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「門倉祥子の供述について、二、三、先生のご意見をお聞かせください。    それによると、門倉雅は幼稚園に入る前から、不思議な言動を見せていたそうですね」
「地下室のマァルちゃんですね」
 志津子は頷いた。
「あれはなんだったんでしょう。子供が、怖さのあまりに見た幻だったのか、それとも本当に幽霊がいて、エクソシストみたいに門倉雅に乗り移ってしまったのか」
「後者だったら、精神科医ではなく、悪霊払いの出番なんでしょうが、私は前者だと思いますね」
 軽く微笑しながら、志津子は続けた。
「雅ちゃんは、あの地下が、本当に怖かったんだと思います。一種のヒステリー状態に陥って、ありもしない空想の幽霊を見たような錯覚を起こしてしまったんじゃないでしょうか」
「門倉祥子は、娘に何かが憑依したと、しきりに繰り返しているようですが……」
「それは……ないと思いますね」
 志津子はかすかな溜息をついた。「これは私の推測ですが、おそらく祥子さん自身も、本気でそう信じたというより、自身の逃げ場をマァルちゃんに求めたんじゃないでしょうか」
「逃げ場、ですか」
「雅ちゃんが精神に異常をきたすようになったきっかけは、まず、地下室での恐怖体験が引き金だったとみて間違いありません。でも、それを認めてしまえば、雅ちゃんを追い詰めたのは祥子さんと厚志さん自身だったということになる。……」
 供述の中でも、祥子自らが「多重人格だと疑ったことがある」と言ってみたり、『マァルちゃん』は別人でも『三歳の雅』は雅そのものだったと認めているあたり、……確かに認識はしているのだ。そして心のどこかで認めてもいる。
 が、それでも否定し続けなければ、耐えられなかったのだろう。
 逆に言えば『地下室のマァルちゃん』の存在があったおかげで、祥子は今日までの長い間、かろうじて正常を保ちえたとも言える。
 風間は唸りながら、顎のあたりを指で擦った。
「それにしても、少し気味が悪い話だとは思いませんか。なんだか妄想にしては生々しすぎるような気もしますよ。子供ってのは、大人に見えないものが見えると言いますし、あるいは」
「通常、子供に見えるものは、大人にも見えますわ。ただ、目に入っても意識されないだけなんです」
 愚にもつかない話題を、志津子は笑顔で切り上げた。
 実際、明治の頃、地下に閉じ込められた娘が自殺した云々の話も、警察は確認を取っている。確かに早逝した娘はいたようだが、そんな事実はなかったらしい。
 古い話だから、実際のところは判らないだろうが、少なくとも、門倉の系統に、マァルちゃんと呼べそうな娘は一人もいなかったと聞いている。
 風間は、気まずそうに咳払いをして、手元のメモに視線を落とした。
「門倉雅の中にいた、マァルちゃんですが、小学四年で初めて出てきたと、母親は言っていますね。最初はたまに起こる程度だった人格……あ、この頃は人格というより、まだアイデンティティのレベルですかね」
 一人で問いかけ、風間は指で耳のあたりを掻いた。
「まぁ、今は、説明がややこしくなるんで、人格と言わせてください。人格の交代は、どうやら小学校六年あたりでかなり頻繁になっている。中学になると完全に『マァルちゃん』が主人格になってしまった。……で、『三歳の雅』ですか、もう一人の人格が出現した。そのきっかけとなったのが、真行君と、肉体関係を結んでしまったからだという点についてですが」
「………」
「このあたり、門倉祥子さんの思いと、真行君の告白に、若干食い違いがあると思うんですが、先生はどう思われますか」
「さぁ、精神科医というより、彼をよく知っている地域住民としての私の考えは、祥子さんと同じです。琥珀君に、そんな真似ができるとは思えません」
「では、その……門倉雅と真行琥珀は、合意の上で結ばれて、第三の人格『三歳の雅ちゃん』が誕生したと」
「三歳の雅ちゃんがどうやって形成されたか、それを今断じるには、あまりに材料が乏しいと思います」
 やや、厳しい口調で志津子は断言した。
