10
 
 
 一瞬真っ白になった頭は、すぐに現実に向けて切り替わった。
 クシュリナはサランナの手を握り締めた。
「本当に?」
「ええ、本当に」
 わずかに躊躇しながらも、サランナはきっぱりと頷いた。
「ごめんなさい、お姉様、私たち」
 うつむいて、震える睫。「    愛し合っているの」
 信じていいのか。    本当に、あの男を信じていいのか。
「だから私を信じて、彼は絶対に、お姉様を助けて下さるから」
「………」
「お願い、私と来て」
「………」
 クシュリナは、黙ったままでいた。
 生まれてこのかた、これほど迷い、そして即座の決断を求められたこともなかった。
 自分が知っているアシュラルの数々の行動、姉でも妹でもかまわないとぬけぬけと口にした恥知らずな精神。しかもあの男は   
 思わず、サランナを見おろしていた。
 あの男は、この館の女主人、エレオノラと通じていたのだ。
「……お姉様…?」
「………」
 唇を開きかけ、クシュリナは力なくそれを閉じた。
 アシュラルについて、妹はどこまで知っているのだろう。今、過去の行状を言いたてたとしても、いたずらに妹を傷つけるだけではないだろうか。
 それに、もしかすると。
 クシュリナは、自分が今、ひどく怖い顔をしていると思った。
 ずっと疑念に思っていたことがある。アシュラルは、法王家は、どうしてあの日、婚礼の場所に現れなかったのだろうか。
 あたかも、ああなることを予め知っていたかのように。
     サランナも、アシュラルに騙されているのかもしれない。……
「行くわ」
 クシュリナは頷いた。行こう    もう、それしかない。何の手も打たず、ただ流されるよりはずっといい。サランナを説得する自信がない以上、自分がサランナについて行くしか方法はない。
 アシュラルを信じることはできない。でも、だからと言ってこのまま一人残るのは、たった一人で金羽宮に残されている妹を見捨てるようなものだ。
「ありがとう、お姉様!」
 サランナは、飛びつくようにクシュリナを抱きしめた。
 それを待っていたかのように、サランナの後ろに控えていたもう一人の女が歩み寄ってきた。女はさっと目深に被っていたケープを払いのける。
 肩までの髪をまとめ、きつく後ろに編み上げている。凛とした化粧気のない顔。
「ダーラ……!」
 クシュリナは呆然として呟いた。
 夢を見ているのかと思った。
「ダーラ、ダーラ、あなたがどうして」
 言葉がそれ以上出てこない。
 ダーラが金羽宮を去ったのはわずか前のことなのに、もう懐かしさと愛しさで胸がいっぱいになっている。
 ダーラは優しく微笑した。
 第一女官をしていた頃と同じ、きりりと引き締まった切れ長の目。が、それは、どこか精彩を欠いていた。それだけではない、結婚式の頃と比べ、ひどく面やつれした感じがする。
     心労?
