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6
また……自分を忘れるほど深く眠ってしまった。
生臭い匂い……むかむかする。……なんだろう、胸が苦しい……押しつぶされそうだ。
薄暗い部屋には、四方を照らす淡い照明。
滝の音……? いや、雨音だ。外は……窓の外は土砂降りだろうか。
「後始末は、私どもが致しましょう」
誰だ?
「あなた様が殺したのかどうかは、この際関係がないものと思し召しください。私どもは、あなた様をみすみす死なせるわけにはいかない……。故に、あなた様をお助けするのです」
誰だ? こいつは。
殺した? いったい何の話だ?
忘我したまま、のろのろと視線を動かす。その刹那、とどろいた雷鳴が、室内を明るく照らし出した。
「……っ」
息を引いた、手足ががくがくと震えだした。
天蓋に覆われた鶯色の寝台。薄い紗にもずり落ちた羽根布団にも、真紅の飛沫が散っている。血だ。血が、寝台を染めている。
青白い手が、帳の中から垂れていた。次いで、苦悶に歪んだ顔が見えた。歯を食いしばり、目はかっと見開かれている。 グレシャム……!
「うわっ……っ」
後ずさって、壁に阻まれる。
が、吐き気を催すような悪臭は、恐ろしいほど身近から立ち上っている。震えながら視線をさげると、血にまみれた自身の手が目に入った。
「っ……っ」
「落ち着いて」
腰をついたまま、逃げようとあがくと、肩を強く抱きとめられた。
男だ 。美しい口髭、険しいが黒目がちの綺麗な瞳。紫紺のマント。
「どうぞ、お静かに。冷静に事態を受け入れてください」
誰だろう、こいつは。どこかで……確かに見た記憶がある。
そう思いながら、言葉が先に迸り出ている。「俺じゃない」
男の目は動かない。
「信じてくれ! 俺じゃない、俺がやったんじゃない!」
「あなたは、死んだグレシャム公の隣で、ただ、眠っておられただけです」
子供に言って聞かせるような声だった。
「ただし、あなた様の全身は血にまみれ、公の腹部には、あなた様の名前が刻まれた短刀が刺さっております。今、パシクに踏み込まれれば、間違いなくあなたは、養父殺しの咎で捕らえられてしまうでしょう。それも、事実でございます」
「…………」
俺が……殺した? グレシャムを?
違う! でも本当に? ……わからない、思い出せない、意識を失う前、俺は、グレシャムと、何をしていたんだ?
寝台で……いつものように……クスリを……それから……。
「あ……っ、あっ……っっ」
耳を塞いでつっぷする。紫紺のマントをまとった男は、黙ったまま、背中を撫で続けてくれていた。
「これが罠でも、不慮の事故でも、あなた様は一刻も早く、この場から立ち去らねばなりません」
男の声は冷静だった。
「我々の仲間が、先に気づいたのが幸いでした。ここで起きた異変は、まだ私の手のものしか知りません。夜明けを待って、急ぎ、城を出る段を取り付けましょう。ひとまずあなた様は、衣装を替え、ここで私が戻るのをお待ちくださいませ」
「……俺が……殺したのか?」
震える声で、男というより自身に問うた。俺が、グレシャムを殺したのか?
確かに頭の中では、何万回となく殺していた。でも でも、本当に?
男は答えずに立ち上がった。
「すぐに、脱出の準備を整えて参ります。その間、館には誰も近づけぬよう、見張りを厳重に致しましょう。どうか私が戻るまで、お気を静めて、旅の支度を済ませておいて下さいませ」
気など、どうすれば静まるのか。
一人になった途端、狂うように窓から飛び出し、叩きつける雨で、全身を洗い流した。
「うわぁっ、あっ、あっ」
掌の皺に、爪の隙間に入り込んだ血を、何度も、何度もこすり落とす。
衣服を破り捨て、ほとんど半裸になり、雨に打たれるように仰向けに倒れた。
グレシャムが、死んだ。
俺が、殺した。
違うと言ったところで、誰が信じてくれるだろう。さっきの男も、内心では俺が殺したと確信しているに違いない。当の俺にだって、本当のことなんて判らないのだから。
どうして こんなことになったんだ。
俺は、……これから、どこへ落ちていけばいいんだ。
「グレシャム! てめぇは俺を、ずっと守ってくれるんじゃなかったのか! どうして死んだ、どうして俺を一人残して死にやがった!」
叫び声は、激しい雨音に遮られる。
俺が……俺が、殺したのか?
