第一章 琥珀と雅
 
 
 
 
 
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「ええ、雅は門倉の子ではありません」
 
 
 相手のかたの名前は、私の口からは申し上げられません。今回の事件に関係することでもありませんし、口にしていい方でもございませんから。ご自由にご推測いただければと思います。
 ただ、門倉も私も、あの子が生まれてくる前から、本当の父親が誰だかよく知っていて……覚悟の上で、二人で育てると決めました。
  
 確かに、門倉は、雅に厳しかったと思います。
 人様と比べてみたことがございませんから、それが特段なものだったかと言えば、……正直申し上げて判りませんけれど。
 ただ、雅が門倉の本当の子であれば、ああはならなかった、と思うことはございました。
 それは、門倉が雅を嫌っているとか疎んでいるとか、そういうレベルの話ではないのです。門倉は、むしろ実の親以上に、いえ、実の親でないからこそ、雅を愛そうと思い詰め、努力していたと思います。
 この子は自分の子なんだと、自分の妻にそのような過ちなど存在しなかったんだと……、そう思いこもうと懸命になっていたのが、私にはよく判っていましたから。
 
 
 門倉にとって、ひとつの転機だったのかもしれないと思った事件がありました。雅が三歳の夏のことです。
 当時、うちにはドイツ人の家庭教師がいて、雅の面倒は全て彼女にみさせていました。ドイツ語の読み書きまで習わせていたわけじゃないんですが、あの子……いつの間にか、家庭教師と対等に話ができるほど、ドイツ語が堪能になっていたんです。
 雅は、父親をびっくりさせて、褒めてほしかったんだと思います。
 ある夜のことでした。帰ってきた門倉に抱きついて、雅がこう言ったんです。
「Ich weis Ihr Geheimnis」
 その時の    死人みたいな門倉の顔、私はまだ覚えています。
 雅を突き飛ばし、門倉は蒼白になって自分の部屋に駆け込んで行きました。
 雅もびっくりして、わんわん泣いて    私はただ、おろおろするばかりでした。
 言葉の意味ですか? 日本語に直訳すると、こうなります。
 私は、お前の秘密を知っている。
 三歳の雅が、何を見てそんな言葉を覚えたのか、今でもよく判りません。
 ただ、子供が無邪気に口にしたその言葉は、不幸にも門倉にとっては、生涯忘れられない、恐ろしい意味をもつものだったんです。
 それは、ドイツ留学が長かった雅の本当の父親が、死に際に、門倉に向けて囁いた言葉でした。正確には、少しだけ違います。
 私は、お前の妻の秘密を知っている。    門倉とその人は、それは、本当に憎しみ合っていましたから。
 もちろん、その人が雅と一緒に暮らしたことは、一度もありませんでした。
 どうして、偶然にしてもあんな台詞をわざわざ雅が選んだのか、私も、当時は、内心ぞっとしたものです。
  
 
 以来、門倉の中で、雅という子供が独り歩きを始めたのかもしれません。
 どれほど愛そうとしても、雅を見る度に、憎い男の顔を思い出してしまうのでしょう。
 やがて門倉は、娘として雅を愛することを、あきらめました。いえ、諦めたんじゃない……愛する方法を変えたんです。
 愛情を厳しさに置き換えることでしか、門倉はあの子に接する術を持てなくなってしまったんです。……
 
 
 門倉は、それは厳しく、雅を躾けました。
 勉強はもちろん、あの子が苦手だったスポーツをはじめ、ピアノ、英語、バレエ、絵画、全てにおいて完璧を求め、失敗を絶対に認めようとしませんでした。
 昔、自分がそうされたように、鞭で手を打つこともしばしばありました。
 でも……雅が一番恐れて、恐れる故に門倉があえて断行したのが、蔵の地下室にあの子を閉じこめるという懲罰だったと思います。
 ええ、そうです。みなさんが、ご覧になった、あの場所です。
 
 
 明治に作られた蔵といっても、今では綺麗なものでございます。以前は、記者さんのために解放しておりましたから、上階は、お客様が寝泊まりできるようにもなっております。
 ただ、地下だけは昔のまま    何年も使われていなかったと聞いております。なんでも、建物の構造上、造作が難しいのだとか、そんな理由で締め切られたまま、長年放置されていたのでしょう。
 むろん、そんな場所に主人が雅を閉じこめたのには、理由があるんです。
 あの地下蔵には、悪い言われがございまして……、門倉家の恥になるのでしょうが、何代か前、狐に憑かれた娘が、地下に幽閉された挙句、首をくくって死んだというんです。
 いえ、本当かどうか、判りません。
 確かに、明治の終わり頃、若い娘さんが病で亡くなったという記録はございますけれど、本当に、そんな忌わしい亡くなりかたをしたのかどうか。
 門倉は、子供の頃から、悪いことをしたらあの蔵に閉じ込めるぞと、脅され続けていたそうです。実際にそうされたことはなかったのでしょうが、自らの娘には、あえてその罰を課したのです。
 壁の……落書きでございますか?
 いえ、私も中には何度か入りましたが、そんなものは、なかったように記憶しております。
 あったとすれば、雅が描いたのでございましょうね。
 私が知らないとすれば、それは……雅が、あの蔵に自分の部屋を持つようになってから。三年前の事件の後に描かれたのではないでしょうか。 
 落書きが消えた今となっては、確認しようがありませんけれど。……
 
