公爵家の邸内には、至る所にコシラ兵が闊歩していた。
 窓から垣間見た庭にも、通路にも、暗褐色のクロークをまとった兵がずらりと居並んでいる。
 塀にも、窓にも、至るところにコシラは配置されていた。これでは逃げ出すことはおろか、助けを求めることもできないだろう。
 むろん、捕らえた者を見張るための大動員だろうか、異常ともいえる警備の数は、それだけではないような気がした。
 うがちすぎかもしれないが    外敵を畏れているようにも、見える。
 ようやく客間に通されたクシュリナは、ヴェルツ家の手伝いを断って、結婚のための衣装を自分で脱いだ。
「…………」
 雨と泥に濡れ、くしゃしゃになったドレスにそっと頬を寄せる。
 胸が、締め付けられるように苦しく痛んだ。
 この血はラッセルのものなのだ。彼の身体に流れているものの一部。私を守って、傷ついた彼の命そのもの。
「……ラッセル……」
 涙が零れた。そのまま溢れそうな感情を、唇を噛んで堪え、クシュリナは衣装の裏地に収めておいたピロードの袋から、ユーリの首飾りを取りだした。
(今まで俺を護ってくれた、これからは、君を護るだろう)
 持ちだしておいて、本当によかった。青百合オルドに置いていたら、今頃、どうなっていたのかわからない。
 婚礼の席に不釣り合いなのは判っていたが、ユーリの無事を祈るような気持ちで身につけていたものである。
 袋から取り出した透き通った緋色を、クシュリナはそっと自分の首にかけた。
     ユーリ……ラッセル……。
 どうして私の大切な人はみんな   、みんな、私の前から、いなくなってしまうのだろう。
「残念でしたな、アシュラルが来られなかったそうで」
 不意に背後から浴びせられた声、クシュリナは息を引いて顔を上げた。聞くだけで、背筋にむしずが走る    その声。
 いつの間に入ってきたのか、扉の前には一人の青年が立っていた。
 
 
                    
 
 
