12
  
 
 微かな物音で、クシュリナは淡い眠りから目を覚ました。
 昨夜はなかなか寝付くことができず、ぼんやりと寝がえりを打ちながら、ようやくうとうとしはじめたばかりだった。
 天蓋の帳越しに見た部屋の中はまだ暗く、外からはしめやかな雨音が響いている。それ以外の音はなく、室内は静まり返っている。
 雨音だったのかしら……。
 嘆息して、眼を閉じる。思考は再び    眠りに落ちる前と同じところを彷徨いはじめる。
 夢だったらいいのに……なにもかも……ラッセルと出会ったことも、恋をしたことも……全部……別の世界の出来事だったら。
 コツ。
 今度ははっきりと、扉を叩く音が聞えた。
     カヤノ……?
 さすがに、今度は跳ね起きていた。
 帳を払ってベッドから降り、暗闇の中で眼を凝らす。まだ明方には程遠い。こんな時刻に来客など、ありえない。
 また、同じ音がした。
 もう間違いない、外から、扉が密やかに叩かれているのだ。
「……    カヤノ? どうしたの?」
 クシュリナは上衣を肩にかけ、扉の傍に歩み寄った。
「クシュリナ様……」
 かすめるような女の声が、扉越しに聞こえる。それが、囁くと言うよりは弱々しく聞こえ、クシュリナは眉を寄せていた。
「カヤノ?」
 クシュリナは、錠を外して扉を開けようとした。
「なりません……開けては」
 今度は、はっきりとした呻き声がした。カヤノだ、間違いない。
「この部屋から……出ては……」
「クシュリナ、俺だ」
 別の声がそれに被さる。
 ただ、凍りついていたクシュリナは、今度こそ本当に驚愕していた。
     ユ……。
「ユーリ?」
「そう、俺だ、……ここを開けてくれないか」
 ユーリの声が、静かに答える。
 どういうことだろう。これは    いったい、どうすればいいのだろう。
「クシュリナ」
 再度、催促するような声がした。疑う余地は何一つない、ユーリの声を聞き間違えるはずがないからだ。
 クシュリナは扉を押し開いた。
 その刹那、はっと息を引いている。
 暗がりの中、少し高い目線から見下ろしているのは金羽宮本殿の女官である。    が、白銀の髪、灰色の瞳、顔を見れば、それは紛れもなくユーリだった。
「ユーリ?」
「殺すな!」
 女装したユーリが鋭く叫んだ。
 彼の背後で、黒い得体のしれない何かが蠢き、さっと消えるのが判った。カヤノの姿は、どこにも見えない。
 ぞっとするような沈黙の中、雨の音だけが激しくなる。
 なんだったの?……今のは……今のは……何?
 クシュリナが立ちすくんでいる前で、ユーリは素早く室内に入り込むと、後ろ手に扉を閉めた。
 何が起きているか理解だけが追いつかず、クシュリナはただ呆然と、    女より美しい姿になったユーリを見つめる。
「この前と逆だな」
 目許を緩め、ユーリはかすかに微笑した。
 が、その笑みはどこか疲れていて、寂しさというより彼特有の諦めを含んでいるように見える。
「大丈夫だ、君の女官は、気を失っているだけだよ」
「気を……?」
「君に会うために、少しばかり手荒な真似をした。でも、命に別条はない」
 カヤノのことを言っているのだろう。
 ユーリの背後に見えた薄気味悪い影を思い出し、クシュリナは嫌悪にも似た寒気を感じている。
 しかも、カヤノは、クシュリナにとっては最後の砦だ。青百合宮殿の深層に至るまでには、様々な警備の壁がある。結婚式を直前に控えたこの時期、オルドを護る騎士は一人や二人ではない。
 ユーリは……いったい、どうやって。……
「クシュリナ……」
