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 雅は、……いえ「マァルちゃん」の振舞いは目に見えて非道くなり、冬が始まる頃には、すでに私の手には負えなくなっていました。
 夜になれば、派手な化粧をして出て行って、朝まで帰らないことはしょっちゅうです。夜中に、誰かのバイクの背に乗って帰ってきたこともありました。注意すれば、狂暴化して容赦なく暴れて……本当に、どうしようもありませんでした。
 色んなお友達とお付き合いしていたんでしょうね。おかしな電話もよくかかってきました。
 門倉にも相談し、あの人もようやく現実を認めはしてくれたんですけど、今は仕事が忙しいの一点張り……。直視する勇気がなかったんでしょう。あの人にはああいう、……家庭に関して逃げ腰といいますか、ひどく臆病なところがございましたから。
 結局、「マァルちゃん」の派手な夜遊びは、その年の終わりまで続きました。
 私は、よくは知りませんけど、犯罪まがいのことにまで手を染めていたのだと思います。後から聞きましたが、門倉の側近が、随分後始末に奔走したといいますから。
当時の門倉は、見苦しいくらい娘のゴシップを隠すのに必死でした。……選挙が近かったからでしょうね。きっと。
 
 
 何があったのか、年が明けると、『マァルちゃん』の夜遊びは、不思議なくらいぱったりと止みました。
 それでも家の中では相変わらずで……本当に、爆弾を抱えているような日々だったと思います。
 救いは、悔しいようですが、琥珀さんでした。
 琥珀さんだけは、「マァルちゃん」を「三歳の雅」に変えることができるんです。そう、彼にしか出来ない方法で、です。
 当時の私は、それでも琥珀さんは、雅にいったい何が起きているのか、正確には判っていないはずだと信じていました。
「マァルちゃん」のことは、私の口からは一切話してはいませんし、もともと雅は、琥珀さんに対して極端に冷たい態度をとっていましたからね。「マァルちゃん」自身が雅を装っている以上、冷たい雅の延長線にあってもおかしくなかったはずなんです。
 それでもいつだったか、琥珀さんに私、こう聞いたことがあります。
 彼が高校二年生になったばかりの頃でしょうか。疲れていて……投げやりになっていたんでしょうね。本当に、なんの気なしに漏らした言葉でした。
「本当の雅ちゃんは、いったいどこに行っちゃったのかしらね」
 家を出る間際だった琥珀さんが答えたのは、一言だけでした。
「雅は、時々出てきますよ」
 さーっとその刹那、背筋に鳥肌がたったような気がしました。
 琥珀さんは、もう全てを理解しているのだと    その時、はっきり知りました。
 
 
 学校での雅は……いえ、「マァルちゃん」は、相変わらずの優等生を演じ切っていたように思います。あさとちゃんとも、今まで通りのおつきあいをしていたようですしね。
 ええ、あさとちゃんに対しては、……騙していたようで、……心苦しいし、志津子さんには申し訳ないことをしたと思います。
 あさとちゃんは、まるで気付いていないようでしたが、あの頃の雅は、「マァルちゃん」にすっかり支配されていましたから。
 そういう意味では、ひどく頭がいいというか……。恐ろしい女なんです、雅を支配していた「マァルちゃん」という化物は。
 こう言っていいなら、私以外の誰であっても、そう、琥珀さんであっても、「マァルちゃん」の演技や擬態を、完全に見抜くことはできなかったでしょう。
 私が見抜けた理由、ですか……?
 それは、母親だから、としか答えようがありません。
 不思議なことに、私にはわかるんです。あの恐ろしい女が、どんな擬態を使おうとも……雅ではないことくらい、一目で判ります。
 志津子さんには悪いと思いますけれど、私は……それでも、あさとちゃんとのつきあいが、雅をいい方向に導いてくれるのではないかと、藁にもすがるような思いで願っていました。
 理由はわかりませんけど、いつも一人ぼっちだった雅にとって、……あさとちゃんというのは、本当に大切な、たった一人のお友達でしたから。
 
 
 本当の雅は。……
 琥珀さんの言う通り、時折、本当に時折、出てきたのだと思います。
 雅が時々、ひどく悲しそうな顔をしていることがあったから。   

 とても辛そうな眼で、琥珀さんを見つめていることがあったから。    その時、きっと雅は本来の自分に戻っていたのだと思います。
 私の傍に来て、何か物言いたげにしていたこともあります。涙をこぼしたこともあります。
 私が負った傷を見て、胸を痛めていたんだと思います。あの子は……今思えば、あの子なりに、この状況をなんとかしようと、あがいていたんじゃないでしょうか。
 私は……見て見ぬふりをしていました。一度、病院に連れて行こうとして「マァルちゃん」に非道い目にあいましたから。……結果的には黙殺したことになります。
 うかつに話しかけた後の、「マァルちゃん」の報復が怖かった。――ええ、私は駄目な母親でした。
 
