第二章 世界の果て
 
 
 
 
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「先生、……瀬名先生」
 深いまどろみからゆったりと引き上げられるように、瀬名志津子は目を覚ました。
 瞼を開けた途端、闇に広がるカーテンが視界いっぱいに広がっていく。
     あさと……?
 どこかで、娘の声がしたような気がした。
 気のせいだと判っていても、振り返らずにはいられなかった。
「瀬名先生、お客様がいらしてますよ」
 診察室の入口から顔を出しているのは、看護師の恩田佳織だった。
「すごく背の高い男の人。言われたとおり、カウンセリングルームにお通してあります」
「……ああ、もうそんな時間なの」
 腕時計を見る。午後八時三分前。
 八時少し前には着きます    と、電話で聞いた気真面目な声が思い起こされ、志津子は思わず苦笑していた。
 例えば五分前なら、志津子には<少し>とは言えなかった。一分前でも同じである。
 三分前だから<少し>だと思える。偶然だろうが、自分の感覚と同じタイミングで訪れる来客に、少しだけ親近感を覚えている。
「すぐに行くわ。後で、コーヒーお願いしてもいいかしら」
 頷いた佳織は、馴れた手つきでサーバーにコーヒー豆をセットし始める。
「最近、警察の人が受診されるケース、増えてますよねぇ。これも時代なんでしょうか」
「今夜のお客さん、カウンセリングを受けに来たわけじゃないのよ」
 志津子は、小さく欠伸をしてから、立ち上がった。
 外来がひどくたてこんでいて、全ての診療が終わったのが六時半、デスクで食事をとって、そのまま仮眠していたらしい。
 
(特に目立った外傷もないですし、頭を強く打った、ということもないようなんですよ)
(大脳新皮質、大脳辺緑系も共に損傷なし、自発呼吸もできますし、属に言う植物人間というのではないですね)
 
 今日の午後、あさとの担当医である喜谷教授が言っていた言葉が、頭の奥に重く淀んでいる。
「顔色悪いですよ」
 よく気のつく看護師は、眉をひそめ、志津子にカーディガンを手渡してくれた。
「私、もうすぐあがりなんで、あさとちゃんの様子、見てきてあげましょうか」
 恩田佳織は、もう十年近く、志津子のいる精神科に在職しているベテラン看護士ある。
 もうじき三十になるが、まだ独身を通しており、冷たそうな外見とは裏腹に、性格は温和で優しい。
「ありがとう、でも私も、どうせ帰りには寄ってくから」
 志津子は僅かに微笑した。「恩田さん、どうせ寄るなら小田切君の所へ行ってあげたら」
「え……えっ」
 冷静な佳織が顔を赤らめる。「いやだ、瀬名先生、そういうつもりで言ったんじゃないですよ、私はですね、そんな」
「わかってるわよ」
 笑いをかみ殺し、佳織の肩をすれ違い様に叩いた。
「あさとには、私や夫がついているけど、彼には誰もいないから。……声をかけてあげるだけでもね」
 例えそれが、奇跡に近い希望だとしても。
「意識が戻る可能性、高くなるって言うじゃない」
 沈んだ気持ちを悟られまいと、志津子は軽い足取りで診療室を出た。
 あれから二ヶ月。
 世間も、自分も、ようやく日常を取り戻しつつある。
 
 

