「ラッセル」
 ハシェミの声が聞こえたと同時に、肩を抱いていた手が、すっと離れた。
 クシュリナは動悸を感じながら、体制を立て直し、振り返る。
 いかにも真新しい近衛隊(パシク)の隊服を身につけた青年が、控え目に視線を下げて立っていた。騎士見習いが身につける夜緑色の短いクローク。肩までの、柔らかそうな黒髪が、形良い額を覆っている。
「そこにいたのか、ラッセル。姿が見えないのでもう一度呼びに行かそうと思っていたところだ」
 上機嫌な笑みを浮かべ、ハシェミが席に戻ってくる。
 ラッセルと呼ばれた青年は、クシュリナを支えたことなどおくびにも出さない静かさで、腕を胸にあて、臣下の礼をとった。
「クシュリナ、紹介しよう」
 笑顔のまま、ハシェミは続けた。「この度、パシクに新しく入ったラッセルだ。今はまだ見習いの身分だが、いずれは青百合第一騎士として、お前の傍に置こうと思っている」
 前に出たラッセルは、クシュリナの前にひざまづくと、綺麗に澄んだ目を上げた。
「獅子堂ラッセル、と申します」 
 助けられた礼を言おうとしたクシュリナは、その瞬間、笑顔がわずかに強張るのを感じた。
 気のせいだろうか。    先ほど見たアシュラルに感じが似ている。
 骨格か、体型か、それらを総じた印象か。それとも、男性にしては整いすぎた目鼻立ちが、そう思わせるのだろうか。
 が、その錯覚にも似た印象は、一瞬でかききえた。
 穏やかな光を抱いた眼差しも、柔らかく引き結ばれた唇も、全てがアシュラルとは似ても似つかない。繊細な、    女性にしたらいかにも美しくなりそうな、優雅で穏やかな顔だちをしている。
「このたび、パシクの騎士見習として、本殿勤務にあたらせていただくことになりました。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
 柔らかくて低い、けれど、よく通る声だった。
 顔をあげたラッセルは、わずかだが唇に微笑を浮かべた。それは淡雪が溶けるほどに儚い微笑だったが、不思議な温かさをクシュリナの胸に残した。
「この男は、いずれ、お前の生涯の盾となろう」
 ハシェミは、立ち上がったラッセルの肩に手を置いた。
「ラッセルはアシュラルと同年で、同じカタリナ修道院の出身だ。カタリナのことは、以前、お前にも話したね」
 クシュリナは頷いた。
 法王庁に属するカタリナ修道院は、その高名をイヌルダ内外に広く知られ、国外からも貴族の子息がこぞっておしかける名門である。
 シーニュの森の向こう、法王領に存在するその修道院のことは、最近になって父の口から聞かされたばかりだった。
「カタリナ修道院は我々貴族のあるべき姿……この国の行く末を示してくれる、とても貴重な学び舎だ。私はいずれ、カタリナ出身者で、このイヌルダを動かしていければいいと、切に思っているのだよ」
 言葉を切り、ハシェミはラッセルを振り返った。
「クシュリナは、いずれ女皇になるばかりでなく、シュミラクール界において欠かすことのできぬ大切な存在になるであろう。ラッセル、誓え。お前の命にかけて、何があってもこの姫を護り通すと」
 ラッセルは、静かな所作で剣を抜きはらい、胸に掲げて膝をついた。
「身命にかえましても、この先姫様をお守りし、生涯背かず、お仕えすることをお誓い申し上げます」
 生涯   
 先ほどのアシュラルとも、生涯の縁になるのなら、わずかの差で出会ったこのラッセルとも、生涯の縁になるのだろうか。
「一日も早く」
 そのままの姿勢で、ラッセルは続けた。
「精進鍛錬し、姫様のお傍にお仕えするとお約束いたします」
 優しく、温かな声だった。
「お待ち、しています」
 クシュリナは小さく答え、同じくらい小さく微笑んだ。
 さきほど、突き放したように「お早い成長をお待ちしております」と言い捨てたアシュラルとは、全てが正反対だと思った。
 闇と光、寒風と温かな陽射し、わずかな時間差で、こうも正反対の人と出会った不思議さと皮肉に、クシュリナはふと、あり得ないことを想像している。
 もし、この人が、私の婚約者だったなら。
 アシュラルとではなく、この人との縁がそのような形で結ばれていたら。   
 やがて、その想像の馬鹿馬鹿しさに、クシュリナはかすかな溜息をもらす。
 片や名門一族の嫡男で、片や素性さえ明かされなかった見習い騎士。天と地ほど違う身分。あり得ないどころか、想像するだけで罪になるということは承知している。
 それでも、アシュラルと結婚するよりは、数倍幸せになれるような気がした。
 