「…………」
ぶわっと涙が膨れ上がった。震えるほど憎み、殺したいと呪詛しながらも、心のどこかであの鬼畜を唯一の拠り所にしていたことを、初めて痛切に理解した。
「グレシャム……」
俺は、一人だ……。この世界で、たった一人になっちまった。……
それが、どんなに異常な、狂気にまみれた方法であっても、心の底から自分を愛してくれた男は、もう二度と戻ってこない。
黒い影が見下ろしているのに気付いたのは、その時だった。
死神……。
目を開けることさえままならない雨の中、闇をまとって立ち尽くす男は、確かにこの世の住人ではないように見えた。
「お迎えに、まいりました」
低い、かすれた声がした。
俺を……迎えに?
死神は膝をつき、身をかがめた。全身を、黒衣ですっぽりと覆っている。細くつりあがった眼、薄い唇、年齢の判りにくいのっぺりとした顔だが、後ろでひとつに括っているのは、見間違いでなければ白髪だった。
「公を殺害したのは、さきほどの男です。あなたは騙されている」
風が軋むような声で、男は続けた。
「あの男は、法王に与する一派で、法王家と皇室の婚姻を阻み、この国に革命を起こそうとしています。あなたを三鷹家の皇位継承者だと承知の上で、あなたの身柄を確保しようとしているのです」
「………」
うつろな目で、男を見上げた。
言われている意味は判るのに、頭に上手く、入ってこない。
「あなた様の生国蒙真は、今、二つに割れております。あなた様を擁して再度三鷹王朝を興したい三鷹一派と、現王朝を存続させたい蒙真一族。さきほどの男は蒙真のヨプクル王妃と通じております。お判りになりますか。あなたをこの世から消そうとしている連中です」
だから、どうだという気がした。
死んだのはグレシャムであって、俺ではない。
「だったら何故、直接俺を殺さない」
投げやりに呟いていた。
「あなた様を生かしておきたい理由があるからでございましょう」
男の返事は即座だった。
「罠に落として……助ける。つまり、恩を売って、これから末永く利用したい理由が」
何を信じていいのか、もう判らなかった。
そう言われれば、そう信じるしかない心もとなさに、知らず苦い笑いが漏れている。
「おもしろい話だな」
三鷹家、三鷹家、結局は三鷹家だ。どこへ落ちていこうと、その過去からは逃げられないのか。
「が、どうやって、俺を連れ出す。外は闇で、忌獣がいつ出るか判らない。しかも、この館はもう、囲まれているんだぞ」
半ば笑うようにそう言った時だった。
不意に、黒衣の男が立ち上がった。
黒いマントが雨を散らす。怪鳥のごとく跳ね上がった男は、露台の手すりを足で蹴り、舞うように百合が咲き乱れる中庭に降り立った。
マントが翻った刹那、男の両腕から、腕の倍ほどもある刃が雨を切って滑りだす。
「きっ、貴様、何者だ」
「曲者!」
屋根付きの通路から、近衛騎士の隊服を着た剣士が、三人ほど駆け出してくるのが見えた。
先ほどの男の命を受け、護衛に出張ってきたのかもしれない。
剣が抜きはらわれ、マントが舞った。
「な、なんだ、こやつは」
「まさか、……き、忌獣?!」
叫喚の雨の中、刃が殺戮の血に染まった。
黒衣の男が、両腕を組み、払い、ひねるだけで、肘から伸びた槍にも似た剣が、襲いかかる剣士を凪払う。
わずかな時間で、三人を斬り伏せた死神は、再び鳥にも似た跳躍を見せ、露台に舞い戻ってきた。擦れる様な音を立て、両肘から伸びた刃がマントの中に収まった。百合の花弁が一枚、足元に舞い落ちる。
「お前は、……誰だ」
後ずさりながら、訊いた。
三人を惨殺しながら、顔色ひとつ変えない男は、ある意味、本当に死神だった。いや、奇しくも殺された騎士の一人が叫んだように、忌獣の化身そのものだった。
「私は、アリエスの血を引く一族の、末裔」
「アリエス、……だと?」
「マリス神を護るために存在する一族にございます。今はもう、生き残っているのは私一人」
男は静かに膝をついた。「エレオノラ様の、ご指示により」
あの女 黒に覆われた、杏の香りがする女。
「あなた様をお守りするために、つかわされた者でございます」
「………」
「あなた様がこの世界に生まれた時より、この日をお待ち申し上げておりました」
意味が、判らない。
「我が王……あなた様は、すでにご自身の立場を、ご存知のはずです」
おぞましい予感と共に、首にかけられたままの石を握りしめ、後ずさる。
