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 窓が風で鳴っている。
 沈思していた風間が、かすかに唸った。
「そうしてみると、人の精神とは、本当に怖くて、不思議なものですね」
「言い方は俗ですけど、海より深い、とでもいいますか。まだ人類にとっては未知の領域なんじゃないでしょうか」
 頷きながら、志津子は続けた。
 前世が本当にあるかなんて、実際には誰にもわからない。
 本人があると思えばあるのだろうし    そういう意味では、門倉雅の前世は間違いなく存在するのだ、彼女の精神という小宇宙の中に。
「精神科医の私が言うのもおかしいですけど、人の心の深淵ほど、恐ろしいものはこの世にないと思います。よくね……タクシーに乗ったりするんですけど、ちょっと怖くなることがありますよ」
「タクシー、ですか?」
 風間はコーヒーを口に持っていったまま、きょとん、とした顔になる。
「ええ、私は今、とんでもない怪物と一緒にいるのかもしれないって」
「………」
「風間さん、私だって、何を考えているか判りませんよ」
「えっ」
「冗談ですよ」おののいた風間を横眼に、志津子は笑った。風間はコーヒーにむせたのか、ひどく咳き込む。
「ひどいなぁ……。それで、前世療法っていうのは、何か特別なやり方でもあるんですか」
「基本は退行治療と同じです。催眠状態にして、その人を問題の原因時の年齢まで遡らせて……前世療法の場合、それが前世の自分になるんですけどね。問題の原因を本人に気づかせてやって、開放するか、または原因そのものを書き換えてやるんです」
「書き換え、ですか」
 風間は不信気に重ねて聞いた。「それは、記憶を書き換えてやる、という意味ですか」
「言い方は極端ですけど、まぁ、そういうことです」
「そんなこと……逆になんか、怖い気もしますねぇ」
 風間は、以前来た時よりも、大分リラックスしているようだった。志津子は続けた。
「ケースバイケースなんですよ。例えば……理由もない強迫観念とかってあるでしょう」
「強迫観念、ですか」
「ええ、先端恐怖症とか、高所恐怖症とか」
「ああ、鉛筆の先でも怖いという、あれですか」
「それもね、何かの原因があって、その人にとっては怖いわけです。例えば何かの映画で、そういう場面を見たことがトラウマになっているなら、退行催眠でその原因を探って、そんなものは見なかったんだよ、と暗示をかけてやる。    それだけのことなんですよ」
「ははぁ……。その程度なら、まぁ、許されるような気もしますね」
「本人の人生に深く関わる事実を、全く別のものに書き換えるのは無理ですね。そこまで都合よくは行きませんから」
 志津子は、卓上のロムを取り上げた。
「このロムに記された文章は、間違いなく、雅ちゃんが、前世療法で感じた前世の記憶を書き綴ったものだと思います。ただ、どこまでが真実の記憶で、どこまでが雅ちゃんの創作なのか、その境界線が曖昧なんですけどね」
「三年前の前世療法の時の話と、内容的に違っているわけですか」
「……微妙というか、肝心な部分が違っていますねぇ」
 志津子は唇に指をあてた。
「例えば、父親の暴力……ロムの文章ではきっぱりと否定されてますけど、三年前ははっきりと暴力があったと言っていますね。母親に殺されそうになったこと、妹に軽蔑されていやがらせを受けていたということも、ロムの文章では否定されている。ラッセルに対する思いもきっぱりとあきらめた、とも書かれている。これも三年前の診療時と違っています。どことなく、話を美化している……そんな感じがしますね」
 誰かに読まれることを、意識していたのかもしれない。
 志津子はふと、そう思った。
 人は自分の体験を語るとき、無意識に自己を正当化してしまう。でも    誰に?
 こんなものを、誰に読ませるつもりだったのだろう。
「もともと門倉雅のノートは、暗号のようなもので書かれていたと言っておられましたよね。倉庫の壁に描かれていたような」
 志津子は訊いた。
「その通りです。が、さほど難解なものでもなかった。解読班に回したら、三日後には返されたそうですよ。基本は、先生も見抜かれた通りドイツ語です。その母音にあたる部分が、別の記号に置き換えられていた」
 風間は手帳を広げ、ポールペンで文字を綴った。
 A→Λ E→Ξ I→Г O→Θ U→Ψ
「ギリシャ字……? ロシア字も混じっていますね」
「さすがですね。その通りです。つまり、この法則でいくとGuten Tag 日本語で言う所のこんにちは、ですが、それはこうなる」
 
