5
田園を抜け、森林地帯へと景色が変わる。怒涛のような追手の蹄はすぐそこまで迫っていた。
「駄目だわ、ラッセル、このままじゃ追いつかれる」
振り返ってクシュリナは叫んだ。
追手は一頭に一騎。それに対して、いくら軽いとはいえ二人を乗せた馬の早さには限界があった。
「いいですか! よく聞いて!」
それまで無言だったラッセルが頭上で叫んだ。
「このまま、まっすぐ森を抜ければ、皇室領が終わる、この先は法王領です」
「何? わからないわ」
疾走する蹄の音で、お互いの声がよく聞き取れない。
「………」
ラッセルは、片腕でクシュリナの顔を抱くようにして、自分の口元へ引き寄せた。
「このまま、カタリナ修道院へ行ってください」
こんな時なのに。
クシュリナは、心臓が別のところで鼓動を早めたような気がした。
「法王領は、軍の立ち入りが禁じられている。しばらくの間なら、時間を稼ぐことができる」
「しばらくって、その後はどうするの?」
見上げたラッセルの顔が、ひどく蒼い。
雨とは違う、細かな汗が額に浮いている。
「ラッセル……?」
「直に、アシュラル様が迎えに来られます。それまで」
言葉が途切れる。
もしかして、怪我を……?
背後を確認できないクシュリナには判らない。
が、あれだけの敵の中、クシュリナを庇うようにして脱出したラッセルが、傷を負わなかったはずがない。
「……それまで、絶対に、ヴェルツのところへ行ってはいけません」
彼の声は普通ではない。 間違いない、ラッセルは傷を負っているのだ、しかも、様子からいってかなりの深手を。
「ラッセル!」
クシュリナは叫んだ。
そうだ、いつも いつもこの人は。
「あなたも一緒よね、あなたも一緒に修道院へ行くのよね」
誠実に、ひたむきに。
「あなたが行かないのなら、私も行かない!」
いつも、何も言わずに、私のために。
「ラッセル!」
冷えた腕に、抱きしめられたような気がした。
それは、本当に、一瞬だった。
「私は、姫様との約束を守った」
目の前で、ラッセルの指が、手綱を離れた。
「今度はあなたが、それを守ってください」
背中に密着していた温もりが不意に消えた。途端に軽くなった馬が、疾走を早める。
「 ラッセル!」
咄嗟に、手綱を引いていた。いななく馬を操りながら振り返る。
「行ってください!」
地面に打ち付けられ、転倒したラッセルは、それでも肩を起して叫んだ。
「行くんだ! 早く!」
馬が、忙しく足踏みしている。
クシュリナは自分も飛び降りようとした。
「なにをやってる、行ってください、行くんだ!」
「いやよ、行かない!」
「行け!」
「行かない!」
「………」
馬を飛び降りて駆け寄ると、ラッセルが、わずかに笑った気がした。
雨が、静かに二人の肩を濡らした。
「……ヴェルツ公爵が、あなた様に何をするつもりか、本当に判っておいでですか」
鎧の隙間から流れ出た血が、雨に混じって土に吸い込まれていく。
どこに傷を負っているのかは判らない、が、量からして相当な深手であることは間違いなかった。よろめきながらも、なお立ち上がろうとするラッセルを、クシュリナは自身が抱き支えるようにして止めた。
「動かないで、お願い」
自分の手も、唇も震えている。
膝をついたラッセルの胸から、さらに新しい血が溢れて滴る。彼の顔色はすでに蒼白で、冷えた指は硬く強張っている。
ラッセルは死ぬ このままでは、確実に死んでしまう。
「追手を待つわ。あなたの、傷の手当てをさせなければ」
「馬鹿なことを……」
ラッセルは首を振り、慙愧に呻くように呟いた。
「私を犬死にさせるおつもりか、姫様を軽蔑させるおつもりか」
「もう、黙って」
もの言いたげな眼差しが向けられる。が、すでに地面を揺るがすほどに迫る追手から逃げる術がないことを悟ったのか、ラッセルは青ざめた瞼を閉じた。
「……一生……お恨み致します」
クシュリナは、ゆるやかに崩れたラッセルの身体を抱きしめた。彼の香りに混じって、血と、雨の匂いがした。
ラッセル……。
涙が出そうになり、必死に歯を食いしばる。いっそここで、全てを忘れて泣き伏せってしまいたい。でも今は、感傷に暮れている場合ではない。まだ 諦めない。この土壇場で、ラッセルを生かすも殺すも、自分次第だということを、クシュリナはよく知っている。
雨が、ラッセルの身体から体温を奪っていく。もう言葉を発することもできないのか、細かな呼吸しか聞こえない。クシュリナが上から顔を見下ろすと、わずかに開いた漆黒の瞳が、戸惑ったように揺れるのが判った。
「死なせないわ……ラッセル」
クシュリナは自分に言い聞かせた。
絶対に、この人だけは死なせてはならない。
ユーリ。……