 
 三年前の、雅が襲われた事件ですか?
 あの夜は、夏祭りで……あさとちゃんから電話をもらって……後のことは、私、実はよく覚えておりません。
 なにかしら、こう、自分でない誰かが自分の代わりに振舞ってくれているような、そんな不思議な感覚が続いた後、私は、病室で……娘の枕元につっぷしたまま、「雅」の声で目覚めたんです。
「お母さん……」
 その時の雅ですか?
 もちろん「本当の雅」でした。
 私にはわかります。だって母親ですからね。
「もう……大丈夫……」
 雅はそう、呟きました。表情は虚ろで忘我した風ではありましたが、あの子の、本来の、優しくて美しい声でした。
 私は涙が溢れ    それは後悔と懺悔の涙でしたが、ようやく母親としての自覚を取り戻しました。
「眠りなさい、何もかも忘れるのよ」
雅の髪を撫で、私はそう言いました。
 あの子は素直に頷いて    目を閉じました。そして目を覚ました時には、本当に何もかも忘れていました。
 翌朝、「三歳の雅」が、微笑んでベッドに仰臥していました。
「ね、ママ? わたし、どこか怪我をしたの?」
 あの子はそう言って、本当に楽しそうに笑ったんです。
 その時、私は……漠然と予感しました。
 もう    「雅」が私の前に現れることは、二度とないのだと。
 そして実際、ここ最近までの約三年……雅はずっと、「三歳の雅」のままでした。
 
 
 あのむごたらしい事件は、皮肉なことに、私たちに思わぬ平穏をもたらしました。
「マァルちゃん」が消えたんです。
「雅」も消えましたが、「マァルちゃん」が出てくることも、以来、二度となくなりました。
 事件後、門倉の同意を得て、私は、雅と琥珀さんと婚約させました。
 ええ、急がせたのは私です。
 琥珀さんは    あの子は本来、高校卒業と同時に、家を出るつもりだったんです。
 雅との関係にあの子の神経も磨り減っていて、もうぎりぎりの所まで追い詰められていたのは、よく判っていましたから。
 逃がすものか、と思いました。
 あの事件は    そういう意味では、琥珀さんには悪いですけど、もう一度あの子を雅に縛りつけるという意味では、願ってもないタイミングでした。
 だって、雅には琥珀さんが全てだったんですよ? あんな雅を置いて、逃げられてはたまりませんもの。
 
 
 雅のカウンセリングをしたい。   
 志津子さんの申し出に門倉が応じたのは、「三歳の雅」の知能が、若干弱いことを気にしていたからだと思います。
 「三歳の雅」というのは、私がイメージから勝手につけた名称ですけど……、そこまではいかないにしても、中学生程度の知能しかないと、テストの結果宣告されていましたからね。
 口のきき方も子供じみているし、人見知りがひどくて社会との繋がりを持つことができない。そんな娘が、世間体を気にする夫には我慢ならなかったんでしょう。
 それで、志津子さんに、雅をお任せすることにしたんです。
 治療を受けるにあたって、私のほうから志津子さんにお願いしたことが、ひとつだけあります。
 それは、何があっても、「雅」に事件のことを思い出させないで欲しい、ということです。
 志津子さんは、難しい顔をしていましたけど、あの子がああいう風になってしまったのは、なにもあの事件がきっかけではないんですから。……
 それに、断じて言いますが、雅は精神の病気などではありません。
 確かに、私もそう疑っていた時期がございます。でも、違うんです。あの子は「マァルちゃん」に身体を乗っ取られていたんです。ええ、多重人格症のことなら、私も勉強しましたけれど、雅のそれは違います。絶対に違うんです。
 あれは    雅とは根本的に違う、何かなんです。
 
