第三章 夢の中の記憶
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「こいつ、こはくって言うんだ、こはく」
「コーハク?」
「親が年末にエッチしてできたとか」
「ぶっ、ありえねー」
輪になっていた少年たちの間から、冷やかしのような笑い声が響いた。
うるさいな。
琥珀は、目まぐるしく変わる画面から目を逸らして立ち上がった。
「え、やめんの」
「これって、最高得点じゃん? な、な、俺が続けちゃってもいい?」
「勝手にしろ」
店内にはがなりたてるような音楽が溢れている。
渋谷の雑居ビル、地下にあるクラブに琥珀が足を踏み入れたのは、些細な偶然がきっかけだった。
狭いフロアでは、奇抜ななりをした若い男女が踊り狂っている。玩具みたいなステージでは曲がりなりにもMCがいて、わけのわからない英語で喚いている。半数近くが、妙に据わった目をしている。もうすっかり見慣れてしまった。ジャンキーどもの眼差しだ。
腰を下ろしたボックス席に、いつの間にか数人の男女が集まっていた。
「お前、中坊ってマジ? こないだヤスが噂してたけど」
「嘘だろー こんなでかくて中学生?」
「ヤスが言うには、こいつの名前が、昔の新聞に出てたんだって。珍しい名前だろ、苗字も下も」
「マジでぇぇ? つか、なにやっちまったの、琥珀クン」
アルコールと煙草でべたべたする空気。騒がしいだけの音楽の洪水。
頭痛がする、苛々する。そもそもなんで、俺はこんな場所にいるんだろう。
「おい!」
鋭い悪意がこもった声がした。同時に、体の右半分に獰猛な衝撃を感じ、琥珀は椅子から弾き飛ばされていた。
テーブルが倒れ、グラスが弾けた。煙草の灰が舞い上がる。
「きゃーっっ」
「うわっ」
周囲から悲鳴と驚声が上がり、すぐに水を打ったように静かになる。
馬鹿げた音楽だけが響いている。琥珀は血と一緒に唾を吐きだし、顔を上げた。
「てめぇかよ、最近、俺の女の周りをウロウロしてんのは」
ひょろりとした長身が、黒光りするバットを肩に引っかけるようして立っていた。
逆立った銀の髪、真っ黒な唇。目は真っ白で……おそらくカラーコンタクトだろうが、あたかも、死魚のように感情が欠落している。
ぞっとするようなデス・マスクは、この界隈では恐れられている「顔」だった。
愛称は「クロ」。新入りの琥珀が、実際に目にするのは初めてだ。
「だらしねぇなァ……でけェのは、図体だけかよ」
くくくっと、クロは笑った。真っ白い眼が、禍々しい魔のように、頭上から琥珀を見下ろしている。じゃらっと、痩せた腰にぶら下がっている鎖が鳴った。
カラコンの下には、おそらくいかれた目が隠れているに違いない。へらっと口元をゆるめて笑うクロの表情は、完全にトランス状態のそれである。
「俺の女って?」
立ち上がりながら、琥珀は言った。立てば、逆に男を見下ろしている。「もしかして、マリアのことかよ」
「って、それ俺に聞いてんのかァ? もしかして」
白眼の男は気が抜けたような笑いを漏らし、いきなりパットを叩きおろした。
寸での所で琥珀は避ける。木製のテーブルが、目の前でへしゃげて、砕けた。
「きゃあっ」
「よせよ、クロ!」
クロは凶器のような笑顔になって、再びバットを振り上げる。
喧噪と悲鳴が巻き起こる。が、こんな光景も日常茶飯事なのか、店の者が止めに入る気配はない。
「ほらほらほら、怖えェだろ、だったらネズミみたいに這い回って逃げてみろよォ!」
いかれてんな。
琥珀は、不思議なくらい冷静に、目の前の男を観察していた。
年は、そんなにいってない。線の細さは痩せているからではなく、まだ身体が未完成だからだ。ただ白眼だけが、みせかけでない本当の狂気を孕んでいる。
「あぶねぇぞ、琥珀!」
琥珀は、よけなかった。その代わり、頭上に振り下ろされたバットを掴んだ。