何故か、ユーリのことが頭に浮かんだ。
あなたは、自分の運命と戦うために旅に出た。私にも、 こんな弱虫な私にも、同じことができるかしら。
今、襲いかかろうとしている運命に立ち向かうことが。
(君には無理だよ)
ユーリが、どこかで笑っているような気がした。何故かそれで、心がすっと落ち着いた。
「ダーラが待っているんでしょう? 帰りましょう、二人で……金羽宮に」
眼を閉じたままのラッセルに、最後の言葉が届いているかどうかは判らなかった。
やがて二人を、追いついたコシラ騎馬隊が取り囲む。
クシュリナは立ちあがった。
ラッセルの血が、真っ白なドレスの肩から胸までを緋に染めている。その異様な姿に驚いたのか、殺気立っていた騎士たちが、気おされたように動きを止める。
「ヴェルツ公爵に伝えなさい」
震えを堪え、クシュリナは顔を上げた。
「この者を速やかに御殿医の所へ運びなさい。この者に罪はありません。全ては私が命じてそうさせました。 絶対に死なせてはなりません。この者は、公にとっても大切な人質になるでしょう、……何故なら」
握ったままの拳がわずかに震えた。
「この者を無事に生かしておく限り、私が公に逆らうことはないからです」
6
すぐにクシュリナは、馬車に乗せられ、皇都の北西にあるヴェルツ公爵邸に連れていかれた。
雨と泥に汚れた衣装を、着がえる余裕さえ与えてはもらえなかった。全身濡れたままのクシュリナの惨めな姿を、出迎えたヴェルツは、上から下まで、冷たい目色で見回した。
「お寒かったでしょう」
左右をコシラに囲まれたままのクシュリナは、まさに罪人さながらに立たされている。
わずかな救いは、ヴェルツの背後に、コシラとは別の一団が居並んでいることだ。
金羽宮本殿を護る近衛第一隊。そして、潦州久世家の私兵である。
クシュリナが入った時の、彼らが見せた驚愕にも似た表情から、クシュリナは 彼らがまだ、真からの敵ではないと察することができた。
「お父様はご無事なの?」
勇気を振り絞って聞くと、豪奢な椅子にふんぞりかえったままで、ヴェルツは笑った。神経を逆なでされるような、粘った笑い方だった。
「むろん、無事でございますよ。姫様同様、私どもが、丁重にお預かりしております」
言葉は丁寧だが、それは、明らかな恫喝である。
黙るクシュリナを見上げ、ヴェルツはわずかに鼻孔を膨らませた。
「女皇陛下は朝食の途中に倒れられたのです。毒物が飲み物に混じっていたようですな」
義母が、死んだ。
眉をかすかにひそめたまま、クシュリナは何も言えなかった。
本当に、本当に死んでしまったのだろうか。
アデラとは、一緒に暮らしたこともなければ、まともに会話した記憶もない。縁が薄かったのはむろんのこと、存在自体を憎まれていたこともよく知っていたから 格段の悲しみは湧いてこない。
けれど、何か不思議な……胸に、風穴でも開いたような気持ちだった。
どうあれ、クシュリナの人生にこれまで大きく関わってきた人が死んだ。その喪失感は、意外なほどの大きさで、胸の裡を占め続けている。
ヴェルツは続けた。
「食事の用意をした女官を取り調べましたところ、クシュリナ様お付きの女官から丸薬を手渡されたと申し立てているのです。それを溶かして、アデラ様の食事に混ぜるように指示されたと」
「そんな、馬鹿な」
さすがに愕然として言い返している。
「それは誰です。誰がそのような」
即座にカヤノの顔が浮かんだが、ヴェルツが口にしたのは別の女の名前だった。
「その者は死にました。今朝がた、フラウ・オルドの女官部屋で自らの胸を突いて」
「…………」
「自害のようですな。我々は、姫様がそれを指示したと……疑わざるを得ませんでした」
そんな 子供でも見破られるような、稚拙な罠で、あのような惨劇が起きたとでもいうのだろうか。
「嘘です。私に、そのような憶えはありません!」
「そう、哀しいことに、罪を犯した者はすべからく嘘をつくものなのですよ」
憐れむような声だった。「クシュリナ様とて、それは同じなのではございませぬか? それともあなた様の祖であるシーニュ神にかけて、この場で真実のみを語るとお誓いいただけますか」
「……私は、嘘などいいません」
「では、誓いを」
「…………」
「この場で、どうか宣誓を」
震える手でシーニュへの宣誓をしたクシュリナは、悔しさをこめて面前の男を睨みつけた。
恥ずかしさと憤りで、唇が震えるほどだった。このような侮辱を 臣下の前で受ける言われはない。
「よろしい」
不思議なほど嬉しそうに笑うと、悠然とヴェルツは立ち上がった。
「では、話の続きをしましょう 実は先日、金羽宮では、大変な騒ぎが起こりましてな。それもハシェミ公が故意に伏せておられたのですが、青州のグレシャム公が殺され、その息子が出奔したというのです」
