「まぁ」
「なんでしょう、今の声は」
 クシュリナは、女官の声につられるように顔を上げた。
 女官たちは眉をひそめて顔を見合わせている。クシュリナには何が起きたのか判らなかった。
 扉の外で、確かに男の声がしたような気がしたが、先ほどからずっと、自分の周りのことは意識の外にある。
「私、見てまいりますわ」
 よほど異常な声だったのか、女官たちの顔が、それぞれ緊張しているのが見て取れた。
 一人がいそいそと扉に向かった時    何か、巨大な質量を持つ物がぶつかるような音がした。
「きゃあっ」
「なにごと!」
 背後に控えていた女官たちも、全員が血相を変えて立ち上がる。
 扉の外から、怒鳴るような猛々しい声がした。入り乱れる足音が、はっきりとクシュリナの耳にも聞こえてくる。
「姫様、こちらへ」
 背後の女官が、立ちあがってクシュリナの手を引いた。「これは変事に相違ありません。ひとまず、身を御隠しになられなければ」
 居合わせた女官たちに囲まれるようにして、クシュリナは別の扉から裏口に続く廊下に出た。万が一に備え、あらかじめ用意された脱出口。裏庭には、青百合騎士と馬車が待機している。
 再び、激しい衝撃音が、出たばかりの部屋から鳴り響いた。
「姫様、お急ぎになってくださいまし!」
 すでに、女官の声は悲鳴に近い。
 もつれるほど長いドレスを抱えて走りながら、轟くような不安が胸を突き上げる。
 いったい何が起きたのだろう。アシュラルは、    あの人はまだ来ないのだろうか。
 いくら秘密の帰還だとしても、一度も挨拶に現れなかった彼は、最後までこの婚姻に不服を表明していたのかもしれない。
「クシュリナ様!」
 裏庭に続く扉が開く。その向こうから、銀灰のクロークをまとった男が飛び出してきた。青百合騎士。すでに血の滴る剣を抜きはらった蒼白な面持ちに、クシュリナの手を握りしめていた女官が、はっと緊張するのが判る。
 騎士は叫んだ。
「こちらに来てはなりません、お逃げ下さい、陰謀でございます!」
「きゃあっ」
 同時に、背後の女官たちから、魂消るような悲鳴が聞こえた。
 クシュリナは振り返っている。
 逃げまどう女官たちから血しぶきがあがる。信じざる悪夢に呆然とした時、その背後から鎧兜に身を覆った騎士団がなだれ込んできた。
 深褐色のクロークに青銀の鎧。肩にヴェルツ公爵家の紋章、黒獅子(コシラ)が刻まれている。公爵家の私兵、通称コシラ軍である。
「皆の者、姫様を御守りせよ!」
 傍らの女官が、胸元から短剣を引き抜いた。ざっと周囲の女たちがそれに続く。
「姫様、お逃げを!」
 まるで悪夢を見ているようだった。狭い通路に入り乱れるコシラと女官たち。悲鳴と叫喚。
 それが悪夢でない証拠に、すでに飛び散った血潮が、クシュリナのドレスを鮮やかな緋に染めている。
 先ほど鏡を見て、「かようにお美しい花嫁は、イヌルダのどこを探しても見つけることなどできませんわ」と微笑んだ初老の女官は、すでにうつぶせに倒れ、その頭をコシラのあぶみ付きの靴で蹴散らされている。
 足は無様なほど震え、声は、喉で乾き固まったように出てこなかった。
     お父様……助けて……ラッセル……。
 無残に斬り伏せられた女官たちを踏みにじるようにして、コシラの青銀兜が表情もなく迫ってくる。
 よろっとよろめいたところに、最初に飛び込んできた青百合騎士が駆けこんできた。
「姫様、こちらへ!」
 救いを求めるように、クシュリナはその手を取っている。
 その時だった。
 びゅっと風をきって飛んできた何かが、鋭い、嫌な、何かがへしゃげるような音をたて、クシュリナの眼前に突き刺さってぶるっと震えた。
 のけぞった青百合騎士が、まるで動物の死骸か何かのように壁に    喉を串刺しに貫かれてぶらさかっているのを見た時、クシュリナは初めて狂気のような悲鳴をあげて後ずさった。
 が、その方向には、すでに手が届くほどの距離にコシラ軍が迫っている。
「あ……あ、」
     誰か……。
 逃げようにも足がすくんで動けない。コシラの一人が、当然の権利ででもあるかのように、クシュリナに向かって手を伸ばす。    その時、
「控えよ!」
 低い、けれど重々しく響く声がした。
「姫の捕縛は、我が鷲翼隊の任務である!」
 クシュリナは    今度こそ、本当にこれは夢だと思っていた。
 しかも、とびきりの悪夢である。
 裏口側から悠然と歩み出てきたのは、近衛鷲翼(パシク・バートル)隊隊長のジュールである。
 憶えのある凶相、切り裂かれた瞼、そのせいかやや下がった右目、それが、じろりと立ちすくむクシュリナをねめつける。
 さしものコシラ軍も、名に聞こえた猛者の登場に動きを止める。
 眉ひとつ動かさないまま、平然と    彼の立場では部下といっていい者を屠った槍を、壁から亡骸ごと引き抜くと、    それは、武器に疎いクシュリナの目から見ても、常識はずれの重量と長さを持つ槍だったが    ジュールはかろく一振りし、元通り彼の背にすとんと収めた。
 彼の足もとに倒れ伏した青百合騎士には意識すら払わない。
 もとより、その並はずれて巨大な、尖端が三叉に割れた異形の槍を使うものはジュールしかいない。
 となると、その槍で、青百合騎士を刺殺したのもジュールである。
     この人も……敵……。
 蒼白になって立ちすくむクシュリナに、ジュールは悠然と歩み寄り、冷淡な眼で見下ろした。
「クシュリナ様ですね」
 判り切ったことをあえて事務的に問っているような口調だった。
「あなた様をイヌルダ軍法に基づいて拘束いたします。私と、ご同行いただけますか」
     軍、法……?
 クシュリナは動けなかった。言われる意味も判らなかったが、その前に恐怖で身体が凍りついてしまっている。
「……お父様を、待たなくては」
 ようやく出たのは、その言葉だけだった。
「残念ながら」
 ジュールは、冷たい口調のままで続けた。「アシュラル卿は、お出でにはなられません。むろん、ハシェミ公もです」
「………」
「女皇、アデラ陛下が、つい先刻ご崩御なされました」
     え?
 クシュリナは目を見開く。頭の中が、真っ白になっていた。
「クシュリナ様、残念ですが、あなた様にはアデラ女皇殺害に関与されたお疑いがかかっております。どうかお静かに、私とご同行願えますか」 
 
