2
ひどい雨だった。
地下に続く石階段に、天窓から時折光が射しこんでは瞬いた。
雷鳴 外は、豪雨と暴風が吹き荒れている。
まるで、死刑場へ向う階段を下っているような気分だった。
目指す部屋の扉は、うっすらと開いている。
あさとは、足を止め、扉の前で立ちすくんだ。
蝋燭の火だけが淡く灯る室内には、粗末な寝台が置かれている。
吸い寄せられるように、室内に足を踏み入れる。生きている人は誰もいなかった。寝台は人型に盛り上がり、大きなシーツで被ってある。
「……ダーラ…」
あさとは呟いた。
熱い塊が喉につきあげ、息を詰まらせた。膨れ上がった涙が、後から後から流れて落ちる。
ダーラは死んでしまった。あんな無残な死に方をさせてしまった。
全て、何もかも私のせいだ。クシュリナが いや、私が、ラッセルの言うとおり、最初からカタリナ修道院へ行っていれば、こんなことにはならなかったのだ、絶対に。
「お姉様……」
背後で、囁くような声がした。
あさとは振り返った。薄闇の中に、ケープを被った細いシルエットが浮き出している。
「サランナ……」
あさとは感情の糸が切れるのを感じ、そのままサランナに駆け寄って抱きしめた。
妹が無事だったことも、こんな時に傍にいてくれることも、たまらなく嬉しかった。
「なんて……ひどいことに」
サランナは声を詰まらせ、肩を震わせながらクシュリナを抱きしめてくれた。
「身代わりがばれて、ヴェルツに捕えられたと聞いたわ……。どうしてかしら、あれほど俊敏なダーラが、あの程度の警備を抜け出すことができなかったなんて」
「…………」
その理由は、あさとだけが知っている。
あさとは、手足が震えるのを感じた。
「ヴェルツの邸内で拷問にかけられ、手足の骨を砕かれて首を……。それを……見せしめのために、お姉様がお逃げになる場所に投げ込んでおくなんて。……ひどいわ、本当にひどすぎる……!」
悔しさで歯を食いしばりながら、あさとは全身が怒りでわななくのを感じた。
ひどい ひどすぎる。どうしてそんな真似が、同じ人間相手に出来るのだろう。ここが、異世界だとしても。
「お姉様、私たちのせいね、……私たちのせいで、ダーラは」
「サランナ、違うのよ、サランナのせいじゃない」
あさとは、震える妹の肩を抱きしめた。
「全部、私のせいなのよ……」
そのまま、強いっぱい抱きしめる。誰かにこうしてすがらなければ、正常な気持ちを保てそうになかった。
「お姉様……」
サランナの唇が、そっと耳元に寄せられた。
「お姉様の身代わりになって、ダーラは死んだのね」
優しい声だった。けれど、不思議な毒があった。
サランナ……?
思わず身体を離し、見おろしたサランナの瞳には、きれいな涙が光っていた。そんなはずはない。あさとは思い直した。
「でも、ひどいわ、お姉様」
サランナはクシュリナの目を見つめながら、ゆっくりと言った。
「ダーラが、子供を宿していることを知っていらして、どうして教えて下さらなかったの?」
何……?
蝋燭の灯りが力なく揺らいだ。サランナの顔がふいに影に覆われる。それが笑っているように見えるのは 気のせいなのだろうか。
「だからダーラは、逃げることができなかったのね。ひどいお姉様、知っていたら、私、絶対に止めていたのに」
背後で、扉の軋む音がした。
あさとは振り返った。
長身のシルエットが、階段から漏れる灯りに浮き出している。
彼は、微動だにしなかった。動かないまま、扉に手を添えて、ただ、その場に立っていた。
ラッセル……。
あさとは、唇だけを動かした。声にならなかった。
あさとを見ないまま、ラッセルは、ゆっくりとダーラの傍に歩み寄った。傷の手当ての最中だったのか、彼の上半身は裸で、肩に幾重もの包帯が巻かれていた。
灯りに揺れる その顔。
琥珀……?
