20
その翌日、寝室の扉が叩かれた時、クシュリナは横たわった寝台で目を閉じるところだった。
「カヤノ?」
慌てて跳ね起きて扉に向かう。
第一女官を兼ねた女騎士は、常にクシュリナの寝室の隣に控えている。
どんな来客が来ようと、この扉を叩けるのはカヤノしかおらず、何人たりとも彼女の許可がなければクシュリナの寝所には近づけないはずだった。
案の定、扉の向こうには灰銀の騎士服をまとったカヤノが控えている。
「ラッセルは?」
用件を確かめることなく、クシュリナは訊いた。「彼と連絡をつけてくれた?」
今日一日、ラッセルからの連絡を待ち続けていた。今、彼がどこで何をしているのか知る術はなかったけれど、カヤノを通じて用事があると告げた以上、ラッセルならば、どんな支障も都合をつけて会いに来てくれるはずだった。
「どうしても会ってお願いしたいことがあるの。どうか一日でも早く、彼をフラウ・オルドに呼んできてちょうだい」
「姫様……、あの」
普段表情を変えないカヤノは、その刹那なんとも奇妙な表情をみせた。苦いものでも飲んだような、しくじりを見つけられた子供のような表情だ。
「クシュリナ」
女騎士の背後から静かな声がした。
その声音を聞いた途端、クシュリナは息を引くような気分でカヤノの表情の意味を理解した。
まさか。 。
「私だ。もう休む頃だとは思ったが、しばし、お前の部屋に邪魔してもよろしいかね」
お父様……。
どう答えていいか判らず、クシュリナは了解の意味をこめて頭を垂れる。
いったい、どういう事態だろう。こんな時間に、しかも寝所に父がわざわざ訪れてくれることなど、今まで決してなかったことだ。
思えば、あの舞踏会の夜から、ハシェミとの親交は閉ざされたままになっている。妹に踊りを譲ったことで、父は間違いなく怒ったはずだし、白蘭宮殿で起きた騒ぎについては、さらに激怒したに違いない。
だからこそ、フラウ・オルドの女官たちは総替となり、ダーラも消えてしまったのだ。 。
叱責を覚悟したクシュリナは、半ば蒼白になりながら、長椅子を父に勧め、自身はその対面に腰を下ろした。
「カヤノ、お父様には金桃酒をお持ちして。私は何もいりません」
二人になると、ハシェミは悠然とクシュリナを見下ろした。
こんな時間なのに、外出でもしていたのだろうか。ハシェミは豪華なブローケード地のアンダーチェニックを身につけ、フルレングスの上衣を羽織っている。 深みのある緑色は、父の繊細な容貌によく映えていた。
「すまないね、クシュリナ。どうしてもお前と二人で話をしなければならないことができたのだよ」
ハシェミは柔らかな笑みを浮かべ、クシュリナの示した椅子に深く腰をかけた。
すぐに戻ってきたカヤノが、てきぱきと酒食の用意を整える。いつも思うことだが、身の回りの雑事を、すばやく器用に片付けるという意味では、この女騎士は、ダーラ以上の能力を持っているのかもしれない。
ハシェミは杯を持ち上げ、ゆったりと香りをかいだ。
「どうした……? 顔色が冴えないようだね」
優しい声だったが、クシュリナは緊張を解くことができなかった。
いったい父は何の用事でこんな時間に来たのだろう。そして何故、叱りもせず、苛立ちさえみせず、優しい眼差しで私を見つめているのだろう。
「どうも最近忙しくてね。……お前と、ゆっくり話す時間が取れなかった。先日フォードが訪ねてきたそうだね」
「……ええ」
戸惑いながら、クシュリナは頷く。
「賢明なお前のことだ。フォードの話を真に受けたりはしないだろうが、あれは、知っての通り、性格が意固地にできていてね。……お前の婚約のことで、何か言ってはいなかっただろうか」
迷いながら、それでもクシュリナは首を横に振った。
「お国元で様々なご心配があるというお話でしたけど……あからさまに、そのようなお話はなさらなかったと思いますわ」
杯の中身を一口含み、ハシェミは、わずかに嘆息した。
「……婚約を決めた時、フォードはまだ話の判る男で、私の味方でいてくれた。……が、今のフォードは、法王家を疑い、憎み、政治から切り離せと頑迷に主張しておる」
