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その声を聞いた時、アシュラルの あまりに残酷な仕打ちに、雷のような衝撃があさとの全身を震わせた。
あさとは、顔を上げることができなかった。ラッセルの顔を見るのが怖かった、自分の顔を見られるのが怖かった。ただ肩を抱いたまま、うつむいて震え続けた。
「………」
ラッセルは無言で、あさとの前に歩み寄ると、膝をついた。
見ないで……。
痛いほどの眼差しを感じる。
見ないで!
「……お怪我を、……きれいになさいませんと」
抑えた声が、わずかに震えているような気がした。
ラッセルは金盥に水を張ったものを用意していた。それを床に置き、柔らかな布を水に浸して軽く絞る。 きれいな長い指をしていた。
「………」
あさとは、彼の指の動きだけを見ていた。彼の態度、声、それが意味するものを考えていた。それは、気持ちが凍りつくようなひとつの結論に行き至る。
ラッセルの指が口元に触れた。彼はそっと、柔衣であさとの唇についた血を拭った。
知っていたんだ。
身体は虚ろなのに、頭の中だけが冴え冴えとしていた。あさとはラッセルを見上げた。
彼は視線を下げたまま、無表情で、あさとの頬と喉についた血を拭っている。
ラッセルは、知っていたんだ。
階段でアシュラルと言い争った時、すぐ階下にある部屋にラッセルはいた。部屋の扉は開いていた。自分の声が、アシュラルの声が、静まり返った地下に届かなかったはずはない。
ラッセルは、知っていたんだ、私が、彼に何をされていたのか。
ラッセルだけでなく、その場には サランナもいたというのに。
不意に、笑いたくなった。
そう思ったと同時に、唐突に声が出た。あさとは喉を痙攣させるように笑い、やがて、全身を揺すって笑った。
気持ちが壊れてしまいそうだった。いや、もう壊れているのかもしれない。
「クシュリナ様」
気遣わしそうな声。あさとはラッセルを冷たく睨んだ。
やめてよ、私のことなんか何とも思っていないくせに。忠義面して、正義感ぶって、そんなの振りだけのくせに。本音ではダーラを死なせたことを、許せないと思っているくせに。
あさとは立ちあがった。激情のためか、痛みすら感じなかった。そして、そのままラッセルを見下ろした。戸惑った瞳が、躊躇しながら凝視している。
ベッドに座りなおし、あさとは片脚をラッセルに向けて伸ばした。
「洗ってよ」
「………」
「そのために来たんでしょ、さっさとしなさいよ」
自虐と悔恨、愛おしさと憎しみ、 気が狂いそうだった。
ラッセルは何も言わなかった。黙って片膝をつくと、あさとの足首を手に乗せた。
端整で柔らかな目鼻立ち、薄く締まった唇。どこか悲しげで儚げな輪郭。琥珀をもっと繊細にして、優しくしたら、きっと彼のような男になるのだろう。
優しく、まるでいたわるように、彼はあさとの足を水で濯いだ。冷たい指が、石畳で擦れて血が滲む踵をこすった。
馬鹿じゃない……?
「馬鹿じゃない? やめてよ、そんな真似して恥ずかしくないの?」
あさとは足を引き戻し、彼の手から水に濡れた柔布を奪い取った。感情よりも、行動が先に出ていた。思いきり振り上げたそれを、目の前の顔めがけて振り下ろす。水飛沫が飛散した。
ラッセルのこめかみから頬に、水が伝って顎に零れた。かわそうともしなかった。ただ苦渋の表情で、目だけを静かに伏せている。
「私は、あなたのダーラを死なせたのよ」
あさとは言った。自分でも自制できない、荒れ狂う感情の波。
「知ってたわ、妊娠してたって、でも」
サランナの言うとおりだ。 私は、あの時、別れ際に。
「でも、それでもかまわないって思ったの」 気づいて、それでも。
悔恨が胸を刺す。どうしてあの時、どんな理由をつけてでも、私は彼女を止めることができなかったのだろう。理由はわからない。多分どんなに考えても判らない。
多分。
私の心の中に、それを望んでいた部分があったのだ、それだけは確信できる。私はダーラの死を、どこかで密かに願っていた。 。
吐き気のするような、残酷な事実。
「……だって私、ダーラがずっと嫌いだったから」
口に出した途端、涙が溢れた。
どこまで本音で、どこまで嘘なのか、もう自分でも判らない。
ラッセルは、何も言わなかった。
「言いなさいよ、私が憎いって」
「………」
「許せないって言ってよ、もう二度と顔なんて見たくないって言いなさいよ!」
「………」
「……言ってよ…」
涙で、もう何も見えない。
ラッセルが、ゆっくりと立ちあがる気配がした。
「クシュリナ様」
優しい声。
あさとは顔を上げ、ぼんやりと歪む視界で彼を見つめた。
静かで、そして穏やかな眼差し いつもの、ラッセルの顔が、目の前にあった。
「私は、あなた様をお守りし、お仕えするのが使命でございますから」
何言ってるの……この人?
