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 自転車を走らせてついた先は、涼香の言うとおりすでに「貸家」になっていた。
     静那……。
 綺麗に手入れされていた庭の花は枯れ、雑草が物悲しく生い茂っている。
 どうしてなんだよ。なんだって、そんな馬鹿な真似をしたんだよ。
 樋口の勤務先に電話しても、樋口は非番で、個人的な情報はお教えできません、と一蹴された。深夜十二時にもなって役所に人がいるということ自体驚きだったが。
 俺のせいなんだ。
 俺のせいで、静那は何もかも    失った。
 初めて小田切は、自分の軽率さと暴挙に駆られた激情を、激しく悔いた。
 誰のせいでもない、全ては自分のせいだった。自分が    静那が積み上げてきたものを、全てぶち壊しにしてしまった。
 どこをどう走ったか判らないまま、ようやく新しいアパートに辿り着く。
 ぼんやりと自転車を降り、小田切はふと眉を寄せた。見上げた部屋には、淡い電気が点いている。消し忘れ    のはずはない。というより、まだ電気器具を買っていないから、点けられるわけがないのだ。
 郵便ポストで部屋番を確認したが、間違いなく自分の部屋である。
 風間かな。    鍵、そういや、掛けたっけ。
 荷物は着替えと身の周りの品だけで、盗まれるものは何もない。1Kのボロアパート。とりあえず、寝て、風呂に入るためだけに借りた部屋だった。
「おかえりなさい、直人」
 扉を開けた途端に、聞き慣れた声がした。
 それは、今の小田切には、どんな声より恐ろしかった。
「遅かったのね。夕飯は食べた?」
     静那……。
 部屋には、どこで買ってきたのか100ワット程度の白熱灯だけがついている。
 薄暗い明りの下、静那は黒っぽいトレーナーとデニムのスカートを穿いていた。
「何か作ろうと思ったけど、調理器具が何もないんですもの。パックものでよければ、買ってきたんだけど、直人、苦手じゃなかったかしら」
 その声が、あんまり自然でいつも通りだったから、小田切は、何も言えなくなっている。
「いや、……別に、出されればなんでも食うけど」
「よかった、じゃあ、お茶淹れるから座ってて」
 ちょっと……ちょっと待て。
 眩暈を堪え、小田切は首を振る。
「お前、強引に、日常に戻ろうとしてない?」
「……無理があったかしら」
「ありすぎだろ」
 このまま    流されてしまいたいけど。
「もしかして、涼香に聞いた?」
 多分、風間→涼香→静那の流れだ。いったいどうなってんだ、この三人のネットワークは。
「うん、あの人……いい方ね。とても清々しい人……、直人に、お似合いだと思うけど」
「…………」
 タオルで手を拭った静那が、畳に膝をつく。
 机も何もない部屋で、二人は互いに向かい合って鎮座した。
「私……あの人に、嘘をついたわ」
「知ってるよ。愛してるだの、なんだのだろ。お前が言ってた意味が、やっと判ったよ」
(今日は、私も、直人も罰を受けたの)
(嘘をついた罪、人を欺いた罪)
 涼香が真に受けた言葉は、多分、静那の嘘だった。
 理由は色々想像できるが、おそらく涼香が、母親としての静那のお眼鏡に叶わなかったに違いない。
「……私、直人のガールフレンドになる人は、もっと自分より年下だと思ってたから」
「……まぁ、悪かったよ、驚かせて」
 微妙に責められている気分である。
「あの日は、すごくショックだったし……吃驚した……。私と年が違わない人が直人の傍にいるんだと思ったら、たまらなく……悔しかった」
「……うん」
 母親とか姉の心理なんて、そんなものかもしれないが、やはり小田切にはよく判らない。
 それきり、静那は黙っている。
 それが、彼女が真っ先に言いたい贖罪なら、次は自分の番だった。
「静那、……今更、何言ってもしょうがないけど」
 闇の中、静那が小さく頷くのが判る。
「俺はもう、お前に何を返せばいいのか分からない。なんて言って、詫びたらいいのか」
「謝る必要は何もないわ」
 静那の声は、毅然としていた。
「あなたに知らせていなかった私が、何もかも悪かったのよ。直人の気性じゃ、絶対に許してもらえないと思ったから」
「今でも、そこは、納得はしてない」
「直人……」
「でも、もう俺の立場で、あれこれ言うことでもないと思ってる」
 顔をあげた静那の目は寂しそうだった。何か言いたげではあったが、何も言わずに再びそっと目を伏せる。
「仕事はどうしてる、今、どこに住んでるんだ」
「少し、遠くになるけど、来春から来てくれっていう学校があるの。前の学校の校長先生が、色々ご尽力くださって」
 そっか。……少しだけほっとしている。
「信じていれば、信じてもらえる時がくるわ……、直人、世の中は、そんなにひどいものではないのよ」
 優しい、胸に浸みるような声だった。
「私が直人に望んでいるのは、大学に行って、あなたの力を存分に社会で活かしてほしいということだけ。うんと言わなければ、私はあなたを、一生許さないわ」
「……静那……」
 小田切は苦しさに耐えかねて呻く。
 それは、自分自身を許さないと言っている風にも聞こえた。
「俺は、お前の弟じゃないんだ」
「知ってるわ、……気づいたのは、三年ほど前だけど」
 痛烈な皮肉をさらりと言われた気分だった。さすがに、顔を上げることができない。
 三年前    静那を、強引に奪った夜。
「直人、聞いて、……本当は今夜、その話がしたくて来たのよ」
 静那の声が震えている。
 小田切は、眉を寄せたまま顔をあげた。
 