 
                  
 
 
 コンスタンティノ家のアシュラルは、その夜以来、社交界に頻繁に顔を出すようになった。
(大僧正様は、社交界嫌いで有名だったが、息子はそうでもないらしい)
(とりつくしまもない美男子だが、ああみえて、なかなか気さくなところがあるお方だよ)
    とにかく、惚れ惚れするほどダンスがお上手な方ですわ。まだお若いくせに、妙に婦人の扱いに慣れてらっしゃるし)
 アシュラルの話題や噂は連日のように囁かれ、彼はすぐに、婦人たちから一番注目を集める存在になった。
 名のある諸侯はこぞって彼を夜会に招き、夫人や娘たちは、誰でも彼と踊りたがった。
(それにしても、ハシェミ公も、思いきったことを)
(まさか、長年犬猿の仲だった法王家と婚姻を結ぶおつもりだったとは……)
    ご婚約については、アデラ女皇が、かなりの難色を示されたようですけど、ハシェミ様が強引に押し切られたとか)
 クシュリナとアシュラルとの婚約に関しても、さまざまな噂が入り乱れて飛び交っていた。
 好むと好まざるに関わらず、クシュリナの耳にも、それは否応なしに入ってくる。
 誰もが法王庁と皇室、そして諸侯の力関係がこの婚約でどう変わるのか    そのことを懸念しつつ、けれど、最後には同じ台詞を口にするのだった。
「あのような立派な殿方とご結婚できるクシュリナ様は、本当にお幸せですね」
 クシュリナは、笑顔でそれに頷かなければならなかった。
 
