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 最初に、雅の異変を目の当たりにしたのは、あの子が小学四年生の夏でした。
 朝から、とても暑い日で……午後、勉強していた雅の姿が見えなくなっているのに気づいた私は、あの子を探しに、庭に出て行ったんです。
 庭には、雅が大切にしている百合園があって、今が丁度盛りでしたからね。あの子……暇があれば、よく庭に出ていたものですから。
 雅はいました。
 白い花に埋もれるみたいにして。
 ええ、言葉通りです。花という花は、全部頭から切り取られて、あの子の周りに散乱していたんです。
 雅は鋏を手に、ぼんやり立っているように見えました。
「雅! あなた何をしたの」
 雅の反応はありませんでした。ただ、じっと、空の一点を見つめているんです。
「雅!」
 私は鋭く叱り、あの子の手を掴んで、こちらを向かせようとしました。
 何が起きたのか、すぐには判りませんでした。気がつくと私の腕から血が流れていて……雅に、鋏で切られたのだと、頭では判っても、すぐには受け入れられませんでした。
「どこに隠した?」
 男のような口調で雅は言いました。いえ、その声は、もう雅のものではありませんでした。
 私は意味が分からず、ただ立ちすくんでいました。
「私の子供、どこに隠した?」
 まるで大人の    女のような、毒を含んだ目で私を見上げ、あの子は、笑いました。「ああ、あんたじゃないか」
 意味が、わかりませんでした。
「あんまり雅をいじめると、私があんたを罰しちゃうよ」
 私の前で、あの子は、威嚇でもするように鋏をかざしました。それから   

「私が、誰だか判らない?」
 薄寒くなるほど邪気のこもった笑顔を浮かべて、私の耳に唇を寄せて囁いたんです。
「マ、ア、ルちゃん」
 その時は、まだ雅が悪ふざけでもしているんだろうと思いました。
 けれど、次に、    雅が口にした言葉を、私は生涯忘れられないでしょう。
「雅は全部知ってるよ。あんたと○○○が、セックスして、それで雅が生まれたんだ」
 頭が真っ白になりました。
 雅は……自分の父親が……門倉でないことを知ったんです。知っていたんです。
 あるいは、私と門倉の言い争いを聞いていたのかもしれません。私たちは注意していたつもりでも、あの子が本気になれば、盗み訊く機会はいくらでもありましたから。ああ、でも雅が生まれてからそんな争いをしたことがあったかどうか、……もう覚えておりません。私にもわけがわかりません。……
 
 
 それが、私が「マァルちゃん」を見た最初で、以降、一週間に一度……数時間程度の割合で「マァルちゃん」は出てくるようになりました。
 最初の頃、恐ろしさと、それでも雅が悪ふざけをしているのだろうと、そう願いたい一心から、雅を問い詰めたことがあります。
 雅は……子供の頃に遊んだ「マァルちゃん」のことは、すっかり忘れておりまして、自分がそのような異常な言動をしたことさえ、記憶に残っていないようでした。
「お母さん、それ、本当の話なの?」
 あの子もまた、言い知れない不安を感じたようで……おそらくあの子なりに、日常的な記憶の途切れなど、異常の認識があったのでしょう。
 私は、あの子を病気だと断じることの恐ろしさと……、異常を認めたくない一心から、それは思春期にありがちな一時的な現象にすぎないと、雅にというより、むしろ自分に、必死になって説明しました。
 人に話すと、誤解されるから、絶対に他人には漏らさないように、と、そのようなことまで、念を押したような気がします。
 今思えば、その頃の私は、雅というより門倉の反応のほうが恐ろしかったんです。
 もし、雅に異常があると判れば、あの人はますます琥珀さんを偏愛し、私と雅はこの家から追い出されてしまう……、そんなことまで危惧していたような気がしますから。
 それは、雅も同じだったことでしょう。
 
 
『マァルちゃん』が本当に地下の幽霊だったのか、そんなことは私には判りません。
 ひとつ確かなのは、あの頃    雅の中で、マァルちゃんという別の『人間』が静かに息づき始めていたんです。
 雅も私も、それを知っていながら、互いに見て見ぬふりをし続けていました。
 私たちは……そういう意味では、すでに母子としては破綻していたのかもしれません。
 
