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「おい、永瀬?」
 顔に被さる黒い紗。   

「うわああっ」
 力いっぱい払いのけた途端、のけぞった馴染みの顔が現れた。
「び、……びったー、お前、寝起き最悪とちゃう?」
 首からタオルをぶら下げた剣道部の同期、宮城直紀が、あきれ顔で見下ろしている。
「てか、大丈夫か? お前」
「あ、ああ」
 寝てたのか……、俺。
 首筋に浮いた生温い汗。永瀬は激しい動機を隠しながら、のろのろと身体を起こした。
 大学の稽古場。開きっぱなしの扉から秋の風が吹き抜けている。
 素振りをしている一回生。掛声だけが、ものものしい。二回生以上はミーティング中なのか、隅のほうで輪になっている。
     また……夢か。でも、今日のは今までとは違う。
 脱力して壁にもたれかかると、隣に宮城が腰を下ろしてきた。ぱさっとタオルを投げられる。
「もしかして、まだ引きずっとんのか、事件のこと」
 事件    隣町の大学で起きた、女子大生斬首事件。そして、その翌日に起きた不可解な『心中事件』。目撃者であると共に、渦中の人であると見なされた永瀬は、以来部では一種の『腫れもの』状態である。
 永瀬はにっと笑い、悪友の首に腕を回した。
「ミヤシ君? 僕がそんな、繊細な男だと?」
「うぐっ、な、ならええけど、最近激やせしたって、女の子たちの噂の的やで、永瀬君」
「ついに効果が表れたか。実は、こないだからバナナダイエットを始めたんだ」 
「あほう」
 こつんと頭を叩かれる。
「痩せたら何もかもうまくいくって思えるあたり、女の子って幸せでいいよな」
「てか、その女の子の一人が、さっきからお前をまっとるみたいやで」
「ん?」
 タオルで汗を拭って振り返ると、道場の窓から白い瓜実顔が覗いているのが見えた。
 印象的な大きな瞳は、遠くから見ても際立って目立つ。ひらひらっと手を振る女から、永瀬は避けるように顔を背けた。
     オイオイ、めんどくせーのが来たよ。……
「なぁ、あそこにいるのって、もしかして心理学部の杉本さん? 今年のミスキャンの」
「あの子さ、来年からテレビ局のお天気キャスターやるんだって。もしかして将来は女子アナってやつじゃね? うがー、萌えるっっ」
「よせよせ、知らないのか? 彼女、永瀬がお気に入りなんだよ。今だって永瀬が出てくんの待ってんだって」
「なんだよ、また永瀬かよ!」
 部員たちの嫉妬めいた視線に辟易しつつ、永瀬は竹刀を持って、立ち上がる。
「そういやぁさー、永瀬がお熱だった、白鳳の女の子、どうなったの?」
「瀬名さんだろー?……気の毒だったよな。殺人事件に巻き込まれて、結局、意識が戻んないままだって聞いたけど」
 声は小さかったが、耳には届いた。永瀬は無言で素振りを始める。
 女子大生が、首を斬られて殺された事件の翌日、容疑者の一人と目された大学生が原因不明の自殺未遂を図った。    それが、この夏起きた忌わしい事件についての、新聞報道の概要である。
 すでに、実名報道もされている。さすがに琥珀以外の名は伏せられていたが、連日家宅捜査が入る門倉邸が中継され、門倉議員は国会を混乱させた責任を取り、辞職。
 議員の娘とその友人が、青年の自殺に巻き込まれた可能性がある    それが、門倉雅と瀬名あさとであることは、知り合いであれば誰でも察しがつくことだった。
 当時の新聞記事を、永瀬はまだよく覚えている。
 
 
 一酸化中毒か、それとも何か特殊な薬物を用いたのか。青年と共に発見された同居人の女子大生(19歳)、その友人で同じく女子大生(20歳)の意識は依然戻らないまま。三人が発見された地下室に踏み込んだ警視庁捜査一課の小田切直人警視も、意識不明の状態が続いている。
 なお、室内からは、家出人として捜索願が出されていた少年(14歳)も発見されており、比較的軽傷とされている少年の、事件への関与が注目されている。
 
 
 一人名前が公表された琥珀は、一時期、完全に犯人扱いだった。
 あまりのマスコミの過熱ぶりに、警察が異例の記者発表を行い、真行琥珀は第一発見者ではあるが、現時点では容疑者ではなく、また、自殺とも断定できない。    と説明したほどである。
 以来、マスコミのトーンは下がり、今は、神奈川で起きた連続殺人事件が連日ヒートアップして報道されている。
 それでも……無責任な報道の垂れ流しで、人の心に根付いた印象は、簡単には消えない。
「でも、あの真行がなー、今でも信じらんないよ、俺」
「やっぱ、三角関係だったのかな、あの三人」
 永瀬は竹刀を下げ、話の輪に背を向けた。
「わりー、今日あがるわ、俺」
「えっ」
 唖然とする先輩たちを尻目に、名札をひっくり返して外に出る。
「永瀬、待ちなさいよ」
 道場を出たところで、背後から駆け寄ってくる足音に呼びとめられた。
 
