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5
( 脳波の周波数が3Hz以下、振幅は二百から三百。つまり徐波睡眠状態ですね。普通に深い眠りに入っているのと全く同じです。普通に考えて、外部刺激によって覚醒できるはずなんですが……)
( なんていうんですかね、自ら、外部の情報を遮断している、とでも言ったらいいのか。まるで、自分の意思で眠りつづけているような……そんな感じがするんですよ)
志津子は目を閉じた。はからずも今日、あさとの担当医から、そう告げられたばかりだった。
「先生、僕は、小田切を死に駆り立てるものの正体を、僕自身の手で探してみたいんです。この六年間の奴の軌跡を、自分の手で辿ってみたいんです。あいつが一課に配属になった後、いったい何を追い、何と格闘していたのか、僕は全部調べました。すると、とても不思議なことが判ってきた」
言葉を切り、風間は鋭い目を志津子に向けた。
「小田切が激務の傍ら、ライフワークのように追い続けていたのは、意外にも静那さんの事件とは全く無関係のものでした。それが、門倉雅が最初に起こしたと言われる六年前の強姦教唆事件です」
六年前 あえて風間が口にしない共通項に、かすかな不安を感じつつ、志津子は黙って目を眇める。
「被害者は長山加奈子、事件当時、二十一歳。 被害にあった女性に鞭打つような言い方ですが、新宿を根城に悪名をとどろかせた……こう言っていいなら、とんでもない悪女です。事件の詳細は省きますが、当時の新宿署では容疑者一人特定することができず、小田切が入庁した平成十三年の時点では、事件はほぼ迷宮入りの状態だったんです」
言葉を切り、男は膝の上で両拳を握りしめた。
「……なのに、小田切は、……誰も顧みることがなくなった件の事件を蔵の中から引っ張り出して……容疑者として……当時、誰もが想定し得なかった人物をあげたんですよ」
それが、門倉雅だった。 。
志津子は、息をつめたまま、風間の言葉の続きを待つ。
「被害者はどうしようもないごろつきの女で、被疑者は、当時十四歳未満だった国会議員のお嬢様です。二人の立場を考えると、奴のしてることは正気の沙汰じゃないですよ。そりゃそうでしょう、これで下手を打てば、コースアウトで生涯地方巡りです。誰も協力を申し出なかったのはもちろん、上からの圧力も、相当だったらしい」
当時の親友の立場を慮ってか、風間の目が険しくなる。
「なのに、小田切は諦めずに……一人で、執拗に調べ続けていたそうなんです。どんな誹謗や中傷を受けても、一向にひるまずに……。そうして、二年近くの歳月をかけて、結局奴は、当時誰もがありえないと思っていた、門倉雅と被害者女性の接点を知る証言者を、見つけだすことに成功したんです」
何故 、たまらず、志津子は口を挟んでいた。「何故、小田切さんは、雅ちゃんが犯人だと。そう思われた根拠は、なんだったのでしょう」
彼と門倉雅に、平成十四年以前に接点はないはずだ。母親の祥子しか知らない心の病を、小田切が知っていたとも思えない。
風間は苦い目になって、首を横に振った。
「わかりません。そもそも奴が何を思って門倉議員の一人娘にターゲットを絞ったのか、当時の捜査員は一様に知らないと言うんです。決め手があったとしても、あれは奴の金星だから、迂闊にライバルに漏らすはずがないだろうって。……確かに、本庁とはそういう場所なのですが、でも」
言葉を切り、風間は強い眼差しを志津子に向けた。
「先生、少なくとも二年前、大分に発つ直前の小田切は、持っていた覇気の全てを失くしているように見えました。当時、僕はそれを、左遷のショックだろうと簡単に考えていたんですが、そうじゃない。東京に戻ってきてからも、奴はずっとおかしかった。……何かがあったんです。奴にしか判らない何かが」
志津子もまた、再会の折、不思議な落ち着きを取り戻した小田切の眼差しを思い出していた。
あの時、私はなんと思ったのだろう。以前と同じ眼差し 奥様の事件がようやくふっきれたのだと そうじゃない。ふっきれたというより、あれはむしろ、諦めの境地に達していたのだ。
そうだ、あの目は六年前のクリスマスイブの前夜、妻と別れる決意を固めた、あの時と同じ目だ。
自分の運命に抗うことに疲れ、全ての抵抗を放棄した眼……。
「この六年間、小田切が何を知ろうとあがき、何に絶望していたのか、僕は、どうしてもそれが知りたい。突きとめることに何の意味があるかなんて、正直、僕には判りません。……でも、それが解かれば、少しでも理解できて……奇跡みたいな可能性だけど、あいつの心に巣食う闇を取り除いてやることができたなら」
苦しそうな目で、風間は拳を握りしめた。
「あいつ、目を覚まして……もう一回、この街で生きてみようって思えるような、そんな気がするんです」
6