あさとは目を見張った。
良く似ている、輪郭、目鼻立ち、身体のライン、でも 何かが違う。琥珀はこんな繊細で優しい顔をしていない。何よりも、受ける印象が全く違う。
琥珀……なの? それとも。
「……おそれいりますが」
ラッセルは、うつむいたまま、感情を抑えたような口調で言った。顔は暗い影になっていて、表情までは判らない。
「少しの間、妻と二人きりにさせてもらえないでしょうか」
何か言おうとした。けれど、言うべき言葉は何もなかった。ラッセルは、今のサランナの言葉を聞いただろう。そして、今。 。
彼は、きっと、誰よりも。
廊下から風が吹き込み、蝋燭の灯りが、柔らかく彼の顔を照らし出した。
ラッセルはあさとを見ていた。
一瞬、驚いたように見開かれた目は、やがて言いようのない苦衷と、そして怒りを抱いて静かに伏せられた。
「……ラッセル」
あさとは呟いた。胸が引き千切られそうだった。どうすればいいのだろう。どうやって詫びればいいのだろう。絶望と、計り知れない後悔が胸を塞ぐ。
「申し訳ありませんが」
ラッセルの声が、わずかに震えた。
「今は、何も仰らないでくださいませんか」
「…………」
「どうか……私を、妻と二人にさせてください」
それは、決定的な、魂からの拒絶に聞こえた。
黙ってこの場を去ること以外、一体何ができるだろう。
私……
廊下に出たあさとは、涙が止まらなくなっているのに気がついた。
苦しい、辛い、……私……。
私、ラッセルが好きなんだ。この世界で、私、ラッセルを好きになってしまっている。私がクシュリナである以上、そうなるのは当たり前のことかもしれない。でも。 。
あさととして、自我を持ってしまった今でも、こんなに、辛い。胸が張り裂けてしまいそうなほどに苦しい。
例え、 例え、ラッセルが、琥珀でなかったとしても。
きっと私は、あの人を好きになっていただろう。
信じられない。……
信じられない、こんなこと。
私は琥珀を追ってここまで来たのに、来たはずなのに。
3
震える足を引きずって、自分が何処へ向うかも判らないまま、気がつくとあさとは、階段をいくつか上がっていた。
踊り場に、人影が立っていた。
窓から雨粒が降りかかっている。
誰……?
そのシルエットに、確かな見覚えがあった。
稲妻が瞬いた。
光は、あさとと、そしてその男の姿を同時に照らし出していた。
端整な目鼻立ち、暗い光を宿した瞳。薄い唇。
琥珀だ。
稲光とともに、あさとは思った。 黒の上着とブリーチズ、闇よりも深い、漆黒の髪。琥珀そのものが、そのまま姿を代えてそこに立っている。
同時に、クシュリナとしてのあさとも思っていた。
アシュラル。
アシュラルだ。
それは逆に、恐怖にも似た感情だった。むしろ、憎しみにも似た感情だった。
アシュラルは、ゆっくりとあさとを見下ろした。
七年前、彼は十七歳、今は二十四歳になっているはずだった。顔だちはすっきりと大人びて、身体全体がひとまわり大きくなったような気がする。
「クシュリナか」
ぞくっとした。
闇色の瞳は、以前にはない鋭さと冷たさを秘めている。
そして、何よりも。 。
アシュラルは、強い足取りで階段を降りてきた。
あさとは動けなかった。まるで射すくめられたように、指先ひとつ動かすことができなかった。
何よりもその目に、激しい怒りの色がある。
「来い」
乱暴に腕を掴まれた。痛かった、掴まれた二の腕が軋んだような音をたてる。
「いや……」
抗ってもアシュラルの腕は動じない。容赦ない力だった。
「何をするの、離して!」
判らない。クシュリナは、あさとは混乱した。
アシュラルは嫌な男だったが乱暴ではなかった。これほど感情を露にする人でもなかった。
引きずられるように、そのまま上階の一室に連れていかれた。
光のない部屋には、簡素なベッドとテーブルだけが置かれている。
アシュラルは、まるで物でも投げるようにあさとを床に引きずり倒した。
「っ……」
肘が擦れて、血が滲む。掴まれていた腕がしびれていた。 わけが、わからない。
「何をするの、どうしてこんな」
言いかけたその唇を、アシュラルは片手で塞いだ。そのまま頭ごと、叩きつけるように床に仰向けに倒される。
なに……?
痛みとショックで目の前が暗くなった。
のしかかる身体の重みで、息ができない。
「しょせん、子を産むためだけの結婚だ」
声は、憎しみに満ちていた。
?
「いまいましい女だ、さっさと用を済ませて、永久にこの国から追放してやる」
片手で口を塞いだまま、もう片方の手が、胸元から衣服を引き裂いた。悲鳴はてのひらで押し殺される。
琥珀 ?
本当に? 本当にあなたが、琥珀なの?
恐怖と混乱と戦いながら、あさとは必死で唇を覆うアシュラルの指を噛んだ。力いっぱい噛みついた。
血の味が、舌に滲んだ。
「なんだ、こんなに抵抗する女だったのか」
見下ろすアシュラルの顔が薄く笑った。
「馬鹿が……、自分から痛くなるような真似をしやがって」
本気だ。
膝を割ってはいる脚。あさとは、恐怖で身がすくむのを感じた。
いや……。
琥珀じゃない、こんなの、絶対に琥珀じゃない。
琥珀は、一度もキス以上のことをしなかった。どんなに苦しいくらいの抱擁を重ねても、絶対にそれ以上のことはしなかった。
なのに、この男は、相手の意思さえ踏みにじって、暴力ずくで奪おうとしている。
「 あなたが琥珀なの?」
ようやく開いた指の隙間から、あさとは必死で声を上げた。
「琥珀なんでしょう? ねぇ、思い出して、お願い!」
「なんだ……? コハク?」
薄い唇に、皮肉な笑いが滲んだ。「お前の新しい男の名前か」
「なっ……」
「だったら、もう忘れるんだな」
違う……?