骨と鉄がぶつかりあう音がしたが、衝撃はさほどではない。
顔を赤くしたクロが、「うう」と唸る。琥珀は軽々とバットを捻じり取り、投げ捨てると同時に、クロの腹に最初されたと同じ程度の蹴りを叩きこんだ。
「がっ……、ぎゃっ」
奇妙な唸り声をあげ、それでもまだ、追いすがろうと身を乗り出してくる。
琥珀は壊れたテーブルの天板を持ち上げ、クロの頭に横殴りに叩きつけた。
「琥珀、よせ」
「やめろって!」
自分の中の、箍にも似た部分が弾け飛ぶのが琥珀には判った。
突き上げるような凶暴な気持ちが、頭の芯に燻っている。
「てめェ……」
よろよろと起きあがったクロが、歯軋りし、折れたテーブルの脚を掴む。「殺すぞォ、マジでェ」
「やってみろ」
剣道で名が知られるようになってから、色んな奴と闘ってきた。
この手の手合いは、二度と立ち上がれなくなるまで叩きのめす他ないことを、琥珀はよく知っている。
「琥珀」
甘えた声が、背中から抱きすくめてくる。
琥珀はわずかに眉を寄せ、しがみつく身体を押し戻した。
「相変わらず、冷たいね」
独特な甘いしゃがれ声は、琥珀のそんな反応でさえ、楽しんでいるようだった。
先週と同じ店。同じボックス席。
前回と違うのは、二人以外誰もいないということだ。
仲間内では、女は「マリア」と呼ばれている。高校を中退して、毎晩この界隈をふらふらしている このあたりでは有名な、顔だ。
真っ黒なロングヘア、つぶらな瞳、日本人形にも似た典雅な顔だち。
少し、……感じが雅に似ている。
「ね、こないだクロにヤキ入れてくれたんだって。それって、もしかして私のため?」
もちろん、そんなつもりは全くない。が、結果的にこの女を巡る形となった争いに、勝ったのは琥珀であり、負けたのはクロだった。
「可愛いなぁ、照れちゃってサ」
女は再び身体をすりよせてきた。
「照れる……?」
「素っ気ない顔しちゃって。本当は私のこと好きなくせに」
「………」
「まさかあのクロとまともにやりあう男がいるなんて思わなかった。迷惑してたんだよねー、マジで。一回寝ただけで、完全に男ヅラなんだモン」
今の反応を、照れと取る女の思い込みが可笑しくて、琥珀は少しだけ表情を緩めている。
マリアはこの界隈でたむろする薬中連中の「顔」だった。金払いが異常にいいのと、やくざがバックにいるとの噂もあって、誰もマリアには逆らわない。だから、まるで女王のように振る舞っている。
おそらく、薬の媒介にも関わっているのだろうが、それは琥珀には想像するしかない女の闇の顔だった。
「吸う?」
煙草を一本手渡される。黒い眼を細めて女は笑った。「元気でるよ」
「よせよ」
間延びした声がした。
隣のボックスに陣取っている一団からである。
「琥珀はまだガクセイだしさ。そいつはちょいとやべーんじゃねえの」
ボーダーシャツに坊主頭。両腕周りには本物のタトゥー。仲間内ではユキッチと呼ばれる、自称芸術家である。有名美大を中退したという男は、公共施設の壁や民家の外壁に、スプレー画を書きまくる常習らしい。
「ユキチャン、ほっとけって」
その隣で、にやにや笑いながら口を挟んだのは、通称ホセ。
「琥珀はマリア専用なんだからさ。煮るのも焼くのもマリアの自由だっつーの」
店の中では、唯一琥珀を見下ろすほどに背が高い。褐色の肌にピアスをつけた分厚い唇。喋りは流ちょうだが、一目で日本人ではないと判る彫深い容貌をしている。ホセという呼称もそのあたりから来ているようだが、それが本名かどうかまでは判らない。
この二人に先日叩きのめしたクロを加えた三人が、どうやらマリアの取り巻き というより、親衛隊にも似た役割を果たしているらしい。
「そうよ、これから琥珀に手を出す奴は、アタシがただじゃおかないよ」
鼻から煙を吐き出しながら、マリアがすごんだ。
「いずれは、ナガヌマさんにも引き合わせるつもりだからね。今度誰かがクロみたいな真似したら、耳削いで、この街から永久に叩きだすから」