風間はポケットの中から、半透明のケースに入ったCDロムをとりだした。
「これを、見てもらえないでしょうか」
志津子は、黙って風間を見つめ続けた。彼の言葉のひとつひとつが、胸に深く突き刺さって、身動きがとれない。
「色々、立ち入ったことを聞いて申し訳ありませんでした。事件のことを調べれば調べるほど、門倉雅という女がわからなくなったものですから。……失礼なことまでお聞きしたと思います。でも、もうひとつだけよろしいでしょうか」
「何でしょう」
関わりたいのか、永久に忘れてしまいたいのか、志津子にもよく判らなかった。
ひとつ言えるのは、今、この病院で目覚めることなく眠り続けている男を絶望に駆り立てたのは、志津子自身でもあるということだ。
「先生は、三年前、門倉雅に催眠療法を試みておられますね」
「よく、ご存じで」
そうだ。一度だけ、そしてそれが門倉雅を診た最後だった。
黙ったままの志津子の前に、風間はロムケースを差し出した。
「これは、門倉雅の部屋に残されていたノートの記号を解析したものだそうです。門倉家の蔵の地下に、奇妙な文字が記されていたのはご存じですか」
地下室に散乱していたノート。そして壁に描かれていた文字を思い出し、志津子は眉をひそめている。
「アルファベットだの記号だのが混じった、落書きのようなものだったと聞いています。先生も当日、現場におられたのではないですか」
「ええ、ただ、壁の文字に関しては……、古い壁材がハロゲンの熱に耐えきれず、表面全部が炭化してしまったと聞いています」
目の前で、黒い影に覆われていった壁。あの奇妙さは、志津子もよく覚えている。
何か特殊な薬品でも塗布してあったのかもしれないが、ハロゲンの熱程度であのような変化が起こりえるのか、今でも正直、納得できない。
「そうです。壁の文字は残念ながら解読不能でしたが、あの地下にはノートが何冊も残されていて、やはり解読不能な記号とアルファベットがびっしり書き込まれていたんです」
「あれは……ドイツ語が、基になっているように思えましたわ」
記号もあったが、文字は、完璧なドイツ語だったような気がする。志津子が見たのはごく一部にすぎないが。
「仰る通りです」風間は少し驚いたような顔になった。
「あの文字は、ドイツ語の母音を別の記号に置き換えたものだったんです。このロムに入っているのは、解析したものの一部です。ノートは全て門倉家に戻されたといいますから、事件とは無関係だと判断されたのだと思います」
風間は、そこで言葉を切った。
「このロムの中身を読んだ時、ひょっとして門倉雅と小田切は……何か、別の絆で結ばれていたんじゃないか、と思ったものですから」
「え……?」
「ひょっとして」
風間は少し、言いにくそうに声をひそめた。
「先生が門倉雅に行った催眠療法とは、 それは、前世療法だったんじゃないでしょうか」
7
「 先生?」
病室の扉を開けると、薄闇の中、ベッド脇にうずくまっていた影がそっと顔を上げた。
「恩田さん」
志津子は少し驚いて、目を見開いた。
「どうしたの、こんな時間までいてくれたの」
「え、やだ、どんな時間ですか」
佳織は慌ててベッドの傍から立ち上がった。
「うそ、すごい時間。なんだか転寝してたみたいで」
「電気くらい点けたらいいのに」
志津子は苦笑して、室内の明かりを点けた。
闇に慣れた目が、眩しさにすがまる。
完全看護の個室、窓際に置かれたパーティションとベッド。
そこに、娘が……瀬名あさとが眠っている。
「だってあさとちゃん、本当によく寝てるみたいだから」
佳織はそう言うと、あさとの動かない手を優しくさすった。
「馬鹿ですね、私、こんなにぐっすり眠ってる姿をみたら、なんだか電気点けとくのが可哀想になっちゃって」
「そうね」
志津子は微笑すると、枕元の目覚し時計を手に取った。いつも通り、六時半にセットしてある。
好きな音楽、写真、枕、香り、この二ヶ月間、眠り続ける娘を起すために、あらゆる努力を続けてきた。今のところそのどれも効果はない。
繋がれた電極から伸びるコード。無機質に同じ音を繰り返す電子機械。変わらない脳波、そして同じリズムを刻む心拍数。
柔らかく閉じられた瞳。静かな呼吸を繰り返す唇。見るたびに、志津子は切ない気持ちになる。こうして娘の寝顔をまじまじと見たのは、何年振りになるのだろうか。 。
「髪……」
志津子は長く伸びた娘の髪に、そっと指で触れた。「切らなきゃ、ね」
佳織が顔を背けて涙ぐんでいる。
泣くことはない、幸運なのだ。生きていてくれただけでも。 志津子は自分に言い聞かす。
あの日。 。
赤黒い沁みのようなものにまみれて倒れていた娘の姿を見た時、志津子は覚悟を決めていた。間違いなく、娘は死んだものだと思っていた。
しかし、僅かな擦過傷が足にあっただけで、あさとの身体には、ほとんど怪我らしい怪我はなかった。
