時々、わからなくなる。  
 どこまでが夢で、何が現実だったのか。

  
 
 
 
 
   
 
 
 
「くそっ」
 真行琥珀は、自転車のキーをもどかしく鍵穴に差し込んだ。
 苛立ちが、些細な作業をますます困難なものにさせる。
 朝から、息苦しいほど暑い日だった。
 むっとするほど湿度も高く、外に出るだけで、全身から汗がにじみ出てくる。
 身体にまとわりつくような熱波とべたつく汗。固まったまま、動かない鍵。
 琥珀は舌打ちして、鍵をもう一度入れなおした。一時確かに依存していた例の<煙草>の後遺症かもしれない、指先がかすかに震えている。
 ようやく、鍵が外れた。
「琥珀!」
 その時、遠くから声がした。少し驚いて、琥珀は顔だけを声のほうに向けている。
 胴着に袴姿、焦って駆けてくるシルエット。確認するまでもなく、声だけで、相手が誰だかは判っていた。
「こんなとこで会うなんてびっくりした、どうしたの、今日は」
 瀬名あさと。   

 部活の最中だったのだろう、髪は汗で濡れ、頬は熱気で紅潮している。
「補習だよ」
「補習? 琥珀が?」
「ちょっと体調崩して、学校休んでたから」
 不思議な驚きを隠して、琥珀は瀬名あさとの整った顔立ちに目をやった。
 蜜色と薄桃色を混ぜたような、はりつめて輝く綺麗な肌。本人は嫌がっているようだが、凛々しい形を描く眉。切れ長のまっすぐな瞳。
 短く切った髪とすらりとした中性的な体格のせいか、初見では誰もが華奢な男の子だと間違える。
 琥珀も最初はそうだった。ただ、その幼馴染の容貌が、自分が知りあった人の中で一番綺麗だと思うようになってから随分がたつ。
「本当言うと、最近道場にも来ないから心配してたんだ。なんか、あった?」
「何もないよ」
「元気、なんだよね? 悪い病気とかじゃないんだよね?」
 そう念を押し、どこか不安げな瞳が見つめている。
「元気だよ」
 他になんといって言いか判らず、琥珀は曖昧に頷いた。「軽い食当たりだったんだ、もう、すっかりいいよ」
「そっか、ならいい」あさとは優しい目になって微笑する。
「だったらいいんだ。琥珀が病気なんてらしくないと思ったよ。あれだけ超健康優良児だったのにさ」
「ばーか、それはお前の方だろ」
 琥珀も思わず苦笑していた。
 こんな所で、話をしている場合ではないとは判っている。
 なのに、不思議な未練に囚われたまま、その場をすぐに立ち去れないでいる。
 瀬名と一緒にいるだけで、胸の底で、何かが暖かく潤っていく。    ささくれだって千切れそうだった心が、ゆっくりと癒されていくのが判る。
「……道場に……おいでよ、琥珀」
 あさとの顔から笑みが消え、真剣になった瞳が物言いた気に煌いて、そして、迷うように伏せられた。
「時々でいいから……、また、前みたいに、二人で話したりできないかな」
 長い睫が頬に影を落としている。
「私、琥珀との約束……覚えてるよ」
 琥珀は眼を逸らしていた。胸が針で刺されたように鋭く痛む。知っている。もう、その約束を口にする資格さえないことを。
「俺、明日から、毎日稽古に出るから」
 再び自転車に手を掛けながら、琥珀はわざとそっけなく言った。
「本当に?」
「ああ、ごめんな。今は、急ぎの用があるんだ」
 そのまま、自転車に飛び乗った。
 ひどく不自然な動悸がする。
     馬鹿だな、俺は。
 一度も背後を振り返ることなく自転車を走らせながら、悔恨と虚しさで息が詰まりそうだった。
 どうしてもっと早く、気がつかなかったのだろう。
 俺が失ったものなんて最初から何もなかった。俺の居場所は、いつだってすぐ傍に用意されていたのに。
     雅。
 すまない、俺が馬鹿だった。
 本当に馬鹿だ、こんなことに、いまさら気がつくなんて。
 
 
 