 むしろ、『三歳の雅ちゃん』は、もともと門倉雅の中潜んでいた可能性のほうが高いと、志津子は思っている。
 何故なら、祥子の話から推測するに、『マァルちゃん』の出現に、門倉雅自身がかなりのストレスを感じていた可能性が窺えるからだ。そのストレスが、『マァルちゃん』と正反対のもう一つの人格を生み出した    とも、推測できる。
「『マァルちゃん』は、何年にも渡ってオリジナルに代わって主人格で居続けたわけですが、何故か三年前の事件以降は『三歳の雅ちゃん』が『マァルちゃん』に代わって主人格となってしまった。本当の雅さんは、この三年間ついに一度も出てこなかった。    調書を読む限り、つまりはそういうことですよね」
 志津子は頷く。風間は眉をひそめたまま、溜息をついた。
「この辺りの展開は、もう、カルトの世界ですねぇ」
 思案気に眉のあたりを掻く。
「門倉祥子の言い分では、『マァルちゃん』は賢くて、自分が門倉雅ではないことを、母親以外には悟られないよう装っていたってことなんでしょう? そういうことって有り得るんですかねぇ。だったら複数の人格の内、実際に誰がいつ出ていたかなんて、他人には判断しようがないじゃないですか」
 志津子は再び嘆息した。
「あり得るというより、それが通常の解離性同一性障害の兆候なんですよ、風間さん。よくあるドラマのように、人格の交替が人前で起こることは滅多にありません。本人も他人も気づかない内に、何年も何年も複数の人格を使い分けるケースは、決して珍しいことじゃないんです」
 むしろ祥子のように、詳細に気づく方が稀なのだ。そして、それが門倉雅の唯一の救いなのだと志津子は思っている。
「いや、それは判るんですが、僕が不思議に思うのは別のことなんです」
 風間は頷きながら、向き直る。
「つまりですね、多重人格者どうしは、通常記憶を共有できないというじゃないですか。それなのに、人格の交替を誤魔化すことが、そもそも可能なのかという。……」
 ああ、と志津子は頷いた。
「中には、すべての記憶を知る人格も存在するんです。特に暴力的で、攻撃的な人格ほど、全ての記憶を理解していることが多いそうです。雅ちゃんを支配していた人格がそうだったのかどうかは、今の段階で断定はできませんが」
「あなたが診た時の、門倉雅はどうだったんです?」
「え?」
「三年前ですか、あなたが診た『三歳の雅ちゃん』は、他の人格のことを知っているようでしたか」
「初見では、……それは、全く窺い知れませんでしたね。ただ、何度も言うように、診療は途中で中止になりました。私に判断することはできません」
 正直に言えばその時点で、ほぼ解離性同一性障害に間違いないと、志津子は内心思っていた。祥子には言わなかったが、その少し前に、真行琥珀から、雅の家庭内暴力についても相談を受けていたからだ。
 だから、当時、あさとのことが心配でならなかった。
 門倉雅の中に潜む何者かが、いずれ娘を傷つけるのではないかという、匂いにも似た予兆を感じとっていたのかもしれない。それは精神科医というより、母親としての勘だった。
「奇しくも、母親が捜査員に問っていますね。いったい誰が娘を罰せられるのかと、罰するとしたら、それはどんな罪なのかと」
 風間は暗い声で続けた。
「先生は、どう思われますか」
「どう、とは」
「門倉雅にかけられた嫌疑は、二つです。ひとつは、三年前、つまり本人が犠牲者となった平成十四年の強姦教唆。もう一つは……平成十一年の秋に起きた、やはり強姦教唆事件だと言われています」
 知っている。が、どう答えていいのか判らなかった。
「警察は、本気で立件まで持っていくつもりがあるんでしょうか」
 答えられない代わりに、聞いていた。「平成十一年の事件については、私は詳細を知りません。でも、当時雅ちゃんは十四歳未満でした。三年前の事件についていえば、経緯はどうあれ、被害者もまた雅ちゃん本人なんです。それをどう説明し、罪として立証するのか、……私には……想像もできません」
「司法の判断云々ではなく、人としては、どうでしょうか」
「ですから私は、それを論じる立場ではないんです」
「二つの事件が、仮に門倉雅の中の『マァルちゃん』が起こした犯罪だとして、ですね」
