5
アシュラルが社交界に唐突に姿を現してから、半年が経とうとしていた。
たった半年で、彼ほど多くの女性たちの心をつかみ、注目を集めた者は、後にも先にもいなかっただろう。
凛とした美しい身のこなし、知性を帯びた野生の眼差し、闊達な声音。
彼は精力的に夫人たちの招きに応じ、騎士たちの集いに姿を見せた。
例えば鷹狩りひとつにしても、カードゲームひとつにしても、彼の所作は洗練されており、大抵のことは如才なくやってのける。
ひやかし半分にアシュラルに挑んだ貴族たちは、大抵が恥をかいて引き下がることになった。
「あれが、噂の神童か」
アシュラルの人気が高まるほど、逆に反感を持つものが増えたのは、当然といえば当然だろう。
「法王の息子というが、実のところ養子らしい。ベリエール子爵の縁故だというぞ」
「所詮は、なりあがり者よ」
そんな陰口とも言える噂は、クシュリナの耳にも届くようになっていた。
けれど一番心が痛んだのは、彼の出自でも冷たさでもない。絶える事のない女性関係の噂だった。
さまざまな女性が、アシュラルの恋の相手と取沙汰されては消えていった。新しい噂が出るたびに、夫人たちの気の毒そうな視線が注がれるのは、常に幼いクシュリナだった。
(仕方がありませんわねぇ、お相手がまだ、あのように幼くていらっしゃるのだもの)
(アシュラルはまだ若い、若い頃は色々あるものだからね)
ハシェミでさえひどく寛大で、父がそうである以上、クシュリナにはどうすることもできなかった。
不思議なことに、アシュラルは他の女性に対してはひどく紳士的で、優しい笑顔さえ見せるのだ。
その一方で、婚約者には一瞥もくれない夜もある。
「お父様」
定例の舞踏会の夜、クシュリナは、たまりかねてハシェミに訴えた。
「私は、どうしてもあの方と結婚しなければならないのですか……!」
口に出してから、初めて熱いものが瞳を潤ませた。
どうしてこれほどまで恥をかかされて、黙っていなければならないのだろうか。
アシュラルの態度は、あからさまに私一人を無視しているというのに。
「クシュリナ……」
一瞬驚いた表情を見せたハシェミは、優しくクシュリナの髪をなでた。
「珍しいね。お前が誰かのことを、そんなに激しい感情で思うなんて」
「………」
激しい感情で……思う?
父の鷹揚さが理解できず、思わず抗議の眼差しを向けている。
「いいからお聞き。私はお前の、他人に対する柔らかな見方が大好きだよ。けれど、お前がいずれ女皇となるのなら、その性格は、必ずや命を奪う災いの種となるだろう」
「どういう意味なのですか」
不安にかられて問うと、父の眼差しが少しだけ厳しくなる。
「先の先まで見とおす目、あらゆる物事の真贋を見抜く皇帝としての目がお前にはない。……残念なことに、優しいお前にはそれは生涯無縁なものとなろう。が、お前にないものをアシュラルは持っているのだ」
皇帝としての、目……。
アシュラルが、持っている?
「同時にアシュラルにないものを、お前は持っているのだよ、クシュリナ」
ハシェミの目に、優しさが戻った。
「お前たちが互いを理解しあうには、多少の時間がかかるのだろうね。それもまた致し方あるまい。我慢おし、クシュリナ。お前たちはきっとよい夫婦になるのだから」
納得したわけではない。アシュラルと自分が判り合うなどあり得ないし、それが何かの救いになるとも思えない。
が、クシュリナは、それ以上何も言えなかった。
生まれてこの方、父に逆らったことはない。何も言えなくなるのだ 父の、悲しむ顔を想像するだけで。
その夜行われた、恒例の舞踏会でも、やはり一番の注目は、アシュラルだった。
アシュラルが今宵は誰と一番に踊るのか。それはもう紳士たちの賭け事の対象にまでなっている。
わずかに遅れて到着したアシュラルの出で立ちは、クシュリナでさえしばし見惚れてしまうほど、美しいものだった。
黒のリボンと羽飾りのついたつば広の帽子。首に巻いたレースのスカーフと固くしたボゥ。金の刺繍を施した長いケープと揃いの細身のコート。
女性たちは感嘆の眼差しをアシュラルに送り、広間には尽きぬ溜息が幾つももれる。
いつものように、クシュリナの前を素通りして、アシュラルは広間の中央へ向かう。
いつものように、誰もがその行く手を見守っている。
さぁ 今宵は誰が、最初に彼に踊りを申し込まれる幸運を手にいれるのか。
「アシュラル様」
と、突然、彼の前に立ちふさがる者がいた。
「アシュラル様、私と踊ってくださいませんか!」
まだ、アシュラルの半分の背丈しかない少女である。
サランナ。
クシュリナは驚いて、一瞬立ちあがりかけていた。
ひとつ年下の妹サランナは、まだ正式に社交界にお披露目されていない。
第二皇女の彼女は、クシュリナと違って、舞踏会に顔を出す必要もないから、今夜が初めての登場である。
