最初に入ってきたのは、黄色っぽい髪をした、猫背の太り気味の女だった。
 紅い花柄のシャツにデニムのミニスカート。
 黄色の髪は、根元が真っ白で、随分長い間手入れをしていないことが窺い知れる。
 それまで、これが性質の悪い夢か、樋口の嘘であればいいと思っていた小田切は、絶望と共に、最悪の現実を受け入れた。
「あんた、こっち」
 女が振り返ってだみ声をあげる。
 化粧と脂でどろどろに見える醜悪な顔は、忘れもしない、十二年前に別れたきりの、母親の顔だった。
 絶望で、胸がどす黒く染まっていく。
 続いて、男が入ってくる。目が覚めるようなオレンジのパーカー、がたいがやたらと大きく、剃っているのか禿なのか、スキンヘッドに、薄く白髪が生えている。
 二人は、連れだって、店の奥まった席に腰を下ろした。
 対面には、すでに静那が座っている。
 国道沿いの喫茶店。薄暗い店内には、客はまばらにしかいない。小田切は入口付近の席から、三人の近くに席を移した。まだ    まだ、冷静でいられる。
「おかげさまで、直人も来月、十八になります」
 静那の声がした。こんな時なのに、彼女の声はひどく幸福そうだった。
「以前もお話しましたけど、私の手で、大学に行かせてやろうと思っています。これからも、どうか直人のことを見守ってやってくださいね」
「まぁ、前も言ったけど、こっちゃ、大事な息子を、あんたに取られてるわけだからね」
 口を開いたのは男だった。
「あれだよ、事故で子供殺されたら、あんた、相場は一億だっていうじゃない。うちも、あんたに持ってかれたも同然なんだからさ。本当なら直人は働いて、アタシらの面倒みくちゃいけないんだ」
 母親だった。
「仰る通りです」
 静那は、口調を変えずに頷いた。
「アパートを売ってしまいましたから、以前のようにはいきませんけど、ご生活のほう、私のほうで、できる限りの援助を続けたいと思っています」
「直人が成人するまでだとか、あんた、そんな風に思ってんじゃないだろうね」
 不意に男が、口調に卑猥なものをにじませた。
「あんた、高校教師なんだって? 聖職だなぁ、美人だし、さぞかし男にもてるんだろうなぁ」
 静那は答えずに、微笑している。
「直人とあんたがどういう関係か、俺らが教育委員会とやらに訴え出てもいいんだよ。あんたがどう言い訳しようと、高校教師が、十七歳かそこらの男を手元に置いて可愛がってんだからね。誰がみても、あんた、くく」
 男は涎を含むようにして笑った。「想像しちまうだろ、普通はよ」
 小田切は立ち上がっていた。その刹那、何か言ったような気もしたし、何も言わなかったような気もする。
「ひいっっ」
 母親と言う名の化け物が悲鳴を上げて逃げ、オレンジの禿頭が床に叩きつけられた。
「直人、やめて!」
 死ねばいい。
「直人!!」
 こんな奴    生きている資格なんてない。
 小田切の中で、男は、母と一緒に父の財産を吸いつくした畜生であると同時に、静那を苛み、生涯消えない傷を刻んだ獣でもあった。
「あ、あが、……た、助けて」
 気がつくと、パトカーのサイレンの音が間近に聞こえ、すがりつくように静那が抱きついている。
 目の前には壊れたテーブル、割れたグラス、眼が陥没して顎が砕け、血まみれになった男が口をぱくぱくとあえがせている。
「直人……」
 静那のすすり泣きが聞こえた。
 俺が、やったのか。
 まるで別世界の出来事をみているように、小田切はぼんやりと目の前の惨状を見つめていた。
 腕に軋む様な痛みが走る。右手に全く感覚がなかった。拳の骨でも折れているのかもしれない。
「やったのは、お前か」
 救急車とパトカーが到着し、警官に囲まれた小田切は頷いた。
 これでいいんだろ、樋口さん。
 ようやく、今日の会合を教えてくれた樋口の意図が、判ったような気がしていた。
 これで俺は、永久に静那と別れられる。   

 
 
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「やあ」
 現れた身元引受人の顔を見て、小田切は眉をしかめていた。
 樋口利樹。今、一番会いたくない男だった。
「帰りなさい」
 女性警官に背を押される。「今回は大目に見るけど、次に同じことをしたら、間違いなく少年院だからね」
「なにしに来たんだよ」
「お言葉だね、君を迎えに来てあげたんだよ」
 男は穏やかに微笑している。「全く、運のいい男だね、君は」
 小田切は黙っていた。
 あれだけの怪我を負わせ    まさか、厳重注意だけで帰されるとは、小田切自身も夢にも思っていなかった。
 男の怪我は、重傷の部類だった。ただし、命に別条はないという。
 それを聞いても、なんの感慨も湧かなかった。
 殺しておけばよかったんだ。
 そうだ、また静那に害を及ぼすようなら、俺が殺す。   