 風間の問いは、執拗だった。
「仮に、先生の娘が被害者だったとしたらどうでしょう。強姦罪は、性犯罪の中では最も重い犯罪刑です。先生は人として、門倉雅を許せますか」
「………」
 志津子は何も言わず、目の前の男の引きしまった横顔を見守った。
 視界の端に、置かれたままの名刺が映る。
 新宿署。
 最初にも思ったことだが、管轄外ではないだろうか。
 そもそも一体何を確認したくて、この男は、わざわざ尋ねてきたのだろうか。
「風間さん」
 志津子は顔をあげた。少し驚いている相手の目を、まっすぐに見つめた。
「あなた、この事件の担当の方ではありませんね。いったい今日は、何を聞くために私を訪ねていらっしゃったんですか」
  
 
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 風間の黒目勝ちな眼が、戸惑って逸らされる。
「失礼な言い方ですけど、刑事さん、あなた、今回の事件そのものを、よくご存知ないのではありません?」
 最初から軽い違和感を覚えていた。判り切ったことばかりを聴き、素人くさい質問を繰り返す刑事。
「僕は、……」
 風間は、困惑したように手を頭に当てた。「そのぅ、……刑事ではありません」
「えっ」
 志津子が立ち上がるより早く、風間が慌てたように立ち上がった。
「ちょっ、待ってください。警察に勤めているのは本当です。総務で経理を担当しています。刑事ではなく、警察事務員」
「それは」何か言おうとした志津子を手で制し、「刑事だなんて、一言も言ってないですから!」
「……あのですね」
 志津子は嘆息して腕を組んだ。「普通は、刑事だと思いますよ」
 悪い男ではないというのは、最初から判っているが、もちろん気は許せない。
 再度、風間に座るように勧め、志津子は、やや厳しい目で対面の男を見上げた。
「まぁ、詐称のことは、黙認します。もちろん理由にもよりますけど。    で、その事務屋さんが、いったい何をお調べになっているんですか」
 風間はうつむき、少しの間黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「僕が……先生にお会いしたいと思った理由は二つあります。一つは先ほど説明したとおり、先生が門倉雅に精神診療を行った唯一の人間だからです。でも、もう一つの理由のほうが、実は僕には重要なのかもしれない」
「どういう、意味でしょう」
「瀬名先生、……偶然にしては、珍しいお名前だと思っていました。元研修医だった小田切刑事は、以前、先生のご主人のもとにいたのではないですか? 先生に面識はなかったのかもしれませんが」
 突然出てきた名前に、その時、自分がどんな顔をしたのか、志津子には判らなかった。
「面識はなくても、六年前、奴の奥さんが、残酷な殺され方をしたのはご存じでしょう。あれだけ新聞で騒がれましたからね」
「ちょ、待ってください。どうしてあなたが小田切さんのことを」
 ようやく志津子の時間が動き出す。風間は静かに居住まいを正した。
「僕は、小田切の友人なんです。高校の時からの……僕は、親友だと思っていました」
「…………」
 暗い目で微笑する男を、志津子はざわめくような動揺を抑えて見つめていた。
 うつむいたまま、男は膝の間で指を組む。
「高校を出て……僕が小田切と再会したのは、新聞報道が出た直後です。……僕の方から会いに行きました。……以来、六年間、僕が知る限り、小田切は常に、自分の中の闇と闘っているように見えました」
「闇、ですか」
 釣られて志津子は訊いている。
「復讐心なのか、……それとも、死への渇望だったのか。今でも僕には判りません。ひとつ確かなのは、静那さんが亡くなった時、小田切の一部も死んでしまったということです」
 風間の眉が、苦しげに寄せられる。
「事件の審判が終わるのを待つようにして、小田切は姿を消し、一切の消息を絶ちました。今でもその間、奴がどこに潜伏していたのかはよく判っていません。正直言えば……、僕は、奴が自殺したのではないかと危惧していました。それほど、静那さんが亡くなった後、小田切はどん底の状態だったんです」