母のアデラが用意したのだろう。カナリア色のフリルとリボンがついたシルクのドレス。花飾りのついたガウンが、柔らかく背中を覆っている。
「まぁ!」
「なんて、お可愛らしい」
広間のあちこちから、感嘆の声があがった。
まるで天使が絵本から抜け出てきたようだった。愛らしい小さな顔に、目だけが大きく、きらきらと輝いている。
本当に、可愛い……。
クシュリナもそう思った。黄薔薇宮殿に住むサランナとは、姉妹であっても殆ど会うことがない。あらためて妹の姿を見たのは、随分久しぶりになる。
「……君は、誰?」
アシュラルは、珍しく戸惑った顔をしていた。
「アシュラル、私の娘のサランナです」
そう言って、ゆったりと二人に近づいてきたのはアデラだった。
礼宮アデラ。とりたてて目立つ容姿を持つ女性ではないが、イヌルダ二十七代目の女皇である。小さな冠を拝した姿は、その場の誰をも威圧するような趣がある。
皇位第二継承者だったアデラは、姉の急逝により、女皇となった。その時点で姉の子であるクシュリナがもう少し大きければ、継承するのはクシュリナの方だったろう。
そこにも、様々な宮廷の力関係が働いたのだ。アデラが皇位につく条件が、姉の夫ハシェミとの再婚だった。が、結局ハシェミとアデラは不仲なまま、それぞれが溺愛する娘を擁し、静かな争いを繰り広げている。
アデラは、峻厳な唇を緩め、珍しく懇願するような眼でアシュラルを見上げた。
「まだほんの子供だけれど、どうしてもあなたと踊りたいと言って聞かないの。お遊びと思って、相手をしてやってくれないかしら」
「喜んで」
アシュラルは微笑して帽子を取ると、腰をかがめた。
「では、サランナ様」
優雅な仕草で小さな手を取る。「私でよければ、お相手いたします」
「嬉しいわ、アシュラル様」
サランナのあどけない声が響いた。そしてサランナは、アシュラルの腰に抱きついた。
さしものアシュラルも、意表を衝かれたのか驚いている。
「私、あなたに、ずっと憧れていたの!」
夫人たちの失笑が漏れる。
「まぁ……」
「本当に、愛らしいお姫様だこと」
「アシュラル様のあんなお顔、私、初めて見ましたわ」
「存外、可愛らしいところもおありなのね」
クシュリナは、どうして自分がこんなに苦痛を感じているのか、理解できなかった。
黙って座っていることすら、苦しい気がする。
アシュラルの態度の意味することを、クシュリナは自分なりに理解していた。
つまるところ、アシュラルは、この婚約に不服なのだ。
「クシュリナ様」
背後で、囁く声がした。
ようやく我にかえって、クシュリナは振り返る。
膝をついているのは、ラッセルだった。
「ラッセル……」
ヴェルツ公爵家での事件以来、獅子堂ラッセルが、急きょクシュリナの傍に付き従うこととなった。
すでにラッセルは見習から昇格し、騎士の称号を手にしていた。が、むろん、パシクの中では飛びぬけて若輩には違いない。なのに青百合第一騎士に任じられたラッセルのことは、「あれはよほどハシェミ公に信頼されているのだろう」と誰もが不審がって噂をしている。
近衛青百合隊の紋章が入った隊服と、前ボタン留めの銀灰のクロークは、すらりとした彼の長身によく似合っている。
膝をついたまま、ラッセルは静かに続けた。
「あちらに、ダンロビン様が」
さっとクシュリナは緊張した。
視線を向けると、ダンロビンがこちらにゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
お父様は いない。広間で、踊りの輪に加わっている。
ダンロビンとは、あれから何度か金羽宮の舞踏会で同席した。しかし、クシュリナは意識して顔を見ないようにしていたし、ダンロビンもさすがに気まずいのか、顔を合わせるのを避けている風で、実際は会っていないも同然だった。
色白の茫洋な顔、赤い肉厚の唇。
あの……息遣い。思い出すだけでぞっとする。
「クシュリナ様、お久しぶりでございます」
が、今夜はどいうった風の吹きまわしなのか、ダンロビンは平然とクシュリナの前に膝をついた。
不思議な余裕に満ちたその眼差しを、クシュリナは嫌悪をこらえながら見下ろしている。
折しも円舞曲が始まる前、サロンには女官たちしかいなかったが、背後にはラッセルが控えている。
「どうですか。幼き姫はまだ踊りに加わってはいけないとお聞きしておりましたが、妹君があのようにして踊っておられるのですから」
まさか、踊りを申し込んでいるのだろうか。黙っていると、それをどう解したか、ダンロビンはクシュリナの隣に腰を下ろした。
「よいことをお教えしましょう」
この短い間に何があったのか、以前とは見違えるほどふてぶてしくなった少年は、不思議な微笑を厚みのある唇に浮かべた。
