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 高らかに鳴り響く教会の鐘が、澄みきった空に吸い込まれていく。
 抜けるような晴天の青空だった。
「クシュリナ様、お顔が」
 隣のカヤノに指摘され、クシュリナは、顔を覆う黒のヴェールを指で直した。
 シーニュの森の奥深く。
 ここはもう、法王領だった。クシュリナには初めての領域である。
 七つの折、シーニュの森には足を踏み入れたことがあるが、その先にまで進んだのは初めてだ。
 長く乗っていた馬車を降りると、周囲はすでに鬱蒼とした木々に包まれていた。目の前には壮麗な建物がそびえている。
 白い壁に、円形に装飾された美しい屋根。頂上には三角の旗が二枚揺れている。文様は、上が黒地に白十字、下が黄地に天秤。上が法王旗なのは判るが、下の旗の意味は判らない。
 建物の周囲は、牢を思わせるほど厳重な塀で覆われており、至る所に、黒服の修道士たちの姿が見える。
 カタリナ修道院。
 近衛騎士が、婚礼の式を挙げる場所   
 よく    許されたものだと思うし、ある意味父の冷酷な罰なのではないかとも思う。
 むろん、クシュリナの傍には、カヤノがぴったりとくっついているし、背後の馬車には十数人の騎士が同行している。
 身分を隠したクシュリナは、カヤノと同じ金羽宮の女官服を身につけ、顔を覆うためのヴェールを被っていた。
「姫様、こちらでございます」
 カヤノが先導してくれる。
 クシュリナは頑強な門をくぐると、最初に見えた建物の脇を抜け、庭に作られた通用路を通って、さらに奥にある礼拝堂にも似た建物に通された。
 すでに、その儀式は始まっていた。
 はっと吐胸を衝かれたように視線を下げたクシュリナだったが、必死の思いで、強張った首をあげる。
 私は、今日のこの日を、自分の眼に焼きつけるために来たのだ。もう、二度と過去を振り返らないために。   
 大きな十字の下、宣誓しているのは立会人だろう。見覚えがある    というより、一度見たら忘れられない。近衛隊の隊長、加賀美ジュール。
 がらんとした聖堂の内部。ジュールの他は、数人の修道士らしき者が見えるばかりで、列席者は殆んどいないようだった。
     なんて、寂しい……。
 その殺風景さに、クシュリナは初めて、悲しさや辛さとは別の感情に囚われていた。
 以前、ダーラもラッセルも孤児だという話を聞いたことがある。とすれば、二人には、最初から結婚を祝福してくれる家族などいないのかもしれない。……
 ただ、それでもラッセルには妹がいるはずだった。血が繋がっているかどうかは定かではないが、妹のことを語る時のラッセルの優しい眼が、肉親と同じ情愛を示していたことをクシュリナはよく覚えている。
 が、ひっそりとした教会の中、親族らしき人の姿はどこにもないように見えた。
 礼服姿も凛々しい加賀美ジュールが、うつむくダーラに声をかけている。
 純白の衣装に身を包んだダーラは、ジュールの言葉に涙ぐんでいるように見えた。
 やがておごそかな聖歌が、両脇に陣取る近衛隊士の口から流れだし、ダーラとラッセルは、二人で並び立って壇上に歩み出た。
 耐えきれず、クシュリナは、うつむいて目を閉じた。
 握りしめた手が、膝の上で震えている。
     馬鹿な私、見たくないのなら、来なければいいだけのに。
 それでも、来ずにはいられなかった。この現実を自分の目に焼きつけなければ、とうてい別の男との結婚など、受け入れられないと思ったからだ。
 聖歌が終わる。
 クシュリナは、苦しい動悸を堪えて顔を上げた。
 丁度壇上の二人が、向き合うところだった。
 ラッセルは、近衛隊員が式典の時に着用する金刺繍入りの黒の膝丈コートと、折り返しつきの長いブーツを履いていた。
 少しウエーブを描く黒髪が、柔らかく額に零れている。
 こんな時ですら、クシュリナは彼の横顔や真直ぐな立ち姿に、思わず見惚れてしまっていた。
 ラッセル。   
 馬鹿げた未練だと知りつつ、この瞬間、奇蹟のような何かが起きて、全てが    全てが壊れてしまえばいいのに、とクシュリナは思っている。
