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「どう思いました?」
 二日後、今度は診療時間の合間に尋ねて来た風間は、開口一番でそう聞いた。
 暑い日だったが、やはり彼は折り目正しくスーツを着こんでいた。なのに、どういう体質なのか、きれいな額には汗ひとつかいていない。
「正直言って、驚きました」
 ソファに背を預けながら、志津子は素直な感想を述べた。
「私が以前、雅ちゃんに行った催眠療法で……、確かに、風間さんのおっしゃった前世療法をやったことがあったんです。この文章は、トランス状態での彼女の発言内容とある程度一致しています」
「やはり、そうでしたか」
「しかも、これほど詳しい内容だとは……。正直驚きました。前世療法で私が聞いたものは、この内容のごくごく一部にすぎません」
 それより、さらに驚いたのは、風間の着眼点だ。
 志津子はあらためて、目の前に座る男の優しげな顔を見つめた。
「雅ちゃんの治療内容は一切公開していませんのに、このノートだけを見て、よく気づかれましたね。私が以前、前世療法を行ったことがある、と」
「ただの勘なんですよ」
 静かに答える風間の眼差しには、それでも、何か含みがあるような気がした。
「僕の親せきに、うつ病の子がおりましてね。心配した親が高名な精神科医を捜し歩いて、その中で、前世治療というのを、受けさせられたことがあるそうなんです」
 風間は、言葉を探すように眉を寄せた。
「うつ病自体は治ったんですが、その……治療で経験した前世ですか。その世界にどっぷりはまってしまいましてね。それで、色々……なんていうんですか、僕にも前世とやらの話を聞かせてくれるようになったんです。まるで小説のように物語スタイルにして、パソコンに打ち込んだものを、読ませてもらったこともあります。門倉雅のノートに書かれていた文章を読んだ時、その時の感じと、すごく似ていたものですから」
「なるほど」
「以前、門倉雅がセラピーを受けていたと聞いてピンときたわけです。もしかして、親戚の時と同じで、前世療法を受けたのがきっかけで、こんな形で自分の前世を書き記したんじゃないか、と」
 志津子は軽くうなずいて相槌を打った。
「確かに、前世療法をきっかけに、自分の前世はこうだったと……信じこむ人は多いですね。でも、ご存知かと思いますけど、前世治療自体は、実際に前世があるとか、ないとか、そういうこととは全く関係はないんですよ」
「そのようですね。僕には、曖昧な知識しかありませんが」
「あくまで、前世というのは仮定の世界なんです。本人が抱えている問題の原因を探るための、本人が作り出した架空の世界、とでもいいましょうか。それが本当に前世なのか、それとも空想なのかというのは、大した問題ではないんです、要は」
「現世での体験では説明しきれないトラウマを探るため、本人の深層意識が明らかになればいいわけなんですよね」
「そうです」
 志津子はうなずいた。「つまり妄想でかまわないわけです」
 多分、前世療法で導かれる前世とは、ほとんど全てが患者の妄想なのだ。志津子はそう思っている。
「どの時点で前世治療に踏み切るかというのは、非常にデリケートな判断が必要なんですけれど、雅ちゃんの場合、どうしても事件に触れない形で治療を進めていきたかったので、この方法をとってみたんです」
「それで、どのような結果がでたのでしょう」
 風間が、急くように膝を詰めてくる。
「ロムの内容とは、少し赴きが違っているんですけど」
 志津子はかすかに眉をひそめ、三年前、門倉雅に行った前世療法の会話メモに眼を落とした。さすがに、これをそのまま風間に見せることはできない。
「三年前の前世療法で聞き取った限りでは……非常に、……様々な要因が、彼女が語る前世に潜んでいるような気がしましたね。父親の暴力、母親から殺されようとしていたこと、妹と自分の婚約者との逢引、愛のない性行為、裏切りと破局。彼女は最後に、自分は海の底にいると言いました。多分……」
「海で、亡くなったということですか」
「そういうことになるんでしょうか。前世療法では、自分の死も再体験しますからね、ただ」
 志津子は言葉を切り、三年前の会話記録に視線を落とした。
 その、最後の箇所。
(海の底……)
(あなたは、死んでしまったということですか? 海で?)
(……ガラスの中……)
 ガラスの中。
 最後に発した言葉。その意味が判らない。ガラスの棺、ということなのだろうか。
「ノートの中でも、彼女は同じように、自分が死んだと書いていますね。婚約者にレイプされた後……ですか。そこで自殺でもした、ということになるんでしょうか」
 風間は口を曲げながら眉を掻く。
「まぁ、女性の心理はよく判りませんが、それほど、このアシュラルとかいう婚約者が嫌いだったんでしょうかね」
「どうでしょう、私はむしろ逆だと思うんですけど」
 志津子は、ロムからプリントアウトした文章を目で辿りながら呟いた。
「え?」
「まぁ、それは私の個人的な勘ですけど。いずれにしろ、彼女は死んだのでしょうね。この直後に」
「そのあたりは意味深な書き方ですね、それとこの最後の一文、それから私はいつも私をみつめている。……これはなんでしょうか?」
「さぁ……」
 志津子は首を傾げた。
 夕べもその一文がひっかかっていた。よく知っている言葉がどうしても出てこない、そんなもどかしさに似た気持ち。それがまだ、胸のどこかに引っかかっている。
「よくは判らないんですが、霊的なメッセージかもしれません。前世療法では、死後の世界で神に会う体験までも思い出すことがあるそうですからね」
 迷いながらも、志津子はそう説明した。
 