「クシュリナ様。いずれ判ると思いますが、これは、あなたの身を思うが故の親切から言っていることなのです。私の父の申し出は、あなたにとっては、なによりの救いとなるでしょう」
なんの話だろう。 。
膝のほうに手が延ばされる。クシュリナは驚いて立ち上がっていた。
「何故、お逃げに?」
ダンロビンは不思議そうな眼になる。
「あなたは、私がお嫌いではないはずでしょう。だって……もう、お忘れですか」
「……忘れる……?」
呆然と呟くと、にやりと、ダンロビンは野卑な笑い方をしてみせた。
「あなたには、いずれかの後ろ盾が必要なのです。クシュリナ様とサランナ様、より強い力を手に入れたほうが、次期皇位継承者となるでしょう。……ハシェミ公は読み違えられた。その相手は、法王の、ならずものの息子などではないのです」
ようやく、ダンロビンの言いたいことが半分、クシュリナの胸の中に落ちてきた。
「幸いにして」こほん、と半分大人になりかけの少年は咳き込んだ。
「もう……お分かりかと存じます。私がお助けしたいのは、あなたなのです。クシュリナ様」
誇らしげな声だった。その刹那、かーっとクシュリナの全身が熱くなった。
この人は……私のことを……そんな風に見ていたのだ……。それも……何もかも、……私があの日、抵抗さえせずに言いなりになってしまったから。……
あの日の屈辱、吐き気のするような薄気味悪さ。
「クシュリナ様?」
さっときびすを返した時、円舞曲が始まった。
広間の中心には、笑顔のサランナと、その手を優しくとっているアシュラルの姿がある。
「お待ちを!」
ラッセルが低く、だが鋭く呼び止めた。
クシュリナは振り向かなかった。何を勘違いしたのか差し出されたダンロビンの腕を強く払って、そのまま逃げるように広間を飛び出していた。
6
「広間に、お戻りにならなければ」
背後に立つ、ラッセルの声は冷静だった。
風が少し冷たい。クシュリナは無言で、腰掛けた長椅子の手すりを見つめていた。
金羽宮本殿の中庭には、季節の花々と共に様々な建造物がある。
巨大なロトンダ、ガラス張りの温室、壮麗な噴水……。それらが、広大な敷地の中に、美しく配置されている。
ロトンダの一つに辿りついたクシュリナの前には、せせらぎのような水が流れており、それは、積青湾から引かれた人工の湖に繋がっていた。
広間の灯りも喧騒も、ここまでは届かない。
「姫様……このような場所に長居されれば、お風邪をお召しになってしまいます」
「………」
昼間の散歩でも、これほど遠くまで出てきてしまったことはない。なのに、恐ろしさも不安も、何一つ感じることなく、クシュリナは無言で椅子に座り続けていた。
広間を飛び出したクシュリナを、沢山の女官や侍女たちが大慌てで追って来たのを覚えている。
が、庭に飛び出してみると、後をついてきたのはラッセル一人だった。理由は、漠然と理解できた。ハシェミがそうさせたのだろう。騒ぎを大きくしないために。
「姫様が理由もなくご不在とあらば、ハシェミ公もご心配されるでしょう。円舞曲が終わるまでに、お席にお戻りくださいませ」
「………」
この人も、所詮、父の使う手足のひとつにすぎないのだ……。
ふと、失望を感じ、クシュリナはラッセルの眼差しから眼を逸らした。
彼が第一騎士として青百合宮殿に詰めるようになってから何日も経つが、最初抱いた温かな印象はかき消えて、ただ無口で、生真面目な人だという印象だけが、今のラッセルの全てだった。
元来が冷静な性質なのか、何が起ころうと顔色ひとつ変えることがない。私事は一切語らず、オルドにいる間は笑うこともない。何を問っても、いつも……決まり切った言葉しか返されない。
真面目で忠実な人だというのはよく判った。ただし、その忠実さはクシュリナにではなく、彼をこの任につけたハシェミに向けられているような気がする。
つまるところラッセルは、ハシェミの代わりに、常時クシュリナを見張っているにすぎないのだ。
「……わかりました、戻ります」
冷えていく気持を堪え、クシュリナは立ちあがった。「ごめんなさい、迷惑をかけて」
結局は、戻るしかない。最初から判っている。ささやかな反乱など、この程度で終わるのだ。……何があろうと、父に逆らうことなどできるはずがないのだから。
「では」
ラッセルが、手を差し出す。
それを、わざと無視して、クシュリナは歩き出した。
ハシェミのお気に入りの近衛騎士。決して父に向けられない憤りを、八つ当たりと判っていても、ぶつける相手はラッセルしかいない。
嫌いだわ、ラッセルなんて。
初めて会った時、確かに彼に、他の人にはない温かな何かを感じた。それだけに、今はそう思えた自分が腹立たしい。
甘い声が聞こえたのはその時だった。
「で、あなたは結局、姉と妹のどちらを選ぶの?」
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