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 冬木静那と小田切の出会いは、十二年も昔に遡る。
 父と二人で引っ越した二階建の小さなアパート、その大家であり管理人が、静那の祖母、冬木葉子だった。
 アパートの敷地内に居を構える冬木一家は、老夫婦と美しい一人の少女で構成されていた。
 名前さえ知らない冬木家の少女は、地元の中学校の制服を着て、いつもすれ違う度に潤んだような眼差しで小田切を見つめ、そっと微笑してくれた。
「こんにちは」
 ピアノの柔らかい旋律のような声。小田切はいつもどぎまぎして、その度に逃げるように階段を駆け上がる。
 その一方で、少女の笑い方が、いつも泣いているように見えたのを、小田切はよく覚えている。
 あの人は、なんでいつも、悲しそうに笑うんだろう。    子供心に感じたそんな疑問は、やがて本人の口から解き明かされることになるのだが、その時はまだ、二人にそんな日が来るとは夢にも思っていなかった。
 春が終わり、締め切った窓を開けるようになった頃、冬木家の窓から、不思議な美しい歌声が聞こえてくるようになった。
 夜、大抵十二時近くまで一人きりで留守番している小田切は、その歌声を聞きながら眠りにつくのが常になった。
 綺麗な歌だ   。流行りの曲でも、学校で習うどの歌とも違う。心に、沁みていくような澄んだ歌声。
「あれは賛美歌というんだ」
 ある夜、教えてくれたのは、珍しく早く帰宅した父だった。
「あの子は、いつも歌っているのか。そうか、冬木さんの家は、ご家族揃ってクリスチャンなんだな」
 意味はよく判らなかったが、優しげに自分を見つめる父の目に、突然何もかも見透かされているような羞恥を感じ、小田切は乱暴に窓を閉めた。
「あんな暗い歌、俺は嫌いだ!」
「おいおい、神様の歌だぞ、直人」
「……神様なんか、いるもんか」
 半ば本気の嫌悪を滲ませ、小田切は呟いた。
 その刹那本当に、今まであんな歌に聞き惚れていた自分が忌々しく思えていた。
「親父、神様なんかいなくたってな、俺が働いて、いつか親父を楽にさせてやるよ」
 母の負った借金を背負わされ、務めていた役所をクビになった父は、今は弱い身体を押して日雇い労働をしている。
 その母は、さっさと男をつくり、今はどこかの町で幸せに暮らしていると言う。
「直人は頭がいいからな」
 優しい父は、目を細めて微笑した。
「俺の誇りだ。きっとお父さんを楽にしてくれるだろうさ。でも、俺のことより、もっと自分の幸せを考えていいんだぞ」
 母にもそう言って、この人は人生の不幸全てを一人で背負いこんだのだ。
 自分は全ての幸福を奪われた。なのに、一度として母を責めることがないばかりか、「直人、時々母さんに会いに行ってやれ、母さんも寂しがってると思うぞ」そんな馬鹿げたことを本気で言いだすような男だった。
 そんな生き方、俺は絶対にするもんか。   

「俺、医者になるよ」
 その夜、咳でなかなか寝付けない父の背を撫でながら、小田切は不思議な寂しさをこらえながら呟いた。
 長引く微熱と止まらない咳、今にして思えば、子供ながらに、父の身体に巣食った死の病を察していたのかもしれない。
「俺が神様になって、親父の身体を治してやるんだ」
 その時ふと寂しげな目になった父は天井を見上げ、独り言のように呟いた。
「直人、忘れるなよ。神様ってのは、本当にいるんだ……」
 翌日、仕事先で倒れた父は、すでに末期の肺ガンだった。
 小田切が父の正確な病名を知ったのは、随分後になってからだったが、その夜から数えて一月後に、父は死んだ。
 