明らかに周囲に聞こえる声ではっきりと宣言すると、琥珀に向き直って、マリアは笑った。
この誤解 というより、いつの間にか陥った立場に、どう対処していいか判らず、琥珀は黙って紙で巻いた煙草を取り上げる。
ここが、俺の居場所なんだろうか。
ここにいれば、俺は楽になれるんだろうか。
街角で数人の男に絡まれていたマリアを助けたのが、そもそもの始まりだった。今思えば、助ける必要など何もなかったし、そのつもりもなかったのだが、成り行きで暴力沙汰に巻き込まれ、気がつくと、女の部屋で目が覚めた。
下着姿の女が上から覆いかぶさるように見下ろしている。雅だ そう思ったのを覚えている。
「あんたって、かっこいいね。まるで芸能人みたいじゃん」
その女が囁いた。しゃがれた甘い声は、明らかに雅の声とは違っている。
その後に起きたことを、琥珀は殆ど記憶していない。が、次に目が覚めた時、もつれた双方の身体には、明らかに情事の痕が残っていて、その日から琥珀はマリアの取り巻きの一人になったのだった。
いずれにしても、危険な領域に自ら足を運んでしまったのは、琥珀自身の意思である。
降りるはずのバス停をいくつもいくつも乗り過ごして、気づけば見知らぬ街で、見知らぬ顔の中に紛れ込んでいた。
どこに帰ればいいのか判らないまま、ぼんやりと歩き続け、辿り着いた異世界の街、そこで出会ったのがマリアだった。
不思議だった。物心ついてから、ずっと優等生だと言われ続けてきた自分が、信じられないほどあっさり、無縁だと思った世界の住人になっている。
新聞やテレビで時折耳にする未成年者の犯罪や、馬鹿げているとしか思えない集団行為。かつては、違う世界の出来事だったが、今では、琥珀の足元にいつでも踏み抜ける深淵として存在している。
学校を休んでいることは、もう門倉夫妻の耳に入っているだろう。
それでもあの夫婦は 決して、俺を、叱ったりはしないだろう。
「マーリアちゃん」
不意に、かすれた声がした。振り仰ぐと、ポケットに手を突っ込んだデス・マスクが、ふらふらとボックス席の背後を歩いている。「いたんだァ、探したぜ?」どこか楽しそうな口調だった。
チッと、マリアが軽く舌打ちする。
「そんな邪険にすんなッて。今日はさァ、すっげいい話があんだからさァ」
クロは床にしゃがみこみ、白眼に笑いを滲ませて二人を見上げた。
「こんなとこに居ついてるわりには、品のいい顔してると思ったらさァ。こいつ、白鳳堂中学だったんだ」
「は? なにそれ」
マリアが眉を寄せる。
「マジ? すッげー金持ちしか行けない中学だろ?」
「天皇の子供とかが行ってたとこじゃね?」
驚きにも似た声があちこちから上がった。
「別に驚くこたねぇダロ、ユキッチだって元東京芸大だし」
「ただし、薬で退学〜」
笑い声の中、クロが立ち上がり、琥珀の顔をのぞきこんだ。黒い唇をかすかに歪め、ポケットに手をつっこみ、まだらしなく椅子にもたれかかる。
「見たんだよなァー、俺。琥珀君が、学校から出てくるトコロ。すッげ可愛い子と一緒だった。あれ、どっかのお嬢様?」
誰のことだろう 二人の顔が同時に浮かび、それでも表情を変えないまま、琥珀は自分を見下ろす軽薄な顔を見つめ続けた。
「かなーり仲好さそうだったけど、あれってもしかして、琥珀君の彼女だったりしねェ? 俺さ、マジで一目ぼれしちまったしィ。よかったら、紹介してくんねェかなァ」
挑発的な言い方だった。
実際、マリアの前でそんな台詞を吐く以上、挑発なのは目に見えている。
「よせって、クロ」
苦笑しながら口を挟んだのは、ユキッチだった。
「また琥珀と喧嘩でもするつもりか? マリアに耳切り落とされっぞ」
「は? なんだよ、それ。エラソーに口はさんでんじゃネェよ」
たちまち凶相になったクロがすごむ。
