間自身が気が重いのか、男は、太い溜息をついて続けた。
「一代目のマリア……つまり、長山加奈子には、ボディガードのように連れ歩いていた男が数人いたそうなんです。そのリーダー格だったのが、通称クロ。どぎついメイクにカラーコンタクトをしていましたが、色白のハンサム系で、非常に頭のいい狡猾な男だったそうです」
 志津子は黙ったままで相槌を打つ。もう何がでても驚くまいと心の中で決めている。
「キレやすく、仲間内では強権を持って知られており、クロが、マリア交代劇を裏で指示したとさえ言われています。実際、クロは、二代目マリアに犬のように従順で、彼女のためなら人殺しも辞さないと豪語していたほどだったとか」
「……それで」
「そのクロは、平成十一年の終わり頃から、ぴたっと街に姿を見せなくなっています。翌年の春にはマリアも消え、当時の取り巻きたちも、全員行方をくらませました。が、そのメンバーの中で一人だけ、小田切が執念で素性を特定した男がいたんです。羽根田徹……通称ホセ、国籍は日本ですが、ブラジル人とのハーフです。覚えていますか。静那さんが殺された夜、賀沢修二と一緒にいた男です」
「………」
 志津子は、自身の袖を握りしめた。
 初めて、見えない糸が繋がった気がした。
「羽根田ことホセが、マリアの取り巻きの一人だとみると、偶然にも、クロの人相とは、賀沢修二にそっくりなんです。長身、色白、頭脳明晰、唇の端にある黒子の位置まで同じです。普段は髪を逆立てて白のコンタクトをしていたと言いますから、印象は別人だったかもしれませんが……、もし、そうであったとしたら、どう思いますか、先生」
「どう、とは」
「長山加奈子が街を追放されたのが、十一月、……静那さんがあの街で殺されたのが、同じ年の十二月の終わりです。丁度、クロが街から消えた時期と一致している」
「………」
「クロが、賀沢修二だったとしたら? クロは二代目マリアにぞっこんだったと言われています。もし、賀沢修二の犯罪に、マリアがなんらかの指示を与えていたのとしたら?」
「待ってください」
 志津子は、たまらず立ち上がっていた。
「マリアが……、いえ、雅ちゃんがマリアで、賀沢修二がクロであったとしても、そんな推理、荒唐無稽にすぎますわ。どう考えたってこじつけです。どうして彼女が、同じグループの一員だったというだけで、小田切君の奥さんの殺害に関与しなければならないんですか」
 あり得ない。賀沢修二の個人的な恨みならともかく、どうしてそこに無関係の門倉雅が出てくるのか。どう想像しようにも、確たる理由が見つからない。
「確かに今は、静那さんと門倉雅の繋がりを示す証拠は何もあがってはいないんです。賀沢修二にしろ、門倉雅の名前は一言も口にしない。でも何かがなければ……」
 風間は唇を湿らせた。
「どうして小田切が、最初からずっと門倉雅にこだわっていたのか、その理由がわからない。でも僕は、ロムに書かれた文章を見て確信しました。小田切と門倉雅には、やはり、過去になんらかの接点があったんです。そうとしか思えない。僕はそれを、どうしても調べたいと思っているんです」
 
 
 
 
 

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