第三章 永瀬 海斗
 
 
 
 
 
 
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 全身が冷たい汗で濡れていた。
 身体が痙攣し、反り返っていくのを、シーツを握り締める手でかろうじて堪える。
 苦しい、吐きそうだ、息ができない。
「……どうした」
 男の声が頭上から響く。目を逸らすと、顔をつかまれて無理に正面を向かされた。氷のように冷たくて無骨な手。
「もっと、声を出せ」
     出すものか。
 渾身の力で睨みかえす。見下ろしている男は笑った。
「いつになく反抗的だな」
 冷やかな声音だった。次の瞬間、一層激しい    身体を引き裂かれるような衝撃に見舞われ、たまらず、悲鳴にも似た声を放っている。
「なんだ? もう音を上げる気か?」
「…っ……っ」
「さっきの強気はどこへ行ったんだ? ん?」
 のしかかる、爬虫類にも似た目は笑っていた。
「最も俺は、お前のそんな目が大好きなのさ。瞳の中に、白い焔が燃えているようだ……美しい、この世のものではないようだ……」
「あっ……ッ、あっ」
「ほら、暴れると、余計痛くなるぞ」
 背骨をねじられるような激しい痛みが襲いかかる。ベッドが軋み、縛られた手首から血が滴って、シーツを濡らした。
「俺が、お前の命を助けたんだ、そうだな」
 頭を上から押さえつけられる。喘ぎながら、かろうじて頷いた。
「言ってみろ、俺に一生仕えると。俺の傍で、奴隷のように生きていくと。お前の、そう、その口で言ってみろ」
 うつむいて、歯を食いしばる。
「言えっ!! お前が一晩じゅう獣みたいに狂う様を、あの姫様に見せてやってもいいんだぞ!」
「………!」
 喉を締めあげられ、咳き込むように呻き声をあげた。見開いた眼から、感情を伴わない涙が零れる。
 男が望むままの言葉を、途切れ途切れに口にする。ようやく満足したのか、暴力的な力が緩み、逆におぞましい温もりに包まれた。
     死にたい……。
 朦朧とする意識の中、願ったのはそれだけだった。こいつを殺して、俺も死にたい。
「よく判っただろう……。そうだ、それでいいんだ。お前はもう、一生、俺なしでは生きられない身体なんだからな」
 腿を撫でまわす冷たい手のひら。吐き気がした。実際、吐いてしまいそうだった。
「脅しで言ってるんじゃないぞ。判るだろう? お前も……、あんな苦しいのは、二度と嫌だろう? ん?」
 ぞっと、その刹那全身が震えたのは、生理的な嫌悪というより、あの夜の恐怖を思い出したからだ。
「そう……、そうだ。犬みたいに舌を出せ。お前の欲しがっているものをやろう。犬みたいに鳴いてみろ、そうだ、可愛いぞ。さぁ……、これでもう痛みはない。もう少し動くぞ、ユー」
 