 
「ご婚約、おめでとうございます」
 目の覚めるような宝石と、金銀真珠が煌くような、絢爛豪華な衣装の数々。
 応接間に並べられた数々の贈り物の前で、奥洲公薬師寺ヴェルツはうやうやしく頭を下げた。
「本日は、よく、お招きに応じていただきました。ここにある贈り物は、今日にでも金羽宮に送らせようと、用意をさせていたものばかり」
 クシュリナとアシュラルの婚約が発表されてから、二ヶ月が過ぎようとしていた。
 その日、侯爵自身も嫌味まじりに口にしたように、まさに再三の招きに応じ、ハシェミとクシュリナは、皇都内にあるヴェルツ公爵の別邸を訪れていた。
 ヴェルツ公爵    五公の一人で、イヌルダ最大の領地と私兵を持つ大諸侯である。
 別邸と言っても、潤沢な領地と資産を持つヴェルツのそれは、金羽宮に匹敵するほど豪奢で贅沢なものである。実際内装の贅沢さは、金羽宮が貧相に思えるほどで、今のヴェルツの権勢を物語っているようだった。
 ヴェルツは、クシュリナを見おろし、強面の顔に微笑を浮かべた。
 クシュリナは、この男が、昔から苦手だった。
 太い首と逞しい体躯には、立っているだけで他者を威圧するような迫力がある。黒々とした総髪、広い額には野生の鳥のような鋭い三白眼、太い眉は猛々しく跳ね上がっている。
 痩身で、見るからに優しげな風貌のハシェミと並び立つと、どちらが上の立場なのかわからない。
 実際    ヴェルツの態度はいつも轟然として、明らかにハシェミを侮辱している風だった。
 金羽宮の行事には殆ど参加しないくせに、自家で催す行事には執拗にクシュリナとハシェミを招きたがるのも、その顕れなのかもしれない。
「ありがとう、ヴェルツ公爵。姫はまだ幼いゆえ、実際の婚礼はまだまだ先のことになろうがね」
 ハシェミは穏やかにそう言ったが、度を越した贈り物の山に、多少戸惑っているようでもあった。
「それにしても、随分、ご婚約の発表をお急ぎになられたようですな」
 軽く咳払いして、ヴェルツは言った。クシュリナにも判るほど、それは皮肉めいた口調だった。
「ダンロビン、こちらへ」
 ヴェルツの呼びかけに応じ、侯爵の背後に控えていた者の中から、一人の少年が前へ出てきた。
「私の不肖の息子、ダンロビンでございます。陛下、当年もって、十四歳になりました」
「ダンロビンでございます」
 すらりとした少年は優しげな口調で言った。
 色白で、肉厚の唇。瞳はどこか茫洋としていて、ヴェルツ夫人エレオノラの容姿を生き写しにしたような面立ちをしている。
 一見柔らかそうな印象だが、よく見ると感情の捕らえにくい、表情の乏しい目をしている。それだけが    父親のヴェルツ公爵に良く似ている、とクシュリナは思った。
「こちらの品々は、ダンロビンの見たてで諸国から集めさせました。当代もって、これほどの逸品はないという品物ばかりでございます」
 ヴェルツはそう言って、クシュリナの方を見る。
 これは   
 クシュリナは少し慌てた。
 何か、言わなければいけないということなのだろう。昔から、クシュリナは装飾品にさほど興味がなく、目の前に並べられた品々の価値も、いまひとつ胸に響いてこない。
「本当に、素晴らしいものばかりで、驚いております」他に何と言っていいのか判らないまま、精一杯の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ダンロビン様」
 笑顔のままでそう言うと、ダンロビンののっぺりとした顔に、初めてわずかな赤みが挿した。
 笑うと、    案外可愛い人かもしれない。
 年の近い分、クシュリナは彼に親近感を覚えた。
「このダンロビンは」
 ヴェルツは腕を組み、少し大げさとも思えるため息を吐いた。
「ずっと、クシュリナ様とのご結婚を信じておりました。それもそうでございましょう。年齢的にも、身分でいっても、このダンロビンを置いて、姫様の婚姻相手はいないと思うのが当然ですから! 幼い頃から姫様に恋焦がれてきた    私は、この息子が不憫で不憫でなりません!」
     えっ……。
 ヴェルツが嘆く意味が、すぐには伝わってこない。
 クシュリナは不思議な気持ちで、ダンロビンを見る。
 彼はますます顔を赤らめ、睫の長い、女性的な目を伏せた。
「ヴェルツ、その話なら」
「いいえ、ハシェミ公」
 ヴェルツは鋭く遮った。
「公がなんと仰られようと、私は、今日、最後の談判のつもりで公をお招きしたのでございますよ」
 そう言ってヴェルツは、じろり、と威嚇するような目で睨みつける。
 クシュリナは嫌な気持ちになった。どうして父は    いつも、ヴェルツ公爵に遠慮がちなのだろう。
 ハシェミは五公の一人と言えども、女皇の夫であり、皇都を統べる金羽宮の主である。もっと毅然と振る舞ってもいいはずなのに。
「そもそも、時期女皇の婚姻は、五公と諮って決定するのが慣例でございます。公は、その慣例を無視なされた」
「無視したつもりはない、十分に理解は得たつもりだ」
「私は常々申し上げていたはずでございます。法王庁に必要以上の力を与えるのは、シュミラクールにとって忌むべき事態になりかねないと」
「ヴェルツ」
「確かに女皇の婚約も結婚も、法王の許可無くしては成り立ちません。だからといって、己の息子を女皇の婚約者に推挙するなどと……。これは法王庁の、越権行為に他ならない」
 ヴェルツは、黒い怒りを強面の相貌ににじませた。
「信仰を糧としている者に権力を持たせてはなりません。現に何百年か前は、マリスの邪教がはこびり、世界は恐慌に陥ったというではございませんか。再びあの惨禍をシュミラクールもたらそうというのですか。ただでさえ、忌獣が諸国に蔓延し、皇室が力を失いつつあるというのに」
「ヴェルツ!」
 ハシェミが、初めて大きな声を出した。
「姫の前だ、政治の話は、別室で聞こう」
「では、向こうへ」
 ヴェルツはむしろ、得たり、と言う顔で頷いた。
「そうそう、クシュリナ姫は、ダンロビンに相手をさせましょう」
 振り向いたハシェミが、一瞬、不安そうな眼でクシュリナを見つめる。
     なんだろう。
 父の表情が、わけもなくクシュリナの胸をざわつかせる。
「クシュリナ」
 歩み寄ったハシェミが、膝をついて囁いた。
「決して、供の者から、離れてはいけないよ」
 父の言わんとしていることが判らないまま、クシュリナはこっくりと頷いた。
 優しくて寂しい父の、悲しげな顔は見たくはない。いつものように、ただクシュリナは父を安心させたかった。
 
 
               
 
 