 幾多の愛人を持つ奥州公ヴェルツの唯一の実子、ダンロビン。
 ひょろりとした長身で、父親に似ず、すんなりとした優雅な手足を持っている。
 緑のロックコートに白のブリーチズ。剣帯にはひどく目立つ宝石をちりばめ、実際、飾り物としか思えない豪華な剣をそこにたばさんている。
 脱いだ衣装で身を被い、クシュリナはダンロビンを睨みあげた。
 それまで、室内の周辺に監視するがごとく居並んでいた女侍従たちは、まるでそれが当然の義務のように、急ぎ足で退室する。
「何の、用です」
「そんなお顔をされても駄目ですよ」
 ダンロビンは笑った。子供時代にはなかったふてぶてしさと、どこかなげやりな、退廃的な雰囲気が、彼の全身から滲み出ている。 
「相変わらずお美しくていらっしゃる。どうです今のご気分は。こんなことになるなら、さっさと私の求婚を受ければよかったと、そうお思いではありませんか」
「私は、何もしていません」
「そうでしょうな」
 鼻で笑って、彼は腕を後ろに組んだ。
「でも、それを決めるのはあなたでないんですよ。残念なことにね」
 じわっと、まるで小動物を追い詰めるがごとく、ダンロビンはにじり寄ってくる。
 縮まった距離の分だけ、クシュリナは急いで後退した。が、もとより逃げ場などどこにもない。閉ざされた扉。日が陰る部屋。幼い頃、何度も悪夢にうなされた過去が、鮮やかによみがえる。    どうしよう、どうすればいい?
「どうして、アシュラルが今日姿を現さなかったのか。その理由がおわかりですか」
 答えずに、ダンロビンを睨み続ける。この目を離せば、そのまま均衡が崩れるような気がする。
「彼は、あなたを見捨てたんですよ。わが身可愛さに、またぞろ雲隠れして旅に出たのかもしれませんね」
 だから、なんだというのだろう。クシュリナは唇を噛んだ。最初からあの男を頼ってなどいない    いるものか。
「疑いは、すぐに晴れますわ。無体な真似をすると、許しません」
「あなたはまだ、ご自分のおかれた状況がお判りではないのですか?」
 憐れむような声だった。
「あなたを生かすも殺すも、父上次第なのですよ。あなたの疑いが晴れるかどうかは、父上の胸三寸なのです」
 手が肩を抱こうとする。クシュリナはそれを払いのけた。
「だから……どうだというのです!」
「あなたはもう、籠の中の鳥も同然なのですよ」
「触らないで!」
 悔しかった。
 どうして私は女なのだろう。どうして、こんな恐ろしい思いを再三しなければならないのだろう。
 ダンロビンは声をあげて笑った。心底おかしそうに身をよじった。
「本当に、ご自分の立場がわかっておられないようですね。クシュリナ姫、私はあなたの妹君と婚約したんだ。あなたに代わってこの国の女皇となる、サランナ姫と」
 眠たげな瞼の下から覗く目に、残虐な光が宿っている。
「もう、あなたには、何の価値も魅力もない。婚約者にすら見捨てられた、哀れで惨めで、可哀想な孤児だ」
 再び距離を詰めてくる。クシュリナは後ずさる。
「私がサランナと結婚したあかつきには、せいぜい妾にでもしてさしあげよう。天使のように清らかで無垢なクシュリナ姫が   
 逃げようとしたが、背後はもう壁だった。大股で歩み寄ってきたダンロビンが、腕を伸ばす。あっという間もなく、顎を無遠慮に掴まれていた。
「この私の奴隷になるんだ、これほど愉快なことはない」
   離して!」
 自分でも驚くほどの強さで腕を振りほどき、クシュリナは横に逃げた。
 ダンロビンは追おうとしたようだが、ふと、馬鹿にしたような目になって肩をすくめた。
「今日は逃れても、明日もある、明後日もある。せいぜい逃げ回ることですな」
 勝ち誇ったように言うと、男は背を向けて出ていった。
 扉が閉まった後も、しばらくクシュリナの足の震えは止まらなかった。
 
 
                 
 
 