「ただ、学校のほうは、奨学金の打ち切りと退学を検討中だそうだ。問題を起こしたのは二度めだそうだね。君も、その程度の覚悟はできているんだろう」
「…………」
「ま、君なら何をしても生きていけるさ。ただし、これからは僕の条件を少しばかり飲んでもらう。今のマンションを出たまえ」
 今住んでいる賃貸マンション、その契約者は静那である。
 小田切は黙って頷いた。
「新しい住居は私が用意しよう。学校も辞めて、君は今後、二度と静那には会わないと約束するんだ。そうすれば私が、責任を持って静那を守ると約束する」
「言われなくても二度と会いませんよ。でも、あんたの世話にはならない」
「ほう、ではどうすると?」
 警察署を出て、小田切は形ばかりの一礼をした。
「結婚式は、来月の大安に決まったよ」
 背中から男の声がした。
「君が高校を卒業するまでという約束だったから、三年近く待ったわけだ。君に、祝福してもらえないのが残念だがね」
 小田切は答えずに歩を速めた。もう、自分には何の関係もない話だった。
 
 
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「小田切っ、おめ……、今までどこに消えてたんだよ!」
 フロアに出た途端、がたいの大きい男が飛びついてくる。
「お、風間」
「風間じゃねぇよ……! いきなり退学しやがって、何考えてんだ、お前!」
 周囲のスタッフが驚いて見ている。学校の帰りなのか、学生服姿に肩にスポーツバックをかけている。
「よせよ、ホモだと勘違いされるだろ」
「さっ、されねーよ、馬鹿野郎!」
 仕事がひと段落するまで風間は粘り続けていた。
 オーナーに断り、小田切は風間の対面に座った。「そろそろ未成年には、お帰り願いたい時間なんだけどな」
「今まで、どこにいたんだよ」
「知りあいの家を転々ってやつ……、前バイトしてた曽根のおっちゃんから前借りして、こないだようやく部屋を借りた」
「どうして俺のとこに来なかったんだよ」
「ばーか、警察官の家なんかに泊まれるかよ」
 風間は黙っている。この気のいい友人が、行方をくらました小田切を探すために、店に通い詰めていたことは知っている。
 小田切にしても、知人が多くいる店に戻る気はなかった。
 が、たちまちまとまった金が必要だったのと、樋口が言った期間がとうに過ぎたことで、旧知のオーナーに頼ることにした。
 いずれ、静那に気付かれるかもしれないが、もう気にする必要はない。樋口の言ったことが本当なら、すでに静那は樋口静那になっている。
 風間は、まだ黙っていた。
 ノンカファインのドリンクは、一口も手をつけられないまま氷がすっかり溶けてしまっている。
「あのさ……俺……」
 苦しそうな唇が、何かを言い出す前に、小田切は男の額を指で弾いた。
「いいよ、許す」
「お、小田切」
「涼香と浮気してたんだろ。なんだってお前らが、いつの間にかメアド交換してたんだよ」
「…………」
 一瞬唖然とした風間が、次の瞬間盛大に咳込んだ。
「心配しなくても、涼香とはもう切れたよ」
「ち、ちがっ、お、小田切、それは、それはとんでもねー誤解だって!」
「お、やば、そろそろホールに戻るわ、俺」
「小田切!」
 振り返って、小田切は笑った。
「新しい住所と番号」メモをテーブルの上に投げてやる。
「また店に遊びに来いよ。俺、マジで気にしてないからさ」
「…………」
(嘘をついた罪、人を欺いた罪……)
 初めて、静那が言った言葉の意味が判っていた。
 自分のしたことは、親友の心に消えない咎を負わせてしまった。そういう意味では、確かに自分は罪を犯したのだ。   

 
 
