誰……?
 私を、ずっと呼んでいるのは。
  
 
 
 
 
 
第七章 覚醒の時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                  
 
 
「サランナ……、聞いても、いいかしら」
 クシュリナは、疾走する馬車の中で、口を開いた。
 
 
 ヴェルツ公爵邸を脱出したクシュリナは、サランナが用意した二頭立ての馬車に乗り、郊外の森で小さな貨物用の馬車に乗り換えた。
 驚くほど多くの人たちが、その森で二人を出迎えてくれた。灰銀のクロークをまとった近衛青百合(パシク・フラウ)、ハシェミの私兵    翡翠色に覆われた水菫騎士(シーモス・ナイト)。そしてサランナを護る近衛黄薔薇(パシク・カナリー)である。
「我々も、このたびの異変で拘束されるところを、ようやく逃げおおせた者ばかり」
 集団を率いているのは、クシュリナが幼い頃からよく知っているハシェミの侍従長、保科ガイだった。
 背は高くはないが、肩幅が尋常でないほどに広く、上半身の肉が厚い。蓬髪は老いたせいか半ば灰色で、自らの主人が囚われたためか、鬼気迫る顔つきはあたかも鬼神のようである。
 ガイは、無念さと慙愧を血走った目に滲ませ、クシュリナの前に膝をついた。
「残念なことに、金羽宮はヴェルツの手に落ちました。きゃつめ、薫州松園家と手を結び、かねてより企んでいたこたびの政変を、まんまと成功させたのでございまする」
     松園家……。
 眩暈を感じ、クシュリナは傍らのサランナの腕に手をかけた。
 あのフォード様が……まさか。それは何かの誤解か、ガイの勘違いだと思いたい。
「私がいけなかったのだわ」
 サランナの表情もまた、蒼白になっていた。「私が……ルシエなど信用したから。あの娘が薬のことを、父親に伝えたに違いないわ」
「皇都は絶対に取りもどしまする」
 ガイは、殺気ばしった目で断言した。
「そのためにも、今は、姫様方を御守りし、皇都を脱出するのがなにより肝要。とにかく一時この皇都を離れ、態勢を整えるしかございますまい」
「どこへいくの?」
「法王領へ」
 法王領    クシュリナは、自身の眉が曇るのを禁じえなかった。
「郊外からジュボールの森に入り、そこでアシュラル様率いる法王軍と合流いたします。法王領は、禁制区。ヴェルツといえども容易には踏み込むことはできますまい。ひとまずは法王に庇護を求め、潦州へ落ちましょう」
「潦州へ……?」
「久世ガイル公は、こたびの政変をいち早く察し、いそぎ戻った潦州でヴェルツへの守りを固めております。甲州はすでに戦火の只中。このままでは潦州もいずれ落ちまする。いそぎ彼の地で、戦いに備えねばなりませぬ」
「お姉様、ガイル公は、アシュラル様のお導きで、潦州にお戻りになることが出来たのよ」
「………」
 今、その結論を蒸し返しても仕方がないことは判っている。サランナに同行すると決めた以上、最後まで信じて行く他はない。
「……青州公は」
 やっとクシュリナは、そのことを確認する機会を得た。「青州公は、どうなさいました。今、どちらにお味方されているのです」
    ご存じないと存じますが、グレシャム公は、お亡くなりあそばされました」
 ガイは、眉をひそめて言った。
「その殺害に関わったとして、ヴェルツはゼウスに追放された青州公の弟君、ダーシー様を討伐すべくコシラ軍を送ったのです。今、青州は主二人を亡くして混乱の極みでしょう。あるいは、その機に乗じて蒙真軍が侵攻をはじめるやもしれません」
「………」
「もし、ダーシー様が無事に危機を切り抜けて青州にお戻りになられれば……彼の君はシーニュ神の信心厚き方ゆえ、きっと我らの味方になってくださるでしょうが」
 ダーシーが……。
 クシュリナは眉をひそめた。知らなかった、公ではそういうことになっていたのだ。
 むろん、ダーシーに、兄を殺すような真似ができるはずがないことを、クシュリナはよく知っている。
 それも含めて、全てはヴェルツの企みだったのかもしれない。もしヴェルツが蒙真と通じていたとしたら……この機に乗じて、青州を制圧することはたやすいだろう。
 絶望が胸をふさぐ。
 ここに至っては、もう法王を頼るほかないことを、クシュリナも痛感するしかなかった。
「彼の御子息、鷹宮ユーリ様は、どうなさっているの」
 首にかけた彼の首飾りを握りしめ、最後にクシュリナは聞いていた。
 苦い眼でガイは首を横に振った。
「彼の者こそが、ダーシー様の命を受け、養父に手を下したのだと……。真偽のほどはわかりませぬが、ユーリ様の行方はようとして知れません」
 ユーリは、無事に皇都を出ることができたのだ。
 そう信じることだけが、絶望的な状況で、わずかにクシュリナを安堵させた。
 そして、疾走する馬車は皇室領を抜け、目指す森の手前に差し掛かっていた。
  
  
                 
 
 