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「新宿署の、風間といいます」
 差し出された名刺には、風間潤とだけ簡潔に記されていた。
「仕事柄、名刺に職名は入れないようにしてるんですよ」
 大柄で長身の体格は目立つほどに立派だが、体格とは裏腹に顔立ちは繊細で、どことなく知的な感じのする男だった。何よりも、人を疑うことに慣れきった刑事とは思えないほど、目が優しい。
 あれから何人もの私服刑事と会ったが、初めて見る顔である。 
     新宿署……?
 事件の捜査は、警視庁捜査一課、そして世田谷署の管轄だったはずだ。
 志津子は眉をひそめ、名刺を机の上に置いた。
 あの忌まわしい事件からはや二ヶ月。事情聴取も一通り済み、ようやく志津子の身辺からも警察の影が消えた    と思っていた矢先だった。
「今夜はすみません、お時間をとらせてしまって」
 風間は、人の良さそうな笑みを浮かべた。
 刑事、という先入観さえなければ、大学の教員か研究者にも見える。折り目正しく着こんでいるスーツは洗練されて、所有者の趣味のよさを窺わせる。
 年齢がわかりにくい容姿だが、少なくとも志津子よりは若く見えた。三十代前半か……そのくらいだろう。
「瀬名、あさとさんの、親御さんで間違いないですよね」
 志津子の渡した名刺を手にして、風間は少し不思議そうな顔をした。
「そうですが?」
「いや、失礼しました。その、とても大学生のいる母親には見えないので」
「あさとは、若い頃に出来た子供ですから」
 志津子は微笑んで、立ったままの男に席に座るよう促した。
 ソファに腰掛け、風間は軽く咳払いをする。
「早速ですが、門倉雅さんのことをお聞きしたくて伺いました。以前、先生は、彼女の担当医だったそうですね」
「ええ」
 と言っても、実際門倉雅に治療といえるようなセラピーを行えたのは、ほんの数回しかない。
 突然、門倉家から治療の中止を言い渡されたため、それ以上患者を通院させることができなかったのだ。
 志津子がそう言うと、いや、それはそれでいいんです、と風間は手を振った。
「先日先生が本庁に提出された門倉雅の所見を拝見しました。解離性の……ええと」
 メモをたぐる。「ああ、これか、解離性同一性障害の疑い有りとなっている。判りにくいですけど、この病名は、いわゆる    多重人格障害と同じ意味ということですか」
 志津子は頷いた。
「同義語といっていいと思います、正確には学会において、多重人格障害という診断名が、解離性同一性障害に名称変更されたんです。現在精神医学界には、多重人格障害という疾患名は存在しません」
 そう言って、手元のコーヒーを風間に勧めた。
 風間は僅かに目礼し、それでもコーヒーカップには手をつけなかった。
「それはまた何故なんでしょう。僕のような素人には、多重人格症という名称の方が判りやすいと思うのですが」
 少し間延びしたような、ゆっくりとした喋り方だった。
 志津子は微笑した。繊細そうな見かけと違って、中身は茫洋な男なのかもしれない。
「多重人格症は、一九八〇年代にアメリカ精神医学界において初めて診断基準が確立された精神疾患です。当初定義されていた多重人格症とは、一人の人間の中に複数の別人格が存在し、各々が社会とつながりができる程度にまとまったものであること、となっていました――これが風間さんの認識している多重人格症のことだと思います」
「そうですが……、実際はそうではないんですか?」
 志津子は頷く。
「その後の観察と認識により、多重人格者の分身の中には『人格』とはいえないもの――『人格状態』と言うべきものがあることが判ってきたんですよ」
「それはつまり……人格とはいえない程度の……性格的な変化、というものですか? 」
 風間は首を捻っている。志津子は少し考えて続けた。
「例えば、普段温厚な人間が、時折別人のように凶暴になる事例を想定してみてください。その凶暴な性質は、明らかに本人の自己とは異なるものですが、そこに人格と言えるまでの独立性があるかといえば、ないという。……少し乱暴な例えですけど」
「なるほと、よく判ります」
「では、話を戻しますね。統合失調症……昔の言い方だと精神分裂症という疾患なんですが。統合失調症と多重人格症を見分けるのは非常に困難なこととされていました。とても、判断が難しいんです。そして、従来の基準では、一人の人間の中に社会とつながりをもてる程度の独立した別人格が認識できない限り、ほとんどの症例が精神分裂症というカテゴリーでひとくくりにされてきました」
 頷きながら、風間は手帳にメモを取っている。
「それは臨床的にはとても不合理で、現実的ではありませんでした。だから近年、基準が見直され、病名も多重人格障害から解離性同一性障害に変更されたんです」
 少し端折りすぎたかもしれない。志津子はちらりと風間の顔を垣間見た。
 風間は手帳を片手に、熱心に何かを書きこんでいる。そしてそのままの姿勢で言った。
「つまり解離性同一性障害とは、一人の人間が異なる人格を持つのではなく、その……自分自身の性格とでもいうのかな。要するに一人の人間の中で、アイデンティティが統一されていない状態をも含むという……、そう捉えればいいんですね」
「そうですね。……」
 だいたいのニュアンスは合っている。
 アイデンティティとは、自分は男らしいとか女らしいとか、自分は自分であるというような、要は自己の認識のことだ。それが統一されないままに、一人の人間に様々な形で存在する。
 自分のことを男らしいと思う自分と、そして女らしいと思う自分。
 それが同時に一人の人間の中に存在し、時折どちらかが優勢になり、各々の状態で体験した記憶を共有し得ない。
 まさに解離性同一性障害の本質がそれだった。    風間という男は、喋り方は遅いが、呑みこみは早いようだった。