唯一の高学歴のせいか、もともとが世話好きなのか、ユキッチは揉め事が起こると一番に止めに入る。仲間内ではトラブルの仲介役として、重宝されているようだ。
が、そういう態度が癇に障るのか、クロは琥珀以上に、ユキッチに反発を覚えているようだった。
「シャプ中のくせにえらそうに年上ぶってんじゃねェよ。二度とオレにえらそうな口きくな、クソハゲ野郎!」
「クロ、落ちつけってば」
ただならぬ雰囲気に、嘆息しながら立ち上がったのはホセだった。
誰も周囲に寄せ付けないクロが、唯一つるんで、行動を共にしているのがホセである。どちらかといえば、クロが主でホセが従のような関係だが、猛るクロを止めにはいるのは、大抵がホセだ。
「クロ!」
が、一声で周囲を静まらせたのは、煙草を灰皿でもみけしたマリアだった。
「いいかげんにしな。てめぇ、二度とアタシの前に出られないようにしてやろうか」
眼が、完全に据わっている。
内腿のタトゥーを見た時から、この女がまともな世界に身を置いていないことは察していたが、女のバックには、想像以上の大きな力がついているようだった。あれだけ騒がしかった店内が、水を打ったように静まり返っている。
「けッ、冗談だよ」
クロは吐き出すように言い、ホセらのボックスに席をとった。
「クソッたりィ、なんか、おもしれェことねぇのかよ!」
「琥珀……」
ほっそりとして冷たい腕が、琥珀の腕に絡んでくる。腿に触れる指に、柔らかな力がこめられる。耳元に唇を寄せ、マリアは甘えた声で囁いた。
「ね、……どっか行こうよ、二人きりになれるとこ」
断れば、もっと面倒なことになりそうだった。
黙っていると、クロが、再びぼやきはじめる。
「中坊の女はどうでもいいけどさ。実はマジで、やッちまいたい女がいるんだよ、それが目茶苦茶むかつく女でさァ」
多分、煙草に仕込んである大麻でトリップしているのだろう。どこか虚ろだったクロは、唐突に怒りを声に滲ませた。
「クソえらそうに説教しやがるんだ! 信じられるか? この俺にだぜ?!」
が、次の瞬間、再び気が抜けたようにへなっと笑う。
「でもさァ、これがすっげー美人なんだよな。ダンナがいるんだけど、五つか六つ年下でさぁ。あの女、ぜッてー若い男が好きなんだって」
クロの、空洞のような白眼が、琥珀を見上げた。
「手ぇ貸せよ、琥珀。お前のガールフレンドは見逃してやるからさ」
「………」
弱みを掴んだ、とでも言いたげな口調に不快なものを感じ、琥珀は、無言で立ち上がった。
「 けッ、すましてやんの」
クロは舌打ちし、ふたたび空虚な目をして黙り込む。
「ね、行こうよ」
マリアが囁く。
何だか、何もかも、面倒臭くなっていた。
「琥珀さん、遅かったのね」
玄関に立つ門倉祥子の目は、のっけから琥珀を責めていた。
「あなたも、遊びたい盛りなのはわかるけれど、もう少し世間体というものを考えてくれないかしら。お父様が家を出られた途端に、こんな風になってしまうんじゃ、私の立場というものがないじゃないの」
陰鬱な声が、細々と小言を繰り返す。
門倉篤志は、先月の内閣改造の余波を受け、急きょ、政府官房長官に任命された。
以来、官邸近くのマンションに居を構え、滅多に家には戻らなくなっている。
「……琥珀」
ようやく祥子の小言を振り切り、自室のドアに手をかけた時、背後から囁くような声がした。
雅の声 眉を寄せ、琥珀は振り返っている。
案の常、立っていたのは雅だった。白い夜着に、薄いカーディガンを羽織っている。
「おかえりなさい。……今日も稽古、行かなかったんだって?」
どこか控えめで、遠慮がちな口調。
「ああ……なんで?」
少し戸惑って、琥珀は視線を逸らしていた。
淡い照明の下に佇む雅は、見間違いでなければ、ひどく優しい眼をしている。
「あさとに聞いたの……。最近、稽古に来ないって、すごく、心配してたから」
「成績が落ちてるから」あえて明るい口調で答えた。
「図書館で勉強してるんだ。剣道は当分休むよ」
