6
 
 
     いい、匂いがする。……
 いつだったか、これと同じ香りの中で目を覚ましたことがある。あれはいつ頃の記憶だったんだろう。
 小田切は、薄く目を開けた。
 額にそっと触れる、ひんやりとして滑らかなてのひらの感触。
「………さん?」
 母さんの手。
    ……?」
 意識が唐突にはっきりして、小田切は戸惑いながら瞬きを繰り返した。
 うとうとしただけのつもりが、いつの間に寝入ってしまったのだろう。朝    部屋中に自然の日差しが差し込んでいる。
 身体が重かった。喉がひりひりして、全身の関節が痛む。やべー、こりゃ、完璧に風邪だ。
「……涼香」
 仰臥したまま、視線だけを動かしてみた。
 そしてぎょっとして、固まっている。
 腕の辺りに、長い髪が広がっている。闇のように黒い髪色は、涼香ではない。
「静那??」
 今度こそ、心底驚いて小田切は跳ね起きた。はずみで、額から濡れたタオルが滑り落ちる。
「…………。…………」
 うそだろ、おい。
 悪い夢でも見ているような気分だった。
 ベッドに髪を広げ、横顔を見せて眠っているのは、紛れもなく静那である。
 昨夜と同じスーツを着たまま、床に座り込み、額をベッドに預けて眼を閉じている。
 というより、涼香はどこに行ったのだろう。昨夜、隣で眠っていたのは、確かに別の女だったはずなのに。
「……直人?」
 伏せていた黒髪がゆっくりと揺れた。
「よかった、目が覚めたのね」
 軽く目をこすってあげた静那は、安堵したように微笑する。
 ひどく無防備な表情に、小田切は動揺して後ずさった。
「な、なんだよ、お前」
「熱、どう?」
「え……?」
 手が伸びてきて、額に触れる。手のひらの温度は冷たかった。
「夕べ、四十度近くまであがったそうよ。吃驚したお友達から風間君に連絡があって、それで私に……。珍しいわね、健康優良児の直人が」
 四十度。顔には出さずに、小田切は驚いている。
 しかも、涼香が風間に連絡した? なんだってあの二人が、そもそも互いの連絡先を知ってるんだ?
 混乱したが、気分の悪さのほうが優っていた。
「まだ少しあるみたい」
 額から手を離して立ち上がった静那が、体温計を手に戻ってくる。
「仕事は?」
「休んじゃった、調子がいいようなら、昼からでも出るつもりよ」
 仰向けになったまま、枕元の時計を見る。午前十時。なんてこった、静那が何時にここに来たのかは知らないが、何時間か、確実に子供染みた寝顔を見せていたに違いない。    なんてこった。
「……いいのかよ」
 額に手を当てたまま、小田切は呟いた。
「なにが?」
「なにがって……」
 こんなことが、もし樋口利樹の耳にでも入ったら、それこそとんでもない誤解を産む。あの人が、三年前に起きた過ちを知らないはずがない。以来、あの優男は、蔑みをこめた眼で小田切を見るのだ。
「そんなことより、私が急に来て、お友達が驚いたみたい」
 戻ってきた静那は、冷たい氷嚢を、小田切の頭の下に入れてくれた。
「涼香が?」
「うん、そう。……頭上げて、……そう、少しでいいから」
 顔にかかる吐息。腕の柔らかみと、胸の丸みが目の前にある。静那がとことん鈍くて無神経な女だったことを、小田切はようやく思い出していた。
 多分、三年前の出来事は、この女にとっても人生観が変わるほどの事件だったにも関わらず。    だ。
 皮肉な気持ちで、小田切は今、言ってやりたかった。
「神様なんか、いなかったろ」
 言ってみればこの女は、自ら可愛がって育てた飼い犬に、最悪の形で手を噛まれたようなものなのだ。
「後でよく説明しておいて……なにか、誤解されたような気もしたから」
「いいよ、別に」
「それはよくないわ。もしかして、傷つけたような気がするから」
「………」
 静那が誰かを、故意に傷つけられるとは思えなかったが、無意識になら、大いに有り得ることだった。
「平気だよ、別に本気で……どうこうなるような間でもないんだ」
 少し言い訳臭くなっていた。咳払いしてから、小田切は続けた。「話してわかったろ、静那とそんなに年も変わらないし、俺みたいな子供に本気になるような女じゃないよ」
「………」
 それには、静那の返事がないまま、彼女が立ち上がって台所に立つ気配がした。
「お粥、作ってあるの、温めるから食べてね」
 甘い出汁と卵の匂い。そっか    それであんな夢を見たのかもしれない。
「冷蔵庫に何もなかったから、買物に行ってくるわ。お粥食べたら、そこのお薬飲んで、もう一度寝るのよ? 少しだけ一人にさせるけど大丈夫かしら」
 つか、二人のほうが、何倍も危ないと思うんだけど。
「あら、雨になりそう、急いで行って来なきゃ」
 憂鬱な思いは口にせず、小田切は天井を見上げて嘆息した。
 
