それからいくらも行かない内に、再び慌しく馬車は停まった。
「クシュリナ様、外へ」
 ガイと、それから追走している騎馬騎士たちの雰囲気で、クシュリナにも事態がひどく切迫していることが感じられた。
 外はすでに夜の闇に包まれていた。    風が、冷たい。
 天を見上げ、クシュリナはぞっとした。月は、雲間からかろうじて片鱗を覗かせている程度だった。こんな夜には、忌獣が出る。
 見渡す限り一面の荒野、そして足にからむ長い枯草。はるか遠方に、暗い森の翳りがみえる。
「こちらへ」
 クシュリナは頷き、うながされるままに一頭の馬に乗せられた。一人でも走らせることはできるが、あえてガイと共に乗った。なにより今は、一人になるのが恐ろしい。
 闇の向こうから、何かまがまがしい気配を感じる。それが、恐怖からくる錯覚だと判っていても、怖くて、背後を振り返ることさえできない。
「追手が近くまできております」
 厳しく囁き、ガイは馬を鞭打った。
 地面がわずかに震えている。遠方彼方から、馬のいななきのようなものが微かに聞こえる。疾走する騎馬の入り乱れる気配が、地響きと共に近づいてくるのが判る。
 クシュリナは、手元の手綱をきつく握り締めた。
 逃げたのか、殺されたのか、最初、あれほどいたはずの人数が、気づけば、二十騎にも満たない数になっている。
 今も、馬を走らせる大半が、血を滴らせ、悲壮な表情を浮かべている。おそらく   馬車の中で守られている間に、幾度か戦闘が行われたのだ。
「われらの動きは、どうやら完全に読まれているようです」
 ガイが悔しそうに口走った。
「とにかく森は近い、急ぎましょう」
     駄目。
 クシュリナの中で、不意に誰かの声がした。
     駄目、この先に行っては駄目!
 馬は、クシュリナとガイを乗せて疾走を始める。
 大地を轟かす地響きは、やがて二倍の音量となって膨れ上がった。
 もう、追手はすぐ背後まで迫っている。
「二手に別れろ! 敵を撹乱し、姫様を御守りするのだ!」
 血走った声が飛んだ。
「わかった、こちらに引きつける」
「姫様を頼む!」
 頭上で飛び交う、懸命の声。
 怒声、馬の蹄、金属が激しくぶつかる音。
 頭を下げて馬にしがみついていたクシュリナには、何も見えなかった。いや、ガイが見せまいと、身体を必死で押さえ続けてくれていた。
 やがて周囲が静かになった。それからどのくらい駆けたのか。   
「……姫様……もう、大丈夫でござます」
 いたわるようなガイの声に、クシュリナはおそるおそる顔を上げた。
 気づけば馬は足をとめ、ガイと同様に荒い息を吐いている。
 目の前には、朽ちかけた灰色の塔がそびえていた。
 塔の上の十字。十字架の横の部分が上向いた不思議な形。
 知ってる。
 小さな悲鳴が、クシュリナの喉まで込み上げた。
 私は、ここを、知っている。 
 もうそれは、    勘違いとか、思い違いとか、そういうものではない。
 あまりにも確かで、鮮明な記憶に、眩暈さえ感じている。
「ガイ、ここは」
「ずっと以前……百年も昔になりますが、この森は、邪教徒どもの聖地、この教会は、きゃつらの隠れ処だったのです」
 邪教徒    マリスの信徒。
「法王庁が、この忌まわしき建物をあえて残したのは、この場所に戻る邪教の徒を待ちかまえ、捕らえるためだったと言われております。が、今となっては寄りつくものとてない死者の森……」
 用心深く周囲を見回していたガイは、おお、と、いきなり歓喜の声をあげた。
「入口にクシュダーラの印が残っている。無事に逃れ着いたらしい!」
 クシュリナも、同時にほっとしている。が、その安堵は、何故か上辺だけにすぎないという気がした。何か    本質的で大切なことを、私は……ずっと見過ごしている……?