 
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 風間はソファに身を沈め、ネクタイの歪みを手で直した。 
「しかし、判らないな。前世ってのは本当にあるんですかね。僕はそんなもの信じないけど……いや、信じていないからこそ聞くんですが、ありもしない前世の記憶を、どうして催眠暗示で思い出せたりするんでしょうか」
「……不思議ですよね。人の心理はそれだけ奥深いということなんだと思います。私は、前世とは形を変えた現世だと思っています。その人の現実の生活が、形を変えて過去世に投影されているだけなんです。……言い返れば、その人自身の実体験にないものは、過去世にもあり得ないはずなんです」
「なるほど」
 何故か風間は、不思議な目になって頷いた。
「つまり、無意識に蓄積された実体験が、妄想の前世を形成する基礎になると、そういう風に捉えてもいいんですね」
「……さしつかえ、ないと思います」
 自分の持論はその通りだ。が、つきつめると、実際、志津子にはわからなくなる。
 前世は本当にあるのか? 人は本当に、前世の記憶を持って産まれてくるものなのだろうか。志津子は信じていない。信じてはいないが    そう信じざる得ない症例は、海外にはいくらでもある。
「それに、彼女が語る前世の世界は、今の地球上には過去、絶対にあり得ない世界ですから。空想だと思う以外に結論づけようがないと思います」
 自分に言い聞かせるように志津子は断じた。
 そうだ、過去世療法において、その過去世が本当かどうかなど、問題外なのだ。冷静にならなければ。
 風間は頷き、ひとつだけ咳払いをした。
「では先生は、門倉雅の前世の基礎になった事件とは、そもそもなんだとご判断されますか」
 事件?
 この人は、本当に今までの話を理解していたのかしら。そう思いながら志津子は丁寧に説明する。
「風間さん、ひとつの事件や事象に拘るのは賢明ではないと思います。いってみれば、人として体感した経験全てが基礎ですわ。例えば胎児の間でも、人は常に外部から刺激を受けています。母体を通じて色々な体験をし、それが深層意識に蓄積されていった可能性も否定できないですからね」
 風間もそれには、納得したように頷いた。
「確かに、……妊娠の経緯からして、普通の家庭とは違っていたようですしね」
「………」
 父親か。
 門倉雅の本当の父親は、志津子でも簡単に推測できたように、警察もすでに特定しているだろう。
 ドイツ留学が長く、厚志と憎み合っているとなれば、そんな男は一人しかいない。門倉家の先代で、戸籍上雅の祖父にあたる、門倉武典。
 確かに門倉雅は、その誕生の前から異常な世界にいたと言える。胎児に、もし、厚志の心が伝わったとしたら、それは憎しみか不安か恐れだったろう。   

 
 
 
 
 

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