 クシュリナが口を開くより前に、ユーリは思いつめた声で囁いた。
 美しい髪はひとつにまとめられ、額に一房だけ零れている。それが、まるで雨に打たれた後のように湿り気を帯びている。
「お別れを言いに来た、俺は今夜、この国を出て行く」
 ユーリの行動も、唇から零れた今の言葉も、全てが理解を超えている。
 しばらく、ものも言えずにその顔を見つめた後、クシュリナはようやく口を開いた。
「出て行くって、こんな時間に……青州に帰るということ?」
 険しい目で、ユーリは首を横に振る。
「帰るのは蒙真だ、……俺の生まれ故郷だよ」
 蒙真。   
「突然で驚くだろうね。俺も……正直、何から説明していいのか判らないんだ」
 うつむいたユーリは、沈んだ微笑を見せた。
 横顔がひどくやつれていることに、ようやくクシュリナは気がついている。
 最初の驚きが冷めてくると、聞きたいことが、一気に胸に押し寄せてくる。
 体調のこと、エレオノラのこと、蛇薬のこと……会えなくなったユーリがずっと気がかりだったから、クシュリナは様々な危険を冒したのだ。
「君が白蘭オルドへ来てくれた夜、刺客に襲われたのは覚えているな」
 ためらいながらも、クシュリナは頷く。
 憶えていないはずがない。あの夜のことは    色んな意味で、生涯忘れることはないだろう。
「実を言うと、俺は最初から暗殺者の正体を知っていた。……青州でもここへくる道中でも、散々命を狙われたからね。もっと言えば、グレシャムが俺を皇都に同行させたのは、暗殺者の手から俺を護るためでもあったんだ……」
「蒙真……?」
 クシュリナが呟くと、ユーリは小さく頷いた。
「……蒙真の、ヨブクル派が寄こした連中だ」
「ヨブクル派……?」
「現蒙真王、ムガル・シャーの正室だよ。シャーは死んだ……今は、その息子アユリバルダが、旧三鷹派と闘っている」
「どういうことなの?」
 話の展開が急すぎる。クシュリナはためらいながらもユーリの傍に歩み寄った。「どうして、王様のお妃が、ユーリの命を?」
「陳腐な理由さ。俺が、国王の妾の息子だからだよ」
「………」
「そして、三鷹王家の……今となっては、唯一の末裔になるからだ」
 苦く笑うと、ユーリは傍らの長椅子に腰かけた。
「わかりにくいだろ。俺も説明しづらくて困るよ。つまり、滅亡した三鷹王の遺姫を、蒙真王ムガル・シャーが無理矢理自分の愛妾にした。そうやって生まれた俺は、蒙真王の実子でありながら、三鷹の血を引く最後の末裔ということになるのさ」
「……じゃあ」
 クシュリナは言葉に詰まる。
 蒙真にいるというユーリの母親と妹は    蒙真王の愛妾と、もう一人の娘ということになるのだろうか。
「白蘭宮に現れたのは蒙真の正規軍だ。シャーが死に、政権を握ったヨブクル夫人は、なりふり構わず俺を殺そうとしているんだろう。……母やエミルの安否を確かめるためにも、俺は蒙真に戻らなければならない」
「危険は、ないの?」
 クシュリナに言えたのはそれだけだった。
 唇を結び、ユーリはわずかに目をすがめる。
「蒙真は遠いわ……今、誰か味方がいるの? グレシャム公はなんと言っておられるの?」
 ユーリは今、尋常ではない状態にある。理由は判らないがそんな気がする。そもそも、こんな時間にフラウ・オルドにユーリが忍んでこられること自体、普通ではない。
 何か    扉の外では、クシュリナには想像も及ばないほどの恐ろしいことが起きているのだ。
 ユーリの周囲には、間違いなく誰かがいる。フラウ・オルドまでユーリを導けるほど強い、何者かの力がついている。
     もしや……エレオノラ?
