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7
「………!」
夢だ、 また、夢を見た。
震えながら目覚めた永瀬は、こわばった指で、顔を覆った。
暗く静まり返った部屋。秒針だけが心音のように響いている。
生々しい血の匂いに吐き気をもよおし、キッチンに立って、コップに注いだ水を煽る。
ありえないと判っていても、手を繰り返し洗わずにはいられなかった。
激しい水流の音を聴きながら、意識はまだ、夢の世界に取り残されている。
あの男が死んだ。殺されたんだ。 俺が殺した……? いや、判らない。思い出せない。
モマとか、姫さまとか、ミタカとか、いろんな固有名詞がはっきりと出てきた。クシュリナ、グレシャム、エレオノラ……そして、クロウ。
記憶が確かな内に、ノートにでも残しておこうか。いやいや、冷静になれ、自分。そんなことして、いったい何の意味がある?
たかが、夢。夢なんだ、これは。 。
(不思議なんですよ。国名とか、人の名前とか、そういうのはよく覚えているんですけど、夢の中で自分がなんて呼ばれているのか……それだけが、どうしても思い出せないんです)
瀬名あさとの言葉が、不意に胸に蘇る。
「……名前……」
そういや、 夢で俺……、なんて呼ばれていたんだっけ?
永瀬は、前髪に指を絡めて眉をしかめた。
おかしいな。どうしてもそこだけ、思い出せない。
8
「どうして、抱いておしまいにならなかったの?」
躊躇いを遮り、胸の底に響いてくるような声だった。
ここは どこだろう。濃密な闇の中、この世の、どの場所とも違う気がする。
「……約束を、した」
呟くと、女はくすぐるように笑い、ほとんど息が触れるほど近くに唇を寄せてきた。
黒い紗と、白い指、杏の香を放つ女。
「あなたが、そんなにバカだとは思わなかった。いい、あなたはね、奇跡みたいな千載一遇の機会を、永遠に手放したのよ」
「俺に、そんな資格があると思うのか」
怒りが、声を荒げさせていた。「彼女は約束してくれた。俺にはそれで十分だ。どうしたって、俺には彼女を傷つけることなんてできやしない」
「あるのよ。あなたには」
怒りを帯びた低い声。女の片手が、首を押さえた。
「あなたには権利がある。まだ判らないの? あの女は、あなたの妻になるために生まれてきた女なのよ」
俺の……妻?
「あなたと、あの女は、天星と地星の運命。決して交われない一つの魂……だから、最初から肉親のように惹かれ、今も惹かれ続けているのよ」
運命論か? 何を似合わないことを言っているんだ、この女は。
呼吸が苦しかった。なのに、逆らえないままに、弱弱しく呟いた。
「今の俺に……クシュリナを幸せにすることなんて、絶対にできない。苦しめて不幸にする以外に、俺に、何がしてやれるというんだ」
「幸せ? なんて愚問」
喉を掴む女の指に力がこもる。気づけば壁に押し付けられていた。
「そんな弱いお気持ちで、本当に蒙真の王になれるとでも思っていらっしゃるの?」
女の拳が、肩ごしに壁を打った。
「奪うのよ! 壊して! 殺して! 裏切って!」
壊して、殺して、裏切って。
言葉の一つ一つが、重い鉛になって胸の底に撃ち込まれる。
「教えてあげるわ、……リ様。幸せなんてね、そうやって手に入れなければ、一生他人の庭にあるものに過ぎないのよ」
「………」
ヴェール越しに、女の唇が押しあてられた。
紗の布越しに交わすキスは、ただ唇を合わせるよりも、ひどく扇情的で甘やかだった。 腰に女の柔らかい腕がされる。やがて、頭の芯に暗い焔が揺らめき、気がつけば自然に唇を開いていた。
息遣いが乱れていく。
互いの熱を求めあい、それでも、境界を破れないもどかしさに、いつの間にか、女の身体を抱きすくめていた。
「君は……、誰だ」
「以前、名乗らなかったかしら」
それは偽りだ、しかし。
「それでも、君は……、俺が知っている、どの女とも、違う気がする」
女は嫣然と微笑した。
「これを持ってお行きなさい」