     小田切君。
 志津子は心の中で呟いた。小田切君。
「なのに、半年ほどして、小田切はふらりと僕の部屋を訪ねてきました。住むところがないと言うので、しばらく一緒に暮らしてやることにしました。……そうですね、放浪中に何があったかは一言も喋りませんでしたが、何か、こうふっきれたような眼をしていたと思います。表向きは、もうすっかり、高校時代の小田切でした」
 志津子には、初めて耳にする事件以後の小田切の姿だった。
 むろん、大学病院の関係者全員が、行方をくらました小田切を案じていたし、探しもした。が、妻を殺された美貌の研修医は二度と戻らず、この六年間、音沙汰さえなかったのである。
「毎日、することがないのか、奴は本ばかり読んでいましてね。もともと、驚くほどの読書家で、高校時代、図書館の蔵書全てを読破したという伝説まで持っている男です。医者に戻る気はないのかと訊けば、恐ろしいほど冷たい目をして、二度と戻る気はないという……、なんでしょうね、奴はもしかすると、静那さんを救えなかった医療にも、絶望していたんでしょうか」
 志津子には何も言えなかった。小田切が絶望していたとしたら……それは、おそらく医療にではない。
 その現場でメスを握り、残酷な復讐を企てた、志津子の夫に対してだ。
 彼は夫を、殺したいほど憎んだだろう。が、同時にその憎しみは、それ以上の激しさで自身に向けられていたはずだ。
「そんな感じで半年が過ぎて……秋でしたね。小田切宛に手紙が来たんです。警視庁の人事部からでした。その時ほど驚いたことはありません。小田切は夏の間に警察官の採用試験を受け、しかも国家一種試験の一次に、なんと合格していたというんですよ」
 風間の口調に熱がこもる。風が、窓をがたがたと揺らした。
「僕は、最初、反対しました。小田切の動機が、犯罪者への憎悪からきているとしか思えなかったからです。違うんだと、奴は静かに笑って言いました。事件が起きた後に守るのではなく、起こる前に守る側に回りたいんだと、そう言うんです。だから、一生に一度、力を貸してくれないかと」
「力を、ですか」
「恥ずかしながら、僕の親父が当時、警察庁の人事担当でしてね……。ただ、小田切の場合、縁故を頼るというよりは、実力以前の問題で落とされてしまうのを警戒していたんだと思います。なんといっても、奴は重大事件の被害者家族です。もし、動機の底に憎しみがあると看做されれば、……国民全ての安全を平等に守る警察官には、ふさわしくはないでしょう」
「それで、結局、風間さんのお父様は」
「父は、小田切と対面し、彼の志にいたく感動していたようでした。結局、採用人事に父がどう関与したのか僕には判りません。……総合成績で五位以内入っていた奴は、警察からみれば喉から手が出るほど欲しい幹部候補生だと思いますが、それでも、普通に考えれば……キャリアとしての採用は、難しかったのではないかと思います」
 そこで言葉を切り、人のよさそうな男は微かに笑った。
「実は、僕は一度、先生にお会いしているんですよ。とはいえ、拝見したのは後ろ姿だけですが」
 意味が判らず、志津子は眉を寄せている。
「入庁後、小田切は、警視庁に配属になりましたが、一年ほど、大分県警に飛ばされていた時期がありましてね。見送りに行った時に空港で偶然……、先生はご主人とご一緒だったのかな。ご主人と小田切は互いに会釈していたようでしたが、先生は気付かずにゲートをくぐられてしまわれたようでした」
「そう……なんですか」
 いつのことか、即座に志津子は理解した。羽田から、夫と二人で飛行機に乗る機会などそうないからだ。
 夫は何も言わなかった。いつも無口な人だから、飛行機に乗っている間、終始むっつりしていても、気にもならなかった。
「その時に、以前病院でお世話になった瀬名ご夫妻だと、小田切から聞いたんです。専門まではお聞きしなかったので、まさか奥様のほうもドクターだとは、当時は思いもしませんでしたが」
 この男はどこまで知っているのだろうか。志津子は胸苦しさで、自然と顔を伏せていた。
 娘にはどうしても打ち明けられなかった。あの夜の過ちと、夫が小田切にした仕打ちを。