「それはダーラも同じことでございます。ヴェルツ邸に残ると決めた時から、彼女は覚悟していたでしょう。私があの場にいても、やはり、ダーラを残したと思います」
あさとの胸を、ゆっくりと満たしていく感情があった。
「着替えと膏薬を持ってまいりましょう。やはり、女官を呼びましょうか」
あさとは、首だけ左右に振った。そして呟いた。
「 だったら、どうしてあんな目で私を見たの」
「え?」
ダーラの遺体が安置されていた地下室で、一瞬垣間見た、なんとも言えない怒りがこもったラッセルの眼差し。
あれは、まっすぐにあさとを見ていた。あさとに、いや、クシュリナに対する真実の感情そのものだった。
「出ていって!」
あさとは叫んだ。「出ていって、もう二度と来ないで、私の前に顔を見せないで!」
ゆっくりと、心を満たすのは「絶望」。
彼の優しさの正体は「義務」なのだ。それ以外に何もない、憎しみさえも正面からぶつけてもらえない。それは、一人の人間として向き合ってもらえないのと同じことだ。
「……私を、見捨てたくせに」
もう、嫌だ。
「私が、ここで何をされてるか、知ってて、……放っておいたくせに」
自分の気持ちが壊れていく。
「出ていって、卑怯者、嘘吐き、偽善者!」
叫びながら涙が溢れた。
なんで、こんなことばかり言ってしまうんだろう。なんで、困らすことばかり、怒らすことばかり言ってしまうんだろう。彼だって十分傷ついているのに。愛する妻も出来たばかりの子供も何もかも失って、本当は今だって、気が狂わんばかりに怒っているはずなのに。
なのに、自分の中の狂暴な何かが止まらない。自分ばかりでなく、ラッセルまで傷つけて、それでもまだ収まらずに悲鳴を上げている。
あさとは、手にしていた布を床に叩きつけ、金盥を手で払った。
それでも ラッセルは怒らなかった。静かな眼差しのまま、彼はそっとあさとに背を向け、退室した。
私……何を、やってるの……。
まるで。
ようやく、あさとは愕然とした。
まるで、あの夜の雅のようだ。
そうだ 多分、わかっていたんだ、はじめから。
部屋の石壁に、小さな鏡が埋めこまれている。
足が震えた。ゆっくりと、時間をかけて、あさとはようやくその前に立った。
眩暈がした。立っていられなくなって、あさとは両手で壁に寄りかかった。
茶褐色の大きな瞳、長い睫、繊細で小さな鼻、薄い朱色の唇。
そこに映っているのは 門倉雅の姿だった。
「あ……」
そんな、そんな、そんな、そんな、ことって。
( わかったでしょう、あさと)
( 私はずっと、あさとと一緒にいたのよ)
どこかで、雅が囁いている。
どこかで、 それは、私自身の内側から。
じゃあ。
じゃあ、私は? 瀬名あさとは?
冷たい予感を抑えながら、あさとは震える足で地下室に向った。気持ちがただ急いていた。一刻も早く、そのことを確認したかった。
地下室には誰もいなかった。死んでいる者をのぞいては。
あさとは、ダーラの遺体に近づいて 白い覆いを、ゆっくりと、払った。
「……っ」
叫び声が出そうだった。
「いや……」
自分の顔が、そこにあった。
「いや……いや、いや」
その眠ったような死に顔は、まぎれもなく、瀬名あさと自身の顔をしていた。
私……。
私が、ダーラだった。私自身が、私を羨み、嫉妬していた。
( そうだよ、あさと)
雅の声がした。今度ははっきりと自分の中から。あの夜の恐ろしかった雅の声が。
( そして、ダーラを殺したのは、あんたなんだよ)
「………」
( ラッセルは、きっとあんたを許せない。許せないけれど、忠実な彼は、あんたをこれからも守りつづける。それが彼の職務だからね)
「雅……」
( ねぇ、あさと、これって私と琥珀の関係に、とてもよく似ていない?)
雅。
あさとは呟いた。他に、何を言っていいか判らなかった。
( あんたはこの世界で、私の半生をリピートして生きていくの。あんたはいつも、私のこと、うらやましいって言ってたよねぇ)
ただ、力なく首を横に振る。 雅。
( 琥珀が私にどんな感情を抱いているか、あさとは想像したことがある? 哀れみと同情、贖罪と責任。琥珀が私に対して抱いているのは、ただ、それだけ)
「………」
( それだけで、琥珀は私を抱いたんだよ)
「………」
( その辛さを、今度はあさとが思い知ればいい)
「 雅!」
あさとは叫んだ。返事はなかった。
絶望が胸を塞いだ。
それは 同時に、雅自身の絶望でもあった。
ここは確かに、雅の夢の中の世界なのだ。
あさとは拳を握り、床に顔を伏せて、泣いた。
第二部 終
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