 
 雅は、地下室を、おおげさな言い方ですが、狂うほどに怖がりました。
 三歳の娘が言う言葉ですから、当時は、本心から真に受けたわけではございませんが、あの子……、蔵の地下に、幽霊がでると言うんです。
 女の人が壁から出てきて、自分を壁の中に引きずり込もうとするんだと。そんなことを真顔で私に訴えるんです。
 子供の戯言とは思いましたが、内心、私はぞっとしていました。だって、例の、自殺した娘の言い伝えがありましたからね。あの子は何も知らないはずなのに、まさかって……。
 むろん、門倉にも相談しましたが、あの人は聞く耳を持ちませんでした。門倉は頑迷なほどの現実家で、そういった類の話には、一切興味を示さない人なんです。
 雅は、泣いて泣いて、一晩中扉を叩いて……今でも思い出すだけで、胸が締め付けられるようです。
 それでも私は、あの子を助けることができませんでした。
 むしろ、主人のほうが憐れで……自分があの人の傍にいるのが申し訳なくて……ええ、私はあの頃、雅さえ生まなければと、内心悔やみ続けていたんです。
 実際、雅からしてみれば、私は母親ではありませんでした。
 後になって、当時のことを死ぬほど悔みましたが、むろん、取り返しのつくものではありません。その頃の体験が、雅を……あんな風にしてしまったのだと思うと……本当に……ひどいことをしたと……胸が張り裂けそうになります。
 
 
 雅が地下を怖がらなくなったのは、琥珀さんがうちに来る、一年ほど前だったと思います。
 それどころか、地下に閉じ込められるのを、逆に待つような素振りを見せるようになったんです。
 理由を聞くと、友達になったからだと、雅はそう答えるんです。
 ええ、蔵の中の幽霊とです。
 最初は、子供が冗談を言っているのだと思って、聞き流していたのですが、それが、なんだかぞっとするほどリアルな話で……。
 幽霊の名前はマァルちゃんと言って、年齢は十七歳、お姉さんとはぐれて、一人ぼっちになってしまったんだそうです。
 髪は長くて真っ黒で、赤い着物を着ていて、目の玉が……全部黒なんだとか。
 一度絵に描いてくれましたけど、気持が悪くてすぐに捨ててしまいました。今思い出しても、鳥肌が立つほど不気味な絵です。
 当時、雅は友達がいなかったせいか、マァルちゃんのことばかり話したがって……、あんまり気持が悪かったので、私がきつく叱ったせいか、半年ほどして、ぴたっとマァルちゃんの話はしなくなりましたけど。そうですね、あれは、雅が二年生の終わり頃ですね。
 あさとちゃんというお友達ができて、雅もすっかり普通の娘らしくなったと思った頃、私、あの子になんの気なしに聞いてみたんです。
「雅ちゃん、昔仲がよかった、マァルちゃんのこと、覚えてる?」
 雅はすぐにこう答えました。
「マァルちゃん、消えちゃったの」
「そう? どこかに引っ越しちゃったの?」
「ううん、もう壁の中は寂しいから、雅の中に入るんだって」
 私は、聞き間違いかと思いました。
「雅が困ったときは、いつでも助けてくれるんだって」
 今でも後悔しています。どうして私は、あの子の話を真剣に聞いてやらなかったんだろうと。
 あの子の心が壊れかけていたのに……、どうして助けてやることができなかったんだろうと。
 
 
     多重人格?
 ええ、だいたいの意味は知っています。私も、色んな本を読みましたし、娘が……そうなのではないかと、疑ったこともございましたから。
 でも、雅は違います。
 あの子の場合、そういった病気なのではなく、別の誰かに身体を乗っ取られたんです。
 ええ、ええ、そういった症状を多重人格というのでしょう? 知っています。けれど娘に限って言えば、絶対に違うんです。あれは、何か、娘とは全く別のものなんです。
 本当の雅の性格ですか?
 大人しいけれど、勝気で負けず嫌い、……でも、人並みに優しい子だったと思います。
 華やかな外見のせいか、学校ではいつもリーダー格のような立場になっていましたけれど、同じ年のお友達は、びっくりするほどいなかったですね。
 きっと、対人関係を作るのが苦手なのでしょう。ああみえて人一倍人見知りが激しく、他人の中に、ストレートに入っていけないような、臆病な所がありましたから。
 あとは……、親の言いつけには驚くほど従順で、私の言うことにも、門倉の言うことにも絶対に逆らえない子供です。
 可哀想なくらい、父親の顔色を窺ってばかりいたように思いますね。
 あの子が優れていたのは、学校や公の場では、本来の気弱な性格を一切感じさせないところでしょうか。堂々と、自信に満ちた態度で、門倉家の娘として振る舞うことができるんです。
 今にして思えば、あの子は必死で、父親の願う娘であろうとしていたんでしょう。
 私も同じで、主人の顔色を窺うことばかりに必死になって、娘の気持ちなど顧みる暇もなかった……。本当に、……雅には、ひどい母親だったと思います。 
 