「そう……」
それ以上、問い詰めようとしない瞳が、憂いを湛えて見つめている。
琥珀は内心の動揺を隠しながら、動こうとしない雅を見つめた。
雅の眼 。綺麗な瞳に、不安と躊躇いが揺れている。そうだ、時折雅はこんな眼で俺を見る。こんな表情をする女だったのか、と、不思議に思う一方で、昔、まだ二人がほんの小さな子供だった頃の、可愛くて無邪気な雅のことを思い出している。
両親が急死し、門倉家に引き取られたばかりだった頃、雅は、一人ぼっちだった琥珀に、いつも優しくしてくれた。まるで、本当の妹のように、時には姉のように、いつも傍にいてくれた。
が、今となっては、過去は夢の中の蜃気楼のような思い出だ。
雅は俺を嫌っている。しかも、尋常ではないほどに。
ずっと判らなかったその理由を、琥珀はもう知っている。
事実を突き付けられたあの夜から、むしろ琥珀は、雅に申し訳ないとさえ思っていた。
(どうしてなの? 琥珀は絶対おかしいよ? 同じ家に住んでるってだけで、なんで雅の言いなりなの?)
(雅って琥珀のなに? どうして、何をされても雅を庇うの?)
幼馴染の少女にどう問われても、琥珀は沈黙を守り続けた。
俺が存在することで、雅をずっと苦しめ続けてきた。俺さえいなければ、雅がこうも変容することはなかったのかもしれない。俺さえ、この世に生まれなければ。
そして、その度に思い知るのだ。自分が、世界でたった一人だという絶対の孤独。この家に、この世界に、俺の居場所はどこにもない。 。
「じゃ、悪いけど、俺寝るから」
「あの……」
雅はまだ、立ちすくんでいる。
琥珀はあらためて雅を見た。中学生二年になった雅は、時折、大人のような艶めかしい表情を見せるようになった。
すらりと伸びた背、薄い夜着を通してはっきり判る胸のふくらみ、柔らかな腰つき。
暗がりで向き合うことが気まずくなって、琥珀は視線を逸らしている。
「俺に話?」
「私……」
雅はうつむき、時折視線だけを背後にやった。祥子が来るのではないかと、それを案じているらしい。
「……どうしても……聞いて、ほしいことがあって」
うつむいたまま、雅は呟く。長い睫が不安げに揺れている。ひどくしおらしい、憔悴したような横顔だった。
「入る?」
琥珀は少し躊躇ってからドアを開け、雅を自室の中に招き入れた。
部屋に入ってもまだ、雅はおずおずとうつむいたままだった。
「なんの話?」
雅は、それでも口を噤んで立っている。琥珀は仕方なく、隅のベッドに腰を下ろした。
部屋は、ひどく蒸し暑かった。
窓を開けようと思ったが、驚くぐらい足に力が入らなかった。だるい、全身に倦怠にも似た疲れが淀んでいる。鈍い頭痛と、理由のわからない焦燥感が、波のように襲ってくる。
多分、あの煙草のせいだろう。
セックスへの嫌悪を忘れるために吸った。
「合法ドラッグ、大丈夫だよ。バレても捕まることはないからさ」
毒を含んだ甘い匂い、その匂いの中で、琥珀は内心では軽蔑さえしている女を抱いたのだ。 。
全てが終わって冷静になった後、おぞましさと嫌悪で吐き気がした。不安と焦燥から再び煙草を手にした時、もう、二度と戻れない所にまで堕ちてしまった自身を知った。
クロみたいな男に学校も素性も知れてしまった以上、今までの生活が破たんするのも、時間の問題かもしれない。
そうなる前に、早くこの家を出なければ。 。
「私……ずっと、謝りたくて」
ようやく消え入りそうな声が聞こえた。
琥珀は顔を上げ、眉をひそめた。雅はうつむき、肩だけを小刻みに震わせている。
「琥珀に……私、随分ひどいことをしてきたと……思うの。ずっと……それを謝りたくて」
震えながら見開かれた茶褐色の虹彩。室内の濁った蛍光灯の下でも、澄み切って輝く美貌。
雅の変貌に琥珀はただ驚いていた。
「嘘、だったの……」
囁くような声だった。
「私、琥珀に嘘をついたの」
なんのことだ……?
