第八章   因果の輪廻
 
 
 
 
                 
 
 
 誰……?
 私を、呼んでいるのは。
 
 とても懐かしくて、それでいて悲しい声。
 
(    あさと)

 瀬名あさとは、ゆっくりと目を開けた。
 
(ようやく、目が覚めたのね)
 
「……?」
     ここは、……何処?
 ひどく低い、妙に圧迫感のある暗い天井。石で覆われた壁。冷え冷えと固く湿ったベッド。
「雅……?」
 あさとは半身を起こし、急いで周囲を見まわした。雅の姿はどこにもない。雅どころか薄暗い部屋には、自分一人しかいないようだ。
     夢……?
 確かに雅の声がしたような気がする。それも、ひどく近い距離で。
 周囲を見回し、改めてあさとは、不思議な違和感を覚えいた。
 ここは    何処だろう。日本? 東京? でも、いまどき珍しい石壁の部屋、まるで、テレビで見た遺跡か、古の牢獄のような。
 周囲が見えないほどの淡い照明。    照明? そんなものどこにもない。あるのは揺れる蝋燭灯りだけ。
「………」
     何、これって、本当に現実?
 あさとは不安を感じながら、自分の手の甲をつねってみる。
「いたっ……」
 痛かった。なのにまだ、夢の続きの中にいるような気がするのは何故だろう。
 でも、違う。夢じゃない。少なくとも私は今、瀬名あさとなんだから。
 あさとはほっとため息をついて、再び仰向けに倒れて目を閉じた。
 また    あの夢を見ていたのだ。いつもの夢。今度はとても    とても長い物語。
 生まれてから十七歳までの、長い長いクシュリナ姫の物語。
     待って……?
 あさとは眉根を寄せて眼を開けた。やはり    混乱している。
 もう一度自分のいる部屋を見る。こんな場所、知らないし、見たこともない。おかしい、蝋燭なんて、石の壁なんて、現代の文明ではあり得ない。
     私、どうしてこんな所にいるの?
 そもそもここは……本当に、何処なの?
 混乱しつつしも、ゆっくりと記憶を手繰ってみる。
     夜に……雅から電話をもらって、それで、雅の家まで行って……。
 それから?
「………」
 わからない。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
     おかしな場所で、襲われそうになった私を琥珀が助けてくれて、それから雅が、すごく怖い顔で現れて。……
 私のことを憎んでいると言った。
 その後に、小田切さんが現れて、琥珀は。
     琥珀は雅と……。
 思い出した途端、胸が刺し貫かれたように鋭く痛んだ。
     そうだ、琥珀は、雅を追って……。
 あさとは首を左右に振った。
 違う。あれは全て夢だったのだ。そうでなければ、信じられない、考えられない。
 はっと思いだし、自分の掌を広げて見た。もちろん青い光など何処にもない。
 なのに。   

(雅、俺も行く、お前が行く所なら、俺も一緒に連れていってくれ)
(お前と一緒なら、何処へだって行ってやる)

 琥珀の声。

(どうして、また繰り返すんだ、また裏切られて、そして裏切ると判っているのに、また傷つくと判っているのに   
(それでもまた、同じことを繰り返すために、あいつらを追って行くのか。お前はそれが怖くないのか!)

 小田切さんの声。
 まるで、ついさっき耳にしたように、鮮明に残っている。

(自分勝手だと思われてもいい、卑怯だといわれてもいい、でも、私、行かせたくない)
 そう言ったのは、私。
 琥珀を行かせたくなかった。失いたくなかった。
 切なくて、苦しくて、どうしようもなくて。
 琥珀にもう一度会えるのなら、何も怖くないと思った。あの時の激しい感情は、まだ、生々しく胸に残っている。
 あれから、どうなったんだろう。
 雅は?
 琥珀は? それから、小田切さんは?
 扉が軽くノックされ、ゆっくりと開いた。
「クシュリナ様、気づかれましたか」
 声と共に扉が開いて現れたのは、灰色の蓬髪を持つ、険しい眼差しをした中年の男だった。
     ガイ!
 あさとは、心の中で叫び声を上げた。
 彼が生きていたことへの歓喜よりも、むしろ、それは、恐怖に近い驚きだった。
 ガイ、夢の中に出てきた男。クシュリナの父、ハシェミの忠実な侍従。
 では    私はまだ、夢を見続けているの?
 違う。
 ぞくり、と寒気がした。
 
(だから、私、私の世界に戻ることにしたの)
(あさと、夢の話覚えてる? 私ずっと不思議だった、だってね、あさとの夢は、私の夢でもあったんだから)
(ここがどういう世界で、雅の行こうとしているところが何処なのか、俺にも正確にはわからない。最初は、壊れた雅がみる夢か妄想だとしか思えなかった、なのに……それは)
(あなたの肉体は、僕たちの世界では存在することができない。僕がそうであるように、誰かの身体に宿生するしかないんです)
 