「お前の、名は」
「クロウ」
男は見事な白髪を垂れた。
「イヌルダを出て、あなた様は生国に戻らねばなりません。蒙真にこそ、あなた様の生きる活路がある。私が、あなた様をお守りし、蒙真まで御供いたします」
蒙真……。
しばらく空を睨みつける。やがて、力なく視線は落ちた。
「それは、……無理だ」
「人質を取られていらっしゃるからですか」
男の声は、穏やかだった。
「ご案じなさいますな。あなた様のお母上と妹なら、先日、火刑に処せられました」
「……!」
「公は打ち明けてはくださいませんでしたか? ムガル・シャーがお亡くなりになり、蒙真の国情は変わったのです。あなた様の身柄を蒙真に戻さねば人質の命はないと、グレシャム公の元にはヨブクル王妃から何度も知らせがいっているはずです」
立ち上がりざま、黒衣の男の襟をつかみ上げている。
怒りが、瞳と拳を揺らした。嘘だ、そんなの、信じない。
「私の言うことが、信じられなければ、ご自身の目で確かめられたらいかがですか」
「………」
「公があなたをイヌルダに同行させ、ヴェルツ様に庇護を求めたのはなんのためだと思っていたのですか。ヴェルツ様は三鷹一派に通じております。ヴェルツ様の目的もまた、あなたを餌に三鷹家との結びつきを強めること」
呼吸だけが苦しかった。
「あなた様は、いつまで、利用されるだけの人生を歩むおつもりですか」
利用……されるだけの、人生。
利用されるだけの人生か。……
不意に笑い出したくなった。本当に、その通りだったから。
「お前は、さっきの男がグレシャムを殺したと言った。けれどそれと同じだけの理由で、お前がグレシャムを殺した可能性だってあるんじゃないのか」
死神は黙って佇んでいる。
そうだ、どちらに転んでも、しょせん、俺は誰かに利用されているんだ。
だとしたら、どの手を選んでも、同じことだ。
「お前の主人は、この世界で行けない場所など、ないと言った」
「エレオノラ様が」
男の呟きに、頷いて続けた。
「お前と一緒に行ってやる。ただし、それには条件がある。今から、俺をクシュリナのオルドに連れて行け。ただし、彼女に絶対に迷惑をかけないという約束の上でだ。それが本当にできるなら、俺はお前らの罠に乗ってやる」
「お心のままに」
男は静かに面を伏せる。
「約束をたがえたら、俺は、その場で命を絶つ」
「クシュリナ様に会われて、どうなさるおつもりです」
どうしたいのか? 自分でもよく判らなかった。ただ、彼女にだけは、知っていてほしかった。
グレシャムが死んでしまったことや、今、城を逃げ出す理由を全て。
いや、これが……おそらく、今生の別れになるとの予感があるから、最後に一目だけでも、無理を承知で会いたいのかもしれない。
いずれにせよ、この国を出て、無事に蒙真に戻れるなど、 いわんや玉座に登るなど、期待してもいないし、想像さえできない。
養父殺しの罪を背負ったままイヌルダを逃げ出す自分が、この先、光の道を歩めるとは思えない。むしろ、死に場所を求めるための旅になると……そんな予感さえ、覚えている。
「明後日には、姫様の結婚式が執り行われます」
はっと、その刹那、自分の表情が止まるのが判った。
激しい動揺が、視界を揺らす。
「クシュリナが? ……結婚する?」
「左様にございます」
「………」
いずれ来ることだと覚悟はしていた。なのに、諦めていても、判っていても めまぐるしい想像が胸苦しく全身を締め付ける。何をしても、自分にそれを止める術がないことが、絶望的に頭の中に落ちてくる。
「お心のままに、なさればよろしいのです」
幻覚のように、いつかの杏の香りがした。
心の、ままに……。
「忌獣は、あなたを決して襲いません。忌獣はマリスが生み出した彼の神の守護獣……あなたに、その光がある限り」
はっと青ざめ、胸の石を握りしめている。
「あなたもすでに……お気づきなのではないですか」
闇の男は片膝をつき、恭しく頭を下げた。
扉の向こうから、荒々しい足音が聞こえたのはその時だった。
すっと立ち上がった男のマントから、血濡れた刃が飛沫と共に飛び出した。
「私が、しばしの時間を稼ぎましょう。どうぞ、ごゆるりと、姫様と別れの時間をお過ごしくださいませ」
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