「…………」
さっと強張った顔を、ヴェルツは目ざとく見つめて笑った。「ほう、もしや御存じでございましたかな?」
嘘をつかない そう誓ったクシュリナは何も言わない。
「逃げだした息子は、 目下養父殺しの疑いが最も濃い者でございますが、 何を思ったか逃亡の際、フラウ・オルドに侵入したという噂があるのです。よもや……と思っておりましたが、あの夜クシュリナ様は、鷹宮ユーリとお会いなされたのではございませんか」
クシュリナは黙っている。
ユーリはまだ生きている……捕まっていない……それが、絶望の中の救いのようにわずかな勇気を与えてくれる。
「否定なされない。とすると……ますます、姫様をお疑いせねばなりますますなぁ」
く、く、とヴェルツは、楽しそうに笑った。
「何故、今、鷹宮公の話などされるのですか」
冷たい口調で、クシュリナは言った。
「私は、お母様を殺してなどいません」
「むろん!」
ヴェルツは大げさな所作で胸を抑えた。
「そうであればいいと、私も今朝から胸を痛めておりました。が 今の話を聞く限り、やはり姫様はお疑わしいと言わざるを得ない。それは私一人の所存ではなく、ここにいるパシクの者どもも、同様に思ったことでございましょう」
「……どういう意味です」
「これに、見覚えがございましょう」
差し出されたものを見て、今度こそクシュリナは色を無くしていた。
「それは……」
透明な小瓶、表面に刻まれた白水仙 鷹宮家を示す紋章。
中に収められた黒い丸薬の形も量も、全てはサランナに預かり、ユーリに手渡した件の蛇薬そのものだった。
「今朝がた、姫様のお部屋から出てきたのです」
そんな 馬鹿な!
間違いなくその瓶は、ユーリが懐に収めたはずである。あの夜、別れ際に、自分が始末すると言って。
それが、私の部屋から出てきた ? そんな馬鹿な話があるはずがない。が、見れば見るほどヴェルツが持つ瓶は自身が持っていたものとそっくりだったし、何より、クシュリナの顔は誰が見てもはっきり判るほど激しい動揺を浮かべている。
「憶えがある……というお顔をされておられますな?」
「その中身は……私は、知りません」
震える声で、クシュリナは言った。
「これから調べましょう」しゃあしゃあとヴェルツは言った。「が、毒性の強いものであることは間違いないようです。餌に混ぜて猫にやらせたところ、もののわずかで息絶えました。件の女官は、姫様の女官から手渡された丸薬は、これと同一の形状だったと申しているのですがね」
「馬鹿馬鹿しい! それは絶対に違います!」
「鷹宮ユーリにもらったものですな」
「違います!」
「では、誰から?」
「…………」
サランナから が、言えるはずがない。
サランナが、ここに立つウェルツを疑い、自分に預けてくれたものなのだから。
「大丈夫です」
ヴェルツは、にやにやと笑った。
「今、丸薬の成分を調べさせている最中です。姫様がそうも違うとおっしゃるなら、なに、すぐに嫌疑は晴れましょう。 それまで、姫様には私の館でおくつろぎいただく」
じろりと、一転した鋭い眼が、背後のパシクを見回した。
「それでよろしいな? この議が決して言いがかりでないこと、おわかりいただけたであろう!」
誰も、ものひとつ言わずに押し黙っている。
「帰られよ。そして各々の主人に告げよ。真偽のほどが明らかになるまで、甲州公と姫様の身柄は、この奥州公がお預かりする!」
やがて 潮が引くように室内からヴェルツを除く者たちが消え、クシュリナはただ一人、ねめつけるように自分を眺めるヴェルツの前に取り残された。
唇を引き結んで気丈を装い、胸が震えるような動揺に耐え続ける。
「瓶の中身を、本当に御存じではありませんかな?」
「…………」
「それによっては、姫様の罪はさらに重いものとなりましょう……。が、御安心なさい、このヴェルツ、なにもむざと姫様を殺させるために、あえて暴挙に出たのではございません」
ねっとりとした囁き声が、間近に迫る。
「全てはお助けしたいがため……そのために、ああやって姫と甲州公の身柄を、ひとまず拘束したのですよ」
腕がすうっと伸びてくる。とっさに震えたクシュリナの怯えを見透かしたように、捕らえた小鳥をなぶるような目で、ヴェルツは笑った。
「おお、そうだ、まずお着替えをなさらなければなりませんなぁ。お召し物はお部屋に用意させておりますので」
からかうように言ってから、ようやくヴェルツはクシュリナを開放した。
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