「ガイは、クシュダーラの名前を知っていたの?」
「あれはカタリナ修道院の出……ご存じございませんでしたか、私もまた、カタリナで育ったのでございます」
 クシュリナを背後に庇うようにして、ガイは、用心深く重い鉄扉を開けた。
「サランナ様は、まだお着きではないのか。……? クシュダーラ? どこにいる」
 ガイが先に行くので、クシュリナも仕方なく後を追う。
 がさりと、足元で小さな虫のようなものが蠢いた。はっと足を引いたクシュリナは、この感覚さえも、かつてどこかで体験したような錯覚を感じていた。
 荒草に覆われ、じっとりと湿った庭。黴と泥の匂いがする死の館。   
 どう記憶を手繰っても、過去、こんな恐ろしい場所に来た憶えはない。
 そう、これは錯覚だ、錯覚だ    懸命に自分に言い聞かす。
 ガイが室内に続く扉を開くと、黴と、湿り気を帯びたえも言えぬ異臭が、一気に中から溢れだしてきた。
 真っ暗な部屋に、月光だけがおぼろに差し込んでいる。
 すすけた石壁、至る所に垂れ下がったくもの巣、もうもうと舞う埃、壁や家具、床までもを覆う黒くぬめった(かび)    破れた覆いの向こうに、傾き、埃を被った巨大な肖像画が垣間見える。
 女性らしき人の顔がおぼろに見えた。獣のような真っ黒な目。   
 ぎょっとしたクシュリナは、思わずガイの腕を掴んでいる。
「マリス神です」
 苦い眼で肖像画を指して、ガイが言った。
「かような忌わしきもの、姫様が見てはなりませぬ」
 腕を引かれながら振り返ると、絵は、それを覆う布ですっぽりと隠されていた。まるで、今しがた垣間見たものが幻だったとでも言うように。
 扉を開けて、部屋の中をひとつひとつ確かめていたガイは、舞い上がる埃に顔をしかめながら、クシュリナを振り返る。
「これはひどい……奥に入るほど、黴臭うて息もできませぬ」
「誰も、いるようには思えないわ」
 不安にかられてクシュリナは言った。館は静まりかえっている。もし、ダーラが先に到着しているなら、なんらかの反応があるはずだ。
「上階を……見てまいります」
 さすがに、ガイの口調も焦燥を帯びていた。「すぐに戻ってまいります。クシュリナ様は、こちらでお待ちくださいませ」
 薄暗い闇の中、ガイの足音が遠ざかって行く。
 一人、取り残されたクシュリナは、まるで    まるで、そうすることが決められていたかのように、ゆっくりと、暗い通路内を見回した。
 緑の扉が目に入った。先ほど、ガイがざっと見て、そして何もないと判断した部屋だ。
 妙に、その緑から目が離せない。気がつけば、扉の前に立っている。
 開けて……。
 扉の内から、誰かが囁いた気がした。
 まるで、見えない力に操られるように、クシュリナは扉を押していた。ぎっと軋んだ音をたて、軽い扉は簡単に開く。
 暗くて、室内の様子はおぼろにしか見えない。
 黄色い土を塗り固めた壁に、黒ずんだ石の床。隅に寄せられた戸棚は食器棚だろうか、くすんだガラスの中には、埃を被った杯や皿が乱雑に投げ込まれている。
 もう何年も使われていない、死者の残骸のような部屋。
 が、確かに、クシュリナはこの光景に見覚えがあった。恐ろしいほど鮮明にあった。
 心臓が、踊るほどに鼓動を早めている。
 自分の動きが、ひどく緩慢に感じられる。
 足に、何かが触れる気配がした。
 ごろり。
 それはくるぶしに触れ、重い音を立てて転がった。
 最初に目に飛び込んできたのは、ねっとりと濡れた髪の束。
     何?
 全身が総毛立つ、足を引いて背後に逃げる。歪んだ球体は、回転の余韻で小刻みに震えている。
     何、何、なんなの?
 衝くような恐怖で、心臓が、胃が踊りだす。
 見るな、見るな、見るな、必死にそう言い聞かせても、目だけが、その異様な物体に吸い寄せられていく。
 これと同じモノを……どこかで見た……どこか……遠く……夢みたいに遠い昔……。
 いきなり、ごろっと球体が向きを変えた。
 かっと見開かれた眼、血濡れた鼻、半開きの唇。
「……い、」
 人間の首。
 胴体から切断された人体の頭部。
「いやっ、やぁっ、やあっ」
 逃げたはずみに、どんっと背中に壁が当たる。ばらばらと頭上に落ちる、砂のような粒。
 その時、どこかで雷鳴がとどろいた。
 かっと、室内が、一時白く照らし出される。
 死者の残滓は、いたるところに散乱していた。 
 ねじまがり、半ばで千切れた白い腕。腿まで剥き出しになった脚からは足首が欠けている。どろりとしたもの垂らした胴    と思しき断面には千切れた衣服がまとわりつき、腰のあたりに卵ほどの碧の石が引っかかっている。
 それが、自分が今朝がたまで着ていた衣装の胸元を飾る翡翠石だと気付いた時、クシュリナは魂消るような悲鳴をあげていた。
「姫様!」
 ガイの声が、上から響いた。
「た……すけて……」
 掠れたあえぎ声が出た。
 足ががくがくと震え始める。
 目の前にあるものが、何なのか考えたくない    見たくない。全てが、現実ではなくいずれ覚める夢なのだと思いたい。
 が、すでに闇に慣れた目に、現実は容赦なく飛び込んでくる。
 黒ずんだ血溜まり、ひきちぎられ散乱した衣服、引き裂かれた肉体の残滓。
 白い裸身には、それを覆うものは殆ど残されていなかった。ところどころに見える黒ずんだ痣と裂傷が、女を襲った凄惨な    悲惨というには、あまりに惨い運命を物語っている。
「クシュリナ様! どこにおられる!」
 ガイの声   。が、すぐに開きかけの扉に気づいたのか、剛健な男は、血相を変えて飛び込んできた。
「クシュリナ様、ここにも敵が近づいておりまする!」
「ガイ!」
 クシュリナの叫びに、ガイは即座に足元に目をやった。「おおっ」と、悲鳴のような雄叫びをあげる。
「これは……、クシュダーラ? ……おお、クシュダーラ!! なんという姿に!」
 しゃがみこんだガイの横顔から、血潮にも似た涙が迸った。
「おお……むごい、クシュダーラ、むごすぎる……おお……」
     クシュダーラ……。
 クシュリナは呆然と立っていた。遠い場所で繰り広げられている性質の悪い劇を、手の届かない所から見ているような気分だった。
 ダーラ?