 
 父が入院した日から、冬木一家は小田切にとってなくてはならない存在になった。
 札幌に住む実母とどういうやりとりがあったのか、小学一年だった小田切の面倒は、隣家の冬木一家が見ることになったのだ。
 すでに高齢の夫妻には、育児をする力がなく、実質それらの仕事は、高校生の孫娘一人が請け負うことになった。
「直人君、今日から私のことを、本当のお姉さんだと思ってちょうだいね」
 冬木家に移った日、小田切は、初めて美しい人の名前を知った。
 冬木静那。    十五歳。小田切より七つも年上の少女は、この界隈では有名な美少女だった。
(学生服着た連中が、今日もアパートの周りをうろうろしてたよ)
(どうせお目当ては静那ちゃんだろ。あの子は、ほんッとうに綺麗な娘さんだからねぇ)
 ほっそりとした立ち姿。褐色がかった長い髪、くっきりと大きな潤んだ瞳。
 白い肌は雪のようで、唇は淡い朱を滲ませている。
 近所の人たちが噂する通り、静那のまわりには、いつも不逞の輩が後をたたなかった。
 すぐに小田切は、静那につきまとう男たちを憎み、嫌悪するようになった。
 どうやったら、彼らを容赦なく叩きのめし、二度と静那に近づかないようにできるのか。策を巡らし、その都度完ぺきに実行した。
 七つの子供ながら、小田切は優秀な策士であり、静那の忠実な騎士だったのである。
「直君、子供が余計な心配をしなくていいのよ」
 静那は困ったように微笑したが、態度はどこか超越していて、この件をさほど深刻には考えていないようだった。その度に小田切は心の底から苛々するのだが、何故かその怒りは、静那にというより、自分の幼さに向かっていった。
 何故、俺と静那は七つも年が離れているんだろう。
 何故    俺は、こんなに身体が小さいだろう。……
 一度だけ、学生ではない大人が、アパートの前をうろうろしていたことがある。
 ひょろりと痩せて、優しそうな眼をしている。    少しだけ、死んだ父に雰囲気が似ていた。
 丁度、静那に伴われて行った買い物の帰り道だった。ポストを覗き込んでいるらしい男に、小田切は静那より早く声をかけた。
「おじさん、俺の家に何か用?」
 夕闇の中、吃驚したようにこちらを見たその男は、すぐに踵を返して逃げていく。
「なんだ、気色ワリィ、変態かよ」
 静那は何も言わず、ただみじろぎもせずに、男が去った方角を見つめていた。その目がひどく驚いて寂しそうだったのを、随分後になるまで、小田切は忘れられないでいた。
 静那の知り合いだったんだろうな。    それだけは判ったものの、それ以上触れてほしくない厳しさが、確かにあの時、静那の横顔には滲んでいた。
 
 
 樋口利樹(ひぐちとしき)が現れたのは、父が死んで、丁度一か月が過ぎた日だった。
 年の頃は二十代半ばだろうか。すらっとした長身で、薄い縁無メガネを掛けている。いかにも優男といった雰囲気の男は、訝しく見上げる小田切に苦笑し「役所の者です」とだけ自身の身分を紹介した。
「樋口さん、いつも、申し訳ありません」
 普段無口な祖母が、珍しくいそいそと立ち振舞い、静那は逆に沈んでいる。
 締め切った部屋の中で、静那と祖母の三人で三十分も話し込んでいた男は、「また来ます」とだけ言い残し、澄ました顔で辞去していった。
「なんだあいつ、嫌な奴だな」
 玄関で、思わず呟いた小田切を見下ろし、静那はそっと微笑んだ。
「そんなことを言うものじゃないわ。あの方も仕事で来ていらっしゃるのよ」
「仕事?」
「直君や私のような子供を守るのが、あの人の仕事なの。いつか、直君にも判ると思うけど、とても立派なお仕事なのよ」
 その夜、就寝時間を過ぎても、静那はなかなか部屋に戻ってこなかった。
 妙に寝つけなかった小田切は、水を求めに台所に向い、祖母と祖父がひそひと囁き合う声を、彼らの寝室から洩れ聞いてしまった。
「樋口君も言っていたが、直人の世話をすることで、静那が立ち直れるなら、それでいいじゃないか」
「それでも、あんまりあの子が不憫でねぇ」
 はっとした小田切が足を止めた途端、ぎっと古い廊下が軋み、室内からは死の沈黙が訪れた。
 静那の姿は、台所の隣、冬木一家が礼拝をするために設けた部屋で、見つけることができた。
 電気さえ点けない部屋で、彼女はかしづき、両手を胸のあたりで組み合わせ、熱心に祈りを捧げている。
 声をかけることさえ憚られるその横顔は、気のせいでなければ、泣いているようにも見えた。
 その夜、小田切は、静那に何かの秘密があることを知ったが、同時にそれは、決して触れてはならないことだとも理解した。
 そもそも、ずっと不思議に思っていたことだった。
 静那は、何故こんな寂しい場所で、老いた祖父母と同居しているのか。両親はどこにいるのか。何をしているのか。
 何故    笑わないのか。
 これまで小田切は、静那が本当の意味で笑った顔を一度も見たことがない。
 どんなに楽しい時でも、例えば二人で遊園地に行って、小田切がひどくはしゃいだ時でも、いつも控え目で寂しい笑いを浮かべている。
 それは、気のせいでなければ、彼女が自ら、自身に笑うことを禁じているようにみえた。
 静那のことが、知りたかった。
 けれど静那が望まない以上、聞く必要もないのだと、    小田切はそう結論付けた。
 