 
 もっと早く、なんらかの治療を受けさせておけば……と、痛烈に悔いるようになったのは、雅が小学校の、最終学年になった頃です。
 その頃、雅の中の「マァルちゃん」は、ほぼ一日の半分を、「雅」になりかわって、支配していたように思います。
 卒業の頃になると、……もう、雅が出てくるのは週に一度、程度だったでしょうか。そうです。「マァルちゃん」と雅の力関係は、あの頃、完全に逆転してしまったんです。
 信じてもらえないでしょうが、私だけは知っています。あの頃の雅は、雅ではありません。「マァルちゃん」だったんです。
 夫でない人と通じた私を憎み、蔑み、淫売婦でもみるような眼を向ける「マァルちゃん」が、娘と同じ顔をしてあの家に居ついていたんです!
「マァルちゃん」が雅でない証拠に、あの子は私に平気で暴力を振るいます。
 叩かれたり、髪を引っ張られたり、物を投げつけられたり。当時はまだ、そんな癇癪を起こすことは滅多にありませんでしたが、「マァルちゃん」の機嫌が悪い日は、私は一日、ぴくびくしながら過ごしたものです。
 ええ、雅にはできやしません。あの親思いの優しい子に、そんな真似ができるはずがありません。あれは雅じゃないんです。雅の体を借りた怪物なんです。
 さすがに門倉にも打ち明けました。当時はもう、琥珀さんが他人だということは判っていましたからね。でも、当然のことながら、あの人は信じてはくれませんでした。無理もありません。
 何故なら「マァルちゃん」は、とても狡猾で、私以外の人前では自分が「マァルちゃん」だとは、決して悟られないような賢さを持っているんです。
 しかも「マァルちゃん」は、自分こそ本当の門倉雅だと……そんな風に思っていたような気がするんです。雅になりきっているんです。そうです、私の雅は、「マァルちゃん」に身体を乗っ取られたようなものなんです!
 琥珀さんやあさとちゃんは、さすがに、おかしいと思っていたようでしたけれど、……それでも、まさか雅を支配している別人がいるなんて、考えも及ばなかったんでしょうね。
 いえ、私だって、その後「三人目」が現れるまで、「マァルちゃん」の存在は、本当に思春期からくる、一時的な心の病かもしれないと、かすかな希望を持っていたくらいですから。……
 
 
 雅の中に、もう一人、別の誰かが存在していると気付いたのは、あの子が中学二年の夏、忘れもしません、6年前の8月20日のことです。
 
 
 その……二か月ほど前から、我が家には立て続けに変化がございましてね。
 5月の初めでしたか、門倉が家を出ることになったんです。ええ、仕事の関係で。
 それを機に、我が家の、いままで溜まっていたどろどろした膿みたいなものが一気に噴き出してしまったんでしょう。
 まず、琥珀さんが家に帰らなくなりました。
 学校にも行かず、あれだけ打ちこんでいた剣道の稽古にも行かず、お友達の家を泊まり歩くようになりまして。……
 担任の先生や、道場の方などは大変驚いておられましたが、私に驚きはありませんでした。むしろ、無理もないだろうと。……琥珀さんは、ある意味、雅以上に孤独で寂しい子供でしたから。
 そんな荒んだ時期は、結局、夏の終わり頃まで続きましたけど、逆にその程度で落ち着いたのが、私には不思議なくらいでした。
 
 
 門倉がいなくなって、琥珀さんが帰らなくなって    当時、完全に歯止めをなくした「マァルちゃん」の私への暴力は、殆んど日常的になっていました。
 何か気に入らないことがあれば、手あたり次第に物を掴んで投げつけます。髪を引っ張られて……階段から突き落とされたこともあります。ベランダに締め出されて、一晩中、中に入れてもらえなかったことも。
 本当の雅は、もう出てきてはくれませんでした。
 その頃、私の娘だった雅は、私の前から完全に消えてしまったんです。ええ、もう、何をしても出てきてはくれませんでした。
 私は、復讐されているんだと思いました。そうです、「マァルちゃん」は、雅に代わって、私に復讐していたんです。罰を与えていたんです。
 雅が私を憎む理由を、私はよく知っていました。
 あの子は、知ってしまったんです。自分が父親から愛されない本当の理由を。それが全て、私のせいだということを。
 当時、私の心は、すっかり麻痺していました。そんな時    とんでもない場面を、見てしまったんです。それが8月20日の前夜ことでした。
 
 
 その夜、たまたま寝つかれなかった私は、水を求めに台所に立ちました。
 ひそひそと囁くような声が、庭のほうから聞こえてきて    窓を開けた私は、驚いて声も出ませんでした。
 雅が、……琥珀さんと抱き合うようにして、庭先の木陰に立っていたんです。まるで大人のように甘えた声で何かをしきりに囁いているんです。
 それから急に、ぽろぽろと泣きだしまして……今度は一転して、子供のように駄々をこねているように見えました。そうかと思えば次の瞬間にはひどく甘えて    何度も口づけをせがんでいるようでした。ええ、雅の方からです。
 琥珀さんは、困惑しているようでしたが、概ね、雅の言う通りに振舞ってくれていました。子供をあやすように、です。
 私は、女の直感で、二人がもうかなり深い関係にあることを察しました。
 けれど、怒っている心のどこかで、正直ほっとしてもいました。
 あの頃の私は、雅をコントロールする自信を完全に失っていたんです。
 私は    私がなすべきことの全てを、あの生意気な少年に押し付けようと思いました。 そして翌日、琥珀さんを呼びつけました。
 
