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 祖母葉子が死んだのを機に、小田切は家を出て全寮制の中学に編入することになった。
 既に祖父は他界しており、いってみれば小田切の形式的な養育者が、いなくなってしまったからだ。
    君には判らないと思うが、周りから見ると、静那さんのような女性が一人で、君を養育するなんて、考えられないし、とうてい認められないことなんだ)
 葬儀から一月後、説明に現れたのは、案の定樋口だった。
 その頃には小田切も、彼が児童擁護施設の人で、心理療法士であることを知っていた。
 静那が過去に、なんらかの親とのトラブルに見舞われ、祖父母の元に預けられたこと。そのケアのために樋口が定期的に訪れていたことくらいは察しがつく、
 が、十八歳を超えた静那の元に、なお足しげく樋口が通ってくる理由は、すでに職務とは違うものだと意識せざるを得なかった。
    君の養育権は、札幌のお母様が持っていらっしゃる。本来なら、君は札幌へ戻るべきなんだ)
 淡々と、樋口は続けた。
 いつも薄く笑っているような厭味な唇。小田切は初見からこの男が嫌いだったし、今となっては、憎悪に近い感情を抱いている。
    君のお母様と冬木家の話し合いで、君は学業のためにこの街に残ることになった。……が、思春期を迎えた君と二十歳そこそこの女性が二人で生活するとなると、君のお母様も、決してうんとは言わないだろうね)
 だったら、引きとるとでも言うのかよ。
 そんな気もないくせに。    二度、母から掛かってきた電話は、全て出ることもなく切っている。
 ギャンブル好きで、日がなアルコールとパチンコに溺れていた母には、叩かれたり、罵声を浴びせられたりといった記憶しかない。
 挙句、パチンコ屋で知り合ったやくざ崩れと借金を繰り返し、出奔。    借財は、小田切の父が、家を売った金と退職金で返し、母とは協議離婚が成立した。
 全てを失った父は死に、あの女は札幌でのうのうと生きている。
 神がもしいるなら、そんな結末があっていいはずがない。
    札幌に帰る気がないなら、今の君が取れる選択肢は、ひとつだよ)
 樋口の提案は、小田切には、とうてい受け入れ難いものだった。
 全寮制の中学に入るまではいい。編入試験を受けなければならないが、今の成績なら問題はない。
 ただし、いくら全寮制とはいえ、学校が休みの期間は、当然寮も閉鎖される。その間、小田切が戻るのは、静那の元ではなく、里親登録している見知らぬ家庭だというのだ。   

(直人、今は、樋口さんの仰るとおりにするのが一番いいことなのよ)
 衝きあげた反発は、静那の祈るような眼で遮られた。
(高校生になれば、あなたも自分の住居くらい、自由に選べるようになると思うわ。お休みの日には遊びに帰っていらっしゃい。あなたの部屋も荷物もそのままにしておくから)
 そこまで言うと、両手で顔を覆って静那は泣いた。
 小田切には初めて見る、静那の涙だった。
(忘れないで、直人……あなたの家も家族も、ここにあるのよ。……)
 