GΨtΞn TΛg
 
「本当、暗号みたいですね」
 志津子は眉を上げている。
「門倉雅は、ドイツ語の読み書きが堪能だという話でしたから、あるいは    書き遺したものを他人に読まれないように、そんな暗号を思いついたのではないかという話でした」
「…………」
 そうだろうか?
 むしろ志津子には、逆に誰かに読ませたくて書いたような印象が拭い得ない。
 暗号    一見不気味ではあるものの、少女らしい思いつきといえばそれまでだ。女の子同士の、交換日記? だとしたら相手は誰だろう。あさとには、ドイツ語なんて間違っても理解できないはずだ。
「ところで、風間さんは、ロムの何に引っかかって、わざわざ私に見せにいらっしゃったんですか」
 気を取り直して志津子は聞いた。
 まず、それが聞きたかった。この内容が、どう小田切直人の事件に関係しているというのだろうか。
 その意味では、読んでみて拍子抜けした。てっきり、事件や小田切のことが書かれていると思いこんでいたからだ。
 が、風間の表情は、わずかに翳った。
「……これも、親せきの受け売りなんですが、魂のグループっていうのがあるらしいですね」
「?……ええ、確かに」
 魂のグループとは、何回も繰り返し一緒に、同じ年代、同じ場所に転生してカルマを果たしていく仲間たちのことで、ソウルメイトとも言う。
「前世療法でもよく見られますよ。前世の中に、現実に見知った顔が混じっているという現象です」
 前世の記憶が、人の深層心理が作り出した仮定の世界ならば、ある意味それは当然の現象ともいえる。
 結局は、現実での実体験を過去世に移し変えただけのものなのだから、当然、知人の顔も投影されることになる。
 実際、アシュラルとラッセルは真行琥珀によく似ているらしい。
「そうです、それで、僕は」
 風間は、少し、言いにくそうな顔をした。
「僕は、この中に出てくる、ラッセルというのが……、小田切じゃないかと、思ったんですよ」
 