「琥珀!」
 しゃがみ込んで煙草を吸っていたユキッチが、びっくりしたように立ちあがった。
「何やってたんだよ、すぐに来いって言ったじゃねぇか」
「雅は?」
 仲間の一人が雇われ店長をしているカラオケボックス。空気まで澱んだような、薄汚れた小さな雑居ビルの地下にある。琥珀は呼吸を整えながら、一気に駆け降りた階段の最後の数段を飛び降りた。
「奥だよ」
 顔を背けて、大柄な坊主頭が顎をしゃくる。
 狭い廊下の向こうから、殆ど聞き取れない程の音楽が聞こえてきた。
「もう、終わったと思うけどな」
 暗い予感が、的中する。
 琥珀は、両手で額を抑えていた。    なんてことだ……。
 怒りが、自分の血液を逆流していくのが判る。
「なんで……雅は、こんなとこまで来たんだ」
「そりゃ、お前が心配だったからだろ」
 言われるまでもなかった。それでも琥珀には、雅が一人で    こんな場所まで来た事実を、受け入れることができなかった。
「いっとくけどなんもかも自業自得ってやつだぜ、琥珀」
 ユキッチは、珍しくなげやりな態度で煙草を投げ捨て、溜息をついた。顔の右半分が蒼黒く腫れている。この男が、それでもわずかな抵抗を試みてくれたことが、窺い知れるような傷痕だった。
「マリアはお前に惚れてんだ。最近、冷たくしてんだって?」
「………」
「クロはクロで、復讐の機会を窺ってた。前に、お前があの子を店に連れてきたろ。さんざんからかって追い返したけど、あの日のこと、マリアが後から嗅ぎつけたみたいでさ」
 琥珀は廊下の奥を見つめたまま、一歩も動けないでいた。
 この通路の奥にある部屋に、雅がいる。
「仲間内の隠しごとなんて、しょせんすぐにバレちまう。お前はいっぱしのボス気取りだったかもしれないけど、マリアの目は誤魔化せねぇよ」
 ユキッチの言葉が、空虚に頭の中で回っている。
「お前はマリアを舐めてたのさ。いってみりゃ、あいつは悪魔だよ。お前みたいなガキに手に負える女じゃねぇ。言っとくが、この程度で済ませたのは、ある意味マリアの温情だよ」
 ただ、琥珀は考え続けている。
 どうして俺は、あんな馬鹿な真似をしたんだろう。
 もう、決して取り戻すことのできない過ぎた時間を、呆然と振り返っている。
 雅を連れてきて    傷つけて……それで、復讐でも果たしたつもりだったのか?
 俺は本当は、自分が堕ちた姿を、その原因が全てお前のせいだということを、子供みたいに顕示したかっただけじゃないのか? 
 そうして雅の手で全ての幕を引いてもらうつもりだったんじゃないのか? そうだ、雅なら、嬉々として俺の本性を門倉家に吹聴して回ると思ったから。   

 マリアの耳に入るかもしれないとの危惧は確かにあった。入ってしまえば、その報復が雅に向くのではないかという不安もあった。が、それでも大したことになるはずはないと。    いや、どこかで、最悪の事態を意識しながら、それでも俺は。   

 自分ともども、雅も壊れてしまえばいいと思ったのではないか?
「綺麗な子だったな。俺は、あの子好きだったよ。なんで琥珀が嫌ってんのかわかんなかった。今日も……琥珀が待ってるって言われただけで、何も疑わずについてきてさ」
「…………」
「マリアにしてみれば、あんな可愛いお嬢様が、お前と一緒に住んでるってだけで、許せなかったんじゃねーの」
 廊下の奥の部屋、    虚ろな気持ちのまま、琥珀はわずかに足を動かした。同時に扉がぎっと開く。
「あら、琥珀じゃん」
 出てきたのはマリアだった。わざとらしく眉を上げる、少し頬が上気していた。
 琥珀は拳を握ることで、かろうじて感情を押し殺した。
「大丈夫よぅ、クロの薬使ったからさ。あれ、初めてでも痛くないんだって」
 挑発されているのは明らかだった。
「あんまりウブで可愛いから、クロとホセの二人で勘弁してあげたよ。あれ以上やったら、お嬢様、壊れちゃいそうでさ」
 激情のままに、琥珀は女の襟を掴み、そのまま壁に叩きつけていた。
「やめろ、琥珀!」
 ユキッチが青ざめている。かなりの衝撃があったはずなのに、マリアの目は、微塵も動じてはいなかった。
「あんたをこんな目に合わせたの誰だと思う? 琥珀だよーって言ったらさ、案外大人しくなっちゃったよ。面白さ、半減?」
「…………」
「行かないの? あの子きっと、それでも琥珀のこと待ってるよ」
 こいつじゃない。
     俺が、……。
 俺が、一番悪いんだ。
 突き放す。背後からマリアの哄笑が響いた。握り締めた拳が、微かに震えた。
 
 
 