 はっとそれと気づき、クシュリナの胸は重苦しく痛んだ。ラッセルのことだ、ラッセルのことで心配が絶えなかったに違いない。
 でも、それだけではない。どこか不思議な違和感がダーラの全身から漂っている。どこがと言われればわからない、すごく、漠然としたものが。
「ダーラ、ラッセルは」
 そう訊きかけた時、ダーラが遮るように口を開いた。
「姫様、私が身代わりになって、この館に残ります」
「えっ」
 ダーラは微笑する。細い眉の下の綺麗な瞳。薄く締まった唇。特別な美人ではないのに、不思議な魅力を持っている表情。
「私と衣装を交換するのです。クシュリナ様は、そのままサランナ様とお逃げになって下さいませ」
「そんな」
 主人の返事を待たず、ダーラは素早く身につけていたケープと女官衣を脱ぎ棄てる。
「さぁ、お早く、時間がありません」
「待って、そんなことできない」
 ようやく、ダーラの手を掴んで動きを止める。「駄目よ、ダーラ、身長も体格も全然違うわ」
「大丈夫です。寝台にもぐりこんでしまえば判りませんから」
「でも、そんなことをしたら、ダーラはどうなるの」
 首を振ったのはサランナだった。
「大丈夫ですわ、お姉様。ダーラならすぐに脱出できます。そういった手筈も、アシュラル様が全てなさっておいでなのです」
「でも」
「ダーラであれば可能な脱出も、お姉様お一人では不可能だわ。お姉様、お逃げになる機会は今しかないのよ? 証拠はなくともヴェルツたちが蛇薬を持っているのは間違いないの。いくらお姉様が鉄の意思をもって拒まれても、あの薬を使われてしまったら最後なのよ」
 ダンロビンの、妙に余裕めいた笑い顔を思い出し、クシュリナはぞっと寒気を感じている。
 確かに、サランナの言う通りだった。でも、    もし、その脱出に、ダーラが失敗してしまったら。
「姫様、ぐずぐずしていては、サランナ様までも疑われてしまいます」
 畳みかけるような、ダーラの声は厳しかった。
「私情を優先してはなりません。お忘れですか、私もラッセルも、身命に代えても姫様をお守りするのが定められた宿命」
「ダーラ……」
「結婚式の折、クシュリナ様は、ラッセルをお見捨てになるべきでした。配下の血を踏み越えて本願を果たすこと、それが高貴なる者が背負う義務なのです」
 ラッセルに、言われているような気がした。
「目先の情に流されるのは、優しさでもなんでもございません。ただ姫様ご自身を満足させたにすぎないのですよ」
 平手打ちでもされたような、峻烈な言葉。   
「………」
 クシュリナは、苦いものを飲んだような気持で視線を伏せた。
 多分、ここにラッセルがいれば、同じことを言っただろう。それが真実を衝く言葉だと認めると同時に、女として    思い知らされないわけにはいかなかった。すでに二人は夫唱婦随、心と心で結ばれた夫婦なのだ。
「ラッセルを……死なせたくはなかったの……」
 うつむいたままで、苦しい感情を押しやるように呟いた。
 あの時の自分は、ただ、それだけだった。そこに邪念ややましさは微塵もない。が、ラッセルが決してそれを望まないことも、クシュリナはよく知っていた。
「姫様のお優しさ。ラッセルはあのまま死んでも、きっと悔いはなかったでしょう」
 見上げたダーラの眼差しは憂いと厳しさを帯びていた。
「なれど、あの人は生きのびました。あの人の気性では、なんとしてもその命を、再び姫様のために投げだそうとするでしょう。    ラッセルは昨夜、パシクの獄を抜け出したのです。行方は、今も判っておりません」
「そんな    !」
 頭を、重たいもので強烈に殴打されたような衝撃だった。
 ラッセルが……逃げ出した……、あんなにひどい怪我を負って……。
「姫様が、この囚われの城から脱出しない限り、今度、ここに突入してくるのは私ではなくラッセルになるでしょう。そうなれば、どうなるか    姫様には、まだお判りになりませんか」
 判りすぎるほど、それは判った。
 ラッセルは死ぬ。いずれにせよ、ただで済むはずがない。
「今も、こうしている間に、沢山の者が姫様を救うために奔走し、その存在さえ姫様に知られないまま、命を落としているのです。自分の行くべき道を見誤ってはなりません。姫様は    私たちとは違うのです」
 がくりと、クシュリナは力なくうなだれた。
     私は、なんて甘かったのだろう。
(先の先まで見とおす目、あらゆる物事の真贋を見抜く皇帝としての目がお前にはない。……)
 幼い頃、ハシェミに言われた言葉だった。