違うの?
こんなに、目も、鼻も、唇も。
何もかも琥珀のままなのに。息遣いも、香りさえも。全部が琥珀そのものなのに。
嫌……。
いや、助けて、誰か助けて!
強烈な痛みに、あさとは身体を逸らせて抗った。一片の容赦もなく、ごうごうと荒れ狂う嵐が、身体中を通りすぎていくようだった。
引き裂かれるような痛みに、握り締めた指が細かく痙攣する。
頭の中が痺れて、涙すら出ない。
ただ、唇を塞ぐ男の指を、それだけを無心に、渾身の力で噛み続ける。
唇を血が濡らし、それが喉に流れ込んでも、ただそれだけが揺るがない拒絶の証のように、噛み続ける。歯からも唇からも、もうとうに感覚はなくなっている。
全てが終わって、ようやく身体にかかる圧力がなくなった。
あさとは、忘我したまま、自分の口から離れる指先を見つめた。滴る血液が頬を濡らし、ようやく溢れた涙と混じった。
「ラッセル……」
どうしてかわからない、思わずその名を口にしてしまっていた。背を向けたアシュラルの足が、ぴたりと止まる。
突然影が覆い被さり、首に大きな手のひらが回された。ぐっと締めつける強い力に、恐怖を感じてあさとは呻いた。
「や……」
声が出ない。息が出来ない 顔が熱を帯び、視界が暗くなる。
「いっそ……」
アシュラルはうめいた。
「お前を、殺してしまいたいよ」
背後で、扉が開いたのはその時だった。
「アシュラル様、何を」
揺れる蝋燭の灯り。その向こうから驚いたような声があがる。
「ジュールか」
アシュラルは舌打ちして、立ちあがった。
自由になった気管が空気を求めてあえぐ。あさとは激しく咳き込んだ。
全身が痛みでしびれている。動くだけで下肢に激痛が走る。衣装は破れ、髪は乱れたまま、ひどく惨めな格好だった。
部屋に入ったジュールは、さすがに顔を逸らすと眉をしかめた。
「自制なさいませ。この方にはまだ、役立ってもらわねばならぬことがございます」
ジュール……。
あさとは呆然と、パシク・バートルの隊服を着ている大柄な男を見つめた。
バートル隊の隊長、ジュールだ。結婚式の日、クシュリナを教会まで捕らえに来た男。
てっきり、ヴェルツの一派だとばかり思っていた。どうして今、この男がここに アシュラルの傍にいるのだろうか。
「判っている」
アシュラルはあさとを見下ろした。一片の感情もない冷酷な目だった。
「ダンロビンをつり出すには、絶好の餌だからな、この女は」
「………」
あさとはアシュラルを睨みつけた。殺してやりたい、そんな感情を初めて知った。言いたいことは山ほどあった。聞きたいことは沢山あった。けれど、二度と、この男の顔を見たくない、声さえも聞きたくなかった。
「行くぞ」
アシュラルは背を向けた。
「見張りをつけておけ、この女を一歩も外へ出すな」
「しかし、いくらなんでもこのままでは」
ジュールの視線が、こちらを伺う気配がする。唇を噛んで、あさとは破れた衣装を胸元で合わせた。殺してやりたい。今すぐ、この男を殺して、自分も死んでしまいたい。
「そうだな」
「サランナ様にお願いして、女官を回してもらいましょう」
「いや、……俺が手配しておこう」
あさとは、弾かれたように顔を上げた。今の瞬間思い出していた。 この男は、サランナを愛しているはずではなかったのか。
出て行くアシュラルの背中は、一度も振り返らなかった。
「まっ……」
立ちあがろうとしたが、痛みと痺れで脚が立たない。
扉が閉められた。
あさとは、嘔吐しそうなほどの胸苦しさを感じた。
「 雅」
あさとは叫んだ。泣き出してしまいたかった。
「雅、どこにいるの、お願い、出てきて」
私を。
「私を、元の世界に、もどして……」
( まだ、わからないの、あさと)
どこかで、笑い声がした。
( まだ、私がどこにいるか、わからないの?)
「……何、言ってるの……」
痛い。
お腹が痛い。手も、脚も、身体中のいたる個所が、痛みで悲鳴を上げている。
銅の味が口の中に残っていた。 あの男の血。全身がそそけ立つ。
あさとは唇をこすった。何度もこすった。それでも沁みついた血のように、今ここで、アシュラルによって焼き付けられた烙印は、生涯消えないような気がした。
私……。
自分の掌にこびりついた血痕を見つめている内に、新しい涙が一筋、頬を伝った。
こんな……こんなに、汚れてしまった……。
背後に誰かが立つ気配がした。反射的にあさとは身をすくめ、前に逃げた。
先ほどの恐怖が蘇り、どうしても振り返ることができない。脚も、手も、自分のものではないように震えている。
「……お立ちに、なれますか」
それは、ラッセルの声だった。
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