 
 次に、まどろみから目を覚ました時、目に入ったのは、タオルで髪を拭いている静那の後ろ姿だった。
 ざーっと雑音のような音が鳴り響いている。何時の間に振りだしたのか、外は、もう大雨になっていた。
 静那は    帰宅途中に、その雨に遭遇したのだろう、髪どころか、全身がびっしょりと濡れている。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、いいんだけど、どうしたんだよ、それ」
 半身を起こした小田切は驚いた。しかも膝を盛大に擦り剥いている。ストッキングが破けている様は、ちょっと正視に耐えないくらいだ。
「ちょっと……直人の自転車が大きすぎて」
「サドル下げろよ、足、つかねーだろ」
「いけると思ったんだけど、雨で滑って、転んじゃった」
「…………」
 救急箱……ああ、それより先に、濡れた身体をなんとかしないと。
 ったく    看病しに来たのか? それともされに来たのか?
「風呂入ってこいよ、俺、外に出てるから」
 クローゼットから着替えを見繕いながら、小田切は言った。いつの間にか頭痛も悪寒もすっかり引いている。
「それはダメ、どっちが病人だと思ってるの」
「あのな」
「だったら帰るわ、私」
 その格好で! どうやって!
 呆れたが、静那は本当に、今にも帰りそうな眼をしている。小田切は両手を上げた。
「わかった、じゃ、大人しく寝てるから、身体あっためてこれに着がえろ。いいな?」
「……本当ね」
「本当だ」
 着替えを手渡し、小田切はベッドに潜り込んだ。
 まだ不審気な静那が浴室に消えたのを見計い、起き上がって上着を羽織る。 
 そっと玄関を開けて外に出た。
 浴室の小さな窓からシャワーの音が響きだす。
 壁に背をあててすがりながら、小田切は軽く嘆息する。
「いられるわけねぇだろ、ばーか」
 
