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 その夜から、クシュリナは五日ほど床に伏せ、ようやく起きられるようになった頃には、何事もなかったような普段通りの日々が待っていた。
 白蘭宮で起きた異変は、結局、何一つ公にされることなく終息したのだと、クシュリナは周囲の様子をみて汲み取るしかなかった。
 皇都の、しかも金羽宮の中に忌獣が出現したことや、蒙真の秘密部隊が宮殿の奥深くまで潜り込んでいたことなど、一切が、噂にさえ登ることがないほど完ぺきに隠ぺいされている。
「薫州では、相変わらず忌獣の害に悩まされているそうだ」
「しょせん田舎の話よ。皇都にいる限りそのような野蛮な獣に出くわすこともなかろうて」
 昼食会の席などで呑気に語る貴族たちをみるにつけ、クシュリナは胸が痛むような苦しさを感じるのだった。
 隠すことが正しい選択とは思えず、何度もハシェミに直訴しようかと思い詰めた。    が、「皇都はシーニュによって護られてる」という神話めいた定説をここで覆してしまえばどのような余波が生じるのか、さすがにクシュリナも理解している。
 国力、軍事力では、すでに皇室は五公に遥か及ばない。それでも皇室がいまだシュミラクールの主でいられるのは、ひとえにシーニュの威光と守護があるからだ。
 ただ、目覚めたクシュリナには、忌獣の憂いよりさらに大きな心配ごとがあった。
 ダーラが、フラウ・オルドから消えてしまったことである。
 
 
「ダーラ」
 朝食の後、ふと振り返って口にしてから、クシュリナは眉を翳らせていた。
 そうだ、ダーラはもういないのだ。   
「何か御用でございますか」
 控えていた女官の一人が、そっと声を掛けてくれる。
「ううん、なんでもないの」
 クシュリナは微笑して、睫毛を伏せた。
 悔いてもどうにもならなかった。クシュリナが伏せっている間に、ダーラは役目を解かれ、金羽宮を追放されてしまったのだ。
     私のせいだわ……。
 もちろん、ダーラにも言い逃れできない咎がある。判ってはいるが、望んだのはクシュリナであり、約束を破って外に出たのもクシュリナだった。
 手紙でそれをハシェミに訴えたものの、父からはなんの沙汰もない。
 追放されたダーラだけでなく、ラッセルがどうしているかさえ    今のクシュリナには知る術がないのだった。あの夜以来、オルドの女官は全て一新され、全員がクシュリナの一挙一動を監視でもするように目を光らせている。
 クシュリナは席を立ち、そのまま朝食の部屋を出て庭を見下ろせる露台に立った。
 一人の女官が後をついてくる。
 ダーラに代わってパシクから派遣された女騎士、カヤノである。
 燃え立つような緋色の巻き毛と賢しげな錆色の瞳、いかにも機智がありそうな聡い面立ちをしているが、騎士と呼ぶには見るからに華奢で、どちらかといえば頼りない風情をしている。クシュリナが見る限り、身体に険らしきものを携えている気配もない。
 正直クシュリナは、父が何故このような少女を守護役として寄こしたのか、内心不思議に思っていた。
 が、外見とは裏腹に、カヤノの表情には女性らしさの欠片もない。振る舞いはよく躾けられた犬のようで、眼差しはいつも鋭く研ぎ澄まされ、唇を貝のように閉ざしたまま、厳しい表情でクシュリナの傍らに付き従っている。
「……カヤノ、乗馬の許可は下りないのかしら」
「外出の御許しはできません」
「せめて、ウテナの様子を見に行きたいのだけど」
「公の許可をお待ちください」
 感情の欠片もこもらない返事に、クシュリナは嘆息して空を見上げた。