「それは、どうしてなのでしょう」
カタリナ派……あの夜、フォードから聞かされた杞憂がよみがえる。
ハシェミはもうひとつ溜息をつき、杯を置いて、クシュリナに視線を合わせた。
「フォードの息子は、十年前に病で死んだと言われているが、実際はそうではない。実のところ、きゃつの息子は、貴族を捨てて僧籍に入ったのだ」
「………」
「フォードが、眼に入れても痛くないほどに可愛がっていた息子だ。奴にとっては、それは死も同然だったろう」
それは初めて耳にする松園家の真実だった。クシュリナは息をつめたまま視線を下げた。ルシエの憂いをおびた眼差しが思い出される。
「私にも詳しい事情はわからんが、息子の処遇を巡り、フォードとコンスタンティノ家の間には相当な諍いごとがあったらしい。以来、フォードは、法王庁を頑なに嫌悪するようになった……。私への反発なのか、皇都にも近づかなくなった」
言葉を切り、ハシェミはようやく、いつもの父らしい微笑を浮かべた。
「そういった事情も、序々に知っておくべきだろうね。皇都には、中心に生きるものにしか判らぬ秘密が多々存在する。お前にはまだ、何も教えてはいないからね」
「忌獣のことも」
咄嗟に口を開いていた。はっとしたが、もう口にした言葉は否定できない。
父の、強い眼差しを感じながら、クシュリナは胸に手をあててうつむいた。
「お父様のいうところの……秘密だったのでしょうか」
「忌獣のことは、ラッセルから報告を受けたよ。大変な目にあったようだね」
宮殿のなんでもない噂話でもするかのように、穏やかな口調で言ってハシェミは笑った。
「あのような場所で忌獣に遭遇し、さぞかし驚いたことだろう。私も実に驚いた……いや、当夜の驚きは、簡単に言葉にできるようなものではなかったがね」
どう返していいか判らず、クシュリナは黙って視線を伏せる。
「むろん、それは最も重要な秘密事項だ。ラッセルからも言われたと思うが、あの夜起きたことは誰にも話してはいけないよ。いいね、皇都に忌獣は出ない。過去にも未来にも 絶対にだ」
「でも、お父様」
「聞きなさい、クシュリナ」
咄嗟に顔をあげたクシュリナを、ハシェミは柔らかく遮った。
「考えても見なさい。皇都に忌獣が出たと知れれば、収束しがたい騒ぎになる。それは、お前も判っているね」
「………」
「皇都の安寧を守ることが、引いてはシュミラクール全体を守ることに繋がるのだ。それこそ、我ら皇室の義務でもある。そうは、思わないかね」
「………」
だから、隠しておくというのだろうか。この先もずっと? もしかしたら、先夜のようなことが頻繁に起こるかもしれないのに?
それは。 本当に正しい道だと言えるのだろうか。
父の言葉は理解できた。民は、イヌルダに眠るシーニュの神を信じている。その信頼を守るのが、皇族の義務だと言いたいのだろう。
でも……そのために、もし、イヌルダを安全だと信じている、罪のない人々が危険な目にさらされたら?
クシュリナは何かを言わなければならないと思った。が、頭の中で、上手く言葉がまとまらなかった。
ラッセルが言っていた 私たちはシュミラクールの民で、この世界の安寧と秩序を護る義務があると あれは本当に、父の言うような意味なのだろうか。ラッセルもまた、義務と現実の矛盾に苦しんでいるのではないだろうか。
あの朝、忌獣のことを説明しながら、何かを愁いていた彼の横顔の意味が、ようやくクシュリナにも理解できたような気がしていた。
「いずれにせよ、お前が案ずる必要は何もない。皇都に出たといっても州境に近い村落や山間など、お前には生涯縁のない場所ばかりなのだから」
「でも、先日、白蘭オルドの中に」
「あのようなことは、二度とあるまい」
初めて、穏やかだった父の眉がわずかに翳った。
「今はまだ、お前に全てを打ち明けるには早すぎる。が、いずれは判るだろう。あの夜は全てが特別だったのだ。ゆえにあのようなことは、今後、二度とは起こるまい」
それでも父の目には、それを断言するというより、むしろそうであればいいと、自身に言い聞かせているような色があった。
特別だった ?