 
 何故、カウンセリングを、途中でやめさせたか、ですか。
 それには理由があったんです……。いえ、決して志津子さんを責めているわけではないんですが。   

 志津子さんの診療を受け始めて……、一ヶ月もたった頃でしょうか。あの子、急に部屋を移りたいって言いだして。
 ええ、例の蔵に、です。
 以前は、うちに詰めていた記者さんのために開けてありましたけど、今は閉め切っていたあの蔵の二階に、自分の部屋が欲しいと言いだしたんです。
 かなり迷いましたけど……琥珀さんと雅さんは……なんといいますか、既に夫婦も同然の仲でしたし、……私としても、気持ちのいいものではございませんでしたから、二人で過ごせる別宅として、あの蔵の二階を改装して、雅の私室にしてやったんです。
 雅は、……何を思ったか、一人であの蔵に閉じこもって……一日中、パソコンでインターネットをしたり……、何かを書いているようでした。ええ、押収されたノートがそれだと思います。部屋に人が入るのを嫌い、琥珀さんであっても、許可がなければ入れなかったようですから。
 いつだったか、あの子が琥珀さんと出かけたのを見計らって、私、雅の部屋に入ったことがあるんです。
 机の上に、大学ノートが広げたまま追いてあって……なんていうんですか、それが、いかにも「読んで」といわんばかりでしたので、つい、目を落としてしまったんです。
 見た瞬間、ぞっとしました。
 数冊のノートに、びっしりと書かれた意味不明の記号や図形……。初めて私は自覚しました。一見、まともに見えた「三歳の雅」にも、やはり異常な一面があったんです。
その時、地下にまで降りてみれば、おそらく例の落書きがあったのでしょうが、そこまでの勇気は、私にはありませんでした。
 いずれにしても、このままではいけないと思いました。
 私にとって、「三歳の雅」は、「マァルちゃん」のような他人ではありません。理由は判りませんが、雅がそのまま幼い頃に戻ってくれたかのような、そんな愛しい存在なんです。
 もしや、志津子さんのカウンセリングが、雅をまた悪い方向に導いてしまったのではないかと。    怖くなったんです。
 それで、門倉にも相談して、治療をやめさせることにしました。
 ノートのことは、志津子さんには話しませんでした。私も門倉も、恐れていたんだと思います。
 せっかく私たちの元に戻ってきた娘を、再び過去の悪夢に巻き込んでしまうことに、です。
  
 
 なのに、私たちの願いも虚しく、「マァルちゃん」は再び現れました。
 昨年の、冬の終り頃でしょうか。本当に一瞬、表情の変化でそう判る程度でしたが、私は、すぐに確信しました。雅の中で、またあの怪物が息づき始めているのだと。
 それは日増しにはっきりとしてきて、出てくる時間も長くなり    ふとしたことがきっかけで激しい癇癪を起こし、「マァルちゃん」は再び私に暴力を振るうようになりました。
 おそらく琥珀さんも、かなり早い段階から気づいていたんだと思います。それとなくあさとちゃんを雅から離そうとしていましたからね。
 琥珀さんにも……判っていたんでしょうねぇ。……私もようやく気付きました。「マァルちゃん」は、雅にとっての邪魔者が許せないんです。私が最たるものでしたが、同時に、琥珀さんに近づく女も許せないんです。
 あの頃、「三歳の雅」は、蔵に閉じこもりっぱなしで、人見知りは激しかったものの、日常生活では、時折大学に行ったり、一人で買い物ができるまでに回復して、……家でも料理を作ったり裁縫をしたりと、穏やかな日々が続いていて、私も琥珀さんも、少しばかり気が緩んでいたんです。
 琥珀さんが、しばらく遠ざかっていた剣道を始めたのもその頃で、……離れていたあさとちゃんと、再び親密になったのも、その頃じゃないんですかね。
 そのせいで「マァルちゃん」が再び出たとは言いません。
 でも、あさとちゃんはそういう意味では、一番危険な立場だったんです。
 
 
 最後のあの日。   

 雅があさとちゃんの家に一泊して、帰ってきたあの日、    雅はもう、「三歳の雅」でも「マァルちゃん」でもありませんでした。なにかもう……まるで別人のような……恐ろしいものになっていました。
 それからのことは、私にはよく判りません。三年前の事件と同じで、急に意識がぼんやりして……自分でない誰かが自分の代りに動いている、私はそれを何処か別の場所から見ている……そんな感覚が、ずっと続いて。……
 我に返ると、目の前に志津子さんがいて、家の中には大勢の刑事さんが入りこんでいて、大騒ぎになっていました。
 ええ、漠然とは覚えています。……
 夜中に、あさとちゃんが訪ねてきてくれたんです。
 蔵の二階にいる雅が、今「誰」になっているのか、その時の私には、もう、わけがわからなくなっていました。
 ぼんやりとした気持ちのまま、あさとちゃんを蔵まで案内し、私はしばらく、リビングで放心していました。
 すると、琥珀さんが降りてきて、不審そうな顔で私に聞くんです。
  
「表に自転車が停めてありましたけど、誰か来ているんですか」
 
「ああ、あさとちゃんが、雅の部屋にいるのよ」
 私は投げやりに、そんな返事をしたと思います。琥珀さんの顔色が、さっと悪くなって、そのまま部屋を出て行って    多分、蔵の様子を見に行ったんでしょう。
 それきりです。
 私は一晩中起きて、母屋から蔵の様子を見ていましたけれど、朝まで    あの騒ぎが起こるまで、扉は一度も開かなかったように思います。
 もともとが蔵ですから、出入り口はひとつしかありません。窓は二階にしかございませんし、外からも中からも、出入り口以外に、人が出入りできるはずがないんです。
  