 

                 
 
 
「待って、わけがわかりません、どういう意味なの」
 両腕を鷲翼騎士二人に抱えられ、教会裏の小路を進みながら、クシュリナは必死で声をあげた。先を行くジュールは、振り向きもしない。背に負う血濡れた三尖刀が、てらてらと雨に濡れ光っている。背後には抜刀したコシラ軍が、忌わしい護衛のようについてくる。
「お母様は、本当に亡くなられたの?」
 足がもつれる。それを支える隊士の腕は優しかったが、歩みを止めようとはしなかった。
「お願い、教えて……」
 雨がふくらんだドレスを惨めに濡らした。髪はほどけ、すでに幸福な花嫁の名残はどこにもない。
 教会の表では、さらなる悪夢がクシュリナを待っていた。
 周辺は、見渡す限り深褐色のクロークで取り囲まれている。ヴェルツ公爵の私兵、コシラ軍。
 そのコシラに挑むように、翡翠色のシーモス軍    ハシェミの私兵軍が立ち向かっている。
「おおっ、姫様だ!」
「クシュリナ様をお助けしろ!」
 シーモスの幾人かが、狂ったような雄叫びをあげる。が、それは一目見て、絶望的な戦況であった。
 数で圧倒的に勝るコシラが、シーモスを食らうように飲みこみ、至る所で勝鬨をあげている。必死の突入を試みるシーモスは、次々と囲まれなぶり殺しにされている。コシラに混じり、バートル隊もまた、シーモスと斬り合っている。
     何故……バートル隊が……。
 より深い絶望を感じ、クシュリナは足から力が抜けるのを感じていた。
 父がここまで大きくしたパシクであり、バートル隊である。それが……青百合騎士を殺して私を捕らえ、父の私軍と闘っている。……現実だというなら、これは何の陰謀だろうか。ラッセルは、    ラッセルは、どうしているのだろう。
 が、次の瞬間   
 コシラとシーモスがひときわ激しい攻防を繰り広げている一群に気付き、クシュリナの思考は止まっていた。
 渦のような鉄兜の輪の中に、二頭立ての馬車がある。そこに、今まさに乗り込もうとしている人の姿があった。
    お父様!」
 クシュリナは、悲鳴にも似た叫びを上げた。
 弾かれたように、その人は振り返った。父、甲州公ハシェミ。
 白銀の衣装に身を包んだ父は、驚愕の態で何か言おうと口を開ける。しかし、その刹那、シーモスの護衛は総崩れになり、詰め寄せたコシラはあっという間に父を飲みこむと、馬車の中に押し込んだ。
「いやぁっ、お父様、お父様!」
 父が    父が殺されてしまう!
「離して、お願い」
 懸命に抗う、が、バートル騎士二人の足は止まらない。
「これは何かの間違いです。私はお母様のことは何も知りません。    お願い、助けて、誰かお父様を助けて!」
 悲痛な叫びも、ジュールは一顧だにしない。むろん、周囲の誰一人、クシュリナの言葉に耳を貸す者はいない。
 兵の輪が割れ、ガラガラと馬車が動き始めた。父を乗せた馬車は、コシラに囲まれるようにして疾走していく。
 生きている    そう、信じるほかなかった。
 どうして……こんなことに。……。
 混乱と虚ろな諦めと、それでもまだ、こんなはずはないという思いを交錯させながら、クシュリナはよろめくように歩き続けた。
 いったい、金羽宮で何があったのだろう。
 陰謀? もしかしてこれは、何かの間違いじゃなくて、意図的に仕組まれていたこと?   
 どうしてアシュラルは来なかったのだろう。どうして、秘密に行われるはずの結婚式に、これほどの大軍が押し寄せてきたのだろう。
(彼女の背後には、カタリナ派と呼ばれる一味がいる、それは、知っているな)
 今更のように、ユーリの言葉が鋭い鞭となって胸を打った。
 カヤノ。式の二日前に消えてしまった第一女官。カヤノなら、今日の日のことを知っていたはずだ。