 
 そうして半年が過ぎた頃には、小田切にとって静那とは、大好きな    存在自体が、なくなはならない、かけがえのない人になっていた。
 躾も勉強も、身の周りの一切の世話も、小田切のことは、静那が一切を引き受けてくれた。
 実の母でも、姉でも、そこまで親身になってはくれないだろう。大袈裟ではなく、静那は自分の人生の全てを、小田切の養育に注いでくれたのである。
 たとえば、授業参観、保護者面談、そういった場面には、静那は何を置いても出席してくれる。自身もまだ高校生なのに、である。
 熱を出せば夜通し看病し、怪我をすれば、いい病院を気が済むまで探してくれる。
「静那、そこまでしてくれなくてもいいんだ」
「直人は気にしなくていいのよ」その度に、静那はそっと微笑して、同じ台詞を言うのだった。
「直人を立派な大人にすることが、神様に与えられた、私の使命なんですもの。   
 静那は、人間としても、とても魅力的な女性だった。
 近寄りがたいと思えたのは外見だけで、一緒に暮らしてみると、意外に気さくでお人よしで、結構間が抜けている。
 いかにも完璧そうなのに、鍋を少なくとも三回は焦がし、月にいっぺんは茶碗を盛大に割っている。体操服に名前を縫い付けてくれた時、胸衣と背衣が縫い合わされていたこともある。
 で、これは見かけどおりに運動神経は皆無のようで、なにもない所で転んだり、自転車はふらふら蛇行していたりで    逆に、目が離せないことこの上ない。
 一方、頑なで強情な部分もあり、自分がこうと決めたら子供相手でも譲らない。
 苦手な茄子を、食べられないと開き直ったら、食べるまで    それは結局、夜の十二時を過ぎていたのだが    ずっと正座したまま動かなかったこともある。
 小田切の感覚で言えば、静那は「可愛くて不器用な女」だった。同時に「強情でやっかいな女」だった。
 少なくともこんな不思議な女は今まで小田切のまわりにはいなかったし、これから現れそうもない。
 単純そうにみえて、掴めない女。
 守られているのに、守ってやりたい女。
「直君、自転車乗れるようになった」
「? ふ、ふざけんな、あんなの、小学校上がる前から乗れてたよ」
「そ、だったら明日は、遠くまで二人で行ってみようか」
 七歳年上の美貌の人は、母であり姉であり、それ以前に、一人ぼっちの小田切の、唯一の友達だった。   

 
 