 彼の隣にいる花嫁は、綺麗な横顔を彼に向け、いつもは気丈な瞳を涙で潤ませていた。
 すらりと伸びた背丈に、細身の白いシルクドレスがよく映えている。長身の二人が並んで立つと、まるで、絵本の挿絵のように美しい。
     ダーラで、よかったんだ。
 クシュリナは、懸命に自分に言い聞かせた。
 他の誰でも許せなかった。ある意味ダーラだから、諦めもついた。
     あんな素敵な女性が、ラッセルのお嫁さんになるんだもの。……本当に、これでよかったんだ。
 壇上の二人は互いに向き合い、ラッセルがかがみ込むようにして、花嫁のヴェールを両手で払う。ヴェールの白さに負けないほど鮮やかな白い手袋が眩しかった。
 わずかに身をかがめて顔を傾ける。
 奇蹟は起きなかった。クシュリナは目を閉じていた。
 
 
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「少しだけ、ここで待っていてくれる?」
 外に出ると、クシュリナは背後のカヤノに声をかけた。
「ラッセルに……お祝いを言いたいの。すぐに戻るわ」
「私も参ります」
 即座に無表情の女騎士が眉を上げる。
「いえ、一人で大丈夫よ。本当にすぐに戻るから」
 クシュリナは、自身の胸元を強く抑えた。
 もうひとつ    ラッセルにどうしても会いたい理由がクシュリナにはあった。
 サランナから預かった例の薬の件である。
 ルシエには、今後連絡を取ることが難しくなる旨の手紙を急ぎしたためたが、もう自分にはあまり時間が残されていない。アシュラルと結婚すれば、そう遠くない時期に即位式が待っているだろう。そうなってしまえば、今以上に自由に動くことができなくなる。
「クシュリナ様」
 明らかに反対の気色を見せたカヤノは、初めてその眼に、はっきりとした嫌悪をのぞかせて、クシュリナの前に立ちふさがった。
「ご存知かと思いますが、ラッセルはもう、クシュリナ様の騎士ではございません。それはダーラも同じこと」
「……判っているわ」
 初めて意見されたことに戸惑いながら、クシュリナは答える。
「青百合宮殿にお仕えしている間、ラッセルもダーラも、常に命の危険にさらされていたのでございます。この上二人に、厄介事を」
 そこで言葉が過ぎたことに気付いたのか、カヤノは可愛らしい顔を歪めて軽く舌打ちした。
「……二人をもう、自由にしてやってくださいませ!」
 冷たい口調で鋭く言い放つと、カヤノはぷいっと背を向け、元来た道に向かって歩き出した。
     二人を……自由に……?
 初めてカヤノが見せた自分への嫌悪と反発、そして思いもよらない言葉に、クシュリナは動揺しながら、歩き始める。
 命の危険……あの平穏な青百合オルドで……?
 が、カヤノの言葉が決して大げさではないことは、すぐに想像がついた。クシュリナの死を願うものは義母アデラをはじめ、沢山いる。父は、アシュラルが旅先で襲われ続けたと言っていた。それと同じ刺客が、クシュリナ自身を襲わないと、どうして言い切れるだろう。
 この薬が、もしマリスの蛇薬だったら。
 胸に抱いたものの重さに、初めてクシュリナはぞっとしていた。
 ラッセルはどうするだろう。そしてダーラは。
 ダーラはともかく、ラッセルであれば、それがどのような危険をはらんだ任務であっても、やり遂げようとするだろう。ヴェルツ邸に同じものがあるかどうか、命がけで確かめに行くかもしれない。
 そんな危険な真似を、本当にラッセルにさせてしまっていいのだろうか。
 その時、扉が激しく開く音がした。
 はっとクシュリナは足を止める。
 目前に見える教会の裏口。飛び出してきたのはダーラだった。まだ結婚式の衣装を身につけたまま、ヴェールを手に握りしめている。
 明らかに様子がおかしかった。顔は強張り、うつむいて小走りに駆けてくる。
「ダーラ」
 彼女の背後から、ラッセルが現れた。駆け寄ったラッセルは、逃げようとするダーラの腕をしっかりと掴む。
「離して」
 ダーラは身をよじり、抗った。その華奢な身体を、ラッセルは背後から抱き止める。
 骨格の秀でたラッセルの身体の中に、ほっそりとしたダーラが飲みこまれたように見えた。
     何……?