「琥珀は、パパの子供じゃないの! 本当にごめんなさい、知ってて私、あの時琥珀を騙したの! 私、本当になんてひどい嘘を……!」
「…………」
半ば唖然として、琥珀は震える女を見上げた。
違う?
あれから、琥珀は、狂うほどの葛藤に苛まれながら、両親と門倉厚志の血液型を確認し、残酷な事実に絶望し そして、受け入れたのだった。
父と母からは、自分は決して生まれてこない。
血の繋がりなど一切ないはずの自分を、実の子同然に育ててくれる門倉厚志。思えば、最初から、二家は不自然すぎる関係だったのだ。
母は、この人と不倫していたのか? その人のために父は死に、俺は引き取られたのか? 死んだ父は、いったいどういう思いで門倉厚志に仕え、どういう思いで、母を道連れに夜の海にダイブしたのだろう。
思えば思うほど苦悩は深まり、自分の存在そのものが許されないように思えてくる。
「雅、その話なら、もういいんだ」
むしろ、二度と雅の口から聞きたくない。「俺の親父は、何があっても死んだ親父だよ。自分の立場ならわきまえてる、だからもう、何も言うな」
「そうじゃない、そうじゃないの……」
雅は震える眼差しを琥珀に向けた。
「……あのね、DNA鑑定って、知ってる?」
胃の内側から冷えたものが這い上がってくる。琥珀は呼吸を殺して目の前の女を見つめた。
「パパは信じてたの。でも、調べてみたら違ってたの。私……それを知ってて、知ってるのに、……琥珀を苦しめたくて、あんな嘘をついたの」
「………」
「本当に、本当にごめんなさい!」
意味が判らなかった。判らない、けれど息ができないほど胸苦しかった。
自分は、父の子ではない。それは血液型が証明している。
でも、門倉厚志の子でも、なかった……?
琥珀はしばらく呆然と、雅の言葉の意味することを考えていた。
雅は、琥珀の顔を見ないままで続けた。
「そのことを知ったのは四年生の終り頃、お父様とお母様が話しているのを偶然聞いてしまったの。どうして琥珀を、養子になさらないんですか……って」
どうして琥珀を養子になさらないんですか。
あなたが、あれほど大切にしていた方の、息子さんではありませんか。
私の産んだ、出来の悪い娘と違って、本当に優秀な息子じゃないですか。
「お父様は、うるさいって」
うるさい。
お前に何がわかる。
政治家には、スキャンダルはタブーなんだ。
私が、秘書の女房と不倫していたなど、マスコミにかぎつけられてみろ。
それに、
「鑑定してみて判っただろう。結局琥珀は、俺の子じゃなかったんだ」
眩暈がした。
琥珀は立ちあがり、ようやく窓を開け放った。
呼吸が苦しい。胃の底から吐き気が込み上げてくる。
「私、本当は琥珀にずっと嫉妬してたの。琥珀はお父様に可愛がられてた。お父様は琥珀しか愛していなかった」
馬鹿な!
怒りで、息が止まるかと思った。
ずっと放っておかれたのは俺の方じゃないか、愛してもらえないのは、俺の方じゃないか!