 「私が、邸内を案内いたします」
 そう言ったきり、隣に並んで立っているダンロビンは押し黙ったままだった。
 実際、先に立ってあれこれ邸内の紹介をしてくれたのは老齢の侍従で、おそらくヴェルツ公爵家の執事か何かなのだろう。
 クシュリナの背後には、青百合宮殿の侍従と女官たちがついている。彼らは行列のようにぞろぞろと行進し、ヴェルツ公爵邸を見て回った。
 回廊、広間、食堂、撞球室、どの部屋も見事な造りで、あらゆる贅沢を尽くしている。
 時折執事がダンロビンに話を振り、彼は、ああ、とか、うん、とか、手短にそれに相槌を打っていた。
 クシュリナの眼から見ても、ダンロビンの態度はどこかぼんやりとしていて、全てに上の空のような感じがした。
 しかも、一度もクシュリナと眼を合わそうとしない。
     お話するのが、苦手な方なのかもしない。
 クシュリナはそう思い、彼のことは、気にしないようにした。
「こちらが、書斎でございます」
「すごい」
 重々しく扉が開かれた時、それまで少なからず憂鬱だったクシュリナは、思わず感嘆の声を上げていた。
 天井まで、ぎっしりと埋め尽された本、本、本    珍しい色の表紙は、おそらく異国のものだろう。
 金羽宮の書斎には、他国の蔵書は余り収集されてはいない。そのもの珍しさに夢中になって、クシュリナは、色とりどりの本の背表紙を、目で追った。
「お好きなら、ご自由に見られてください」
 ダンロビンが、珍しく、ああ、とか、うん、以外の言葉を言った。
「よろしいのですか」
「私も、本が好きですから」
 彼は手を伸ばし、棚をいちいち指し示した。
「こちらがゼウスから取り寄せた蔵書、あちらがタイランドの歴史書です」
 ダンロビンは少し逡巡して、高い棚にある一冊の本を抜き出した。
 クシュリナは、ダンロビンから手渡された本を手に取ると、どきどきしながら表紙を開けた。鮮やかな色彩で、美しい異国の騎士が描かれている。
 白銀の鎧、艶めく黒髪、鋭い眼差しに、紅く引き締まった唇。
「この人……」
「え?」
「いいえ」
 嫌な偶然だが、アシュラルによく似ている、とクシュリナは思った。
 実際アシュラルは、この絵のような、どこか作り物じみた顔をしている。
 クシュリナはページを捲った。細かな字は、何処の言語なのか、ところどころが読み取れない。
 美しい挿絵を探して、ぱらぱらとページを手繰る。
「……?」
 いきなり鮮やかに目に飛びこんできたのは、裸の人の姿だった。男と女。複雑に絡まった四本の手足。
     何、これ……。
 意味はよくわからない。でも、見てはならないものを、見てしまったような不快さがこみあげる。
 嫌な気持ちになって、クシュリナは急いで本を閉じた。
「……私、そろそろ戻りませんと」
 ふいに、日が翳ったのか、室内が薄暗くなった。
「……姫は、私よりまだお若くていらっしゃるのに」
 仰いだダンロビンの顔が、夕陽で逆光になっている。 
 振り返ると、入ってきた扉は隙間なく閉ざされていた。
 あれほど沢山ついて来ていたはずの侍従は、一人もいなくなっている。
「もう、ご婚約されている。私はまだ、婚約者を持ちません」
 優しい声、なのに得体の知れない薄気味悪さを感じて、クシュリナは後ろに一歩引いていた。
「父が決めたことですから」
 粟立つ気持ちを押さえて、それだけを答える。
 ダンロビンが歩み寄る。    言いようのない不安を感じながらも、それでも、まだクシュリナは、どこかで彼に気を許していた。
 自分も、この少年も、まだまだ子供なのだ、という気安さがあった。
「姫は、結婚するとは、どのようなことかお判りか」
 もう一歩。
 クシュリナは驚いて、あからさまに後退した。父以外で、こんなにも、誰かに近く寄られたのは初めてだ。
「あの、私、そろそろ」
 とん、と膝の裏が何かにあたった。その途端、ダンロビンが距離を詰めてきたので、クシュリナは勢いあまって、背後によろめいている。
 足が当たったのは、緋色の長椅子で、気がつけば、ふわりとした羽毛の上に腰を落としてしまっている。
 慌てて顔をあげた途端、湿った暖かい手が、薄いシルクドレス越しに両肩に触れた。
 あまりにも近くに寄せられた顔。少し乱れた息遣い。