もちろん、クシュリナには納得も理解もできない説明である。が、父の眼差しが、もうこの話題を打ち切りたいといっているのは明らかで、それだけでクシュリナは委縮して、何も聞けなくなっている。
「ユーリは……、もう、大丈夫なのですか」
それでも、最後のつもりでクシュリナは訊いた。
「バートル隊の方々は、襲ってきたのは蒙真だと仰っておられました。私にはよく判らなかったけれど、恐ろしいほど背の高い人たちが……、いきなり、目の前に現れて……」
「蒙真軍の暗殺部隊だ」
ハシェミは、あっさりと答えてくれた。
「連中の名をカマラ、と呼ぶのだ。おそらくは青州公を狙ったのだろう。空を飛ぶ不可思議な兵器を開発したという噂はかねてよりあったが、どうやら本当だったらしい。それを信じずに聞き流していた、我がパシクに問題があったのだろうね」
「空を、ですか?」
さすがに驚いて、クシュリナは眉をあげている。
確かに、グレシャム公もそのようなことを言っていた。でも、どうやって? どうすれば、人が鳥のように空を飛べるというのだろうか。
が、それよりもまず、確認しなければならないことがある。
「蒙真は……何故、青州公様を狙うのでしょうか」
それには、ハシェミもわずかに表情を厳しくさせた。
「お前もよく知っておろう。かの国は、今、現王朝と旧王朝が真っ二つに分かれて争いの只中にある。そして青州は、かの国に一番大きな影響を及ぼす立場にある。交易においても、防衛の面においても、だ」
「………」
「青州公の決断ひとつが、かの国には政権交代にまで及ぶ重大事に発展するやもしれないのだ。蒙真王朝も、旧三鷹派も、決して一枚岩ではない、様々な陰謀や思惑がひしめいている……。そのような中で、青州公の命を狙うものが出ても不思議はあるまい」
確かにそのとおりだと思う反面、一点クシュリナには理解できない部分もあった。蒙真の刺客は、明らかにユーリを狙っていたのだ。そこには、もしかしてユーリの出生の秘密が絡んでいるのではないだろうか。
が、むろんそれを、クシュリナの口からハシェミに打ち明けるわけにはいかない。
「いや、今宵は、かような物騒な話をするために寄ったのではないのだ」
不意に、ハシェミの双眸に楽しそうな感情がにじみ出た。余談にかまけて忘れていた本題をようやく思い出した そんな目をしている。
「実は、とても喜ばしい知らせが二つある。どちらもお前と深く関わりあうことだ」
「なんでしょうか……」
ハシェミは軽く咳払いをして、再び銀杯を持ち上げた。
「お前の第一女官を勤めていた、ダーラという騎士のことだが」
「えっ……」
クシュリナは驚いて父を見た。折を見てダーラの復職を懇願しようと思ってはいたものの、まさか父の方から、切り出してくれるとは思わなかったからだ。
「お前がダーラのことで、心を痛めていたのは知っていたよ。もう、報告してもいい頃だろう。ダーラは、この度、結婚することになったのだ」
21
「…………」
結婚?
父が何を言っているのか、一瞬意味が判らなかった。
「役目を降ろして生家に戻したのは、そのためなのだよ」
笑いを含んだ目でハシェミは続ける。「ダーラは結婚するのだ。結婚式は、確か……そう、明日だったな」
結婚。
その意味を解した後、一気に頭の中が真っ白になった。ダーラが、結婚?
「だ、」
誰と……。
問うまでもないことだった。
喉に何かが引っ掛かったように、言葉が、それ以上出てこない。
「むろん」
父は柔らかく破顔した。「お前も知っている相手だ。パシクのラッセルとだよ、クシュリナ」
「………」
「私も急なことで驚いたが、事件の夜、ラッセルから近衛隊長に申し出があったそうなのだ」
事件の夜?
では、あの後に?
「ジュール隊長の前で、ラッセル自らダーラに結婚を申し込んだとのことだ。時が時だけにジュールも大層驚いたそうだが、ダーラも驚きのあまり、しばらくものが言えなかったそうでね」
ハシェミはおかしそうに、くっくっと笑う。
信じられずに、クシュリナはただ、睫を震わせる。
「言うまでもないが、あの夜、ダーラは取り返しのつかない過ちを犯した。その罪は重いし、私にしてみれば、到底許せるようなものではない。……が、これまでの功績に免じ、結婚という形で、オルドを去ることを許したのだ」
続くハシェミの言葉も、ひどく遠くから聞こえてくるようだった。
あの夜。
忌獣に襲われそうになった夜。クシュリナが想いをこめた眼差しをラッセルにぶつけた夜。
彼にも判ったはずだった。いや、気づいたからこそ、互いに忘れることを約束したのだ。
なのに……その直後に、その舌で、知れば確実に私が傷つくと知っていて……ダーラに、結婚を申し込んだとでも言うのだろうか。