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「あ……んっ、なんか今日、いつもと違うね」
「そっか?」
 抱いていた腿に唇を寄せる。
「なにあった? 女系?」
「ばーか」
 未練のように絡む腕を解き、小田切は仰向けになって天井をみあげた。すぐに女が、胸にもたれかかってくる。
「直人……好き」
 そりゃ、どーも。
 どこを撫でられても気持ちは不思議なほど冷めている。
 ワンルームマンション。深夜の野球ニュースが終わろうとしている。眠かった。夕方から続く喉の痛みが引かないから、風邪をひきかけているのかもしれない。
「また本? 直人はいつも本ばっかだね」
「活字中毒、読みかけだと気になって眠れない」
「永劫回帰思想と啓蒙の弁証法……なにこれ、外国の推理小説?」
「今、犯人が判ったところなんだ。読んだらお前にも貸してやるよ」
「なにさ、バカにしちゃって」
 やがて諦めたように、女は長い髪を払って半身を起こした。
「直人ってもてるでしょ、前から思ってたけど」
「そうでもないよ」
「誰にも心を開きそうもない目をしてる。そういうのってね、女の征服欲をそそられるのよ」
 再び被さってきた女に、本を奪われ、指を唇にあてられる。小田切は苦笑した。
「そそられたんだ、俺」
「今だって、そそられてるわよ」
「…………」
「ね……もう一回、しよ」
 
 
 バイト先のカフェで知り合った六歳年上の女は、涼香(りょうか)といい、眼鼻立ちのくっきりした、モデルばりの綺麗な顔を持っていた。
 フリーの記者で、今はファッション雑誌の契約社員だという。それなりに知的で、スタイルもよくセックスにも慣れている。誘ったのは小田切だったが、そう仕向けたのは涼香だった。
 判っていて、乗った。
 断っても断ってもつきまとってくる子供っぽい同級生たちより、何倍も魅力的に見えたし、確かに一時、小田切は女に夢中になっていたからだ。
 その理由が、当時は判らなかったが、今は判る。
 周りがどんなに騒いでいても、涼香はどこか冷めている。控え目な笑い方に、静那の面影を見たからだ。
(だって、へらへら笑う女なんて、つまらなくない? 多少謎を残したほうが、男を夢中にさせることができるじゃない。……)
 気がつけば、うとうとしていた。薄眼を開けると、涼香が上機嫌でシャワールームから出てくるところだった。
「シャワー、使わせてもらったわよ。お風呂沸かしといたから、直人、入ってきたら」
「サンキュ」
 身体が妙に重かった。そのままベッドから動けないでいると、隣に、バスタオルを巻きつけた女が座る。
「今夜、泊まってくけどいい?」
「どうぞ、朝メシはでないけどな」
「いっそのこと、直人が高校出たら一緒に住んじゃう? 家賃はシェアしたらかなり安くなると思うし」
 悪くないな、と思いながらも、そうやって完全に静那との繋がりを切ることに、不思議な抵抗を感じている。
「ま、そこまで私に本気じゃないか」
 あっさり笑った女は、タオルを落として立ち上がった。
「好きな人いるんでしょ、直人? こないだ店で直人の友達に聞いちゃった」
 見事な肢体を見せつけるように着がえ始める。小田切は本を取っていた。
「誰だよ」
「んー、でっかくて、まぁまぁかっこいい子、風間君?」
「あの馬鹿、なんて?」
「直人は、昔一緒に住んでたお姉さんが好きなんだろうって」
「……はは」
「なになに? 初耳でびっくりしたけど、どういう関係?」
「俺にもよく分かんない」
「ちょっとー、逆に気になるじゃない」
 答えず、再び仰向けに倒れた小田切は目を閉じる。
 そうだ、俺は静那が好きだ。
 もう、望みなんて100パーセントないと判っているのに。あれから色んな女とつきあって、とっくに忘れたと思っていたのに。
 今、どこで何してんだよ。
 なんで、樋口なんかと一緒にいるんだ。あいつと一緒で、お前は本当に幸せになれるのか。
 俺は、静那のことをもっと知りたい。
 あの夜、掴んだと思った途端に、永遠に擦りぬけていった静那の心。
 あれ以来、俺の心は行き場をなくしたままなんだ。   



 
 
 

 
 
 


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