 クシュダーラ……ダーラ?
 すぐに受け入れることができなかった。そんなの、嘘だ。そんなこと、ありえない。
 ダーラが死んだ? ダーラが殺された?     私の身代わりとなって、殺された……?
 複数の蹄の音がした。騎馬隊の気配が近づいてくるが、クシュリナにも判った。
「クシュリナ様、裏手からお逃げください。これは罠です。我々の行く手はすでに敵に知られている。ここは私が食い止めます」
 気づけば、必死の形相でガイがしがみついている。
「裏口からこの館を出て、振り返らずに森の奥に走ってください。私の記憶が確かなら    いや、確かです。そちらに樵小屋がある、中に入り、鍵をかけて朝まで隠れているのです」
 クシュリナは呆然としながらも、首だけをかろうじて左右に振った。
 そんな無様な真似をしたところで、もう逃げ切れるはずがない。周辺を覆う無数の騎馬の気配が、クシュリナにもはっきりと感じられる。
 とても    逃げられない。
 ガイはクシュリナの肩を揺すった。
「いいですか、今宵は雲が多い、月は直に隠れます。忌獣が運良く出てくれば、ヴェルツも軍を引かざるを得ない、助かる可能性はまだ残っているのです!」
「……できません」クシュリナはうつろに呟いた。
「……私も、ここに残ります」
「あなたにここで死なれては、クシュダーラが犬死になる! 早く、さぁ、時間がありません!」
     ダーラ……。
 後悔と懺悔の涙が、堰を切ったように迸った。
 ああ、ダーラ、ダーラ、ダーラ!!
 そうだ、こうなることは、最初から判っていたはずだったのに!
 私は。   
 私はどうして、彼女を止めることができなかったのだろう。
「ガイ、私、行けない……」
 クシュリナは泣きじゃくりながら首を振った。
 ここで自分一人が逃げてしまえば、ガイは確実に殺される。
 生きる価値がないのは自分だ。無力で、無知で、人の顔色ばかりうかがって……己の置かれた立場など、何一つ知ろうとはしなかった。父の言葉に従って婚約者と結婚する。そのためだけに生きてきた、人形のような存在だった。
 そんな自分に。
 人を犠牲にしてまで生き残る価値は、最初からなかったのだ。
「私一人が彼らに投降すれば、あなたは助かる、だったら私はそうします」
「行ってください、私が奴らを引きつければ、なんとかなる!」
 ガイは必死で食い下がった。「クシュリナ様!!」
「私だけ逃げられません。そんなことをしたら、あなたまで死んでしまう!」
 ガイは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに渾身の力で、クシュリナを外へおしやった。
「どうして、今更、そのようなことをお気になさるのです。主人のために命を投げ出すのが、配下のたる私の当然の勤め」
「私は」
「ダーラも、皇都からついてきた騎士たちも、みな、姫様のために喜んで命を落としたのですぞ。今更、どうして私だけが!」
「私は   
「お行きください、ハシェミ公をお救いするためにも、あなた様が生きて皇都を脱出されることが、何より、何より必要なのです」
 全てが受け入れられないままに、クシュリナは首を横に振った。
「クシュリナ様!」
 ガイの声は、いまや嵐にも似た叱責だった。
「私は、このような時のために皇室にお仕えしているのです。早く! すぐにアシュラル様の軍勢が助成に参ります」
「アシュラルは来ません、あの男を信用しては駄目!」
「さぁ、お早く!」
 懇親の力で、扉の外に押し出される。弾みでクシュリナは倒れ、両手を地につけて半身を起こした。
淡い月灯りが滲んだ闇、冷たい風。   
「姫様、忌獣は光をおそれるといいます。我ら、イヌルダの民にとって、姫様はまさに光」
 扉の向こうから、ガイの声がした。
「姫様に、シーニュの加護があらんことを!」
 最後は、血を吐くような声だった。
「ガイ!」
 返事はもう、返ってはこない。
     ガイ……。ダーラ……。
 絶望と悲しみで胸が塞がる。
 逃げなければ。けれどもう、それしかなかった。ガイのためにも、ダーラのためにも。
 そして、ラッセルのためにも。
 涙を払い、よろめくように起きあがると、クシュリナは暗い荒野を走り出した。

 
 
 
 
 

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