「それは、多重人格と言う定義を緩め、病状を広く解釈しようとした結果なんでしょうか」
 風間は重ねて聞いてきた。志津子はコーヒーを一口飲んでから続けた。
「と、言うよりはですね。要するにこの疾患で侵害されているのは、人格ではなくアイデンティティだということなんですよ。みなさん誤解されていますけれど、解離性同一性障害という病気の本質は、一人の人間に何人もの人格が存在するという点にあるんじゃないんです。一人の人間が、アイデンティティや記憶、意識を統合できないことにその本質があるんですよ。それを強調するために、疾患名が変更されたと言っても過言ではないと思います」
 多重人格という響きが持つドラマ的な要素と偏見が、ともすればこの疾患の本質を見誤まらせてしまうからだ。
 志津子は胸の内でそう言い添えた。
 一人の人間の中に複数の人格が存在する、それがスイッチを切り替えるように突然出たり消えたりする    とてもドラマチックな症状だが、実際の解離性同一障害の症状は、そんなはっきりとしたものではない。
 むしろ、人格の変化に、外部の人間が気づく方が稀だと言われている。
 風間は納得したように頷いた。
「ついでに聞きますが、解離性、というのはどういう意味なんでしょう」
「自分のしたこと、話したことをすっかり忘れてしまう、ということです。別の意識状態が存在して、普段の意識状態ではその意識状態のことを記憶や意識できないというのがいわゆる多重人格、解離性同一性障害にいう解離現象です」
「門倉雅も、そうだったと……先生は思っていらっしゃるんですね」
 志津子はわずかに眉をひそめた。
「解離性同一性障害は、日本ではあまり症例がないんです。しかも、正式な診断を下すには、長い経過観察が必要です。ですから、あくまで推測にすぎません」
 風間は低い唸り声を上げると、短い髪をかきあげた。
「僕は、そういう精神的な……なんていうんですかね、解離性……つまり、多重人格ですよね、要するに多重人格でいいんですよね。そういうものを余り、信じていないんです。犯罪者の言い訳としか思えない。門倉雅に関してですけど、演技とか、思いこみとか、そういう可能性はないんでしょうか」
「演技、というのは?」
「つまり、ですね。門倉雅は強姦の教唆をしていたわけですよ。先生はその部分を、彼女の中の別の『人格状態』が行った犯罪だと所見で述べておられる。    それが、罪を逃れるための演技だったという可能性はないんでしょうか」
 志津子は、軽い頭痛を覚えながら風間を見据えた。
「私には司法のことはよくわかりませんが、現在の日本では、解離性同一性障害は、刑事罰の免責要素にはならないと聞いています」
 そんなことも認識していないのだろうか    内心少し呆れている。
「異なった『人格状態』で行われたことでも、その人格自体に責任能力があれば、免責しようがないですからね」
 が、志津子自身は、この司法判断には不服がある。本人に全く記憶がないようなものまで、本人が罪を負う必要があるのだろうか。
「それは、知りませんでした。いや、そうでしたか、それじゃあ、演技するメリットなんて、ないってことですかね」
 風間は本当に驚いた顔をしている。志津子は嘆息した。
「さぁ? ただ、病気を理由に情状酌量を狙うという手もありますからね。実際、多重人格障害と診断された者の八割は詐称だというデータもあるくらいですから、私には本当のところは分かりません」
 そっけなく言い、そして、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「それに、私が彼女の精神鑑定をしたわけではないですから」
     本当に刑事?
 ふと、そんな風にも思えている。
 カップをソーサに置いて、志津子は改めて風間の顔を正面から見据えた。
「私が彼女を担当医として診たのは、今から三年前、集団暴行を受けた彼女の心のケアをするためです。少なくとも、その時の私は、彼女を多重人格症とは診断していません」
「それは……そうでしたね」
 風間は素直に言葉の矛を収めると、苦笑した。
「先生の今回の所見は、母親の門倉祥子から聞き取った話を元に推測されたということでしたね」
「そうです」
「門倉祥子は……いまだ精神科の方に入院中とのことですが」
 志津子は、軽く唇を噛んでいた。
「確かに、祥子さんの供述には、錯乱と……思い込みからくる妄想がかなり混じっています。けれど、雅ちゃんの病状説明に関していえば、ほぼ的確な内容であったと思います」
 苦い思いが胸に蘇る。
 二ヶ月前の事件の後、まだ錯乱状態が続いていたにも関わらず、祥子は、志津子と捜査員の前で、全てを赤裸々に語ってくれた。それは、    本人の精神状態を差っ引いても、志津子の予想を遥かに越えた内容だった。
「いずれにしろ、雅ちゃんの責任能力の有無を問いたければ、彼女を正式に精神鑑定してみてください。私のような身内ではなく、彼女を客観的に鑑定できる、第三者に依頼でもされたらよいのではありませんか」
 やんわりと言ったが、志津子なり皮肉を込めた発言でもあった。
 回りくどい言い方で、所見の真偽を問う男に、多少の苛立ちも感じている。
「いや、これは失礼しました。ご機嫌を損ねたのなら謝ります」
 驚くくらいあっさりと、警察から来た男は頭を下げた。
「確かに僕は、門倉雅の知人でもあるあなたの診断は公平性を欠くのではないかと、疑っていました。でも、僕がお聞きしたいのもまた、彼女をよく知る立場としての、先生のご意見なんです。もう少し、お話を伺わせていただいてもよろしいでしょうか」
「はぁ……」
「ありがとうございます!」
 再度、男は大仰に頭を下げる。
 その所作が妙に真面目くさっていたので、志津子は可笑しくなって、ようやく肩の力を抜いていた。
 
 
   
 
 

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