 ソファに仰向けに倒れている雅の顔は、意外にも綺麗なままだった。
 両手を胸に乗せ、目を閉じて眠っている。
 不思議なほど、安らいだ寝顔をしていた。
 衣服も    誰かが整えてやったのか、そういった形跡は見られない。ただ、足だけが素足のままだ。
 狭いボックス。薄暗い照明。空き缶と煙草が散らかった部屋には、雅しか残っていない。
「雅……」
 琥珀はそっと声をかけた。
 膝をついた途端、喉が痙攣でもするように、震えた。
 雅の真っ白な膝と肘に、擦過傷の痕が残っている。
 抵抗しなかったはずがない。悔しくなかったはずがない。あれほど    気高く、ある意味高貴な孤高を保ち、言いよる男など、見向きもしなかった雅なのだ。   

「……雅」
 たまらなくなった。取り返しのつかないことをしてしまった、これからどうやって、何を、彼女に詫びればいいのだろうか。
 不意に雅の長い睫が、瞬きをするようにゆっくりと動いた。
「琥珀……?」
 反応できないまま、琥珀は息を詰めるようにして、雅の顔を見守っている。
 澄んだ目で琥珀を見上げ、雅は嬉しそうな笑顔になった。
「琥珀、ずっと傍にいてくれたの……?」
     雅……。
 声にならない。何を言っていいか、わからない。
 雅は、どこか恥じたようにうつむいたまま、ゆっくりと身体を起した。
「……嬉しい……」
 琥珀は眉をひそめた。
 変だ。
 雅の顔に浮かんでいるのは、むしろ幸福な羞恥である。演技……だろうか、いつものように。だとしたら、次にはどんなしっぺ返しが待っているのか。
「琥珀……」
 ふわり、と柔らかく抱きしめられる。
 雅の髪から、クロの煙草の匂いがした。
「今日のこと、私、一生忘れないから」
「………?」
「琥珀はもう、雅だけのものなんだよね」
 子供じみた、別人のような甘ったるい声。
     こいつは、誰だ?
 ぞっとして、琥珀は雅を見下ろしている。夢でも見ているような潤んだ瞳。柔らかく笑んだ唇。
 雅じゃない。いつもの雅とは全然違う。
 「もう、雅、あさちゃんに遠慮なんかしないんだから。琥珀は雅だけのもの。琥珀だって、これからは、雅のことしか考えちゃダメ!」
     何を、言ってるんだ……?
 雅の顔を覗きこんだ時、琥珀は軽くそそけだった。
 今の状況からは考えられない、場違いな、子供のような笑顔を浮かべている。
「これから先も、ずっと雅だけって、約束して」
     そうか。
 眩暈がした。それを堪え、琥珀は雅の肩を抱いて立ち上がらせた。
「……雅、とにかく、病院へ、行こう」
「どうして?」
「お前は怪我をしてる……手当てをしないといけないだろ」
 それだけでなく、された行為に相応の検査を受けさせなければならない。
 すでに琥珀は、全てを自分が背負う覚悟を決めていた。
 室外に出ると、ユキッチが一人うつむいている。
 琥珀を認め、なんとも言えない眼をした男は、咥えていた煙草を吐き出した。
「俺、もう抜けるわ、ここ」
 煙草を踏みにじりながら、ユキッチは独り言のように呟いた。
「お前みたいに、格別マリアに気に入られてるってわけでもないしな。……難しいとは思うけど、お前もさっさと足洗ったほうがいいと思うぜ」
「どこか、病院、知ってないか」
 答えずに、琥珀は訊いた。
「闇か」
「……安心できる所でだ」
「知ってるよ。……でも、可哀想だな」
 室内に戻ると、雅はうつむいたまま、足をぶらぶらさせていた。
 その子供じみた仕草に驚きながら近づくと、無防備な笑顔が向けられる。
「雅、いいよ。行かない」
「……いかないって?」
「だってこんなの、パンソウコウ貼ってれば治るもん」
「……雅」
「それに、こんな時間だもん。ママが怒っちゃう。ね、琥珀、早く帰ろ」
「………」
「雅、早くおうちに帰りたい」
 ユキッチから聞かされた検査の様々が胸を苦くよぎり、琥珀には何も言えなくなっている。が、それでも    近いうちに、必ず検査は受けさせる必要がある。
 雅の前で膝をつき、琥珀はその手を握りしめた。
「帰ろう、でも、いつか俺と一緒に病院に行くって約束してくれないか」
「なんで?」
「…………」
 なんと答えればいいのだろう。
「……赤ちゃんが」
 その刹那、自分の喉から血を吐くかと思っていた。「できたかもしれないだろ」
「琥珀の? 琥珀の赤ちゃん?」
「……うん、そうだ」
 その刹那、雅の顔に浮かんだ迸るような歓喜を、どう表現したらいいのだろうか。琥珀はただ、打ちのめされていた。まだ十三歳の雅にそんな顔をさせた自分に、自分の嘘に。
「雅、産みたいな。だったらちゃんと病院にも行くよ!」
 うきうきと立ち上がる雅を見て、琥珀は初めて泣きそうになっていた。
 その感情をぎりぎりで堪え、肩を抱いた雅を促すようにして外に出る。
「病院って……」雅が、少し不安そうに見上げてくる。
「琥珀も一緒?」
「ああ、一緒だ」
「ずっと、一緒?」
「ずっと一緒だよ」
 絡んでくる手を、琥珀は優しく握り締めた。
 雅の記憶の中で、悪夢としかいいようがない行為の相手が、琥珀にすり替わっている。
 彼女にとって、とても幸福な出来事として残されている。
 でも、それを    どうして否定することが出来ただろう。 
 