気づけば小さな薬瓶が、手のひらに載せられていた。
「これから、あなたの役にたってくれる薬のはずよ。そう、特に蒙真に戻ってからは」
女の手が、ゆっくりとヴェールにかけられた。白い顎がのぞいている。唇、鼻、どこかで見た。 。
ぞっと、その刹那、理由の判らない恐怖を感じて後ずさっている。
「私もあなたと同じよ、ユーリ様。愛する人の心と身体、全てを自分のものにしたいだけ。そのためなら、なんだってやってみせるわ。……」
「 !」
そこで、目が覚めた。
永瀬は、はっはっと荒い息を吐きながら、ほの暗い天井を見上げた。
あれから、また、眠ってしまったのか、俺は。
なんてこった、寝てしまった記憶さえない。そもそも寝られるような気分ではなかったのに。
心臓が踊り、全身が冷たい汗にまみれている。
顔、顔、夢の中の女の顔 それを見てしまうことにものすごい抵抗がある。
見てはいけない。心の何処かで、誰かが繰り返し叫んでいる。その女を見てはいけない。
馬鹿馬鹿しい!
髪をかきむしるようにして、永瀬は枕に顔を伏せた。
たかが夢じゃないか、くそっ……。
誰でもいいから、思いっきり横っ面を引っぱたいて欲しかった。今見たものが夢で、これが現実であるという確かな証が、今すぐ欲しい。
ユーリ……。ユーリ、夢の中の、俺の名前。
(奪うのよ! 壊して! 殺して! 裏切って!)
女の声が、耳元で囁く。それは、本能をえぐる声だった。
官能的なキスの余韻が、唇にも身体の芯にも残っている。
気が、狂いそうだ。 。
頭を抱え、永瀬は固く目を閉じた。
9
「お気づきになられましたか」
ここは……何処だ?
視界が徐々に鮮明になる。薄暗い空間、雪崩打つような振動、激しく前後に揺れる身体。
「………っ」
思わず呻いて、跳ね起きていた。途端に全身に、激痛が走る。
「まだ、動かれてはいけない」
ここ、は。
馬車の、中だ。……
しかも、かなりの速さで駆けている。
「もうすぐ洲境に出られますので、それまでご辛抱下さい」
前部席に座っている後姿が振り返った。黒いモスリンのクラパッド、長い白髪は後ろでひとつに束ねられ、三白眼の暗い目元は夜行性の獣を思せる。
クロウ。
聴かされた名前が本名かどうかは知らない。語られた素性が本当か、どうかも。
「お前が助けてくれたのか」
「あなた様が、私を必要とされましたので」
たいした皮肉だ。と、ユーリは思わず苦笑している。
金羽宮を脱出した時、確かにユーリはこの男を必要としていた。
が、三日間皇都を彷徨ったその最後の夜に、夜陰に紛れ、ユーリは男の傍から逃げ出した。
もう、血が流れるのを見るのは真っ平だった。ここまで来るのに、いったい男は何人の追手を屠っただろうか。
金羽宮では、少なくとも十人以上の騎士を斬殺している。皇都では、その倍の数を。夜、獣のように一人で行動する男は、場合によっては、さらに多くの血を流しているのかもしれない。
一夜を借りた宿で、ユーリの髪色を見咎めた主人が、パシクに通報しようとした時 クロウは主人のみならず、妻も娘も、宿に居た者全てを、腕に仕込んだ二本の凶剣で葬りさった。
まるで怪鳥が羽搏き、羽をおさめた時には、周囲全てが血の海に沈んでいたかのようだった。
同時にその夜が、ユーリの限界でもあった。
男の流す血が、自分までも汚してしまいそうで恐ろしかった。しかし、もうユーリ自身も、血濡れることでしか生き延びられない己の運命を自覚している。
「わざわざ逃げた俺を追いかけてきたのか、ご苦労な事だ」
「追いかけて来たというより」
死神は、再び前に向き直る。「最初から、ご同行させていただいていたのです」
「…………」
薄気味悪さで身震いがした。
追跡を振り切ったと確信していたのに、別れた後も、ずっと後を、尾けられていたということだろう。
「お一人で無理をなさいますな。先夜も危ないところでございました」
ユーリは黙って目を閉じる。
一人で目指していたのは青州だった。四方を海に囲まれた島国、蒙真に渡るには、直接イヌルダから航路を使うか、青州を経由するしか方法がない。