     ダーラ……。
 ダーラがいなければ、ウテナを早駆けさせることさえできない。
 ささいな悩みや喜びや悲しみを、打ち明けることさえできない。
 いなくなって、初めて判った。
 ダーラはただの女官でも女騎士でもない。クシュリナにとっては、なくてはならない、大切な友人だったのだ。……
「姫様、ルシエ様がお出でになられましたが」
「ルシエが?」
 背後から聞こえた別の女官の声に、クシュリナは表情を明るくして振り返った。
 薫州公松園フォードの娘、ルシエ。
 社交界の中でも際立って冷静でしとやかな娘は、クシュリナが唯一、心を開いて話ができる相手でもある。
 
 
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「クシュリナ様」
 件の事件前に訪ねてきてくれたルシエは、白蘭宮の騒ぎを知っているのかいないのか、最初から憂いを帯びた目で応接の間に佇んでいた。
「お身体のお具合が悪いとお聞きして、……心配申し上げておりました」
「少し体調を崩してしまって。でも、もう大丈夫なのよ」
「先日、父は薫州に戻りました。姫様にご挨拶が叶わなかったこと、父に代わってお詫びいたします」
 女官たちが茶の支度をはじめ、そのまましばらく互いに無言になる。
     フォード様は、白蘭宮殿で起きた騒ぎを、ご存知なのだろうか。
 沈み込んだままのルシエの表情から、ふっとそんな予感が胸をかすめた。
 薫州は、青州についで忌獣の被害が多い州だ。薫州を護るフォード公は、外にゼウス・ウラヌスという敵を持ちながら、内では、常に忌獣におびやかされ続けている。
 やがて来客をもてなす支度も終わり、女官たちが部屋を下がる。が、一人だけ壁際に立ったまま動かない女官がいた。
「そこの者」
 ルシエは、柔らかな眼差しで、クシュリナの背後に控えるカヤノを見やった。
「しばし、席を開けるように。姫様に父からの伝言があります」
 即座にカヤノは、胸に手を当てた。
「それは、私の立場では了承しかねます」
「では、誰の立場であれば、許可をいただけるのですか」
 穏やかに問ったルシエの目に、次の瞬間、初めて鋭い怒りが浮かんだ。
「無礼者! こなたの立場をなんと心得る! 私の父を五公のフォードと知った上での返答か、下がりなさい!」
 初めて目にする剣幕に、口ごもったカヤノよりも、むしろクシュリナが驚いている。
「……申し訳ありません。……ユーリ様の件で、よからぬ噂を耳にしたものですから」
 やがて二人になると、ルシエは再び水のような静かな眼差しでクシュリナを見上げた。
「ユーリの?」
 まさか用件がユーリのことだとは想像もしていなかったクシュリナも、はっと顔色をなくしている。
「白蘭宮に、最近、毎日のようにエレオノラ様がお通いになられているのはご存知ですか」
「…………」
 五公の一人、奥州公、ヴェルツ公爵夫人のエレオノラ。
 社交界最大勢力、バトゥの盟主である。
 元来の身分は低いが、イヌルダ一の美女と謳われ、その美貌だけで今の地位にのしあがった。アデラより黒椿(バトゥ)の称号を特別に賜り、今では、ヴェルツ夫人として、絶対の権力を手中に収めている。
「それは、本当の話なの?」
 クシュリナの脳裏によぎったのは、あの夜に見た黒獅子(コシラ)の紋章    ヴェルツ公爵家の馬車である。
「連日……時には、お泊まりになることもあるそうなのでございます。すでに耳ざとい婦人たちの間では噂になっておりますわ。エレオノラ様の御目当ては、青州公ではなく……」
 ユーリ……?