 
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「うわぁあっっ」
 恐怖にも似た雄叫びと共に、永瀬海斗はベッドから跳ね起きた。
「………」
 心臓が、突き上げるような動悸を打っている。
 な、な、なんなんだ、今のは。
 首も、脇も、冷たい汗で濡れている。胃がむかむかした。胃液の匂いが喉まで込み上げている。
 やべー……マジ、吐きそうだ。冗談じゃない、冗談じゃないぞ、まったく。
 また、あの夢を見た。
「なによぉ……。もう、吃驚させないでよ」
 薄闇の中、隣でむくっと起き上がる影。ぎょっとした永瀬は、ようやく現実に立ち戻った。
 狭いワンルームマンション、つけっ放しのクーラー、眠そうに目をこすっている半裸の女。
「ちょっと、まだ六時前だよぉ? 何考えてんのよぉ、ったく」
「ああ……、悪い」
「帰るんなら、鍵、ポストに入れといて」
 同じゼミ生で、一学年上の鹿島梓だった。再び布団にもぐりこんだ女は、すやすやと寝息を立て始める。
 そっか、夕べ、俺、こいつにお持ち帰りされたんだっけ。
 散漫になった記憶を手繰りながら、永瀬は自分の額を両手で押さえた。
 たいして気のりしない合コンに呼ばれて、ノリの悪さを誤魔化すために、ひたすら飲んだ。興味のなかった女の部屋に寄ったのは、一人になるのが怖かったからだ。
 また、あの夢を見るかもしれない……。そう、思ったから。
「………」
 立ち上がった永瀬は、全身鏡に映った自分の姿を見て失笑する。サイテーだ、服も着てねーし、俺。
 シンクには洗っていない食器、床には灰皿。汚い部屋だった。足元には自分の衣服が女のものといっしょくたになって落ちている。
 うんざりした。だらしのない一夜限りの相手にではない、そんな女にすらすがってしまう自分自身の弱さにだ。
 シャツを羽織った時、自分の裸の腕が目に入った。手首に 一瞬、鋭い痛みが走る。
「………!」
 心臓が跳ね上がったかと思ったが、むろん、傷跡など何処にも何もない。
     冗談じゃない!
 女の部屋を出た永瀬は、逆に憤怒がこみあげてくるのを感じていた。てか、冗談じゃない、ふざけんな。なんで俺が、なんだって俺が、よりにもよって、おっさんに姦られまくる夢なんか見なきゃなんねーんだ。
 しかも、尋常なセックスじゃない。いや、男同士に尋常もクソもねぇけど、明らかに相手は、変態性倒錯者だ。パートナーをいたぶることでしか、自身が興奮できない異常性欲者。
 まさかと思うけど、そういうのが俺の隠れた本性? 実はかなりのドMだったり? いやまさか。
 ありえねー、地球が滅んでもありえねー。てか、想像しただけで鳥肌が立つ。今も、実際立っている。
 もう何夜、この手の夢を見ただろう。相手はいつも同じ男だ。色白で、上背があって、がっしりとした体格を持っている。眼は鋭い三白眼で、眉は凛々しく、嫌な顔だが、まずまずの美男子……の部類に入る。
 多分、金持ちなんだろう。首にも指にも、ど派手な宝石をじゃらじゃらぶらさげていたりするし。
 服は    大抵裸だけど、たまに凄いのを着ている時がある。チンドン屋? つか、喜劇役者? とにかく日常ではまずお目にかかれない人種であることだけは間違いない。例えば中東の成金石油王なんかが、割とイメージに近い気がする。
 永瀬自身は    夢の中の自分は、正直言ってよく判らない。自分のような気もするし、全くの別人のような気もする。ただ、日によって小さな子供だったり、成人した大人だったり、その程度の変化があるのは判る。
 最初に見たのが、十歳くらいの小さな子供になった自分が、大人の男に無理やり犯される夢だった。
 起きてすぐに、夢と現実の区別がつかず、永瀬は台所で嘔吐した。胃が空になるまで吐き続けた。そのくらい    思い出すだけで全身がそそけだつほど、夢は残酷にリアルだった。
 わかってる、あの日からだ。
 冷えた体をすくめながら、永瀬は人気の絶えた早朝の道路を歩き始めた。
 初めて人間が殺された現場を見た日。それさえ一生に一度あるかないかの巡りあわせだと思うが、よりにもよって見てしまったのは、首と胴体が切り離された残虐死体。
 しかも    転がっていた首は、よく知っている女の顔。数日前の飲み会で、楽しく会話した相手。
 血みどろの惨劇の中、恨みをこめた眼がいつまでも自分を見上げているような気がして、その夜、さすがに永瀬は眠れなかった。琥珀が容疑者として疑われているだろうということも、放心したまま保護者に引き取られたという瀬名のことも、気がかりだった。
 うとうとしたのは明け方である。それでも、まさか眠れるとは思わなかったが、ふっと何かに引き込まれるように熟睡し、そして、……とんでもない悪夢を見たのだ。