 
 真行琥珀さんとの関係ですか?
 琥珀さんとの関係を言えば……雅は最初、確かに琥珀さんに憧れといいますか、初恋のような、淡い感情を抱いていたのではないかと思います。
 あの頃の琥珀さんは、……臆病な雅とは、まるで正反対とでもいうのかしら。
 活発で、明るくて、初対面の相手にも、物怖じせずに話ができて。
 顔立ちも女の子みたいに綺麗だし、気遣いもできるし、誰の心も虜にしてしまうような、    そんな魅力的な子供でしたからね。
 ですから、琥珀さんがうちに来た時は、暗い家の中が一時に明るくなったような、そんな感じがしたものです。
 特に門倉は手放しの喜びようでした。あの人は、ずっと男の子を欲しがっていましたから、まるで自分の子供が出来たかのような、尋常ではないはしゃぎっぷりだったんです。
 ただ、その半面で、門倉は、雅が琥珀さんに近づくのをひどく嫌いましてね。随分早い段階から、厳しく言い聞かせていたように思います。
 お前は門倉家を継ぐ人間だ。
 同居人と過ちを犯すようなふしだらな娘は、この家から出て言ってもらうぞ、とね。
 ええ、まだ小学生の娘に言うような言葉ではありません。
 門倉は……、そうですね……私どもの恥を、申し上げるようですけど、……あの人は、琥珀さんを、実の息子だと、……比喩ではなく、血を分けた実の子であると、本気で信じていたようなんです。
 笑わないでやってくださいまし。私と門倉の間に子供が出来ていたら、いくらなんでもあんな妄想は抱かなかったと思います。
 もちろん、そう思うだけの自信が、門倉にはあったんでしょう。
 でも、同じ女として、琥珀さんの母親を知っていた私には判ります。随分奔放な方でしたけれど、あの女は、自身の産んだ子が、門倉の息子だなんて……憂うどころか、想像してもいませんでしたから。そうです。主人だけが、一人で思いこんでいたんです。
 当時の門倉は、確かに自分の子だと信じられる繋がりを、必死になって誰かに求めていたんでしょうね。
 DNA鑑定で、結局は違うとわかりましたけど、その後の落胆ぶりは……目を覆うばかりでしたから。
 
 
 明るく振る舞っていた琥珀さんですけど、その実我が家では、随分、肩身の狭い思いをしていたんじゃないか思います。
 門倉は琥珀さんを溺愛していましたけど、それは父親の愛とは明らかに異質なもので、言ってみれば、雅へのあてつけと身勝手な自己満足にすぎません。
 私と雅は……、二人して琥珀さんを、徹底的に蔑んできました。
 私は琥珀さんに、雅の僕になることを命じ、雅には、何があっても琥珀さんにだけは負けるなと、くどいほど言って聞かせていました。
 そう……私は、琥珀さんが憎かった。琥珀さんを通して見える、あの子の母親が憎かったんです。
 
 
 当時の雅が、琥珀さんにひどく冷たく振る舞ったのは、私や門倉の言いつけを意識していたのだとは思いますが、……やはり、どこかで勘付いていたんでしょうね。
 ええ、門倉が、琥珀さんを実の子供だと信じ込んでいることに、です。
 雅にとって、それは、おそらく想像を超えるストレスだったことでしょう。
 父親の愛情全てを琥珀さんに奪われるかもしれない……そんな風に思っていたとしても不思議ではありません。
 先ほども言いましたけど、父親の愛を得るためなら、雅というのは、どんな真似でもするような娘でしたから。
 同じ家の中で、琥珀さんという存在が、本当に怖かっただろうし、妬ましかったと思います。
 私から見ても、雅は闇で……あの頃の琥珀さんは、いつも光の中にいるように見えましたから。   


 小学四年生までの雅は、概ねそんな娘でした。
 優しくて、気弱で、臆病で……それを人に見せまいと、必死で自分を取り繕うような    琥珀さんの存在に怯え、懸命に威勢を張っているような    そんな、可哀想な娘でした。

 
 
 
 

   



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