 
「責任はとるのでしょうね」
 私は一言、そう言いました。
 
「取ります」
 琥珀さんは、短くそう答えただけでした。その可愛げのなさに、私はかっとしました。
 あの頃の琥珀さんは、中学三年とはいえ、身長は百七十を軽く超えていて、眼つきも妙に大人びていて……。大人の男性と向き合っているような錯覚を覚えるほどでしたから。
 
「いったい、いつから、二人はそんな関係なの」
 琥珀さんは、随分長い間黙っていた後、概ねこのような告白をしたと思います。
 自分はかねてより、雅のことが好きで、先日、ついに堪えかねて強引に行為に及んだのだと。
 雅に咎はなく、全ては自分の責任だと……そんな内容でした。
 
 私は、怒りでわなわな手が震えだすのを感じました。
 
「あなた、自分がなんてことをしたか判っているの。居候の分際で、うちの娘に手を出すなんて、思いあがりも甚だしい!」
 
 私はあの時、琥珀さんではなく、あの子の母親に向けて怒っていたのかもしれません。
 
「すぐに出て行ってもらいます。施設でもどこでも行って、これからは一人きりで生きていけばいいのよ」
 
 その時、雅が飛び込んできました。
 いえ、雅でも「マァルちゃん」でもない、もう一人の雅が。
 
「ママ、やめて」
 
 ママ    びっくりしました、雅が、私のことをママと呼んだことなど、今まで一度もなかったからです。
 その子は、瞳に涙をいっぱいためて、まるで子供のように琥珀さんにすがって言うんです。
 
「ママ、私琥珀が好きなの、大好きなの。お願い、琥珀をうちから追い出さないで。琥珀がいなくなったら、雅も死んじゃうから」
 
 耳を疑いました。
 今まで、あれだけ琥珀さんに対して    冷たくしていた雅が、どうして。
 いえ、それ以前に、ここにいる雅はいったい何者なんだと、そんな気味悪さでいっぱいになりました。
 
 
 雅は、実際、琥珀さんの膝にすがるようにして泣き続け、琥珀さんは、ずっと雅をあやしていてくれました。
 あの子は……本当に安心したように、琥珀さんの手を握ったまま、寝てしまいました。 琥珀さんはあの子を寝室まで運び、私たちは、再度二人で向き合いました。
 
 
「今のは、どういうこと」
 琥珀さんは、初めて苦しそうな表情になって、嫌がる雅に無理な振舞いをした直後から、あんな表情を見せるようになったと打ち明けました。
 琥珀さんは、全てが自分のせいだと言うような言い方をしましたけど、雅の元からの異常を知っている私には、そればかりが原因だとは思えませんでした。
 雅の根は、もっと深いところにある……。問題は、むしろ凶暴性を増していく「マァルちゃん」のほうで、先ほどまで琥珀さんの腕の中にいた雅は、愛らしくて可愛くて、まるで三歳の頃の雅のように……むしろ、守ってやりたいほど愛おしい感じがしましたから。
 
 けれど、その時私は、閃くように、残酷な復讐を思いついていたのです。
 
「最初にも言ったけれど、あなたには責任をとってもらうわ」
 私は冷酷に断罪しました。
 
「門倉はあなたがお気に入りだから、雅が望めば、すぐにでも養子にするでしょうよ。責任というのは、あの子と結婚までするという意味です」
 
 さすがに琥珀さんは硬い顔のまま、黙り込んでしまいました。
 大人びて見えても、まだ十五歳です。それなのに、私はさらに彼に追い討ちをかけました。
 
「あなたには、雅の全ての面倒をみてもらいます。高校も大学も、全部あの子と同じところへ行って、常にあの子から目を離さないでちょうだい。二人が成人したら、正式に婚約させてあげるから」
  
 私には、きっと、判っていたんです。琥珀さんは嘘を言っている。    そこに、何があったかは知りませんが、琥珀さんは雅を愛してはいません。
 どうせこのままでは、雅はまともな結婚などできない。私はそう思って、かねてから憎んでいたこの少年に、まるで復讐するかのように、全ての憤りをぶつけたんです。
 
 
 ええ、雅がおかしいのは元々のことなんです。けれど私は、琥珀さんの誤解をそのまま利用することに決めました。全てを彼のせいにして、雅の傍に一生縛りつけるためにね。
 ひどいことをしたと今では思います。ただ、救いは……雅自信が、ひどく琥珀さんを好きだったことでした。もともとの雅も、「マァルちゃん」も、その想いは共通だったはずなんです。
 そういう意味では、雅は、とても幸せだったはずなのに。   

 それなのに、琥珀さんのコントロールも、結局は雅の暴走を止めることはできませんでした。


   



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