 その一度だけでも、自身のプライドや精神力が根こそぎ奪われるほどの衝撃だったが、残酷な悪夢は、その日が始まりに過ぎなかった。
 以来、おおざっぱに括れば概ね週一ペースで、ひたすら自分が、変態性欲と暴力の餌食になる夢を見る。同じ相手、同じベッド、同じ風景というシチュエーション下で。
 まだ、相手やシチュが違うなら、救いもあるし、夢にすぎないと自分を慰めることもできる。
 が、まるで夢という世界の中に、現実にその男がいるような、リアルでブレのないこの設定はなんなのだろう。あたかも、二つの世界を、睡眠を堺に、行き来しているような錯覚さえ覚える。
 頭が痛い。吐き気はまだ続いている。
 ガードレールに背を預け、永瀬は自分の額を押さえ、目を閉じた。
 夢    俺の夢。
 連続して同じ設定で見るあたり、瀬名から聞いた夢の話と、微妙に状況が似ている気がしないでもない。まるで中世の洋城みたいなクラッシックな室内装飾や、お伽話に出てくる王様さながらの衣装。……そのあたりも。
 まぁ、ただの偶然か、インスパイアなんだろうけど。
 にしても、もうちょっと瀬名の話を真面目に聞いておけばかったかな。いや、真剣に聞いてたつもりだったけど、あの後のショックがでかすぎて、気づけば内容の大半を忘れている。
 なんつったっけ……、国の名前。それと、なんとかっていう家来の名前。ああ、そうだ。アシュラルってのが出てきたよな。瀬名が死ぬほど嫌ってる王子様だ。
 つーか、瀬名、早く目を覚まして、俺の話を聞いてくれよ。これってさ、間違いなく、お前と似た症状だなよ。朝の連ドラならぬ、夢の連続ドラマ。ただしR18指定つき。
     俺の頭ン中……一体何が起きてんだろう。
 
  
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     どのくらい……、眠っていたのだろう。
 すがるようにベッドから降り、よろめいて、壁で背を支えた。
 寒かった。手も足も脱力して、自分の身体ではないようだ。全身が、ガチガチと、小刻みに震えている。
 判っている、喉が異常に乾くのも、身体の震えが止まらないのも、いつものクスリがもらえないからだ。クスリ、クスリだ。薬がないと。   

「くそっ」
 急速に膨らむ苛立ちは、暴力的な衝動となって壁にぶち当たった。
「出て来い! どこに逃げやがった、出て来い!! 出て来い!! 出て来い!!」
 喉が裂けるほどの声を張り上げても、静まり返った周辺からは何の反応も返ってこない。
「馬鹿野郎! 死にやがれ! くそっ、くそっ、くそっ!」
 声がすりきれ、やみくもに壁を打った拳からは血が滲む。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 肩で息をしながら膝をつき、天井を見上げて吠えるように叫んだ。何度も叫んだ。
 俺は狂っているんだ、そう、もうとっくに狂っている。身体も、心も、闇の底にどっぷりと沈んで身動きが取れないでいる。
 だったらいっそ、頭の芯から狂ってしまえばどんなに楽かしれないのに、汚れ、腐り果ててもなお、まだ冷静になりえている自分がいる。
 光の下で佇む君を、求めている自分がいる。   

