誰……?
私を、ずっと呼んでいるのは。
第七章 覚醒の時
1
「サランナ……、聞いても、いいかしら」
クシュリナは、疾走する馬車の中で、口を開いた。
ヴェルツ公爵邸を脱出したクシュリナは、サランナが用意した二頭立ての馬車に乗り、郊外の森で小さな貨物用の馬車に乗り換えた。
驚くほど多くの人たちが、その森で二人を出迎えてくれた。灰銀のクロークをまとった近衛青百合、ハシェミの私兵 翡翠色に覆われた水菫騎士。そしてサランナを護る近衛黄薔薇である。
「我々も、このたびの異変で拘束されるところを、ようやく逃げおおせた者ばかり」
集団を率いているのは、クシュリナが幼い頃からよく知っているハシェミの侍従長、保科ガイだった。
背は高くはないが、肩幅が尋常でないほどに広く、上半身の肉が厚い。蓬髪は老いたせいか半ば灰色で、自らの主人が囚われたためか、鬼気迫る顔つきはあたかも鬼神のようである。
ガイは、無念さと慙愧を血走った目に滲ませ、クシュリナの前に膝をついた。
「残念なことに、金羽宮はヴェルツの手に落ちました。きゃつめ、薫州松園家と手を結び、かねてより企んでいたこたびの政変を、まんまと成功させたのでございまする」
松園家……。
眩暈を感じ、クシュリナは傍らのサランナの腕に手をかけた。
あのフォード様が……まさか。それは何かの誤解か、ガイの勘違いだと思いたい。
「私がいけなかったのだわ」
サランナの表情もまた、蒼白になっていた。「私が……ルシエなど信用したから。あの娘が薬のことを、父親に伝えたに違いないわ」
「皇都は絶対に取りもどしまする」
ガイは、殺気ばしった目で断言した。
「そのためにも、今は、姫様方を御守りし、皇都を脱出するのがなにより肝要。とにかく一時この皇都を離れ、態勢を整えるしかございますまい」
「どこへいくの?」
「法王領へ」
法王領 クシュリナは、自身の眉が曇るのを禁じえなかった。
「郊外からジュボールの森に入り、そこでアシュラル様率いる法王軍と合流いたします。法王領は、禁制区。ヴェルツといえども容易には踏み込むことはできますまい。ひとまずは法王に庇護を求め、潦州へ落ちましょう」
「潦州へ……?」
「久世ガイル公は、こたびの政変をいち早く察し、いそぎ戻った潦州でヴェルツへの守りを固めております。甲州はすでに戦火の只中。このままでは潦州もいずれ落ちまする。いそぎ彼の地で、戦いに備えねばなりませぬ」
「お姉様、ガイル公は、アシュラル様のお導きで、潦州にお戻りになることが出来たのよ」
「………」
今、その結論を蒸し返しても仕方がないことは判っている。サランナに同行すると決めた以上、最後まで信じて行く他はない。
「……青州公は」
やっとクシュリナは、そのことを確認する機会を得た。「青州公は、どうなさいました。今、どちらにお味方されているのです」
「 ご存じないと存じますが、グレシャム公は、お亡くなりあそばされました」
ガイは、眉をひそめて言った。
「その殺害に関わったとして、ヴェルツはゼウスに追放された青州公の弟君、ダーシー様を討伐すべくコシラ軍を送ったのです。今、青州は主二人を亡くして混乱の極みでしょう。あるいは、その機に乗じて蒙真軍が侵攻をはじめるやもしれません」
「………」
「もし、ダーシー様が無事に危機を切り抜けて青州にお戻りになられれば……彼の君はシーニュ神の信心厚き方ゆえ、きっと我らの味方になってくださるでしょうが」
ダーシーが……。
クシュリナは眉をひそめた。知らなかった、公ではそういうことになっていたのだ。
むろん、ダーシーに、兄を殺すような真似ができるはずがないことを、クシュリナはよく知っている。
それも含めて、全てはヴェルツの企みだったのかもしれない。もしヴェルツが蒙真と通じていたとしたら……この機に乗じて、青州を制圧することはたやすいだろう。
絶望が胸をふさぐ。
ここに至っては、もう法王を頼るほかないことを、クシュリナも痛感するしかなかった。
「彼の御子息、鷹宮ユーリ様は、どうなさっているの」
首にかけた彼の首飾りを握りしめ、最後にクシュリナは聞いていた。
苦い眼でガイは首を横に振った。
「彼の者こそが、ダーシー様の命を受け、養父に手を下したのだと……。真偽のほどはわかりませぬが、ユーリ様の行方はようとして知れません」
ユーリは、無事に皇都を出ることができたのだ。
そう信じることだけが、絶望的な状況で、わずかにクシュリナを安堵させた。
そして、疾走する馬車は皇室領を抜け、目指す森の手前に差し掛かっていた。
2
「なぁに?お姉様」
隣に座っていたサランナは、優しい目で姉を見上げた。最初、ひどくやつれて見えた妹の面差しに、ようやく明るい色が戻りつつある。
「アシュラルとは、いつから……そういう」
クシュリナは口ごもった。
言いにくい。
彼が、自分の婚約者であるという拘りが、まだ、どこかにあるのかもしれない。
「本当に、ごめんなさいね……お姉様」
サランナは長い睫を伏せ、うつむいた。
「彼、本当は、二年ほど前に、イヌルダに帰ってきていたの」
「……え?」
二年前といえば、クシュリナが青州から帰還した頃だ。
「アシュラル様は、戻られてすぐにお母様のところへいらしたの。……できれば、お姉様との婚約を白紙に戻したいって。きっとヴェルツ公爵家との争い事が、嫌になってしまわれたのね」
クシュリナは眉根を寄せた。
それは、私も同じことだった。
だったら、だったらどうして二年も、何一つ知らせなり意思表示なりを寄こさなかったのだろうか。
膝の上で、サランナの手が握り合わされている。
「それでも、彼やお母様の一存では結婚を白紙にできない理由があったのよ。アシュラル様が、コンスタンティノ大僧正様の養子だということは、ご存知よね」
クシュリナは頷いた。実子ではなく、養子。それは耳にしたことがある。
「大僧正様は、お姉様と結婚させるためだけに、アシュラル様をご自身の子供として養子縁組なされたの。いまさら彼の一存ではどうにもならなかったのよ」
「………」
それは、どういう意味なのだろう。
ひどく奇異な感じがした。
私と、結婚させるためだけに……養子にした?