 タカリナ派と、反ハシェミ派の急先鋒だったヴェルツ公爵。先ゆくジュールが、もしヴェルツと通じていたのなら    二派で示し合せて、この陰謀を企んだとしたのなら。   
     私は……馬鹿だ。
 あれはユーリの、ある意味命をかけた最後の忠告だったのだ。
 それどころか、もっと先に、松園フォード公からも、同じ忠告を受けたではないか。
     なのに私は、危惧を感じつつも、結局何の手立てを講じることもなく……多分、どこかで、カタリナ出身のダーラやラッセルに害が及ぶのを恐れていたから……。
     なんて……私は、なんて愚かな!
 せめてカヤノが消えた時点で、その疑念をハシェミにだけは訴えるべきだった。式の日取りや場所を変えるよう進言すべきだった。そうすべきだったのだ。
「詮議が終わるまで、あなたの身柄は、ヴェルツ公爵家にお預けとなります」
 ジュールの、冷酷な声がした。
 気づけば目の前には、コシラに囲まれた黒塗りの馬車がある。
「公爵家へお連れしろ」
 顎で、馬車を指し示す。
     ヴェルツ公爵。
 クシュリナは戦慄した。
 間近に迫った自分の運命が、一瞬の間に理解できた。
「いやです……!」
 全身で抵抗した。
 髪飾りが、揺れて落ちる。左右から掴まれた腕はびくともしない。
 何度もヴェルツ公爵家に招かれた。その度にどれほど苦心してダンロビンの誘惑から逃げてきたかしれない。
「いや、お願い、地下牢でもどこでも入るから、金羽宮へ戻して!」
 声だけが虚しく雨空に響き、みるみる目の前にコシラの紋章が入った馬車な迫る。
     いや、……いや!
 絶望が胸を満たしていく。
 もし、これが周到に仕組まれた罠なら、無実を証明することすら難しいかもしれない。すでに金羽宮やパシクがヴェルツによって掌握されているのなら、もう二度とフラウ・オルドに戻れないかもしれない。
 目の前には、扉を開けて待ち構えている馬車がある。その周囲を取り囲むようにしてコシラの騎馬兵たちが、ずらり、と馬脚を揃えている。
 ジュールはクシュリナの身柄をバートル隊士から受け取ると、掴んだ腕を後ろでねじって反抗を押さえた。
「……あッ…」
「お静かに、牢に入りたいなど、自ら罪を認めておられるも同然ですぞ」
 まるで罪人の扱いと変わらない。痛みよりも心に受けた衝撃で、クシュリナは倒れそうになっていた。
 ジュールは、ぐったりとなったクシュリナを抱き支えるようにして馬車の手前まで行くと、進み出たコシラの一人にクシュリナの腕を引き渡した。
「では、確かにお渡しした」
 素早く腕を捕らえた騎士が、もの言わず馬車にクシュリナを押し入れようとする。
 クシュリナはその手を振り解こうとして、視線を止めた。
     まさか。
 青銀の兜の下から、見覚えのある顎の輪郭が覗いている。
 次の瞬間、いきなり身体が空に浮いた。
 抱きかかえられている    そう思った時、すでにクシュリナは馬上に押し上げられている。
 まるで、疾風のような素早さだった。
 誰もが、何が起きたか判らず呆気にとられている間に、コシラの騎士は、自身もクシュリナの後ろに飛び乗った。
「に、逃げたぞ!」
「追え!」
 背後から、口々に声がする。もとよりコシラの真っただ中である。前から左右から、もの凄まじい剣先が襲いかかる。
「姫様を傷つけてはならぬのを忘れたか!」
 誰かの叫びが遠くから聞こえる。
 衝撃、怒声、剣が空を切り、火花を散らす音――やがて、全ては疾走する彼方へ消えた。
 クシュリナは振り向き、自分を背後から抱く男を見上げた。
 夢ではなかった。
 彼は兜を脱ぎ捨てた。髪が風に踊り、雨粒が飛散した。
「ラッセル……」
 ラッセルは何も言わずに頷いた。険しい目をしていた。

 
 
 
 
 
 

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