 厳かな鐘の音が、朝からずっと、途切れることなく鳴り続けている。
 幾重にも共鳴しては天に響き渡る喪の音色。イヌルダ全ての教会が、葬送の鐘を打ち鳴らしているのだ。
     お義母様の、……葬送式なのだわ。
 何の知らせもなく、また外出を許される気配さえないということは、義理とは言え、母の葬送式に顔を出すことは叶わないのだろう。
 金羽宮の方角にかしずいたクシュリナは、亡き義母に祈りを捧げた。
 外部から遮断された状態で幽閉されているクシュリナには、父がどうなったのか、ユーリが、そしてラッセルがどうなったのか、確認する術はない。
 ただ    祈るしか……その祈りすら届かないのではないかと言う絶望感にさいなまれながらも、それでも、ただ、祈るしかない。
 祈りを終えた時、背後で扉の開く気配がした。はっと振り返ったクシュリナは、相手はダンロビンだと思って身構えている。
 けれど、しずしずと入ってきたのは、予想もし得ない相手だった。
「お姉様……」
   サランナ?」
 黒のケープで全身を包んだ妹は、顔だけをわずかに隙間からのぞかせている。が、輝くような美貌は隠しようもなく、飾り気のない上衣に包まれた全身からは、えもいえぬ芳香を発しているようだ。
 その背後にもう一人、明らかに女性と思しき人が、頭からケープを被って立っている。
「しっ、お声をお出しにならないで」
 サランナは唇に指を当て、素早くクシュリナの傍に駆け寄った。
 もう一人の女は見張りなのか、即座に扉の前に張り付く。
     サランナ……。
 まさかここに、争いの渦中にいる妹が来ようとは思わなかった。しかも、要塞がごとく警備の厳重なヴェルツ公爵邸に    どうやって。
 むろん、サランナはダンロビンの婚約者である。いわばこの館の主も同様なのかもしれないが、そうだとしても、ヴェルツやダンロビンが、そうやすやすと姉妹の邂逅を許すとは思えない。
 混乱するクシュリナを見上げ、サランナは弱々しく微笑した。
「お姉様……よかった、お元気そうで」
 はらり、とサランナの頭からケープが落ちた。
 いつも華やかに結い上げている髪が力なく両肩に落ちている。よく見れば頬はやつれ、表情にも精彩がない。妹の別人のような変容ぶりに、クシュリナは声も出せなくなっている。
「ダンロビン……、許せないわ……こんなところに、お姉様を閉じ籠めていただなんて」
 瞳を震えさせ、サランナは、たまりかねたように両手で顔を覆った。
「サランナこそ、どうして、こんな……」まだ事態が呑み込めないクシュリナは、戸惑って言葉に詰まっている。「今日は、お母様の葬送の儀があるのではないの?」
 妹は、大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、頷いた。
「だから、こうして来ることができたの。今なら皇都中の兵が葬送の儀に借り出されているから    、私、この時を待っていたんです。お姉様をお助けする機会が来るのを」
 はっと胸が詰まり、クシュリナは再び、何も言えなくなっていた。
 自分は妹を信じていた。だからこそあの疑惑の小瓶を誰から預かったのか、ヴェルツに一言も弁明しなかった。そもそも、何故ユーリに預けたはずの瓶が再びフラウ・オルドの寝室から発見されたのか判らないのだが。
 が、サランナは、疑うはずだと思っていた。瓶をクシュリナに手渡したのは、ほかならぬサランナである。義母が本当に毒殺されたのなら、    義母にうとまれているクシュリナが、瓶の中身を使ったと、想像されてもおかしくはない。
「サランナ、あなたは……私を、信じてくれるの?」
「信じますわ、お姉様、私は、お姉様を信じています!」
 サランナは涙を零してクシュリナの手をとった。暖かな指をしていた。そのまま、耐えかねたようにクシュリナの胸に頬を寄せる。
「サランナ……」
 双眸を潤ませながら、初めてクシュリナは、ユーリがあの夜涙した理由を理解した。
 ユーリもまた、今のクシュリナと同じだった。義父を殺したとしか思えない状況に追い込まれていた。どれだけ動揺し、どれだけ不安だったろう。信じていると言われて、どれだけ安堵しただろう。……
 胸がいっぱいになりながら、クシュリナは妹を抱きしめた。
「サランナ、一体お母様に何があったの? お母様は本当に毒殺されたの」
 サランナは、力なく首を横に振る。
「私にも……本当のところは判らないの。夜近くになって、ようやくカナリーに知らせがきたほどですもの。でも……お母様の死に顔は」
 その時のことを思い出したのか、苦しそうに喉を詰まらせる。
「普通のお亡くなりかたではないということだけは、私にも判ったわ。……哀しくて、何が何だかわからない内に、お姉様とお父様がヴェルツ公爵に捕らえられたと聞かされて……」
 瞬いたサランナの長い睫に、涙の粒が光った。