(君みたいな考えなしの楽天家に、果たして女皇が務まるのかな   
 ユーリも、そう言っていた。
 それは全て、私の本質をついていた。私には……あらゆる意味において、皇位継承者としての自覚がなかった。
 父に悲しい顔をさせないために、ラッセルを喜ばせるために、みんなの期待に応えるために、    ただ、それだけの理由で、自身の行く末を決め、行動を重ねてきた。
 世間のことを何も知らず、知ろうともせず、独り善がりの小さな鳥籠の中にいた。
 なのに、こんな私のために、ダーラやラッセル、その他多くの    フラウ・オルドの騎士や女官たちは、命をかけ、そして死んでいったのだ。
     高貴なる者の、定め。
 初めて、その言葉の本当の意味を思い知らされたような気がする。……
「お早く」
 クシュリナは、せかされるようにしてドレスを脱いだ。ダーラが手早く女官服をクシュリナに着せて、ケープを被せる。
「ご安心なさいませ。姫様がここを脱出されれば、夫も無事に戻ってくると思いますから」
 ダーラはそう言い、優しくクシュリナの肩を抱きよせてくれた。
     夫……。
 何故か、とんでもなく場違いなところで、クシュリナは胸が黒く淀むのを感じていた。針の先ほどの微かな嫉妬。それは、今の場で決して出すべきではない、女としての、どうにも捨てがたい劣情だった。
 結婚式で、二人はどこかぎこちなかった。それからほんの数日、今ダーラは、ラッセルの妻として、確たる自信を持つようになっている。
 わずかな時間で、二人は一体、どんな形で絆を深めていったのか。   
 想像するだけで、目の眩むほどの嫉妬を感じる。
 けれどその感情は、本当にごく一瞬だった。
「ダーラ、お前は本当に大丈夫なのね?」
 クシュリナは念を押した。
「はい」
 ダーラはきっぱりと頷いた。
「脱出の算段はできております。姫様と違い、私なら、部屋を出てしまえばなんとでもなりますから」
 微笑には自信が満ちている。確かにダーラは騎士としても密偵としても一流で、剣技にしても並の相手になら負けはしないだろう。
「でも、姫様には今しか機会がございません。どうかサランナ様と一緒にお行きになってくださいませ」
 クシュリナは頷いた。今はサランナを、そしてダーラを信じるほかない。
「それから」
 着替え終わったダーラは、少し声を落として囁いた。
「姫様、……あの」
 囁くような声は、サランナに聞こえることを警戒しているように感じられた。クシュリナはダーラの傍に顔を寄せた。
「アシュラル様を、お信じになって」
「……?」
 そのまま、目を逸らしてダーラは顔をあげた。「サランナ様、準備ができました」
     アシュラルを?
 さらりと、普通に言われた言葉だし、ラッセルの妻であれば、いかにも言いそうな台詞だった。が、この状況で、声をひそめて囁かれたことに不思議な引っ掛かりを感じている。
 けれど、何に引っ掛かるのか判らないまま、クシュリナはサランナに手を引かれて、扉に向かった。
 最後に、もう一度ダーラを振り返った。
「ダーラ、本当に大丈夫なのね」
「ええ、必ずここを出て、クシュリナ様の後を追います」
 ダーラはすっきりとした顔で白い歯を見せた。その笑顔がとても綺麗だったので、思わずクシュリナも微笑していた。その時だった。
 ふと   
 何故、ダーラを初めて見た時、不思議な違和感を覚えたのか、その理由にクシュリナは思い至っていた。
 ひどく痩せてしまった顔。なのに、均衡を欠いてふっくらとして見える胴。
     まさか。
「ダーラ、あなた」
「お姉様、急いで」
 サランナが腕を引いた。最後にダーラの声が聞こえた。
「クシュリナ様、私」
 何故かそれが、ダーラの未練から出た声のような気がして、クシュリナははっとして振り返っている。
 ダーラは微笑して、かしずくように膝をついた。
「……私の本当の名前を、覚えておいてくださいまし。おそれおおくも姫様と同じ呼称であったため、フラウ・オルドに上がる時に名をあらためました。私の本当の名は    クシュダーラと申します」
 クシュダーラ……。
     クシュダーラ?
「お姉様、時間がございませんわ」
 サランナが、扉を開く。
 クシュリナは、ただ、呆然としていた。
 何……?
 何なのだろう、このまがまがしい……吐き気のするような、嫌な予感は。
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.