「あのままだと、お父様はいつか、琥珀を自分の本当の子供にしてしまうって思ったの。そうしたら、私はこの家を追い出されてしまうって……そう思ったら、怖くて怖くて仕方なかった。だから、琥珀のこと……ずっといじめて……」
すがるような目が、琥珀を見上げる。
「私……本当は、琥珀のことが好きだった。子供のころから、ずっと琥珀が好きだった。でも……ひょっとしたら、琥珀は私のお兄さんかもしれないって、……ずっと不安に思ってた」
うつむいた睫から涙が零れ、雅はそのまま、両手で顔を覆ってうなだれた。
琥珀は、怖いものでも見るような眼で、そんな雅を見つめていた。
自分は何も気づかなかった。雅と兄妹などと そんなおぞましい関係を、思いつきもしなかった。
なのに雅は、その予兆を、出会った最初から感じ続けていたというのだろうか。
「だから……その話を聞いた時ね」
雅は顔を上げる。その刹那、さっと琥珀は総毛だっていた。
雅は笑っていた。声をたてずに、眼と、そして唇だけで。
それは、清らかと対極にある、悪魔的な、あざけりの哄笑だった。
「私ねぇ、すごく、嬉しかったのよ」
雅……。
立っていられないほどの衝撃を感じ、琥珀は背後によろめいた。
「どうしたの? 琥珀」
雅が笑いながら近づいてくる。もう琥珀は、その顔を見ることができなかった。
また 俺は、こいつに、裏切られた。
全ては、計算ずくの演技なのだ、この涙も、しおらしい仕草も、優しく聞こえる声さえも!
氷のような怒りが、ゆっくりと身体を満たしていく。
そんなにも……俺が、憎いのか、雅。
この女によって穢された両親の思い出は、もう永遠に戻らない。
何をしても、永遠に。
「いいよ、もう」
目を閉じて、額に指をあてた。指先から、激しい鼓動が伝わってくる。
「俺ならもう、気にしてない。だから雅も、今夜のことは忘れてくれ」
「でも」
出て行け!
喉の奥から迸りそうな言葉を、琥珀は懸命な努力で耐えた。
嘘だったと? あれが全部、嘘を承知の上での戯言だったと?
じゃあ、この半年の葛藤は、苦しみは、いったいなんのためだったんだ。
なんのために、俺は雅に罪悪感を抱き、何をされても言いなりになっていたんだ?
なんのために なんのために。
背に、不意に柔らかな感触が被さってきた。
ぞっと、琥珀は立ちすくんでいる。
甘い、髪の匂いがした。
「私……琥珀の、助けになりたいの……」
助け?
「私じゃだめ……? あさとじゃないと、やっぱりだめなの……?」
氷のような感情だけが、その刹那、琥珀の全てだった。
密かに想いを交わした相手には、もう、二度と恋を告げる資格がないことを、琥珀はよく知っている。
俺は。
こんなにも誰かを、
憎むことができる奴だったのか。
身体の隅々から、さっきまで抱いていた女の、毒粉のような化粧の匂いが立ち上ってくるような気がする。
「……雅」
琥珀は呟いた。
「俺も、お前のことが好きだ」
何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。
雅の腕をつかみ、力任せに抱き寄せる。
見下ろした雅の顔は、嬉しいというより、突然目にした男の変容におびえているようにも見えた。
どうせ、演技だ。琥珀は思った。
震える小さな唇に、噛みつくように口づける。
それが初めてなら、痛みしか残らないキスだったのかもしれない。
「や……」
驚いたのか、顔を逸らして逃げられる。うつむいて、痛々しく震える肩。それでも、罪悪感は何もなかった。
「……雅」
震える雅の髪を撫でながら、琥珀は、冷めた口調で囁いた。
まるで自分とは思えないほど、心は残酷に冷えていた。
雅……。
「今度、二人きりで、外で会わないか」
「外……?」
見上げる瞳に、琥珀は静かに微笑んで見せた。
俺が受けた苦しみを、今度はお前が味わう番だ。わずかでも、信じていたものに容赦なく裏切られる苦しみを。
「俺の友達に、雅を紹介したいんだよ」
……なんだ?
今のは、なんだ。
何故、俺は。
何故俺は、最近、こんな夢ばかり見る ?
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