 何故、俺は、生まれた。
 それでも外せない、胸の首飾りを握りしめる。
 何故、俺を産んだ……。
(あの子の髪……眼……おお、あの子を産んだのは間違いだった。どうして、あんな怪物が私から生まれてしまったの!)
 だったら、何故産んだ!
 なんのために、生まれてきたんだ……俺は。
 くずれるように仰向けに倒れた時、扉が軋むような音がした。
 衣ずれの音、ひそやかな足音。どうせエボラだ。あの男の忠実な犬で、俺を始終見張っている醜悪な番犬。どうでもいい、今は首を傾けるのさえ苦痛だ。
 暗い影に覆われる。甘い杏にも似た香りがした。
 エボラじゃ、ない……?
 ぎょっとした時、目の前に黒い布状のものが被さってきた。
「……っ」
 わけのわからない不安にかられ、顔にかかる紗を払いのけようとする。その腕を、やんわりと掴まれた。鼻先をかすめる、蜜花のような芳香。
     誰だ……?
 杏の香を放つ白い指先が迫り、あえぐ唇の中に差し入れられた。その振る舞いの異様さに驚くより、蕩けるような陶酔のほうが勝っていた。
 気がつけば、細いしなやかな指に、必死で舌をからめている。
 乳房に吸い付く子供のように    実際、女の白い指には、今、一番欲しくてしょうがないものがしっとりと沁み込んでいるような気がした。
 ようやく汗が引き、胸に渦巻く焦燥が収まっていく。
「あなたが冒されているのは、マリスの蛇薬よ」
 初めて、囁くような声がした。
 忘我の唇から指が抜かれ、その手で    両手で頬を抱かれる。
 目の前に被さっているのは、黒い紗に覆われた影である。頭からすっぽりとヴェールで顔を覆った女。顔だけでなく、全身を黒のドレスで覆い隠している。
「君は……誰だ」
 触れるほど近くにいるのに、逆に近すぎる女は、輪郭がまるで掴めない。
「先日、広間でお会いしたわ……。美しい、異国の御方」
 何もかも黒一色の中、雪よりも白い手指は、匂いたつほどなまめかしかった。
 その指が、何度も優しく頬を撫でる。耳をなぞり、首筋に滑って行く。くっと首の、ある一点を押えられる。
 思わず呻くと、耳元に吐息がかかるのが分かった。
「脈が、随分と弱くなっていらっしゃる……」
 身をよじって逃げようとしたが、柔らかい女の指はしっかりと首を押えてひるまない。
「このままだと、近いうちに死ぬわよ、あなた」
 ぞくっと寒気にも似た恐怖を感じ、息を乱したまま、覆いかぶさる黒いヴェールを見上げている。
「……お前は誰だ」
「エレオノラ」
「エレオノラ……?」
 微かな含み笑いがして、手はするり、と首周りから抜けた。
「どうやって、ここまで来た」
 白蘭オルドの見張りの厳しさを考えると当然の質問だったが、女はさも意外そうにくすくすと笑った。
「どうやって? この国で、私に行けないところなど何処にもないのよ、美しい方」
「………」
「いいえ、この世界で、私に行けない所なんて、どこにもない……」
 それが本当なら、いったい何者なんだ? この女は。
 エレオノラ    どこかで聞いた、もしや、ヴェルツ公爵夫人のエレオノラ? まさか……。
「可哀想に。あなたは囚われの小鳥なのね。御気性は随分激しくていらっしゃるのに、あのような卑しい男に玩具にされているのは、どうしてなの?」
「………」
 顔を背けると、女はますます身体を寄せてくる。
「蛇薬? 違うわね。そんなものは、あなたの心を縛る鎖にもなりやしない。あの卑しい男は、薬であなたを自由にしているつもりだろうけど、あなたは、自ら望んで自分を貶めていらっしゃるのではなくて?」
 指が、再びゆっくりと伸びてきて、髪に絡められる。
「私は全部知っているわ。……三鷹家の正当な血を引く、唯一の王位継承者は、ご家族を生国に人質に取られ、死ぬことも逃げることもできず、がんじがらめに縛られているのよ」
「………」
「あなたは、自身の運命を知り、絶望し、そして受け入れる道を選んだのではなくて? 蒙真に囚われているご家族のために、ご自身を犠牲にすると決めたのではなくて?」
 目を逸らしたまま、激しい動悸が胸を満たしていくのが判る。
 この女は何者だ? どうして、俺とあの男しか知らないはずの秘事を、この女が知っているのだ。    ? まさか、グレシャムの豚野郎が、そんなことまでこいつらに話しているのか?
「無駄よ、それはね、何もかも無意味な努力よ」
 女は、力強く囁いた。
「だって、あなたが大事に思ってきたご家族は、何もかも承知であなたをグレシャムに売ったんですもの。彼らの近況を、一度見に行かれたらよろしいのに。あなたを鬼畜どもに売り払ったお金で、のうのうと幸福に生きていらっしゃるわ。そうして、あなたがグレシャムの元から逃げださないよう、時折、涙を誘うようなみじめったらしい手紙をあなたに届けているのよ」
 嘘だ。
 心の中で、暗いものが声をあげている。そんなことは、ありえない。
「あなたと私は、同類なのよ」
 女が、身体ごと寄り添ってくる。
「私は、あなたの助けになりたいの。……私はね、ずっと以前から、あなたが金羽宮に来るのを待っていたのよ」
 耳に、冷たい唇が触れた。
「誰にも愛されない……。この世界で誰からも顧みられない、可哀そうな私。可哀そうなあなた……」
 
 
 
 

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