 
                5
 
 

 振り返らなくても判る。窓の外に立っていた杉本揚羽。
 永瀬にとっては高校からつきあいがある、一つ年下の後輩である。
 仕方なく立ち止まり、女が追いついてくるのを待つ。
 杉本揚羽    肩先までの柔らかな髪に、印象的な二重瞼。美人でスタイルもよくて、大差をつけて選ばれた今年のミス都大。高校の時一ヶ月だけつきあった元彼女。
 揚羽を見下ろし、永瀬は軽い溜息をついた。
「なんだよ、俺に何か用?」
「こんなむさ苦しいとこ、永瀬に用でもなきゃ、来ないわよ」
 揚羽は小馬鹿にしたようにせせら笑った。顔はいいけど性格は最悪。そのギャップに惹かれた時期も確かにあったが、今は、全てにいちいち苛立ちを覚える。
 永瀬は無言で歩き出した。揚羽が後を追ってくる。
「いい加減剣道少年から卒業したら? 見た目さわやかだけど、基本的に永瀬には似合ってないから」
「関係ないだろ」
「ふーん、ま、いいけどさ。それより今日、永瀬のアパートに行ってもいい?」
「パス!」
「な、何よ、何生意気に断ってるのよ」
 永瀬は歩幅を大きくした。すぐに揚羽が追ってくる。
「ちょっと待ちなさいよ、そんな態度、許されるとでも思ってるの」
 それ、こっちのセリフだっつーの。
 嘆息しながら、永瀬は訊いた。
「お前さー、お天気お姉さんやるんだろ、サンライズテレビで」
「あら、チェックしてくれてたんだ」
「してねぇよ!」
 するかよ、バカ。
「俺みたいなのと、つきあってたら、清楚なおねーさんの評判がガタ落ちなんじゃねーの。もうとっくに別れてんだからさ。いい加減切れようぜ、俺たち」
 高校時代、つきあってと言ってきたのが揚羽なら、一月もたたない内に、別れてよ、と言ってきたのも揚羽だった。
 理由は、当時からよく知っている。
 受け身だった永瀬に否やはなかったが、別れて一年後に、なんの因果かそれぞれ別の恋人を同伴してダブルデート。その夜に、初めて揚羽とホテルに泊まった。
 なりゆきとはいえ、どうしてそんな妙なことになったのか、永瀬自身にもよく判らない。
 以来、二人の関係は、つかずはなれず、ずるずると続いている。
「……まさか、夕べの女と、マジでつきあうつもりじゃないんでしょうね」
 じっとりと暗い声がした。
「は?」
 思わず足を止め、揚羽の顔を見おろしている。確かに美人だ。でも、正直言えば、好みだと思ったことは一度もない。惹かれたのは、少女マンガの悪役みたいな典型的な性格の悪さで、もちろん、つきあってすぐに飽きてしまった。
 そういう意味では、揚羽より自分のほうが残酷な仕打ちをしたと、永瀬は内心思っている。
「知ってるんだから、四年の鹿島さん。昨日の飲みの帰り、永瀬と二人で消えたでしょ」
「お? まさかと思うけど、妬いてんの、お前」
「まさか」
「だよなー」
 口調とは裏腹の苦々しい気持で、永瀬は、揚羽に背を向けた。
「永瀬には似合わないわよ」
「だーかーらー、揚羽ちゃんにはかんけーねーだろ」
「あの女、慶応に本命の彼氏がいるんだから。私はね、永瀬が惨めな思いをする前に忠告してあげてるのよ」
「はいはい」
「あのブス、今頃、大学中に自慢して回ってるわよ。永瀬を落としたみたいな口ぶりでさ」
 はぁ……。うるせー。……。
 毎度のことだ。本当につきあってるわけでもないのに、やたら飼い主面して束縛したがる。
 うっとおしいし、うざったい。なのに、    身体だけが離れられないのは何故だろう。
「言っとくけど、お前の取り巻きの一人だって看做されてる段階で、俺はじゅーぶん、惨めなわけ」
「誰もそんなこと思ってないわよ」
「だったらいいけどさ」
 つか、本当はどうでもいいけど。
 製薬会社の孫娘だとかいう揚羽は、基本、超セレブなお嬢様だ。当然、彼女に相応しい本命の彼氏がいるし、他にも何人か取り巻きがいる。
 揚羽にとって永瀬とは、便利で手軽なセックスフレンドの一人……といった存在だろう。
 まぁ、自分には似合いの風評だと思いつつも、瀬名にだけはそんな姿を知られたくないとも思っている。 
「それよりさ、今日は耳よりの情報があるの。午前に知り合いから聞いたんだけど、早く永瀬に教えてあげたくて」
     てか、何だって今日に限ってしつこく絡んでくるんだよ、こいつは。
 永瀬は脚を早めながら、少しだけ苛立っていた。
 まだ、先ほどみた夢の薄気味悪さが胸に淀んでいる。
 黒い紗に白い指。あの女はなんだったんだろう。こう言っていいなら、初めて夢に出てきた登場人物。
『俺』にとっては、敵なのか、味方なのか。爛れたような杏の香りが、これから    致命的な不幸を運んでくるような気がするのは何故だろう。
 ああ、真剣に考えるな。あれは夢だ、夢だ、現実じゃない。どんなにリアルでも、ほら、目覚めた瞬間に忘却の彼方に消えていく。   