 クシュリナは重苦しい気分で押し黙り、ルシエは、美しい眉をひそめた。
「ヴェルツ様の夜会では、お二人はまるで恋人同士のように寄り添って、仲睦まくされておられるとか。私も一度拝見いたしましたけれど、……確かに、ただの噂ではないように御見受けいたしました」
 ユーリが? あの貴婦人嫌いのユーリが? まさかそんな、と思う反面で、もしそれが青州公グレシャムの命であれば、ユーリが決して逆らうはずがないことも知っている。
「……ヴェルツ公は、年若いエレオノラ様が若い愛人を囲うことを、むしろ喜んでおられますでしょう?……まさかに青州公様の御子息が、そのお相手だとは思いたくはございませんが」
 ルシエは言葉を濁しているが、エレオノラの性癖なら、実のところクシュリナはルシエよりよく知っている。
 彼女が、社交界の名だたる若者を何人もその毒牙    といっていいなら、毒牙にかけ、虜にしているのも知っている。
「姫様……」
 黙るクシュリナを見下ろし、ルシエは声をひそめるようにして続けた。
「実は、もうひとつ重大な件をお伝えしなくてはならないのです」
「なんなの、ルシエ」
「……私の、口からは」
 言葉を濁したルシエは、周囲をはばかるような眼差しでクシュリナの背後に目をやった。
「姫様、ユーリ様がご窮地に立っておられるならば、それを、心より助けたいとお思いですか」
「いったい、ユーリに何があったの」
 クシュリナは、表情を強張らせていた。「もちろん、私に出来ることならなんだってするわ」
 あの忌まわしい夜、別れたままのユーリとは、以来一切連絡が取れないでいる。むろん、厳しい青州公がユーリの犯した罪をそのままで済ませるはずがないことも知っている。
「明後日、また参ります」
 ルシエは囁くような声になった。
「その時、お連れする者と、ぜひ話をしていただきたいのです。お立場上、決して素性を明かせぬ者ゆえ、姫様には格別のおはからいをお願い致したいのです」
「どうすればいいの」
「その日、サロンの女性たちを、なるべく沢山フラウ・オルドにお招きください。私が、姫様をお慰めするため、我が邸の楽団をお連れします。面談は、その折に必ず」
「………」
 わずかな不安が胸をよぎった。
 通常であれば、まずダーラに相談していただろう。が、今はそのダーラもいない。
「わかったわ。なんとかします」
 今はルシエを信じるしかない。もし、本当にユーリの身に何かの危険が迫っているなら、何を置いても助けなければならないから。   
 
  
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 その日、事件以来どこか陰鬱だった白百合宮殿は、久々に華やいだ喧騒に包まれていた。
 賑やかな楽団の演奏と、珍しい異国の踊り。
 婦人たちの尽きることのないお喋りの中、そっと席を立ったクシュリナはルシエにいざなわれるままに、露台(テラス)に出た。さしものカヤノも、サロンの中には入ってこられないのか、隣室との境に立ち、むしろ、外部の見張りに専念している。
 広々とした露台には、すでに先人が立っていた。
 褐色のクロークに、女官がよくするような編み込んで小さくまとめた髪。客人が連れてきた侍女だろうか    なんの気なしに思った時、その人がふっと振り返った。
「……お姉さま」
 呼びかけられた声の愛らしさに、クシュリナは眉をあげていた。
 そのような呼び方をする者はこの世にただ一人しかいない。だけでなく、鈴を転がしたような美しい声音は、確かに異母妹のものである。
「サランナ?」
「しっ、お声をおたてになりませんように」
 隣のルシエが囁いた。
 サランナ    身につけている衣服は侍従のそれだが、間違いない。煌めく水晶の瞳、薔薇色の頬。カナリー・オルドにいるはずの妹だ。
「でも……どうして……」
 困惑しながら、クシュリナは隣のルシエを振り仰いだ。
「私がお連れしたのです。姫様とお会わせしたかったというのは、サランナ様なのですわ」
 視線を伏せながら、低い口調でルシエは答えた。
「出すぎた仕儀を御許しくださいませ。けれど、かような真似でもしなければ、お二人の対面は決して叶わなかったでしょう」
 確かに、その通りだった。
 皇位争いの激化に伴い、各オルド間は厳重な城壁と見張りに阻まれ、クシュリナでさえ妹や義母のオルドには自由に立ち入ることができない。
 が、ここはフラウ・オルドだ。いってみれば、サランナにとっては敵陣のただ中である。自分はよくても、サランナにしてみれば、いつ、何時命を狙われても不思議ではない場所なのに。   
 どうしていいか判らないでいるクシュリナの前に、すうっとサランナが歩み寄ってきた。