 それでも、今のクシュリナには、ユーリを護りたいと思うこと以上に大切なものはなかった。
「蒙真にユーリの味方はいるの? 今、蒙真と三鷹家は国を分けて戦争をしているのでしょう? そんなところへ戻って……本当に命に危険はないの?」
 ユーリは無言のまま、寂しげな目でクシュリナを見つめた。
「全部を君に話すよ。今夜は、そのために来たんだ」
     ユーリ……。
「危険なのは俺だって判ってる。……母と妹が、この状況で生きていると思うほど、俺は楽観家じゃないからね」
 はじめて、声が震えを帯びる。
「あ……」
 そこまでを考えていたわけではなかった。それでもクシュリナはその刹那、自分の言葉の残酷さに胸がいっぱいになって、ユーリの前に膝をつき、許しを乞うようにその手をとった。
「クシュリナ……!」
 驚くほど強い力で、両の手を握りしめられる。
 肩と髪から、夜と雨の匂いがした。
「グレシャムが死んだ」
「…………」
 囁きの意味を測りかね、クシュリナはただ、眉を寄せる。
「グレシャムが死んだ。クシュリナ……多分、俺が殺したことになるんだろう」
  
 
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「……ユーリ……?」
 しばらく呆然としていたクシュリナは、自然に足が震え出すのを感じた。
 ユーリの手を押し戻すようにして、恐々とその顔を見上げる。
「今、なんて言ったの?」
「君は聞いたはずだ。言葉どおりの意味だよ」
「冗談でしょう?」
「だったらいいと、俺も何度も思ったよ」
 どこか自嘲めいた笑みが、怜悧な唇に浮かんでいる。
「冗談でも夢でもない。グレシャムは死んでる、俺の寝台の、帳の中で」
「…………」
「もう直判るよ、すごい騒ぎになるだろうから」
 唇は笑っているように見えても、ユーリは少しも笑っていない。灰色の眼は凍りつき、眉は険しく張り詰めている。
「本当に、あなたが殺したの?」
「残念なことに、俺が殺したとしか言いようがない」
「でも、……違うのね?」
 くいいるようにユーリを見つめたまま、クシュリナは問った。
 それだけは、絶対に違うという確信がある。ユーリの潔さを、クシュリナはよく知っている。本当にユーリが罪を告白するつもりなら、こんな回りくどい言い方をするはずがないからだ。
 ユーリは、じっと空を睨んでいた。息遣いだけが苦しげに、静まりかえった薄闇を震わせている。それはまるで、もの言わぬ彼の心の悲鳴のようだった。
 やがて、整った呼吸の下、ユーリは静かに言葉を繋いだ。
「……俺は、君が思っているような男じゃないんだ」
 クシュリナは黙って、再びユーリの手を握りしめる。
「どうしようもないほど汚れている。……君が想像する以上にだ。触れる資格さえないくらいに」
 そっと手を振りほどかれる。
 訝しむクシュリナを、ユーリは、寂しそうな眼で見おろした。
「父は君らの言うところの忌まわしい蛮族で、母はマリスを信仰する邪教の姫だ。俺はその血を引いているんだよ」
「それは」
「この髪も眼も、三鷹家の……顔も知らない祖父譲りだ。……銀の髪に灰色の目……、それが、蒙真ではどんな恐ろしい意味を持つか、君には想像もできないだろうね」
「ユーリはユーリだわ」
 クシュリナには、それしか言えなかった。
「どのような血を引いていようと、私にとって、ユーリはユーリでしかないのよ」
 ユーリはただ、諦めたように微笑しただけだった。
「物心がついた時から、俺は、自分を見る周りの目がどんなものだか知っていた。まるで……そう、汚らわしい化物でも見るような眼だ。蒙真には、俺の居場所は最初からなかった。母にとってもエミルにとっても、俺はやっかいものだったんだ」
 うつむいたユーリは、胸元に手をあてる。
 そこに収められたものを想い、クシュリナも胸が痛くなっている。
「そんな俺を、蒙真から連れ出してくれたのがグレシャムだった。……奴はムガル・シャーから、俺を譲り受けたんだ。煮ても焼いても殺してもいい。グレシャムに聞いた別れ際の父の言葉さ。そして俺は、その日からグレシャムの   
