暗い   
 気がつけば、月が姿を消していた。
 空を見上げたまま、クシュリナは恐怖で動けなくなっていた。 
 ガイの言う、樵小屋まで、あとわずかという距離だった。クシュリナの目にも、暗い木々の狭間から三角の屋根が見える近さだ。
 なのに、闇の暗さに呑まれたように、脚が    全身がすくんで動けない。
 囁くような人の声が聞こえた気がして、はっとクシュリナは振り返っていた。
 必死に逃げてきた異教徒の館のあたり、闇の向こうから地響きが聞こえる。それはみるみる間近になり、すぐそこに、もう、息遣いが聞こえてきそうなほどになる。
     追手?
 ぞっと、クシュリナは身をすくめた。
 これが、本当に人の放つ気なのだろうか。
 これほど禍々しく、恐ろしいものが。
(ここだ!)
(クシュリナ様はここにいる!)
 はっきりとした人語が聞こえた。が、それは、まるで風が軋るような、心に直接響いてくるような、陰々とした音色だった。
 逃げなければ。
 そう思った刹那、足が動いた。    思いきり地面を蹴って駆け出した。景色がぐんぐん遠ざかる。クシュリナは驚いていた。まるで、自分ではないような速さだった。
 こんなところで、死んでたまるか。
 強い意識が、胸の底から込み上げてきた。
 あの人に逢うまでは、あの人を見つけるまでは。
     あの人?
 私は、死ぬわけにはいかないんだ。
     あの人を、見つける……?
 ちょっと待って。
 クシュリナは足を止めていた。混乱しながら、自分の頬に手を当てる。
 私は、    私は。
 私は誰?
 これは夢? いつもの夢の続きなの?
 いいえ、違う。違う違う、だったらこれは。   
 この、感覚は。
 いつのまにか素足になっていた。むきだしの脛から血が滲んでいる。
(いいのかよ)
(仕方ないだろ、ここまできてやめられるかよ)
 何の声? 人の声ではないような、まるでくぐもった闇が蠢くような、風が軋んでうねる声。
 素肌の上で、何かが焼けるように燃えている。
 ユーリの……首飾り? そう思った時、腕を何かに捕らわれた。
(手を出すなよ、俺が最初だ)
 入り混じる笑い声。背を獰猛な力でねじ伏せられ、わけがわからないまま、クシュリナはうつ伏せに転倒した。
 重たくて、そしてぞっとするほど忌わしい温み。笑い声、口笛、口ぐちにはやし立てる声。
(おい、脚を押さえろ)
(ちくしょう、噛み付きやがった!)
     待って、これは。
 これは夢だ、いつもの夢だ。
 クシュリナは、もがくように腕を泳がせて仰向けになる。そして、恐怖で全身を強張らせていた。
 のしかかっているのは、闇だった。真っ黒で、ゼリー(・・・)のような濃密な闇。悲鳴が喉の奥で凍りつく。
(ねぇ、あんた、知ってんの、自分が一体誰のせいで、こんな目にあってるのか)
     いや。
(教えてあげようか、その人の名前はね)
     いや、助けて。
 
 
 
 
「助けて、琥珀!」
 
 
 
 
 突然、全ての記憶が鮮明になった。
 生まれてから    今までの、瀬名あさととしての、クシュリナとしての。

 
 
 
 
 
 
 そして    闇が。
 
 
 
 
 
 
 
 

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