「なぁに?お姉様」
 隣に座っていたサランナは、優しい目で姉を見上げた。最初、ひどくやつれて見えた妹の面差しに、ようやく明るい色が戻りつつある。
「アシュラルとは、いつから……そういう」
 クシュリナは口ごもった。
 言いにくい。
 彼が、自分の婚約者であるという拘りが、まだ、どこかにあるのかもしれない。
「本当に、ごめんなさいね……お姉様」
 サランナは長い睫を伏せ、うつむいた。
「彼、本当は、二年ほど前に、イヌルダに帰ってきていたの」
「……え?」
 二年前といえば、クシュリナが青州から帰還した頃だ。
「アシュラル様は、戻られてすぐにお母様のところへいらしたの。……できれば、お姉様との婚約を白紙に戻したいって。きっとヴェルツ公爵家との争い事が、嫌になってしまわれたのね」
 クシュリナは眉根を寄せた。
     それは、私も同じことだった。
 だったら、だったらどうして二年も、何一つ知らせなり意思表示なりを寄こさなかったのだろうか。
 膝の上で、サランナの手が握り合わされている。
「それでも、彼やお母様の一存では結婚を白紙にできない理由があったのよ。アシュラル様が、コンスタンティノ大僧正様の養子だということは、ご存知よね」
 クシュリナは頷いた。実子ではなく、養子。それは耳にしたことがある。
「大僧正様は、お姉様と結婚させるためだけに、アシュラル様をご自身の子供として養子縁組なされたの。いまさら彼の一存ではどうにもならなかったのよ」
「………」
 それは、どういう意味なのだろう。
 ひどく奇異な感じがした。
 私と、結婚させるためだけに……養子にした?
 それではまるで、アシュラルという人が、皇室に入るためだけに必要だったという話になる。
 クシュリナの迷いを見越したように、サランナは意味ありげな笑みを浮かべた。
「アシュラル様はね、このシュミラクールで、たった一人の方なのよ」
「……え?」
「そしてお姉様も、たった一人の方だったの」
「………」
 言われている意味がわからない。
 が、クシュリナも、兼ねてから不思議に思っていたことがあった。
 父はどうして、アシュラルが何をしても、決して婚約を破棄しようと言わなかったのだろうか。あれほどヴェルツに嫌がらせを受けても、頑として婚約を維持しようとしたのは。そうまでしてアシュラルにこだわった理由は。
 自分の知らない所で、何か別の理由があったというのだろうか。
「お姉様、その時私も、彼から本当の秘密を聞いてしまったのよ」
 サランナは顔をあげた。瞳がきらきらと輝いている。
 その鮮やかな目色に気おされ、クシュリナは何も言えないまま、妹の顔をただ見つめる。
「お父様もコンスタンティノ大僧正様も、ある予言書に書かれたことを、実行しようとしていらしたの」
「予言書……?」
 一体、何の話だろう。
 薄闇が、馬車の中にたちこめ始めていた。
「決して公開してはならない。長年に渡って法王庁が封印し続けてきた、予言の書……」
 サランナの声が、囁くように低くなった。
「法王庁では、それは終末の書と呼ばれているわ」
     何……?
 なんの話?
 その時、突然馬車が停止した。慌ただしく扉が開いて、パシク・フラウが顔をのぞかせる。
「駄目です、この先も封鎖されています。すでにコシラの大軍が」
 馬車を取り巻く騎士たちが色めき立った。
「また遠回りか、日が暮れてしまうぞ」
「雲が多い、夜になると森は危険だ」
 口々に交わされる声がひどく緊張しているのが判る。
 クシュリナは、自分の肩を抱きしめた。
 風邪でも引いたのだろうか、さっきから、ずっと気持ちの悪さが続いている。胸が圧迫されるようで、軽い吐き気さえ覚えている。
 なにより、拭っても拭っても、嫌な予感が頭から離れない。ただ、夜が怖いというのではない。何故だろう、何故こんなにも、私はおびえているのだろうか。
 再度、扉が開かれ、今度は近衛黄薔薇が顔を出した。
「大挙して動くのは危険です。この先で二手に別れましょう。サランナ様はどうか、こちらの馬車へ」
「いや待て、今離れるのは却って危険だ」
 外で言い返しているのはガイだった。それに対して、サランナの騎士たちが激しく反論している。
「分散した方が目立たずに森を抜けられる。今はそのようなことを言っている場合ではないだろう」
「ジュポールの森に、邪教徒どもの隠れ処だった廃屋がある。別の方面から逃げてきた部隊とそこで落ち合う手筈になっている。いったん別れ、ひとまずそこで合流しよう」
 言い争う声を聞きながら、クシュリナはわきあがる胸騒ぎと戦っていた。
 やはり、ついてくるべきではなかったのかもしれない。なんだろう、この、胸が引き千切られるような、嫌な感じは。
 この先。
 この先で、    私は。
 誰かが、私を呼んでいる。いいえ、違う、私の名前は、……私の、名前は?
「お姉様、心配なさらないで」
 サランナの声で、クシュリナは現実に引き戻された。
「お顔の色がよくないわ、しっかりなさって」
「……ありがとう」
 おかしい。クシュリナは瞼をこすった。目が覚めているのに、夢を見ているような感覚だ。しかも……どこかで、一度見たことのある……おぼろにしか思い出せない悪夢のような。
「その場所には、クシュダーラも合流することになっているの。大丈夫、きっとアシュラル様が助けに来てくださるから」
 サランナは、そう言ってクシュリナの手を握り締めた。
     クシュダーラ。
 はっと、クシュリナは、逆に自身が蒼白になるのを感じた。
 どうしてその名前が、こんなにも自身を憂鬱にするのか。
「きっと、ご無事で」
 頬に優しいキスを残し、サランナはパシク・カナリーに引かれるようにして馬車を降りた。
「参りましょう」
 代わって馬車に乗り込んだガイが、苦い口調でそう言った。

 
 
 
 
 
 

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