それが、ダーラを救うための唯一の方策であったとしても、一言の報告もないままに、彼がそんな大切なことを決めるだろうか。しかも、結婚式は明日なのだ。
彼らしくない、急すぎる。
いくらラッセルが結婚を急いていたとしても、彼の性格が、忌獣騒ぎよりも自身の結婚を優先させるとは思えない。絶対に思えない。
「ダーラももう二十四か……。初婚にしては年齢がいきすぎている。ラッセルは、すぐにでも、子を産んで欲しいと言っていたそうだがね」
「お父様!」
思わず声をあげたクシュリナは、疑念をこめてハシェミを見上げた。
父が、そう命じたのだろうか、ラッセルに。
ダーラとの結婚を。それが、ダーラを救う条件だと言って。
「クシュリナ」
父の声は、不思議なくらい穏やかだった。
「舞踏会の夜、私の言った言葉を覚えているね」
柔らかい微笑は、突き上げる言葉の数々をやんわりと遮るようだった。
「私は言ったね。お前はもう子供ではない。お前の軽率な行動で傷つくのは、お前ではなく、立場の弱い者たちだと」
「 あれは」
言いさして、クシュリナはハシェミを見上げた。
美しい口ひげの下で、唇が厳しく引き結ばれている。
「あれは、鷹宮ユーリのことを言ったのではないよ、クシュリナ」
どくん、と心臓が高鳴った。
「私は昔から、パシクの中ではラッセルを誰よりも信頼していた。彼の者ならきっと、身命に変えてもお前を守り抜いてくれると見込んだからだ」
言葉を切り、ハシェミは金桃酒を一口含んだ。
「今でもその信頼に変わりはない……いや、この先もずっと、変わることはないだろう。ラッセルとは、それほどに誠実で精神の強い男なのだ」
父の目が、厳しさを帯びてクシュリナに据えられる。
「それでも私は、二年前、ゼウスから戻ったラッセルを、お前の第一騎士から外さねばならなかった。その意味がまだお前には判らないのかね、クシュリナ」
その意味 。
雷に打たれたように、クシュリナはようやく理解した。
それは……私が……ラッセルを……好きになってしまったから……。
眩暈にもにた絶望と共に、クシュリナは、ラッセルの結婚が決して逃れられない運命であることを理解した。
ハシェミは その穏やかで優しい眼差しの下で、クシュリナの恋心を全て読みとっていたのだろう。
だからこそラッセルは、身分の低い忌獣討伐隊などに配属されてしまったのだ。まるでクシュリナの想いの咎を、全て背負わされるように。
「それから」
ハシェミは銀杯に唇を寄せた。そして、まるで世間話のついでのように、あっさりと言った。
「お前も結婚するのだ、クシュリナ」
え?
思わず見上げたハシェミの顔は、娘の結婚を語る父とは思えないほどに、冷め切っていた。
「アシュラルが、ようやくイヌルダに帰ってきた。さきほどコンスタンティノ家と調整がついた。五日後、クィーンズベリ大聖堂で、お前とアシュラルは結婚式をあげることになる」
「あ……」
アシュラルが?
瞬間、周囲が闇に包まれたような気がした。
「五日後なんて」自分の声が震えている。「早すぎますわ、お父様、まだオルドでは、何の準備もできておりません」
夫を迎えるならば、オルド内に夫のための居館を作らなければならない。
やがて即位すれば、クシュリナはカーディナル・オルドに移り、夫たる人は本殿に居を構えるのがしきたりだ。
「クシュリナ、全ては、極秘裏に進めねばならぬのだ」
ハシェミが、初めて厳しい目で声をひそめた。
「お前が十八歳になる蛟の月、本来の結婚式はその折に執り行われる。そう諸侯には申し伝えてある。が、最早、一刻の猶予も許されぬほどに事態は緊迫しているのだ」
「どういう、ことなのですか」
「……皆が皆、お前たちの結婚を祝福するとは限らないという意味だ」
言葉は婉曲だったが、法王家と皇室の婚姻に、ハシェミを除く五公の全てが反対していることはクシュリナであっても知っている。
「アシュラルは、再三に渡って旅先で刺客に襲われ続けてきた。 実は、ここ数年、コンスタンティノ大僧正様でさえ、アシュラルのことは諦めかけていたのだよ。ゼウスで消息を絶ったまま、長らく連絡が取れなかったそうなのだ」
口調には、父らしくない緊張が濃く滲んでいる。
「そして帰還した今も、コンスタンティノ大僧正様が、ひそかに身柄をかくまっておられる。アシュラルは命を狙われているのだ。それはこの先も変わるまい。ならば、一刻も早く二人の婚姻を確かなものにし、神に誓いをたてねばならぬ」
父の言葉が、上手く耳に伝わってこない。 アシュラルと? 結婚? しかも、たった五日の後に?
「結婚式は、法王と私の立ち会いの下で、迅速かつ極秘に行わねばならぬ。クシュリナ……アシュラルの帰還も式も、決して口外してはならない。結婚式が無事に終わるまでは」
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