 その時初めて、クシュリナはダンロビンに恐怖を感じた。
「結婚すると、男と女は何をするか、姫はおわかりか?」
「………」
 声が、出ない。
 叫んだところで、誰か来てくれるのだろうか。
 お父様は。   
「私は知っている。お教えしましょう。……何、恐ろしいのははじめだけです。目をつむっていればいい、そう」
 柔らかく、椅子の上に押し倒される。
     ここで騒いだり泣いたりすると、お父さまに叱られる……。
 重たくのしかかる熱い身体。
 声さえも立てられず、クシュリナは顔にかかる息に耐え兼ね、顔を逸らした。
     どうしよう。
 怖さというより、ぞっとするような嫌悪感で、手も足も、動かない。
 いやだ、怖い。
 この人は何をするつもりなんだろう。
「さぁ、身体の力を抜いて」
 さすがにクシュリナは驚愕した。ダンロビンの汗ばんだ手が、肩を覆う袖を引き下ろそうとしている。
「いや……っ」
 ようやく、か細い声が出た。同時に、眩暈がして、目の前が暗くなる。
「お静かに、大丈夫ですから」
 抵抗は、思わぬ力であっさりと遮られる。腕を掴む凶暴な力に、クシュリナは震えながら眼を固く閉じた。
 助けて    助けて、お父さま!
「そう……大人しくされていたら、すぐに」
 どん、と、身体の上で何かが激しく揺れるのが判った。
 重いものが床に落ちる気配がして、急に身体が軽くなる。
「……?」
 何が起こったのか、判らなかった。
 ゆるゆると目を開けた視界に、ダンロビンより、はるかに長身の人が立っていた。
「……いつまで、そうしてるつもりなんだ」
 唐突に浴びせられた、冷たい声。
 愕然として顔をあげ、クシュリナはそのまま動けなくなった。
     どうして、今、この人がここにいるのだろう。
 アシュラル。
 聖将院アシュラル。
 白いチェニックに黒のブリーチ。皮のロングブーツ。ひどく、くつろいだ態度で、悠然とクシュリナを見下ろしている。
 アシュラルはかすかに眼をすがめ、吐き捨てるような口調で言った。
「さっさとここを出ろ。侍従には、こいつは急に癇癪を起して倒れたとでも言っておけ」
 アシュラルの足元に、ダンロビンがうつ伏せになって倒れている。
 クシュリナは慌てて立ちあがった。恥ずかしさと怒りで、身体が震え、今にも涙が出そうだった。
 自分を見下ろす婚約者の目に、あからさまな軽蔑の色がある。まるで、汚れたものでも見るかのような、一片のいたわりもない冷酷な眼をしている。
 けれど、確かに今、自分を助けてくれたのは、この    殆ど口を聞いたことのない、年上の男なのだ。
 震える指で衣服を整えたクシュリナに、アシュラルは静かに歩み寄ってきた。
 綺麗な黒髪が、乱れて額に零れている。大きくはだけた襟元から、滑らかな素肌がのぞいていた。
 普段の     一部の隙もない彼とは、どこか違って見えた。
「いいか」
 アシュラルは、クシュリナの横で足を止めた。
 彼の首筋あたりから、ふわっと甘い香りがして、一瞬漂い儚く消えた。
 耳元で、低く囁く声。
「誰にも言うなよ」
 そのまま、すっと、彼は通りすぎた。
 クシュリナは、しばらく呆然としてから振り返った。
     彼は、
 一体、いつから、この部屋にいたんだろう。
 扉の閉まる音がした。
 クシュリナが入った扉とは、また、別の方角に通じる扉だった。
 
  
 その日、ヴェルツ邸の書斎で起きた出来事を、クシュリナは誰にも言わなかった。
 しかし、ハシェミを始め、当日侍従として同行した者たちは、空白の時間にあったであろう何事かを、ある程度察していたようだった。
 ヴェルツ邸からの帰り際、
「ああいうことをしていただいては、困る」
 クシュリナに付き添う侍従を遠ざけたことを、ハシェミはヴェルツにやんわりと抗議していた。
「ご心配は無用、私どもの屋敷は、皇都で一番安全な場所ですからな」
 ヴェルツはただ、笑うだけだった。
 クシュリナは、ただ、考えていた。
 あの場所に、アシュラルが突然現れた意味を。


 
 
 
 
 
 
 

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