青洲は、いわずと知れたグレシャムの領国。鷹宮家の支配地である。
顔の知れたユーリが戻るのは危険だったが、密輸船がさかんに行き来している青州港のほうが、より安全に蒙真に入国できる。
髪は短く切り、炭で黒く染めていたが、目色だけは、隠しようがなかった。
どこかの時点で尾行が付いたのは察していたが、藍河の畔で、ついに金波宮の追手に囲まれた。
逃げ損ねて深手を負い、追い詰められたユーリは、河に飛び込んで捕縛を逃れた。が、当然ながら泳ぐだけの力はなかった。
暗い水の底に沈みながら、ここが俺の死に場所だろう、と、静かな覚悟を腹に決めた。 不思議と、恐怖も悔しさもなかった。
君が、俺を待っていてくれると言った……その言葉が、今も温かく俺の胸を照らしているから。……
「御命が助かったのは、紙一重の幸運だと思ってください」
クロウの、低い声がした。
ユーリは黙って、窓の外の月を見上げる。
幸運……、幸運、か。
「青州は今、主を欠き、機に乗じたコシラが各地に入り込んでおります。ますます道中は危険が伴いましょう。これからは、何があろうと、私から離れてはなりません」
「お前の力は、……借りたくない」
固い背もたれに身体を預け、呟くようにそれだけ言った。
わき腹と右足にひどい痛みがあった。違和感を覚えて指で触ると、頭には幾重にも布が巻きつけてある。多分、髪色を隠すためだろう。
「勘違いをなさらないでください」
いつもそうだが、抑揚のない声が返される。
「殺しているのは私です。あなたではございません」
「………」
「私が何をしようと、あなた様には、一切関係がないのです」
ユーリは鼻で笑っていた。
「詭弁だな、俺がそんなに単純にできていると思うのか」
「それでも、あなた様のご意思に関係なく、私は、あなた様の邪魔になる者は、一人残らず殺すでしょう」
「………」
「ただ、それだけのことなのです」
なんなんだ、こいつは。
いったい何が目的で、今、俺を護ろうとしてくれているんだ?
「それも、あの女の命令ってわけか?」
冷やかに言ったが、人形のような男の横顔は動じなかった。
「お前はなんだ? アリエスの末裔? 何百年も前に滅んだ神の血をひいてるってか? 冗談も休み休みに言え。じゃあ、なんだ? お前が仕えるあの女は何者で、そもそも何が目的なんだ」
風が、ごうごうと窓の外で鳴っている。
「私の主人とあなた様の目的は、最初からずっと一致しているのです」
「あの女の目的なんて、知るものか」
「もう一度よくお考えを。この先、お一人で三鷹家と渡り合うおつもりですか?」
「お前らもしょせん、俺を利用したいんだ。グレシャムを殺した奴らと……同じだよ」
いや……。そもそもこいつらが、グレシャムを殺した張本人なのかもしれない。
最初に飛び込んできた口髭の男。今にして思えば、罠を仕掛けるにしては段取りが悪すぎた。月がない夜は忌獣が出る。逃亡するには危険すぎる。
が クロウ、この男は、平気で闇夜を闊歩する。まるで彼自身が、忌獣の化身であるかのように。だから逆に、闇夜を選んだとも言える。
誰も……信じるものか。
唇を噛みしめ、ユーリは、自身の身体を抱き締めた。
この世界で、もう、信じられるのは、クシュリナだけだ。
彼女が俺を待っていてくれる。迎えに来るのを待っていると、 そう、約束してくれた。
その言葉だけで、俺はいつだって死ねるし、また、生きることもできるんだ。……
「終末の予言書を、ご存じでいらっしゃいますか」
「なんの戯言だ」
男は静かな声で続けた。
「あなた様が蒙真を追われた真実の理由は、あなた様が、青の年クインティリスの獅子に生を受けた王子だったからです」
「は?」
「獅子は二人生まれた……。いや、真実の地星こそ、地石を抱いて産まれたあなた様なのでございます。……後から生まれた故に、あなた様は悲劇に見舞われた」
「………」
意味がわからない。この男、何を言っているんだ?