 
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 風が、窓をがたがた揺らしている。
 しばらく黙っていた静那は、やがて両腕で自分を抱くようにして、うつむいた。
「あの日……私は、怖かったの。……ものすごく怖かった。でも、それは、あなたが思ってるような意味じゃないわ」
 静那の肩が震えている。さすがに訝しみ、小田切はわずかに距離を詰めた。
「どういう意味だよ」
「夢を見たのよ……。……ううん、夢というより、何かの……別の誰かの意識が、私の中に入り込んでしまったような……。そんな風になったのは、もう、随分昔のことだけど」
     夢……?
 誰かの意識?
 意味が、まるで判らない。
 静那はそっと顔をあげた。潤んだ瞳が寂しげに小田切を見上げている。
「それは、起きている時に見る夢のようだし、別の誰かの記憶が、自分の中に入り込んだような感覚でもあるの。ただ、……それは全て未来の情景で、いずれ現実に、私の身に確実に起きてしまうことなのよ」
「…………」
「直人が……あの日、二年ぶりに帰ってきた夜」
 再び視線を伏せた、静那の肩がわずかに震えた。
「昔見た夢が、現実になる時が来たと思ったから、それで怖くてしょうがなかったの。だから、私、逃げようとした……。あなたを選ぶより、樋口さんと一緒にいるほうが、私にも、あなたにも絶対幸せだと思ったから」
「…………」
「直人……」
 意味が、判るようで    いや、全く判らない。
「それ、宗教の例えか何か?」
 うつむいたまま、静那は何度も首を横に振る。涙が初めて睫から膝に散った。
「子供の頃ね……本当は、……思い出すのも、辛いんだけど……」
「静那」
 言葉が続けられないのか、そのまま静那は両手で顔を覆って肩だけを震わせる。
 思わず、その肩を抱いて引き寄せていた。
 静那は抗わず、小田切の肩に両腕を回してすがってくる。
「よくわからないの、多分、あんまり辛い目にあったから、心のどこかがおかしくなってしまったのね。辛い時……私は……私でない私になって……そんな時に、とても不思議な夢を見るの……それはすごく怖い夢で……いつも、必ず現実になるの」
 どういうことだろう。
「正夢とか、予知夢とか……そういうこと?」
「本当によく判らないの……現実と夢が、ごっちゃになっていたのかもしれない。でも……直人のことだけは……」
 いっそう強く抱きついてくる。
「多分、本当に、私はあの時、未来の自分を見ていたんだわ。三年前、直人が帰ってきた姿を見た瞬間から、私にはああなることが判っていたの。もう、何年も前に、夢の中で見ていたから」
「静那、違う、それは多分……既視感だよ」
 そう、デ・ジャヴだ。
 静那が、潤んだ瞳で瞬きをする。
「既視感は、脳の動きが低下することによって起こる、一種の記憶の混同だ。静那が怖がるようなことじゃない」
「……本当かしら……」
「そうだよ、馬鹿だな、そんなことで、いちいち悩んだりしてんなよ」
 あえて軽く言いながら、胸の底が軋む様に痛んでいる。
 今の言葉が、静那には何の意味もないなぐさめだということも自覚している。
 多分、静那は、想像できないほどの、辛い目にあってきたんだ。
 それなのに    何も知らずに、俺は    あれだけ怖がっていた静那を、無理に。……
「続きがあるのよ、その夢には」
 小田切に首に頬を寄せたまま、静那は囁く。小田切は女の髪を撫でた。
「言ってみろよ」
「結婚するの」
「誰が」
「私と直人」
「…………」
「でも、その恋が、いつか最悪の形で終わることを、私はよく知っているの……だから、怖い」
 何を、言ってるんだ?
 怯えた子供のように、静那は全身で小田切にしがみついてきた。
「怖かった……、でも、直人が好き……それでもやっぱり大好き……」
「…………」
 まだ、言われている言葉の意味が呑み込めない。好きという言葉の本当の意味も。
「静那、でも、お前、涼香に嘘をついたって」
「ついたわ。直人と生きていく覚悟も勇気もないのに、嫉妬に駆られて、言ってはいけない言葉を口にしてしまったわ」
「今は……あるのか」
 強烈な歓喜と動揺で、自分の声が掠れている。
 静那は潤んだ目で頷いた。
「だから、結婚式に行かなかったのよ」
 