 
「ごめん……、服、乾いたら、帰るね」
「いいよ、こっちはすっかりよくなったし」
 男物のスウェット上下を身につけた静那は、ぶかぶかの服を着た男の子のようだった。
 一向にやまない雨のせいか、外は、すっかり暗くなっている。
 時折、遠くで雷鳴が聞こえた。
「食欲あるなら、肉じゃがとか作ったから、食べる?」
「うん、食うよ」
 ふしぎなぎこちなさが、何故か二人を無口にしている。
 特に静那は、小田切と目をあわそうともしなかった。食器を取ろうと近づくと、その分だけ後ろに下がられる。
「…………」
「…………」
 今日、初めて静那が自分を意識しているのが判り、それが当たり前の反応だろうと、小田切は思った。
 三年前    結局は、本人の意思を無視して、小田切はこの女を抱いたのだ。
「男物の下着ってへんな感じ」
 だからテーブルについた静那が眉をひそめながら言った時、何かの聞き間違いだろうと思っていた。
「すーすーするし……、なんだか落ち着かない感じ」
「???」
 飲みかけのお茶を吹き出していた。
「な、なに、私何かへんなこと言った?」
 言ったよ! とんでもないことを! 平然と!
 てか、下着まで渡したっけ、俺。いや、いくらなんでもそこまで気は回らなかった。
 そうか、浴室には、洗濯済みの着替えをいくつか置いてある。涼香が    勝手に使うことがあるから。
 夜、シャワーを浴びた涼香は、脱いだ服をどうしただろう。最近では置いて帰ることも多くなって、面倒だけど一緒に洗ってやっている。
 静那は    それを、見ただろうか。
「…………」
「罰だね、直人」
 静那が、囁くように呟いた。
「今日は、私も、直人も罰を受けたの」
 寂しそうな眼差しは、夜の闇を見つめていた。
「なんの……」
「嘘をついた罪、人を欺いた罪」
「…………」
「雨に、感謝しなくちゃね」
 それきり、静那は一言も喋らなかった。
 静那は、全てを見通している。    けれど、静那が罰を受ける理由だけは、よく判らなかった。
 
 
                       7
 
 
「俺に話ってなんですか」
 樋口から電話があったのは、それから一週間も経った夜だった。
 バイトの仕事を終え、掃除の済んだホールで向き合った時には、もう夜の十一時を超えている。
 仕事の帰りなのか、樋口は品のいいグレーのスーツを着て、いつもの薄い眼鏡をかけていた。身分は公務員だが、彼の実家が相当な資産家であることは、乗っている車や身につけている衣服で窺い知れる。
「素敵な店だね」
 いったい、今幾つになるのか。    出会った頃と変わらない若々しい微笑で、樋口がまず、口火を切った。
「君は、どこにいても目立つし、何をしても優秀な青年なんだね。少し様子をみさせてもらったが、今日のホールで、君は何人もの女性を釘付けにしていた」
「単に注文とって、それを運んだだけですけど」
 樋口への反発が、知らず小田切の態度を不遜なものにしている。
 苦笑した樋口は、テーブルの上で指を組み直す。左手の薬指には、細いリングが光っている。
「静那の傍から、もう離れてもらえないか」
「だから、離れてるじゃないですか」
 苛立ちが、語気を強めさせていた。
「あんたの言うとおり、俺はあれ以来、静那の家には戻ってないし、一人で生活しています。生活費って意味で言ってるなら、いずれ仕事を始めたら利子でもつけて返しますよ」
「お金のことを言っているんじゃないよ。少なくとも僕は、君に進学してほしいと思っている」
「俺が進学しようがするまいが、あんたには一切関係ないでしょう」
 小田切は立ち上がろうとした。
「先週、静那が君の部屋に泊まっただろう」
「…………」
 あの馬鹿、なんで喋るんだ。
 小田切の顔色を読んだのか、樋口は薄く笑った。
「心外な顔をしているね。あの夜のことは、二人だけの秘密だとでも思っていたのかい。生憎、静那は私には全てを話してくれる。君が思うより強い絆で、僕たちは結ばれているんだ」
「だったらもういいじゃないですか。単に雨がひどくて帰るに帰れなかっただけなんだから」
 実際、その通りだった。小田切は一晩中本を読み、静那はベッドで    眠ったふりをして起きていた。それだけのことだ。
 樋口は軽く嘆息した。
 自分で買ってきた缶コーヒーを口につける。小田切の前にも置いてあったが、最初から手をつけるつもりはなかった。
「僕が言うのは……、静那をもう、自由にしてやってほしいと、そういう意味だよ」
「は? ますます意味がわかんないんですけど」
「君は、何も知らないんだ、静那が何故君を引き取って実の弟のように愛しているか。今も    君のために、いくらの負担を背負わされているか」
「………」
 どういう意味だよ。
 何が言いたいんだよ。
「静那と僕はね。児童福祉施設で初めて会った。保護されてきたのが静那で、その担当だったのが僕だ。彼女は母親と義父からひどい虐待を受けていてね。そう……言葉には、言い難いほどだ。今、彼女を愛するようになった立場で思えば、連中をいくら殺しても飽き足らない」
「…………」
 大人しい公務員の言葉とは思えなかった。
 小田切は重い衝撃と胸苦しいものを感じて、黙っていた。が、児童福祉施設の人が定期的に訪れる以上、そういった類の過去は、想像しないでもなかった。
「君が思っている以上に、今、世の中は汚れて、腐っている。……僕は、この仕事を、もう十年以上もしているからね。世の中に救いなんてものは、奇跡程度にしか起こらないことをよく知っている」
 暗い目をして、男は笑った。
「……連中が、人間ではなかった証拠に」
 テーブルの上の手に、力が込められている。
「義理の父親は、七つの静那にこう聞いたそうだ。うちには、二人を育てるだけの金はない、今から、お前たち姉弟のうち、どちらか一人を殺してやる。決めるのはお前だ」
「…………」
「静那は、……すぐには答えられなかったそうだ。彼女は、弟を殺したのは自分だとずっと思っている。多分、今でも思っている。    実際、連中の答えは出ていたんだ、……静那は、父親のお気に入りだったからね」
 目の前が歪む様な衝撃を、小田切は視線を逸らすことで、かろうじて耐えた。
(直君……今日から私のこと、本当のお姉さんだと思っていいのよ)
(直人と私は家族なのよ、……どうして、なんでいきなり、そんなことを言うの)
「静那の……本当の父親は、どうしているんですか」
 ふと、幼かったある日、夕方、アパートの前をうろうろしていた男のことを思い出していた。
「離婚した元父親なら、何年か前に自殺している。……無責任な男でね、静那が何度か、助けを求めて電話しても、報復が怖くて何もできなかったらしい。そんな父親に対しても、静那は随分仕送りをしていたよ」
 あの人が、多分そうだったのだろう。
 夕闇の中、娘を見つけても、逃げるように走り去るしかできなかった男。   