 
 小田切が再び、冬木家に戻ったのは、それから二年後の暮れのことだった。
 卒業を翌春に控えた冬。静那は二十二歳、小田切は十五歳になっていた。
「直人……!」
 飛び出してきた静那は、何故か玄関前ですくんだように足を止め、小田切もまた、一歩も動けなくなっていた。
「なんだよ、俺の顔に何かついてる?」
 気まずさにも似た沈黙を、最初に破ったのは小田切だったが、静那はそれでも、呆然と眼を見開いたまま、まるで夢でも見るような眼差しで、その場に立ち続けている。
「俺、中に入っちゃまずいかな」
「……あ、ごめんなさい、なんだか、別人になってるから」
 すぐに静那は、以前の柔和な微笑を取り戻したが、本当の意味で静那より動揺していたのは、小田切のほうだったのかもしれない。
 別れてから一年半余り、電話と手紙で連絡だけは取り合っていたが、再会するのは家を出て以来初めてになる。
 静那は、想像以上に美しくなっていた。
 もともと透き通るように綺麗な少女だったのが、少女らしい青さと硬さを脱ぎ捨て、むしろ、なまめかしくさえ見える、大人の女性に変じている。
「家……一人?」
「私以外に誰がいるの」
 細い指に、なんの飾りもないことを確認し、小田切はほっと安堵していた。
 それでも、静那をこうも美しくさせたのは樋口ではないのか。樋口はまだこの家に出入りしているのではないのか、    という衝きあげるような嫉妬が、自然、小田切の態度をぎこちなくさせている。
 一方静那は、すっかり彼女らしさを取り戻し、かいがいしく食事の用意をし始めた。
「電話で帰るって言われた時は、本当に嬉しかったわ。でも二年ぶりよ、直人。どうして一度も顔を見せてくれなかったの」
「静那が就職したって聞いて、忙しいかと思ったんだ」
「まぁ、相変わらず、子供らしくない気の使い方をするのね」
 電話で再々なじられても帰らなかったのは、あれから樋口と静那がどうなったのか、確認するのが恐ろしかったのと、戻った所でまた別れが待っているのが判っていたからだ。
 俺には、まだ、静那の傍に戻る資格がない。   

 小田切にとって、初めて死に物狂いで勉強に励んだ二年間は、ただ、その資格を得るためだけの期間だった。
 今日、小田切は、ある決意を胸に抱いて、静那に会うことを決めたのだ。
 夕食には、小田切の好きなものばかりが並べられた。静那はほとんど食事には手をつけず、この二年の話ばかりを聞きたがった。
「背、すごく伸びたのね、今、何センチあるのかしら」
「百七十五くらいかな、最近、計ってないからわかんないけど」
「どうしよう、そんなに大きいとは思わなかったから、パジャマなんて、子供用しか買ってないわ」
 中学三年で、子供用はないだろう。    と、思ったものの、昔と変わらないそんな静那が愛しくて、思わず苦笑を漏らしている。
「なんで、高校教師なの」
 逆に、小田切も、聞きたいことばかりだった。
「小学校とか中学とか、静那ならそのあたりがお似合いだよ。高校教師なんて……」絶対、ヤロー共に目をつけられるに決まってんじゃねぇか。「疲れるだろ」
「そうでもないのよ。ミッション系だし……私には、あっていると思うわ」
 静那は微笑し、顎のあたりで指を組んだ。
「直人、進学はどうするの? 今のままエスカレーターで上にあがってもいいし。学力にあった別の高校に行っても、どちらでもいいのよ」
 小田切は曖昧に頷き、食後のコーヒーを口に運んだ。
「成績表を見て、驚いたわ。どこの高校にだって行けるって、先生方も太鼓判よ。お金のことは気にしないで。お祖母様の遺産もあるし、不動産収入だってあるんだから」
 普段、お金のことを口にしない静那があえて言うのは、小田切が内心抱いている葛藤を察していたからだろう。
「気に入らないなら、……いつか、出世払いで返してもらうわ。直人、お願いだから遠慮なんかしないで、今は、自分のことだけを考えなさい」
「判ってるよ」
 コーヒーを置いて答えると、ようやく安堵したように静那は微笑する。
 が、小田切が決めていることは、静那の思惑とは、大きくかけ離れているはずだった。
 
 
「ええ、大丈夫よ、あなたは心配しすぎなのよ」
 入浴を終え、浴室から出た時だった。楽しそうな声に、小田切は足を止めていた。
 リビングで、静那が背を向けて受話器を耳に当てている。
 樋口だ    すぐに、それと判った。
「今夜? 今夜はもう遅いわ。それに、食事のご用意もできないし……。明日にでも、一度……ええ、会えば樋口さんも安心すると思うし、直人もきっと、喜ぶと思うわ」
 電話が切れる。
 小田切はタオルを頭に被せたまま、しばらく動くことができなかった。
 今の会話が全てだった。樋口は、やはりこの二年、頻繁に静那に会いにきていたのだ。そして来れば、食事まで用意されるような仲なのだ。   