「あなたが、熱をあげてた……。白鳳大学の剣道部の子、まだ意識が戻らないんだって?」
 は、と永瀬は足を止めていた。
「三角関係の挙句の、心中未遂って噂もあるそうだけど、ね、ね、三角関係のもう一人って、例の門倉雅でしょ? 何年か前に頭が弾けちゃったお嬢様」
「………」
「あのね。新聞には一切出てないけどさ。あの朝、本当は、門倉雅を逮捕するために、警察は門倉家に向ってたんだって」
「なにそれ、どういうガセ?」
 さすがに永瀬は失笑している。揚羽はむきになって言い募った。
「だから、本当なんだって。お父さんの政界引退って、娘のスキャンダル隠しと引き換えだったらしいよ。マスコミには厳重に緘口令が引かれてるけど、心中事件? あの事件が通報される何時間も前に、警察は門倉邸に家宅捜査に入る準備をしてたんだって。それは本当なんだから」
「はいはい。てかそれ、琥珀がらみのことなんじゃねーの? つか、なんだって、雅ちゃんが逮捕されなきゃなんねーのさ」
 永瀬は苦笑して歩き出した。
 事件当夜、事情を聴取しに来た刑事の口ぶりから、警察が琥珀を疑っていたのは明白だった。
 むしろ永瀬は、てっきり拘留されているとばかり思っていた琥珀が、自宅に帰っていたことに驚いたくらいだ。
 一時帰宅など許されずに、あのまま拘留されていれば、翌朝の悲劇は防げていたのかもしれない。
(あくまで真行琥珀は第一発見者にすぎず、国会期間中の議員の立場を考慮する必要があった)    とは、後の警察の弁だが、永瀬は内心思っている。警察も、    薄々判っていたのではないだろうか。
 遺体を直に見た永瀬は、実感として知っている。引きちぎれた皮膚組織、伸びきった血管、圧し折れた骨……。あれは    一人の人間にできる仕業ではあり得ない。
「だから、ただのバカじゃないんだって、門倉雅は」
 揚羽は、暗い声を出した。
「永瀬はあの女の正体を知らないのよ。可愛い顔して、悪魔みたいなとんでもない性格してるんだから。あの女とつるんでた、瀬名あさとって子も、頭がどうかしてたんじゃない? そもそも引き立て役だって判ってない時点ですごいわよね」
 永瀬は表情を止めた。ただ、目だけで揚羽を見下ろす。
「な、なによ、怖い顔しないでよ。全部本当の話じゃない。だから永瀬は趣味が悪いって言われるのよ」
「………」
「ちょっと待ってよ、何一人で先に行ってるのよ」
「うるせぇな、いちいち俺についてくんなよ!」
 やべ。
 言ってから    嘆息して額を押さえた。
何マジギレしてんだ、俺は。しかも、揚羽みたいな子供相手に。
「何よ、それ……、私に、そんな口きいていいとでも思ってるの」
 揚羽は、きつい顔を、ますます怒りで険しくしている。
 てか、頼むから、もう俺に絡むなよ。
 口元まで出かかったが、言わないだけの理性はかろうじて残っている。
「なんだよ、揚羽、深刻な顔しちゃって」
「おいおい、いまさら元カレと痴話げんかもねーだろ」
 講堂の外で立ち話をしていた男子生徒が二人、声をかけてきた。
 永瀬は横目で彼らを確認した。揚羽の取り巻き連中だ。顔は知っているが、名前までは知らない。 
「あ、全然違うって、ちょっとばかし、揚羽様の気がたっててさ。    ほら行けよ」
 むっとした揚羽の背を押しやって、彼らの前を通りすぎようとした。
「あいつ、法学部の永瀬だろ?」
「ナニジンだっけ? 日本人じゃないってマジ?」
「ほら、……だよ」
 その言葉がどれだけ毒を持っているか、おそらく深くは考えないのだろう。
 いや、判っていて言っているのかもしれない。昔からそうだった。永瀬が際立った評価を得た途端、誰かが必ず口にする一言。
 一つ年下の揚羽は、その噂を知らずに近づいてきて、知ったから離れたのだろう。そんな例は、何も揚羽だけではない。
「揚羽さー、あんま、あんなのとつきあうなよ」
「私が? 笑わせないでよ。どうしてあんなボンビーと付き合わなきゃないないのよ」
 揚羽の笑い声がした。
一瞬冷えた心を抱いて、永瀬は彼らに背を向ける。
(あなたと私は、同類なのよ)
 夢の女の囁きが耳に響いた。
(誰にも愛されない……。この世界で誰からも顧みられない、可哀そうな私。可哀そうなあなた。……)
 
 
 
 
 


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