それではまるで、アシュラルという人が、皇室に入るためだけに必要だったという話になる。
クシュリナの迷いを見越したように、サランナは意味ありげな笑みを浮かべた。
「アシュラル様はね、このシュミラクールで、たった一人の方なのよ」
「……え?」
「そしてお姉様も、たった一人の方だったの」
「………」
言われている意味がわからない。
が、クシュリナも、兼ねてから不思議に思っていたことがあった。
父はどうして、アシュラルが何をしても、決して婚約を破棄しようと言わなかったのだろうか。あれほどヴェルツに嫌がらせを受けても、頑として婚約を維持しようとしたのは。そうまでしてアシュラルにこだわった理由は。
自分の知らない所で、何か別の理由があったというのだろうか。
「お姉様、その時私も、彼から本当の秘密を聞いてしまったのよ」
サランナは顔をあげた。瞳がきらきらと輝いている。
その鮮やかな目色に気おされ、クシュリナは何も言えないまま、妹の顔をただ見つめる。
「お父様もコンスタンティノ大僧正様も、ある予言書に書かれたことを、実行しようとしていらしたの」
「予言書……?」
一体、何の話だろう。
薄闇が、馬車の中にたちこめ始めていた。
「決して公開してはならない。長年に渡って法王庁が封印し続けてきた、予言の書……」
サランナの声が、囁くように低くなった。
「法王庁では、それは終末の書と呼ばれているわ」
何……?
なんの話?
その時、突然馬車が停止した。慌ただしく扉が開いて、パシク・フラウが顔をのぞかせる。
「駄目です、この先も封鎖されています。すでにコシラの大軍が」
馬車を取り巻く騎士たちが色めき立った。
「また遠回りか、日が暮れてしまうぞ」
「雲が多い、夜になると森は危険だ」
口々に交わされる声がひどく緊張しているのが判る。
クシュリナは、自分の肩を抱きしめた。
風邪でも引いたのだろうか、さっきから、ずっと気持ちの悪さが続いている。胸が圧迫されるようで、軽い吐き気さえ覚えている。
なにより、拭っても拭っても、嫌な予感が頭から離れない。ただ、夜が怖いというのではない。何故だろう、何故こんなにも、私はおびえているのだろうか。
再度、扉が開かれ、今度は近衛黄薔薇が顔を出した。
「大挙して動くのは危険です。この先で二手に別れましょう。サランナ様はどうか、こちらの馬車へ」
「いや待て、今離れるのは却って危険だ」
外で言い返しているのはガイだった。それに対して、サランナの騎士たちが激しく反論している。
「分散した方が目立たずに森を抜けられる。今はそのようなことを言っている場合ではないだろう」
「ジュポールの森に、邪教徒どもの隠れ処だった廃屋がある。別の方面から逃げてきた部隊とそこで落ち合う手筈になっている。いったん別れ、ひとまずそこで合流しよう」
言い争う声を聞きながら、クシュリナはわきあがる胸騒ぎと戦っていた。
やはり、ついてくるべきではなかったのかもしれない。なんだろう、この、胸が引き千切られるような、嫌な感じは。
この先。
この先で、 私は。
誰かが、私を呼んでいる。いいえ、違う、私の名前は、……私の、名前は?
「お姉様、心配なさらないで」
サランナの声で、クシュリナは現実に引き戻された。
「お顔の色がよくないわ、しっかりなさって」
「……ありがとう」
おかしい。クシュリナは瞼をこすった。目が覚めているのに、夢を見ているような感覚だ。しかも……どこかで、一度見たことのある……おぼろにしか思い出せない悪夢のような。
「その場所には、クシュダーラも合流することになっているの。大丈夫、きっとアシュラル様が助けに来てくださるから」
サランナは、そう言ってクシュリナの手を握り締めた。
クシュダーラ。
はっと、クシュリナは、逆に自身が蒼白になるのを感じた。
どうしてその名前が、こんなにも自身を憂鬱にするのか。
「きっと、ご無事で」
頬に優しいキスを残し、サランナはパシク・カナリーに引かれるようにして馬車を降りた。
「参りましょう」
代わって馬車に乗り込んだガイが、苦い口調でそう言った。
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