  
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「……直人……」
 白く、しなやかな、どこもかしこも透き通った身体は、三年前と同じで、いくら抱きしめてもまるで実感がなかった。
 夢の中を漂うほどに心もとない、ただ焦燥にかられるだけの抱擁と愛撫の中で、はじめて声が、    切なく掠れた囁き声が、別のところで暴走していた小田切の意識を呼び覚ました。
 潤んだ瞳が、不安そうに見上げている。
「なに……?」
「怖い……」
「…………」
「今夜が過ぎたら、自分でない、別の何かになってしまいそう……きっと判らないわね、あなたには」
 額に唇をあて、小田切は静那のほっそりとした白い腕を持ちあげた。
 こうなった今も、意識の遠くで超然と見下ろしているとばかり思っていた静那が、一人取り残されて不安におびえていることに、初めて気がついている。
「掴まってて、俺に」
「直人に……?」
「そう」
 素直に、腕が首に回される。
 もう一度額に、瞼に唇をあてる。静那は頑なに眼を閉じている。これから起ころうとしていることに抗うように    抗いながらも、従うと心決めているように。   

 いっそ抱き壊したいほどの獰猛な激情に翻弄されながらも、小田切は硬く冷やかな静那の身体が、柔らかく溶けて熱くなるのを、待ち続けた。
「あ……あ」
「静那   
 細く反る腰を抱き止めながら、その時はもう、自身の唇から漏れる吐息が、自分のものではないような感覚になっている。
「や……、直人……」
「静那……」
「直人……、直人」 
 身体の中で急速に上り詰めていく感覚に、今ほど未練と寂しさを覚えたこともない。
 その寂しさの正体がわからないまま、胸の中でただなすがままになっている女を、抱きしめ、口づけ、激情の全てを注ぎ続ける。
 切なく漏れる溜息、忙しい吐息、そして何度も繰り返し呼ばれる名前。
 まるでそれ以外の言葉を全て忘れてしまったかのように、静那は小田切の名前しか呼ばなかったし、小田切も、静那の名前しか呼ばなかった。
 もっと聞きたかった。何百回でも、何千回でも。
 やっと俺のところに降りてきてくれた静那の声を。
「苦しい……直人」
「ん……」
「壊れ、そう……」
 しがみついてきた静那が、閉じたまなじりに涙を浮かべ、唇を震わせる。
「壊してるんだよ」
「本当に?」
 驚いて見上げる瞳が、本当に子供のようだった。
 愛しい   
「今夜から、俺だけの静那にしなきゃいけないからな」
 愛しい    好きだ。どれだけ言葉にしても、この感情は伝わらない。ただ、繋がっている身体でしか。
「……あ」
「し、ずな」
 もう、二度と離したくない。
 頭がおかしくなるくらい静那の全部を、過去も未来も魂も、全部俺のものにしたい。   


 
  
   
 
 

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