真行琥珀の衣服にも、同様に血痕様の沁みが飛び散っていたが、彼もまた、何一つ外傷を負ってはいなかったという。
鑑識の結果、二人の衣服に付着していた液体は、少なくとも人間の血液ではないことが判明した。タンパク質の一種だという説明で、今、DNAを科学捜査研究所で解析中とのことだが、志津子に結果報告があるかどうかは定かではない。
「小田切君の病室へは行った?」
志津子は佳織を振り返った。小田切直人の病室は、すぐ隣にある。
「行きましたよ、小田切先生の所にも。ついでに、真行君の所にも」
開き直ったように笑って、佳織は立ち上がった。
「話し掛けて、手をさすってあげました。……あさとちゃん以外の二人は、ご家族の御見舞がないですからね」
さばさばと語る恩田佳織が、ずっと独身を通している理由を、志津子は知っている。
知っている……が、妻を持つ男を六年も思い続ける理由までは、正直、理解できないでいる。
あの頃の小田切は、自身に興味を示す女性には、むしろ残酷なほど冷たかった。恩田佳織も、その洗礼を受けた一人だったはずなのに。……
「まさか、小田切先生と、こんな形で再会するなんて、思ってもみなかったな」
窓に映る闇を見ながら呟く声は、どこか怒っているようにも聞こえた。
「そうね」
志津子は言葉少なに頷いた。
あれから、……もう、どのくらいの時が立つのだろう。この病院では、初めて小田切直人と会った日から。
(瀬名先生、ほら、彼が小田切さんですよ。今度第一外科に来た新人の研修医。外科の看護士が今朝からずっと騒いでたでしょ)
確かに綺麗な男の人だと思った。整った顔立ちで、目に強い光がある。
長身で、骨格自体は逞しいのに、印象だけは繊細な感じがするのが不思議だった。
(小田切先生って、男のくせにセクシーだよね。今日カルテの整理手伝ってもらったんだけど、指が長くてきれいなの。声もハスキーで、ぞくぞくしちゃう)
(でも、結婚してるって噂だよ。学生結婚、奥さん、六歳も年上なんだって)
しばらくは噂が絶えなかった。外科外来でも患者が増えたと評判にもなっていた。
それが、逆に同僚や上司の不評を買ったのかもしれない。やがて、彼に補導歴があるとか、高校時代に同級生をレイプした過去があるとか どこが調べてきたのか、明らかに彼を揶揄する意図で、様々な噂が広まり始めた。
「小田切先生。まだ、再婚していなかったんですね」
ぽつん、と佳織が呟いた。
「馬鹿ですね、私、あんなにきっぱりとふられたのに、……彼が独身だって聞いて、ほっとしたりして」
軽く息を吐き、佳織は傍に置いてあったハンドバックを引き寄せる。
「じゃ、今度こそ本当に帰ります! 瀬名先生もあまり根詰めないでくださいよ」
「了解」
微笑して片手を上げた。佳織の優しさには、昔も今も助けられてばかりいる。
「先生」
佳織の背中が止まっていた。
「先生も行ってあげてくださいね、小田切先生のところへ」
「え?」
「きっと彼、喜ぶと思いますから」
扉が閉まる。
志津子は無言で、物言わぬ娘の寝顔を見つめていた。
小田切君……。
あさとの顔に、何故か小田切の面影が重なった。
本当にあなたは、私の娘を、あさとを助けようとしてくれていたの?
あなたは、私を。……
時計を見る。九時少し前。
志津子は立ちあがって、窓際のカーテンをわずかに開けた。
丁度真下に、医局用の駐車場がある。
いつも決められたこの時間。二人の影が停められた車に乗込んで、夜の闇に消えていくのを、志津子はカーテンの陰から見守った。
苦笑とともに、意味をなさない吐息が唇から漏れた。
なにも自分の娘が入院している病棟の下に、浮気相手を伴って現れなくてもいいだろうと思う。
いい年をした大学教授がそれくらいの常識もないのかと思うと それが、自分の夫なのだと思うと、怒るというより、笑いたくなる。
(いいですよ、瀬名先生が、望むのなら)
あの夜、唐突にそう言った男の冷めた眼差しは、愛の移ろいやすさを立証することを、むしろ望んでいるようにも見えた。
封印したはずの過去を思い出し、志津子は込み上げてきた苦いものを噛み締める。
(俺が、あの女を誘惑すれば、ご主人、家に帰ってくるんじゃないですか)
志津子は、あさとの手を毛布の下に収め、何度か掌で髪を撫でた。
「あさと、ちょっと、小田切君の顔見てくるからね」
返事を待つ代わりに、かすかな吐息に耳を凝らす。安らいだ寝顔だった。まるで、今にも目をこすりながら起きてきそうなほどに。
「今、何か夢でも見ているの?……幸せな夢でも見ているの?」
ノンレム睡眠でも、人は無意識下で夢を見るという。 レム睡眠時と違い、目が醒めるとあとかたもなく忘れてしまう夢を。
それが幸せな夢であることを、切に祈りたい気分だった。
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