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 閉店前の店内に、懐かしい顔が現れたのは、小田切が掃除の支度を始めた時だった。
「よっ」
 まとめ髪にベージュのパンツ姿の涼香は、軽く手を上げると、カウンター越しに小田切にウインクした。
「今夜、どう」
「いいけど、俺んち、片付いてないぜ」
 涼香は、整った眉をいたずらっぽくしかめてみせた。
「何うぬぼれてんの。外でコーヒーでもどうかって意味」
 熱が出た夜、静那と鉢合わせになって以来、涼香とは連絡を取っていない。
 もともと小田切からすることはなく、ただ待っているだけの関係だったから、それで終わったものだと思っていた。
「怒ってんのかと思ってたよ」
「怒ってるよ」
「へぇ」
「表のドトールにいるから、終わったら来て」
 それだけ言って、スタイルのいい背中が夜の街に消えていく。
 十五分後、着替えを済ませた小田切が店に合流すると、涼香は煙草を咥えて携帯をいじっていた。
「もしかして、風間に聞いた?」
 隣のスツールに腰かけながら、小田切は訊いた。
「当たり、なんかすごい誤解してるんだって?」
「ジョークだよ。風間にそんな真似ができるわけない」
「それ以前に、子供には全然興味ないの、アタシ」
 振り向いた涼香が、小田切の鼻に指を当てる。閉口して、肩をすくめる。
「子供って、風間も俺と同い年じゃん」
「直人は違うわ……。上手く言えないけど、全然」
「ふぅん」
「例えて言えば、羊の中に虎が一頭混じっているようなものよ」
 涼香は携帯をバックに滑らせた。
「何故、風間君の携帯聞いたか、判らないの?」
「え……? いや、考えたことも……」
「君のこと、もっと知りたかったからじゃない」
「…………」
 瞬きをしたが、涼香の目は真剣だった。
「いつの間にか、本気になってた。……知りたかったのよ、直人の心を掴んで離さない人が、どんな女なのか」
「で、判った?」
 内心の動揺を飲み込んでから、あえて軽く小田切は訊いた。
「会ったから、……知ってるでしょ」
「驚いたろ」
「覚悟して待ってたから、全然。あのね、私にだって熱出した男の看病くらいできるわよ。あの夜は、私があの人を呼びだしたの。風間君を使ってね」
「…………」
 驚きの連続だ。女って本当に判らない。
「それで?」
「私は帰って、あの人は残った。……それだけよ」
「説教でもされた? あいつ、改宗させるの上手いから」
 涼香は黙って、冷ややかな微笑を浮かべる。
「日比谷の聖セルジア教会、10月7日の大安吉日。キリスト教徒でも、日本の大安に拘るのね、おもしろい発見じゃない?」
「相手のおっさんも、神なんて信じるタマじゃないのにな」
 あの日、俺、何をしてたっけ。
 小田切は頭を掻きながら、涼香のコーヒーを一口飲む。
「行ってきたわ、私、どうしても文句が言いたくて仕方なかったから。でも、最後の最後まで新婦は会場に現れなかった。    笑えない漫画でも見てるみたいなオチよ。ハンサムな新郎さんにはお気の毒だったけど」
「……………」
 さすがに思考ごと固まったまま、小田切は動くことができなかった。
 行かなかった。    静那が、どうして、どうして。
「行っても無駄よ。あの人の家なら、とうに売りに出されてるわよ」
 立ちあがりかけた小田切は、足を止めていた。
「そのお金であの人、あなたの両親と示談したのよ。弁護士も入って正式に和解したみたいだから、もう、今までみたいに強請られることもないんじゃない」
 小田切は動けなかった。
 冷静な目で、涼香は煙草の煙を吐きだした。
「もっと言ってあげましょうか。あの人、務めていた学校も辞めたのよ。あなたの罪を軽くするために、自分の生い立ちから何から何まで、警察や学校に説明しに回ったそうよ。あの人の高校、規律の厳しいミッション系なんでしょ? 赤の他人と、しかも男子高生と一緒に住んでるなんて、生徒に広まったら、そりゃあ、辞めるしかないでしょうね」
 眩暈がした。揺れそうな身体を、小田切はかろうじて堪えた。
 なんてことだ。    なんてことだ、静那。
 俺は、お前を守るつもりで、結局は全てを奪ってしまったのか。
「まだ判らないの?」
 涼香の声がした。
「あの人は、あなたが好きなのよ。あの人にとって、あなたは本当に全てなのよ」
「俺は、弟の身代わりなんだ」まだ、心の深いところで否定している。認めたくないと抵抗している。「俺の求めているものとは、違う……。どっちにしても、一緒には暮らせない」
「本当に判ってないの?」
 女の声は呆れていた。
「あの人、私の前ではっきりと言ったのよ。直人を愛しているって、誰にも渡したくないって言いきったのよ。だから私、あの夜は一人で帰ったんじゃない。だって、両思いの二人の傍にいるなんて、どう考えても馬鹿馬鹿しいもの」
 

   
  
 
 

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