 小田切を追い詰めた者の一人が目の前にいることを、この男は知っているのだろうか。
「それで、小田切さんは、警察に入って……何か問題を起こされたんですか」
 動揺を堪えて話を戻すと、風間は苦笑して、首を横に振った。
「その逆です。随分際立った仕事をしていたようでした。他人の手柄を横取りするような形で、犯人を挙げたことも何度かあったと聞いています。なにしろ頭がいいだけじゃなく、医学や裏社会にも通じている。本庁には優秀な人材が多いのですが、その中でも小田切は群を抜いた存在だったと思います。……もちろん、その分敵も多かったし、出世のためならなんでもやると、随分陰口をたたかれていましたが……」
 何をやらせても、あの若い男は優秀なんだ。以前夫が、嬉しさと苦さの混じった口調で小田切を評していたのを、志津子は思い出していた。研修医時代もそうであったように、警察になってからの小田切も、周囲から妬まれる存在だったのかもしれない。
 唇に笑みの余韻を残したまま、風間は続けた。
「だから僕も、一時期は安堵していたんです。刑事は奴の性にあっていたんだろうと。でも……違った」
「違った……?」
「最初にも言いました。静那さんが殺されて以来、小田切はずっと心の闇と闘っていたと。当時未成年だった加害少年が、結局保護観察処分になったのはご存知ですか」
「……知っています。とても……不条理だと思ったのを、よく覚えていますから」
 唇を噛み、志津子は眉をしかめていた。
 今から六年前、平成十一年十二月二十三日。
 小田切静那は、夜間の繁華街見回り中に他の教員とはぐれて消息を絶ち、一時間の空白の後に、腹部を刺された状態で、救急車で緊急搬送された。
 傷は大腸深くまで達し、死因は出血性のショック死、病院についた時には、すでに意識がなかったと聞いている。
 翌日、弁護士に伴われて出頭してきたのは十七歳の男子高校生。小田切静那の教え子で、親は都議会議員、学校では優秀な生徒で通っていたことから、メディアで大きく取り沙汰された。
「受験勉強に疲れ、たまの息抜きで遊びに出たら、小田切静那に見つかり    親に通報すると言われ、もみあいになった。弾みで衣服が破られたことに恐怖を感じた静那さんが、バックからナイフを取り出したと……」
 苦悶の表情で風間は続けた。
「そのナイフは、事件前日、別の生徒から没収していたものだったと……。没収された生徒や、その場にいた友人の証言もあって、結局、あれは事件ではなく、不幸な事故だったと結論づけられました。いや、むしろ、ナイフを持ち歩いていた静那さんが、……軽率であり、加害者であるとの風評までたった」
 少年審判が公開されることはなかったが、おおまかな結論だけは新聞の小さな見出しで知っていた。少年側への配慮だったのか、遺族の意向だったのか、当時、小田切静那が妊娠三カ月だったことは、一切報道されなかった。
 志津子は無言で、膝の上で掌を握りしめた。
 死人に口無しとはよく言ったものだ。真偽のほどが少年の口を通じてしか判らない現実に、小田切はどれだけ悔しかったことだろう。いったいどんな思いで、彼は、振り上げた拳を下ろしたのだろうか。   

 その経験と無念が、警察官を志す動機だったのだとすれば、彼は……彼の憎しみは、いったい何処に向けられていたのだろう。
「……小田切は……ことさら、少年犯罪を憎んだと思います。刑事になってからの数年は、犯罪者への憎しみだけが奴を支えていたことだけは間違いない。でも、……それも、……もしかすると、大分に行く頃には、終わっていたのかもしれない」
「え?」
 どういう意味だろう。終わった    ? 
 風間は、うつむいて唇を震わせた。 
「先生。小田切はもう、二ヶ月も意識が戻らないと聞きました。僕にはそれが、……あいつ自身の意思じゃないのかって、そう思えて仕方ないんですよ」
 男は、初めて感情を剥き出しにした顔をあげた。
「もしかして、今、奴は、意識の底で、死ぬことだけを待っているんじゃないかって」
 
 
   
 
 

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