「僕らの、本題に戻ろう」
 樋口は、小田切に向き直った。
「君は、静那の心に入り込んだ。けれどそれは、決して君に、男しての魅力があったからじゃない」
 そんなこと    思ったこともない。
「僕はね、静那にだけは幸せになってほしいんだ。あの子は、どんな目にあっても純粋な心を持ち続けることが出来る、俗な言い方だが、天使みたいに清らかで優しい人だ。もう、静那に、過去は二度と振り返ってほしくない……。判るだろう、僕の言っている意味が」
 判るような気がした。
 つまるところ、小田切は静那の「罪」であり、同時に「罰」なのだ。
 小田切が静那の傍にいる限り、彼女が過去から解き放たれることはない。   

「俺に、どうしろっていうんですか」
 訊きながら、もう答えは判っていた。
 この街を出て、どこか遠くで暮らすしかない。もう二度と、永遠に静那と会わなくていい場所に。
「札幌に帰りたまえ」
 小田切は眉を寄せていた。
「君が母親の元に戻れば、静那との縁は完全に切れる。むろん、もう十八になろうという君が、実際に母親と生活する必要はない。問題は、静那にそう思わせてほしいということなんだ」
「それだけはごめんですね、申し訳ないですけど」
 冷やかな声で遮っていた。
「そんなことで静那が何をどう安心するのか、言われている意味が判りませんよ」
「君は知らないんだな」
 樋口の目に、憐れみにも似た色が浮かんだ。
「君の母親の再婚相手は、出稼ぎでこの街近くに来ていてね。静那は二度、そいつの借金を立て替えている。金額にして五百万、君の養育権と引き換えだ」
「…………」
「僕が、何をどう止めても無駄なんだ、なにしろ君は、静那が守れなかった弟の身代わりなんだからね」
 
 
 
  
   
 
 

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