 青州での様子からある程度は予想していたものの、それでも、ユーリの告白は、クシュリナの心を深くえぐった。
 ずっと不思議には思っていた。グレシャムが旅から戻った翌日には、必ず体調を崩して伏せってしまうユーリ。白磁のような美しい身体に、生々しい傷痕を見たのは一度や二度ではない。
 母から引き離された幼いユーリが、いったいどんな気持ちで、養父の暴力に耐え続けていたのか……想像するだけで、怒りとやるせなさで胸が張り裂けそうになる。
 なのに私は……ユーリを頼ってばかりで……。
 こみあげる涙と憤りを、クシュリナは必死にこらえ、ユーリの膝にそっと手を置いた。
「グレシャム公を……憎んでいたの?」
「どうかな……憎んでいたのかな? 昨日の夜は憎かったよ。それは激しく言い争ったからね」
 笑うように答えるユーリの目は、いつものように、すでに何かを諦めている。
「……殴られて……薬を飲まされたところまでは覚えている。あとは、よく判らない。目が覚めたら、隣で奴は血まみれになって死んでいた」
「薬?」
 ぞっとした予感を覚え、クシュリナは思わず問いかえしている。
「蛇薬さ」
 ユーリはあっさりと口にした。
 マリスの蛇薬   
 ユーリがそれを認めたことは、クシュリナにとっては、グレシャムの死より衝撃だった。
 ユーリの横顔に、自虐とも言える冷笑が浮かぶ。
「君も薄々察していたんだろう? グレシャムは蛇薬の愛好者で、俺も子供の頃から、奴に抱かれる度に飲まされていた。もう、骨の髄まで蝕まれている。奴を殺したい動機なら、この世界で誰より一番持っているのさ」
 深い衝撃と共に、ユーリの体調不良の本当の理由を、ようやくクシュリナは知ったのだった。
 悪夢としか思えなかった。
 ユーリの身体は……すでに、蛇薬に冒されていたのだ。
「……いいえ」
 クシュリナは激しい動揺を堪え、それでも、確信をこめて首を横に振った。
「それでも、私は信じてるわ。……ユーリは違う、ユーリに、人殺しなんてできるはずがない」
「どうして判る。あの場にいたわけでもないくせに」
 ユーリの横顔は冷めていた。
「蛇薬の禁断症状を君は知らない、気が狂うみたいになって、自分が何をしたかさえ覚えてないんだぞ」
「それでも、私は、ユーリを信じてる」
「…………」
「あの場にはいなくても、禁断症状を知らなくても、それまでのユーリを、……私は、よく知ってるから……」
 寂しがり屋で、優しくて、皮肉屋だけど、心配性で情が深くて。
 曲ったことが誰よりも嫌いな、まっすぐな人だから。   
 気がつくと、吸い込まれそうなほど美しい目が、憂いと不安を湛え、じっとクシュリナを見つめている。
「……俺じゃない……」
 耐えに耐えていたものを、吐き出すような声だった。
「君が信じてくれなかったら、死ぬつもりだった」
「ユーリ」
 クシュリナは、ユーリの手を両手で握る。
 うつむいた長い睫から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「本当に殺したかったら、もっと上手くやってるさ。あの人は……それでも、俺には、……たった一人の家族だったんだ……」
 
 
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「信じてもらえないかもしれない、君は馬鹿だと怒るかもしれない……でも俺、グレシャムのことが、そう嫌いでもなかったんだ」
 長椅子で膝を抱き、ユーリは切れ切れに語り始めた。
 雨音が庭の木々を揺らしている。
「おかしな話だよ、どんなに酷い目にあわされても、この男が自分を拾って育ててくれたと思えば、全部が許せたし、受け流せた。……それに、俺、どっかで」
 ユーリは、不意に言葉を途切れさせると、片手で苦しげに額を押さえた。
「……どこかで……あいつが、俺のことを」