10
薄暗い部屋だった。
まるで視界に黒の紗がかかったように、ぼんやりと滲んでよく見えない。
「さぁ、すっかり準備は整ってよ」
冷たい声 あの女の声。いや、本当にあの女の声なのか?
ここは、どこだ? そして何時だろう。気のせいだろうか 随分、時が流れてしまったような気がする。
「何を迷っていらっしゃるの。もう、すっかり薬が効いているから、心配しなくても大丈夫よ」
躊躇する足、心臓が鼓動を早めている。
「まさか、ここまできて、私を裏切ったりはしないわよね」
「……しかし」
「馬鹿ね、ご自分の立場がわかってらっしゃるの? 王だと言っても、まだまだ私たちには力が足りないのよ。また元の惨めな異端者に戻るつもり?」
「………」
「あなたはクインティリスの獅子なのよ。彼女に子供を産ませれば、この世界の全てはあなたのもの」
それでも足は動かない。視野を遮る薄い紗を、開く勇気が、どうしても持てない。
「何を気にしていらっしゃるの? あなたの女神を穢してしまうこと? 馬鹿馬鹿しい」
鼻で笑うような声が、耳元に寄せられる。
「知っているでしょう? この女は、最初からあなたを欺いていた……」
近づいてきた豊かな胸に、紅い光がきらめいている。
「あなたの心を裏切り、踏みにじった……」
そうだ、待っていると言った。君は待っていると言ったのに。俺は だから、この手を幾多の血と裏切りに汚して。
「どうせ何度もアシュラルに抱かれた身体よ」
囁きが、全身の血を逆流させた。
「どけ!」
怒りが、手足を震わせる。
背後で、からかうような哄笑が聞こえた。後ろ手に扉を閉ざし、ただ激情のままに歩を進める。目の前に、天蓋に覆われた寝台が迫った。
紗の帳を払い、そこで横たわる人を見下ろす。
天蓋の外の灯りが、眠る人の胸元に淡い光を滲ませていた。
胸の上で組まれた白い指。顔は影になって見えない。むしろ、今は見たくなかった。見れば、この決意が緩んでしまう。
不意に、突き上げるような悲しみが押し寄せた。
君を……信じていた。
なのに、……なのに君は。
身体だけでなく、心までもあの男に捧げたというのか。
「………」
すんなりと痩せた華奢な肩に手をかける。そのまま、着ているドレスを一気に引き下ろした。
透き通るほどに白い肌。滑らかな首筋、胸元。 。
露わになった膨らみを直視できず、はっと視線を逸らしていた。
まるで、この世のものではない、美しい何かの象徴を見ているようだ。視線を注ぐだけで穢してしまうような。
(どうせ何度もアシュラルに抱かれた身体よ)
囁きが、再び血流を熱くさせた。
そうだ、あの男は……天使のように清らかな君に……鬼畜にも劣る、無残な仕打ちを。……
想像が胸を焼き、きりきりと奥歯が鳴った。
帰すものか、あの男の元になど、二度と。
「クシュリナ……」
腕を背に差し込んで身体を持ち上げると、灯りがゆるやかに女の横顔を照らし出した。
それは。
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