 
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 一呼吸おいてから、志津子はようやく声を出した。
「は?」
 目の前の男が何を言っているのか、意味がわからなかった。
「……ええとですね」困惑したように風間はしきりに頭を掻く
「僕はカルトでもなければ、妄想癖があるわけでもないんです。ただ、偶然にしては出来すぎているな、と思いまして」
 志津子は半ば呆れて肩をすくめる。
「何がでしょうか?」
「ラッセルの妻は妊娠しているところを殺害されていますよね。想像するだけで……相当残忍な殺され方だ。しかもそれは、クシュリナのせいだということになっている」
「………」
 志津子は眉をひそめた。ああ、そうか。   。
 顔形ばかりに拘泥していた。ラッセルもアシュラルも、真行琥珀によく似ていると思いこんでいたから。
 そういう見方もあったのだ。が、それでも風間の読みが的外れであることには違いない。
「でも風間さん、雅ちゃんが小田切君の奥さんの死を知っているとは思えませんよ。彼女が小田切君の人生を、ラッセルに投影させているのなら、少なくとも雅ちゃん自身が彼のことを知らなければ」
 そう、投影させようがない。
「だからですね、……知っていたんだと思うんですよ」
 風間は低い声になった。
「……え?」
「ひょっとして……現実でも、そういうことがあったんじゃないでしょうか」
「………」
「小田切の奥さんの事件、……ひょっとして、門倉雅が、何らかの形で関わっていたんじゃないでしょうか」
 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
 やがてそれを理解して、志津子は、笑うしかなかった。
「風間さん、想像の飛躍にもほどがありますよ」
「うーん、やっぱりそう思われますかね」
「確かに残忍な事件ではありますけど、類がないわけではありませんし……」
 妊婦が、殺されるというのは。
「それに、風間さん、重要なことをお忘れですわ。確か、小田切静那さんの妊娠は、関係者以外には伏せられていたはずですよ」
(恥ずかしい、鎖が髪にからんでしまって……)
 透き通るような肌、白い背中に滲んだ朱。モカの絵に重なった顔。    在りし日の小田切静那を思いだし、志津子は目を伏せていた。
 あの日から約二ヶ月後、彼女を凶行が待ちうけていたのだ。
 子供はまだ早いと思います。そう言った彼女は、逆算するとあの当時、すでに胎児を身ごもっていたことになる。
 事件当夜、小田切は知らなかった妊娠を、当人は果たして知っていたのだろうか。それとも知らないままにあの世に旅立ったのだろうか。少なくとも、小田切静那が産婦人科を受診した記録はどこにも残っていなかったらしい。
「静那さんの事件は、……彼女の受け持ちの生徒が、夜間の繁華街を歩いていたのを見咎められたことから、言い争いになって起きたのだと、聞いています」
「そうです。犯人は賀沢修二、十七歳。当時、高校二年生でした。スポーツ万能で頭もよく、学年ではトップクラスの成績だったそうです」
 志津子は目を見張っている。
 当然、未成年だった加害少年の個人情報は一般公開されていない。
「いいんですか、風間さん」
「先生にも守秘義務があるでしょう。僕のことを患者だと思ってください」
 あっさりと流し、風間は続けた。
「校内では随分な人気者で、男子のボス的存在だったそうです。が、評判の良さとは裏腹に、キレやすい、とか、得体がしれない所がある、との一部クラスメイトの証言もありましてね。父親は大蔵官僚、母親は産婦人科医、一人っ子だというのだから……まぁ、ある意味、孤独に育った部分はあったんでしょうね」
「………」
 志津子は無言で冷めたコーヒーを口にした。
 産婦人科医の息子が、妊娠中の担任教師を刺殺した。なんとも、因縁めいた皮肉に、胸苦しささえ感じてしまう。
「あまりいい話じゃないですよ。ここから先は」
「ええ」
 断ってくれた風間に頷きを返す。風間は苦い目のまま、続けた。
「父親の知恵と人脈でしょうが、少年には有能な弁護団がつきましてね。まさに死人に口なしってやつですよ。担任教師に見つかった賀沢は友人らと近くのカラオケボックスに逃げ込んだ。そこに静那さんが追いかけて行った。そこまでは、カラオケ店のアルバイトが証言しています。あとは全て、密室での出来事です。言い争いになって脅すつもりで肩に手をかけた、と賀沢は証言しています。すると、静那さんがバックからナイフを取り出した。……」
「室内には、もう一人少年がいたと聞いていますが」
 志津子は口を挟んでいる。風間は目を眇めたままで頷いた。
「いました。その少年が、事件の唯一の目撃者であり、証言が全ての決め手となりました。つまり……全ては賀沢の言う通りで、パニック状態になった静那さんの過剰防衛が、あの惨事を招いたということになってしまったんです」
「目撃者の少年の、素性は」
「羽根田徹という無職の少年です。賀沢とは、その日初めて知り合ったと言っていましたが……どうだかね。賀沢が出頭してきたのは翌日ですから、それまでに弁護士と口裏を合わせていた可能性だってある」
 志津子は、華奢で儚げだった静那の後ろ姿を思い出していた。
 深夜の新宿の繁華街。志津子ですら、あの街には迂闊に足を踏み込めない。少年とはいえ高校生なら、すでに肉体的には男である。あの弱々しい女性のいったい何処に、そんな勇気があったのだろう。
 それだけの勇気がありながら、何故、土壇場でナイフなど取り出したのか。いや、そもそも何故、教師がナイフを持ち歩いていたのか。
「凶器は、本当に静那さんが所持していたものだったんですか」
「………彼女が、前日、勤務先の学校の三年生徒から没収したものに間違いなかったそうです。かなり特長のあるバタフライナイフでね。それだけは確かだと、周囲の先生たちも証言しています」
「………」
「それでも、相手は身長百八十近い男二人ですよ。女一人で迂闊だったとはいえ、密室のボックスで静那さんが身の危険を感じたであろうことは十分に想定できる。もみあって彼女の腹部にナイフが刺さった……? あの体格差で、そんなことがあり得るんでしょうか、全ては生き残った二人の証言に過ぎないのに」
 風間の拳が机を叩く。彼もまた、生前の静那と面識があるのか本当に悔しげだった。
「審判の間……小田切君は、どうしていたんですか」
「表向きは、気丈に振る舞っていたように思います。審判の結果には、さすがに葛藤していたようでしたが、……静那さんが、熱心なキリスト教徒だったのは、ご存知ですか」
「……ええ、話だけは」
 わずかに頷きながら、志津子は、あの夜眼にした銀の十字架を思い出していた。
「静那さんなら、……どんな相手であろうと絶対に許すだろう。……小田切はそう決心して、審判の結果を飲んだんです。いや、こういったほうが適切かもしれない。当時の小田切は、少年を憎むというより、むしろ自分に絶対の責任があると思い込んでいたようなんです」
「………」
「その後、研修医もやめて行方をくらました小田切が、どこで何をしていたのか、今でも僕には判りません。が、……ひとつ確かなのは、戻ってきた小田切には、明確な目的ができていたということです」
「それが」
 志津子は思わず呟いている。
「警察官を志す道だったのだと」
「そうです。そして実際警察官になった奴が、異常な熱心さで追っていたのが、……賀沢でも羽根田でもない、門倉雅だったんです」
「………」
 風間の妄想に、引きずり込まれそうになっている。
 志津子は眉をしかめたままで、首を横に振った。
「風間さんの、発想の根拠は確かに判りました。それでも、それだけでは……やはり、想像の飛躍の域を出ませんわ」
「被害にあった長山加奈子が、かなりの悪女だったという話はしましたね」
 静かな声で、風間は続けた。
 六年前、門倉雅が、強姦を教唆したとされる女性である。志津子は、その事件についてはほとんどといっていいほど情報を得ていない。わずか十三歳だった門倉雅が、いったいどのような手段と経緯を持って犯行に及んだのか、想像さえできない。
「まずは、事件の詳細から説明させてください」
 風が、震えるように窓を揺らした。

 
 
 
 

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