「ユーリ」
 再び激情が込み上げたのか、ユーリは両手で顔を覆った。クシュリナはその痩せた肩を背中から抱いた。
「……本当は……家族だって、……愛してくれてるって……」
 肩が細かに震えている。固く閉じた睫の下に、涙が薄く浮いていた。
 青州で一緒に過ごした日々のことを、クシュリナは思い出していた。
 グレシャムはユーリに厳しかった。ユーリもグレシャムのことをひどく言っていた。けれど、そうも言いながら、最後には必ず年若い養父を庇い    決して言いつけに背こうとはしなかった。
「なのに、皇都であいつは、俺を自分の保身のために売ったんだ。俺は売春婦じゃない、だから夕べは、本気で奴に逆らった」
     ユーリ……。
「あれが最後になるなら」
 寂しい微笑が口元に浮かぶ。「もっと、素直に言うことをきいてやればよかったよ」
 ユーリが、心の底でどれだけグレシャムを慕っていたか、クシュリナはよく知っていたつもりだった。
 あれだけ、酷い目にあわされても    なお、怒りより寂しさを募らせるユーリに、ますます切ない気持になる。
 雨音が、ぽつぽつと庇を叩いている。
 ユーリは顔をあげた。沈んだ眼色には、もう、涙も激情も見られなかった。
「いずれにしても、俺は、この国を出なければならない」
 そうするしか途がないことは、すでにクシュリナにも判っている。
 父殺しは大罪だ。しかも、相手は五公の一人、名門鷹宮家の当主である。
 ユーリは、間違いなく処刑される。それどころか蛇薬の使用が明白になれば、生きながら火あぶりの刑が待っている。
「俺でなければ、誰かがグレシャムを殺したんだ。しかも、俺が殺したとしか言いようのない状況で」
「なんのために、なの」
 妙なほど落ち着いているユーリは、グレシャムが殺された理由を半ば知っているような気がした。
「最初に言ったな。……俺は、三鷹家最後の末裔だし、蒙真王朝にとっても、正当な血を引く王位継承者だと」
 暗い声で、ユーリは再び語り始めた。
「その血のために俺の命を狙う連中がいるし、逆になんとしても、蒙真に連れて帰りたいと願う連中もいる。悪いことに、それはもう蒙真国だけの問題じゃない……イヌルダの政治にも、深く絡んできているんだ」
「……どういうこと?」
「蒙真も三鷹家も、青州の援護を望んでいる。彼の国を支配するのに、隣国青州の後ろ盾は不可欠だからだ。そして、グレシャムはすでに三鷹家と組むことに決めている。……奥州公ヴェルツの後押しを得て、俺をあの国の王にすえ、青州、奥州、三鷹家でイヌルダの実権を握ろうとしていたんだ」
「…………」
「女皇になるのは、妹のサランナだ……君じゃない。だから俺は、君を……」
「…………」
「あの日、本気で、この国から連れ出そうとした」
     ユーリ……。
 ユーリの手が、クシュリナの頬をそっと抱き、力なく離れた。
「でも、グレシャムは殺された。しかも嫌疑をかけられるのはまず、俺だ。これで同盟軍の構想は壊れ、ヴェルツ公爵の目論見も消えることになるだろう。……普通に考えれば、グレシャムを殺すように仕組んだ者は、ヴェルツと対立していた甲州公か、法王ということになる」
 お父様が? まさか。
 青ざめたクシュリナの内心を察したのか、ユーリはかすかに笑って見せた。
「安心しろ。……そうじゃない……多分だけど……そうじゃないんだ」
「心当たりがあるのね?」
 眼をすがめ、ユーリは首を横に振った。
「……もっと、別の力が、……俺たちが想像する以上の思惑で動いているとしかいいようがない。……俺にも、よく判らない。ただひとつだけ言えるのは、もしこれが、甲州公なり法王なりが仕組んだ企みなら、俺は到底君のオルドまで辿り着けなかった。白蘭オルドで目覚めた途端に捕まっていただろう」
「…………」
「グレシャムがああいう殺され方をした以上、俺の選択肢はもう二つしかない。縛について死罪を待つか、蒙真に行って活路を開くか、だ」
「ユーリ……」
 クシュリナは、ただ茫然と呟いた。