 
 
 数日後の夜更け、部屋に忍んで来た雅を琥珀は拒むことができなかった。
「これは二人だけの秘密なの、私と琥珀が、こういう関係だってことは」
 雅は、琥珀の唇に指を当てて囁いた。
「あさちゃんにも、絶対に秘密。あさちゃん、琥珀のことが好きだから、可哀想だもの」
「あさちゃん……?」
「そう、あさちゃん。忘れちゃった?」
 そう言えば、あの日も雅は、瀬名あさとのことをそう呼んでいた。
 薄気味悪いものを見るような思いで、琥珀は改めて腕の中の女を見つめた。
 あの日から今日までの、悪夢としか思えない雅の変転ぶりが、改めて思い起こされる。
 母親の前でも、学校でも普段通りの雅は、琥珀と二人の時にだけ豹変する。幼くて頼りない、全てを琥珀に任せ切った子供になる。
 なにより理解しがたいのは、夜の行動を、昼間の雅は何一つ記憶していないようなのだ。……。
 祥子には    迷った末に、暴行の事実だけは伏せておくことにした。
 雅の夢だけは、壊してはならない。もし、祥子に打ち明けるとすれば、娘を壊した相手は、絶対に自分でなければならない。
 マリアをはじめ、あれほど執拗だった夜の仲間からの報復もなく、琥珀の周囲は、元の静けさを取り戻しつつあった。
 が……いずれは、雅を病院に連れていかなければならない。
 感染症の検査、……想像もしたくないが、妊娠の検査も、させておく必要がある。
     雅……。
「なぁに、琥珀?」
 何も言っていないのに、心を読まれたように見上げられる。
「なんでもない……好きだよ」
 胸が詰まるほどの罪悪感から、額に、そっと唇を寄せる。
「あさちゃんよりも?」
「ん?……ああ……」
 あさちゃんか。……昼間の雅は、決してそんな呼び方はしない。
 雅の頭を抱き寄せながら、琥珀は訊いた。
 いったい、ここにいる雅は、何者なんだろう。
「前も、そんな呼び方してた?」
「なんのこと?」
「瀬名のこと」
「うん、ずっと、最初、最初からよ!」
「………」
 甘い腕がからみついてくる。
「琥珀……もう一回、して」
 
 
 
「あ……、琥珀……」
 組み敷く腕の下で、呼吸を乱しながら、雅はあえぐように囁いた。
「あさちゃんに、近づかないで、お願い、あさちゃんのこと、好きにならないで」
「ならないよ」
 嘘ではなく、本心から出た言葉だった。
 ならないのではなく、なれない。
 どうすれば、これほど汚れてしまった自分が、あの汚れない少女の前に立つことができるのだろう。どんな目で彼女を見ればいいのだろう。
「本当? 本当ね」
 返事の代わりに、琥珀は、華奢な身体を抱きよせた。
「本当よ? 約束してね、絶対よ、絶対よ」
 雅はうわごとのように繰り返す。
「私、あさとを守りたいの、あさとを、ひどい目にあわせたくないの」
     ……?
 琥珀は視線を凝固させ、見上げる女の眼差しを受け止めた。
 気のせいだろうか、胸の中にいる女が、今、全く別人になったような気がする。
「守れるのは、私だけなの……」
 雅の瞳が膨れ上がり、大粒の涙が零れた。
「……雅」
 わけがわからないまま、胸が締め付けられるようになり、琥珀は涙を唇で吸った。初めて自分の中で、哀れさが愛しさに変わる。
「何から、守らないといけないんだ」
 哀しげに見上げる潤んだ瞳に、茶褐色の虹彩が揺れている。一瞬、美しさに吸い込まれそうになっている。
 その眼が、ふと、毒を含んだ笑みを浮かべたような気がした。
「……私自身からよ」
 
 
 
 
 そこで、目が覚めた。
 
 
 
 
 
  
   
 
 
 
 驚愕して跳ね起きた。
 今    今、俺は、誰を抱いていた?

 
 
 
 

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