「皆、これは陰謀に違いないと噂しているわ。だってお母様が亡くなられていくらもたたない内に、ヴェルツ公爵はお姉様のオルドにコシラを突入させたのです。まるであの日、お姉様とお父様が金羽宮を留守にしておられたのを、御存じだったように」
 声をひそめ、ほとんど蒼白といっていい表情で、サランナは続ける。
「もしや、ヴェルツは、私がお姉様に、件の薬を渡していたのをご存知だったのではないかしら。私がヴェルツを疑っているのに気が付いていたから、    だから」
 わっと、サランナはクシュリナの胸に顔を伏せるようにして泣きだした。
「だとしたら、お姉様をこのような目にあわせてしまったのは私なのだわ。ああ、私    どうすればいいの!」
 妹の涙が、クシュリナの腕を濡らす。
「サランナのせいではないわ」
 しっかりしているようで幼い妹を、クシュリナは支えるようにして励ました。
「私が迂闊だったのよ……。あなたが気にすることは何もないのよ」
「いいえ、いいえ!」
 サランナは、激しく首を振った。
「嘘をついたの……私」
「嘘……?」
「ひとつだけ、本当のことをお姉様にお話することができなかった。私があの薬をお姉様にお渡ししたのは、決してユーリ様のためだけではなかったの」
 涙にぬれた目が、美しく潤んでクシュリナを見上げている。
「……どういう、意味なの?」
「私……ダンロビンと結婚なんか、……したくない」
 真実を吐露した反動か、サランナの肩が震えた。
「女皇になんかなりたくない。本当は子供の頃からうんざりだったの、全てがしきたりに縛られて、結婚まで勝手に決められて。    お姉様とだって、もっと親しくしてみたかったのに……」
「サランナ……」
「もし、ヴェルツ公爵家で蛇薬が使われていることが判ったら、ヴェルツもダンロビンも失脚するわ。そうなれば、私、……結婚などしなくてすむ。女皇にならなくててすむと思ったの」
 潤んだ目を上げ、サランナは訴えるような眼差しでクシュリナを見つめた。
「お姉様、お願い、私を助けて。このままだと私、あの嫌な男と結婚させられてしまう」
「何を……何をしたらいいの」
 サランナの告白は、ますますクシュリナの胸を重く塞いだ。
 ダンロビンなどという愚劣な男とサランナが婚約させられたののは、ひとつにはクシュリナが、ダンロビンを拒み、青州にまで逃げたからだ。だからお鉢が回ってきた    それが自分の運命だとしたら、クシュリナであっても耐えられない。
「お姉様……」
 膨れ上がった涙が、サランナの白薔薇のような頬に零れた。
「私には、ずっと、愛している方がいるの」
「え?」
 思わぬ言葉に打たれ、クシュリナは眉をあげている。まるで天使のようにあどけない瞳が、誰かを恋しているとは考えてみたこともなかったからだ。
「それは……どなたなの、サランナ? 私でも知っている方?」
 何故だか不思議な胸騒ぎを感じ、急くようにクシュリナは訊いている。
 サランナはうつむき、しばらく何かを逡巡しているようだった。
「本当は今日も、その方のお導きでここまで来ることができたの。その方は、お姉様とお父様を助けるために、今も諸侯と折衝を続けているわ」
     誰……?
「お姉様の潔白は、きっと彼が証明するわ。お姉様、どうかそれまで彼の決めたことに従って」
「従うって」
 今度は、クシュリナが逡巡する。
 サランナの瞳は真剣だった。
「皇都から逃げるのよ」
     えっ?
「今日しか、今しか機会はないの。お姉様はまだこの国の皇位継承者。ヴェルツとの交渉を有利に進めるためにも、お姉様の身柄を彼の許に置いておかなければ」
「でも、そんな」
 どうやって、この厳重な見張りの下から逃げることができるのだろうか。
 頭が混乱する。サランナの言う通りにすべきなのか、判断できない。それに   
「お父様を、置いては」
 サランナは首を横に振った。
「お父様を助けるためにも、お姉様が私と一緒にいらしてくれることが絶対に必要なの。お姉様、私を信じて、私についてきて」
     信じている、でも。
「サランナ、では、その方の……私たちを助けて下さろうとしている、その方の名前を教えて」
 自分と父の命をその男に賭けるのなら、せめてどのような人物か知らなければ話にならない。
「お姉様……」
 サランナは、不思議な表情を見せて呟いた。「驚きにならない?」
 それは、場違いな例えだけれど、宝物の隠し場所を知っている子供が、隠した場所を自慢気にほのめかしているような表情だった。
「驚く……?」
 ふと、ある男の名前が胸をよぎった。いいえ、そんなはずはない。でも、まさか。
 が、少なくとも、ヴェルツ公爵に対抗しうる力を持っている一族は、この国にひとつしかない。それは    大僧正、コンスタンティノ……
「アシュラル様なの」
 サランナは、囁くように言った。
 
 
 
 
 
 

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