 クシュリナはざわめくような胸騒ぎを感じた。これは、多分、見てはいけない光景だ。なのに足が、すくんだように動かない。
「お願い、離して」
 囁くようにそう言って、顔を背けたダーラの眼がクシュリナの視界に飛び込んできた。 
 ダーラは明らかに泣いている人の顔をしている。
 ラッセルは無言だった。
 クシュリナの位置からは、彼のうつむいた横顔しか見えない。
 心臓が嫌な感じに高鳴っている。早くここを立ち去らないと    ラッセルが、そしてダーラが顔を上げただけで気づかれてしまう。
「どうして、こんな突然の結婚を承知したの!」
 ダーラの、高い声がした。
「それが公の命令だから? 私の気持ちはどうなるの? ひどいわ、ラッセル、このままじゃ惨めになるだけよ」
 あの冷静なダーラが、ここまで取り乱している。
「だって、私は、あの」
 ラッセルが顔を上げた。
     あ、
 どこか厳しい眼差しが、クシュリナの眼を確かに捕えたような気がした。
 その瞬間、ダーラの言葉が途切れた。
 ラッセルが唇を塞いだのだと    二人が唇を重ねているのだと    それがすぐに理解できなかった。
     いや。……
 目を閉じてしまいたかった。なのに凍りついたように、瞬きひとつ出来なかった。
 ダーラを抱きしめ、情熱的な口づけを続けるラッセルの横顔。それは今まで見たどの彼の顔とも違っていた。
 抗って顔を背けるダーラの顎を強引に掴み、また唇を寄せる。
「ラッセル……」
 ダーラは切な気に囁き、細い腕が耐えかねたようにラッセルの背中を抱いた。
 長い口づけが、ようやく終わった。
「……俺を信じてくれ」
     こんな声。
「子供の頃からお前を大切に思ってきた、それだけは本当だ」
     初めて、聞いた。
 クシュリナは、二人から背を向けた。目蓋の奥が痛いほど熱かった。胸が苦しくて息苦しいほどだった。
 走って果樹園まで出た時、クシュリナは改めて思い知らされていた。
 自分に向けられるラッセルの眼差しも、優しさも、それは彼の全てではない。生身の男としての彼は、クシュリナの前では絶対に出てこない。
 職務として、そう、忠実な騎士として、ただ    仕えているだけ。恋愛とは全く別の次元で。
     私は……。
 涙が、ぽたぽたと膝に落ちた。
 わかっていたはずなのに、最初から知っていたはずなのに……なのに……なのに、何を期待していたんだろう。
 風が冷たかった。クシュリナは顔を隠していたヴェールを脱いだ。
 零れた髪を、風がさらっては巻き上げる。
 今、ようやく実感していた。初めての恋を、永遠に失ってしまったことに。
でも、私は。   
 せりあげる呼吸を整えながら、クシュリナは涙を払って唇を噛みしめた。
     やっぱり彼に、恋している。
 今の気持ちを、どうしても忘れることなんてできない。だってあれほど、私のことを大切に守ってくれた、支えてくれた、その真実だけは忘れたくない。忘れられない……。
「姫様……」
 背後で静かな足音がした。
 ラッセルの声だと、不思議なほど静かな気持ちで思い、クシュリナは目にたまった最後の涙を急いで払った。
「オルドの者に聞いて驚きました。……私ごときの私用に、わざわざおいで頂くとは」
 冷静な声だった。
「ご結婚を控え、姫様は大切なお身体でございます。参りましょう、馬車までお送りいたします」
 丁寧な口調。振り返らなくても判る。きっと膝をつき、折り目正しく頭を下げている。
     ラッセル……。
 クシュリナは、激しく込み上げる感情を胸の裡で押し殺した。
「そんな真似をしないで、ラッセル。今日は、あなたにお祝いを言いにきたのに」
 振り返る。上手く笑えているのか不安だった。 
「………」
 綺麗に澄んだ静かな目が、クシュリナを見上げている。
 この真っ直ぐな眼に、ずっと惹かれ続けてきた。
「これからは、ダーラを守ると私に誓って」
 でも、今日で、終わりにする。
 もう二度と、彼を振り返ったりしない。
「身命をかけて、彼女を守ると私に誓って。……一生よ」
 この恋は、生涯私の中に封じ込めておくから。   
 ラッセルは答えない。わずかに視線だけを下げている。
「私の最後の命令よ。今日で、あの夜の約束は終わりにします。今までありがとう、……ラッセル」
 本当に。
 ありがとう。   
 しばらくそのままの姿勢で、ラッセルは微動だにしなかった。まっすぐな眼差しは、こんな時でも変わらずに    やはり、まっすぐなままだった。
「先日の早駆けの折り」
 膝をついたままで、ラッセルは言った。
「私は申し上げました。私たちはイヌルダの民、このシュミラクール界の安寧を保つ、義務があると」
 クシュリナは無言で、彼の綺麗な唇を見つめている。
「美しい宮殿も、装飾品も、数々の財宝も、食べきれないほどの贅沢な食事も、すべてその義務と引き換えに手にしているのでございます」
 そこまで言って、ラッセルは少し逡巡するように目を伏せた。
「もっと、姫様とは色々なお話をするべきでした。……私が口べたなゆえ、真意が伝わらないことも多うございました」
 ラッセルは深く頭を下げた。
「高貴なる者の義務をお忘れになりませんよう。……私が申し上げられるのは、それだけでございます」
「わかったわ、ラッセル」
     涙が、
「それを、あなたとの新しい約束にする……」
 涙が出る前に、行って。
 お願いだから、もうそんな目で、私を見ないで   

 
 
 

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