 
 あの三人が突然現れた理由、ですか。   

 さぁ、……判りませんね、私はその瞬間を見たわけではないので。
 ええ、むしろ不思議なのは、一緒に見つかった中学生の少年が、どうして部屋の中にいたか、ということですよ。
 だって、彼が家に上がっていたことを、私は何も知らなかったんですからね。一体何時の間に雅の部屋に入りこんでいたのか、それがどうしても判らないんです。
 あの少年に見覚えが? いえ、全然ありません。
 後から刑事さんに聞きましたよ。夏の間、ずっと雅をつけ回していた子だそうですね。
 広島で、タレントのようなことをやっていて、夏休みの間だけ、仕事のために上京していたとか。
 そんな、危険な子供を、雅がどうして部屋に上げていたのか。……全く理解できません。
 雅一人が、庭に倒れていた理由も、私には判りません。窓から転落した風でもないと、後から聞きましたけれど。……
 なんにしろ、命に別状はないと聞いてほっとしています。ええ、もちろん、予断を許すような状況ではないですけどね。
 
 
 あの子は……あのまま眠っていた方が幸せのような気がしますよ。
 目覚めても、待っているのは地獄じゃないですか。いっそ、夢の中にいたほうが、雅にとっては幸福なんです。あなたも、そうは思いませんか?
「マァルちゃん」でも「三歳の雅」でもない、私の本当の娘は、三年前から、ずっと眠り続けているんです。ずっと夢を見続けているんです。
 ねぇ、それはいったいどんな夢なんでしょう。目覚めることなく見る夢なら、それはもう、雅にとっては、現実と変わらないんじゃないでしょうか。
 それが幸福な夢なら……私はもう、あの子に起きなさいとは言えない……。言いたくはないんです。
 
 
 ひとつだけ、母親として言わせて下さい。
 刑事さんにお聞きましたが、六年前ですか? そして三年前の事件ですか? 雅が、暴行の教唆をしていたなんてあり得ません。どんな証拠があろうと、絶対に不可能です。
 やったとしたら、それは「マァルちゃん」の仕業なんです。事件当時、雅は完全に「マァルちゃん」に支配されていたんですから。
 それでもあなたは、雅を罰せられるんですか? それは、いったい、なんの罪で? しかも二番目の事件の被害者は、ほかの誰でもない「雅」自身だったというのに?
 
 
 琥珀さんに対しては、須藤悠里さん……でしたか、その方に対する殺害関与の疑いがあると聞きました。
 それも、あり得ませんし、何かの間違いだと思います。
 確かにうちの納戸には先代が集めた日本刀がございますが、すべてお調べになってみて下さい。あんな……何年も手入れもせずに投げてあるようななまくらで、本当に人が斬れるんでしょうかしらね。
 だいいち、琥珀さんにそんな思いきりというか、残酷さがあれば、あんな状態の雅をいつまでも面倒みたりは出来ないでしょう。
 あの子の成績が、都内でもトップクラスだというのはご存知ですよね。剣道だって、始めてすぐに神童と呼ばれ、あのまま本格的に続けさせていれば、その道で名を残すくらいは簡単にできていたように思います。
 琥珀さんのことなら、親以上に知っているつもりですが、あの子は……こう言っていいなら、一種の天才なんです。
 ある意味、とても恐ろしい子です。一度学習したことは絶対に忘れないし、それを幾通りにも応用する知恵を持っています。
 たとえ門倉の家を追い出されても、琥珀さんなら、どうやっても一人で生きていけるでしょうし、どんな道でも、きっと大成するでしょう。
 本人も……それはよく、判っていたように思いますから。
 それに、あの子は、    琥珀さんは、……随分前から、幼馴染のあさとちゃんが好きだったんですよ。あさとちゃんも、多分。……二人は一時、おつきあいのようなことをしていたのかしらねぇ。そこまでは、はっきりとは判らないですけれど。
 なのに、琥珀さんは、雅ちゃんの傍に一生いる道を選んだんです。
 才能溢れるあの子にとっては、何の未来も見えない道を、です。 
 
 
 私は、琥珀さんの存在自体が疎ましいし、雅を追い詰めたことに関しては、絶対に許せないと思っています。ええ、今でもそれは変わりません。
 ただ    琥珀さんが、もう一度目覚めたら。
 その時は、もう、彼を開放してやるつもりです。
 だってそうでしょう。雅を助けないといけないのは琥珀さんじゃないんです。……母親の私なんですから。
 
 
 
 
     
 
 
 
 大丈夫、何があっても、どんな言葉が聞こえてきても。
 
 何も感じないし、痛くもない、……怖くもない。
 だってこれは、夢だもの。
 私は私じゃないんだから。
 
 私は……何処にもいないんだから。
 
 
   
 
 
 
 

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