 ユーリが、すでに逃亡の意思を固めているのは明らかだ。
 蒙真に戻り、三鷹家か蒙真族のいずれかに立って、王位継承争いに名乗りをあげる。
 そういう    ことなのだろう。
 大丈夫なのだろうか? 後ろ盾となる人が誰かいるのだろうか。戻った途端に、殺されてしまうのではないだろうか    聞きたいことが唇に溢れて、なのに一言も言葉にはならない。
「私では……あなたを、助けられないのね」
「クシュリナ……」
 そっと頬に伸ばした手を、上から押さえられる。
「君は……俺に触れるのが、嫌じゃないのか」
「どうしてそんなことを言うの?」
「俺は君を騙していた……。青州ではグレシャムに抱かれ、……皇都では……奴が連れてきた薄汚い連中と」
 苦痛が胸を刺し、クシュリナは自然に首を横に振っている。
「こんなに汚れているのに、君に、一言も打ち明けなかった。その腕で君に触れ、君を一度ならず俺の運命に巻き込もうとした」
「ユーリは何も変わらないわ……。私にとっては、誰より大切なお友達よ」
 抱き寄せられる。クシュリナは抗わず、ユーリの肩に頬を預けた。背中に両腕が回される。
「クシュリナ……」
 眩暈がするほど強い抱擁だった。
 激しく抱きしめられ、頬が寄せられ、さらに強く抱き寄せられる。
     ユーリ……?
 身動きひとつとれないほどの力に、呼吸が止まりそうになる。激情を迸らせた抱擁に、クシュリナはわずかな戸惑いを覚えている。
 耳に、吐息が触れ、唇が触れた。
「ユー……」
「俺を……」
 いつもとはまるで違う声音に、どくん、と心臓が高鳴った。
「俺を、拒まないでくれ……」
「………」
「お願いだ……今だけは……」
 ゆっくりと仰向けに倒される。
 見慣れた寝室の天井を見上げながら、クシュリナは自身に起ころうとしていることを、意識せずにはいられなかった。
 ユーリを嫌いなのではない。が、それは、想像するだけで恐ろしく、そして罪深いことのように思えた。
「君を……愛している」
     ユーリ……。
「もう、ずっと以前から、君だけが俺の全てだった」
「あ……」
 見下ろす瞳を直視できず、クシュリナは逃げるように視線を逸らしている。
 心臓が、どくどくと鳴っている。
 どうしよう……どうしたらいいんだろう。
 ユーリの腕はクシュリナをしっかりと押さえこみ、脚は脚とからむようにもつれ、顔は息が触れるほどの距離にある。
 正直、思いもよらない言葉だった。ユーリが、私を愛している……? それは、友だちとしてということ? それとも……それとも。
「……ユーリ、とにかく、落ち着いて話を」
 拘束する腕から、クシュリナは逃げようとした。ユーリはそれを許さなかった。強い力で引き戻される。
「ユーリ!」
「君が、好きなんだ」
 両手首を抑えられ、ますます身動きできなくなる。
「ユーリ、お願い」
「君にまで否定されたら、俺はもう生きていけない」
 胸を打たれ、クシュリナは何も言えなくなっていた。
「考えられないんだ、……君のいない、人生なんて」
「………」
「俺にはもう、誰もいない……俺を……一人に、しないでくれ」
 その言葉が、語調の余りの切なさが、抵抗する力を弱めさせている。
「クシュリナ……」
 ここで拒めば、どれだけこの人は傷つくだろう。
 こんなにも痛々しく傷ついた身体と心。    私には出来ない。これ以上ユーリを傷つけるなんて。
 クシュリナは、全身から力を抜いた。
 ユーリの目は、昔の自分の眼差しだった。まだ、ラッセルと出会う前の自分。孤独と寂しさ、息苦しいくらいに愛されることに飢えていた。私とユーリは、似た者同士だったんだ。……
 ゆっくりと、ユーリの唇が近づいてくる。
 怖い……でも、ユーリが好きだ。どんなに大切か、判らない。
 彼が望むなら。   
 クシュリナは震えながら、瞳を閉じた。

 
 
 
 
 
 

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