 琥珀と、雅が行ってしまった世界。では私は    私は、その後を追って。
 
(仮に、適合する肉体があったとしても)
 あの少年は、確かレオナと呼ばれていた。
(あなたは……自身の記憶を保つことはできないでしょう。僕もここへきて判った、相反する世界では、異邦者は常に下位の存在なんです。ただ、……夢の中でしか……)
 
 
 まさか、ここが?
 あさとはもう一度、周囲の光景を見回した。
     これは私の夢ではなく、この世界が、雅と琥珀が行ってしまった世界だというの?
 ここが? この世界が?
 そんな。
 そんな、馬鹿な。   
 私はずっと、その夢を見て、雅に話してあげていた。雅はそれを前世の夢だと言っていた。そしてそれは、雅自身の夢でもあると。
 では、ここは……。
 私の前世? わからない、そんなこと、すぐに信じられない。
 混乱して、頭がおかしくなってしまいそうだ。
 錯綜する時間軸。一体どこまでが夢だったのだろう、そしていつの時点から、私は瀬名あさとだったのだろう。
 今、目覚めたような気もするし、ずっと、瀬名あさとだったような気もする。
「良かった……。ずっと、眠りつづけておいででしたから」
 あさとの混乱をよそに、ガイはほっとしたように息をついた。
 薄い緑の、繋ぎのような服を着ている。が、下は短いスカートのようで、あさとの世界で言えば、足は黒のレギンス状のもので覆われている。
 腰には、太い革製のベルトが巻かれ、重たげな長剣が歩く度に音を立てる。
「姫様……?」
「…………」
 返事ができないまま、あさとは、気持ちを鎮めようと努力した。
 うつむいた途端に、長い髪がさらりと零れる。今更のように驚き、咄嗟に髪を手で掴んでいる。
 なにこれ。
 ずっと肩までのショートロングで通してきたあさとには、こんなに長く髪を伸ばした経験がない。繊細な直毛。黒とは違う薄い色素。髪を掴む指さえも、他人のもののように白く細く、たおやかだ。
     私は……私は、クシュリナ、なんだわ。
 確かな記憶が、クシュリナとしての鮮明な記憶があさとにはある。それと同時に、やはり、あさとは瀬名あさとでもある。
     どういうことなの、これって……。
 余計に混乱しそうになる。
 夢と、そして現実がひとつの身体で混じり合ってしまっている。
 つまりは、そういうことなのだろうか?
 今、身につけているのは、和服の肌着にも似た白く儚げな衣装である。あさとはそれが、下級女官の着る夜着だと知っていた。    クシュリナとしての記憶がそれを認識しているのだ。
 意識しても、痛みはどこにも感じられない。もし、昨夜の出来事が本当だったとしても、身体に、特別な傷や怪我はないようだった。
「ガイが……、助けて、くれたの」
 出した声が、自分のものだという実感がない。
 ガイは、皺を深く刻んで苦笑し、首をゆっくりと横に振った。
「いいえ、私も助けられたのです。アシュラル様の軍勢がようやく間に合われて」
 アシュラル。
「意識を失われていたクシュリナ様を見つけられたのも、アシュラル様なのでございますよ」
 あさとは、顔を上げた。
 そうだ、アシュラル、夢の中の私の婚約者。いや、これはもう夢ではない。ここは    少なくとも、今の自分にとっては現実なのだ。
(    私が何処にいるか、まだあなたにはわからない?)
 不意に、雅の声がした。
 声だけが、まるで直接耳朶に語りかけてくるようだった。
「雅?」
 あさとは立ちあがった。
 ガイが、驚いた顔で見上げている。
「何処にいるの、私は、あなたと琥珀の後を追ってここまで来たわ」
(    そうね)
 笑っているような声だった。
(    そうね、あさと。あなたって本当に、勇気があるわ)
「ここは、私が雅に話した夢の世界なのよね。雅は……この世界のことを、最初から知っていたの?」
(    知ってたわ、……驚いた。どうしてあさとが、その世界の夢を見るのか、最初は理解できなかった)
「ここは……、どこなの」
(    あさとの夢、そして私の夢の世界……)
 どういう意味だろう。あさとは眉をしかめて声を張り上げた。
「教えて、雅、あなたは何処にいるの? 琥珀は? それから小田切さんはどうなったの」
(    みんないるわ、あなたと同じように、この世界に)
「……どこに、いるの」
 少しだけ自分の声が震えた。    ああ、そうだ。
「ラッセル……」
 ラッセル、アシュラル、    どうして今まで、気がつかなかったのだろう。
「ラッセルなら、さきほど、こちらに到着いたしました」
 ガイが、おずおずと声をかけた。怖いものでも見るような目であさとを見ている。
 あさとは振り返った。
「ラッセルが?」安堵がたちまち胸を満たす。
「じゃあ、ラッセルは生きていたのね!」
 頷いたガイの目が、力なく翳った。
「今は、地下で……クシュダーラに、付き添っています」

 
 
 
 
 

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