「直人?」
 背後に立っているとは思わなかったのか、振り返った静那は、少し驚いた顔をしていた。
「部屋にお布団用意してあるから、もう寝なさい。私、明日は仕事だから早いけど、ゆっくりしてていいから」
「いや、俺も明日には、帰るから」
「そうなの?」
 静那が、びっくりしたように目を見開く。
「学校はお休みでしょう? 明日は直人を、昔好きだった遊園地に連れていってあげようと思っていたのよ」
「……俺、いくつだと思ってんだよ」
 呟いた小田切は、タオルを投げ捨てた。
 自分がその時、どんな目をしていたのか、判らなかった。が、静那は怯えた顔で、みじろぎもせずに立っていた。
 静那が怯えている。    それは、小田切には初めての経験だった。どんな時でもどこか超越した風に佇み、決して感情を表に出さない、それがいつもの静那だったからだ。
「高校、もう決めたんだ。今日はそれを言いにきた」
「どこ……に、行くの」
「私立のD高校、奨学生で入るから、学費は全部免除。ここからだったら、歩いてでも通える」
「…………」
「生活費はバイトで稼ぐよ。もう、静那の世話にはならない」
「直人は私の傍にいていいのよ」
 踏み出した小田切を、遮るように静那は言った。
「直人と私は家族なのよ、……どうして、なんでいきなり、そんなことを言うの」
 潤んだ瞳が、驚きと寂しさを湛えて揺れている。
「直人……」
     静那……。
「俺、静那のことが好きだ」
 こみあげる感情と共に出た言葉だった。
「誰にも……渡したくない」
 抱きしめても、震えるばかりの細い身体は抗わなかった。
 柔らかい肌、甘い香り。
 愛情とも劣情ともつかない獰猛な感情に支配され、気がつけば床の上で組み敷いていた。
 こんなつもりじゃないという気持ちと、どうせ樋口に何度も抱かれたんだという、自虐的な気持ちが混じり合い、爆発しそうになっている。
 エプロンを剥ぎ、ブラウスをたくしあげた。一切の反応を見せない身体を自分のほうに引き寄せる。
「い……」
 静那がわずかに呻き、小田切はようやく、自分がひどく侮辱的な形で、この清らかな人を汚そうとしているのに気がついた。
「……ごめん」
 冷たいフローリングの床、白い肘に擦れた痕が滲んでいる。
「平気よ」
 支えられて半身を起こし、静那は静かな微笑を浮かべた。
 その表情は、不思議なほど優しく見えた。
「……静那……」
 潤んだ瞳の底に滲むものが一種の諦めであることに、その時、気がつけばよかったのかもしれない。
 小田切は血の滲んだ肘に唇を当てた。二の腕に何度も口づけ、肩に、喉に、唇にキスを繰り返した。
 静那は抗わず、小さく呼吸を乱しながら、小田切の両肩に腕を預けた。
 やがて理性も抑制も効かなくなり、奪うようなキスを長く    長く続けた後、小田切は静那を抱きすくめるようにして立ち上がった。
 照明をつけない廊下は暗かったが、行くべき場所ははっきりと判っていた。
 
 
 翌朝、目覚めたら静那の姿はどこにもなかった。
 それが、あまりいい予兆でないことを心のどこかで察しながら、すでに超えてしまった一線を悔いることも喜ぶこともできず、小田切は一人、寮に戻った。
 静那からの手紙で、樋口と正式に婚約したと知らされたのは、それから一月後のことだった。

 
 
 

 
 
  
   



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