「ごめんなさい。お姉様の館に、突然お邪魔してしまって」
 見上げるサランナの瞳は、まるで朝露に濡れた花弁のように潤んでいた。
 地味な服装をしていても、輝く美貌は隠しようもなく、その刹那、薄暗い露台に光が差し込んだかのように思える。
「ルシエに頼んだのは私です。ご迷惑だとは判っておりましたけど……私、どうしてもお姉様と二人で、お話がしたくて」
 控え目に視線を下げる異母妹は、こうして姉の領分へ忍んで来た事に、自分でも戸惑っているようだった。
「私と……?」
 こくり、と幼い子供のようにサランナは頷く。
「お姉様は、私がお嫌いではないでしょう?」
 呆然と立つクシュリナを見上げ、サランナは少し寂しげな微笑を浮かべた。
「私は、お姉様のことが好き……、言葉にはできなくとも、ずっと、お慕い申し上げておりました。だって、この世界でただ一人のお姉さまなんですもの! 本当の姉妹が、人を介さねば会うこともできないなんて、寂しすぎますわ」
 双眸を潤ませた妹は、そのままクシュリナの傍にかがみこみ、目下の者が示す礼をとった。
「サランナ……」
 クシュリナもまた、自身の瞳が潤むのを感じた。
 妹の勇気が眩しかった。何かしなければならないと思いつつ、何もできないでいる自分と比べ、サランナの行動力はどうだろう。美しさといい、社交性といい、自分は決して、この妹には敵わないような気がする。
「サランナ、私も、あなたを敵だと思ったことは一度もないのよ」
 クシュリナは、サランナのたおやかな手を握りしめた。
「ありがとう。……あなたの勇気がうらやましい。本当なら私が会いにいかなければならないのに」
「いいえ、お姉様」サランナは真剣な目で首を振る。
「これからも私が参りますわ。大切なお姉様を危険な目に会わせるわけにはまいりませんもの!」
 しっかりと取り合った手の温かさだけで、十数年互いを阻んでいた棘のようなものが、取れてなくなってしまったようだった。
 そうだ。……私は、この子の、ただ一人の姉なのだ。なのに今までそれと意識したことが本当の意味であっただろうか。内心では、美しい妹の存在を畏れ、妬み、うす暗い気持を抱いてはいなかったろうか……。
「……ルシエに聞かれたと思うけれど、お話というのは、ユーリ様のことなの」 
 二人になると、サランナは、たちまち表情を曇らせた。クシュリナを見上げる大きな瞳が、不安げな瞬きを繰り返している。
「私、心配でたまらなくなって、それでお姉様に、どうしてもご相談申し上げたくて」
「ユーリが、……最近エレオノラ様と親しくしてらっしゃること……?」
 サランナは美しい眉を寄せて頷いた。
「これは私の推測なのだけれど、……ひょっとして、青州公は、ヴェルツ公爵と結託するために、ユーリ様をご利用なさっているんじゃないかしら」
「………」
 クシュリナは目前の妹を見つめた。
 ルシエには言わなかったが、それは、クシュリナ自身が抱いている杞憂でもあった。
 ユーリが、自らの意思で、おそらく彼の最も苦手な部類に入るエレオノラと親しくするはずがない。
 そうだとすれば、それを指示しているのは彼の義理の父、青州公グレシャムである。
 なんのためか? クシュリナが予期した答えも、サランナと同様であった。
 奥州公ヴェルツ公爵は、今や五公で最も強大な権力を持つイヌルダ最大の諸侯である。黒獅子軍と呼ばれる彼の私兵は、すでに近衛隊をはるかにしのぐ力を有し、単独で皇都を制することも不可能ではない。
 それに抗しているのが、甲州公ハシェミであり、法王、コンスタンティノ家である。さらにルシエの父、薫州公フォードも、ハシェミの同盟者としてその後ろ盾となっている。
 その中でヴェルツは、自身の息子ダンロビンとサランナを結婚させ、サランナに皇位を継がせることによって自身の地位を確たるものにしようと目論んでいる。
 青州公グレシャムは、    おそらく、ヴェルツの思惑に進んで加担しようとしているのだろう。
 サランナが女皇になれば、当然、クシュリナを推すハシェミは失脚し、法王家さえ存続が危うくなる。いってみれば青州公は、自身の運命を、ハシェミと現皇室にではなく、ヴェルツの力に賭けたのだ。
 そのために、ユーリを人身御供として差し出したのなら……。
 が、それらの思惑全ての中心にいるのが、サランナのはずだった。いってみればサランナは、ヴェルツ側の人間なのだ。
 クシュリナの顔色から何かを察したのか、サランナは華やかな容姿に哀しげな笑みを滲ませた。
「……お姉さま、私たち……複雑な立場だけど、今は、ユーリ様の友人としてお話がしたいだけなのよ」
「でも、サランナ」
 ここに立つサランナの立場のほうが、クシュリナには心配だった。サランナもまた、ヴェルツに利用されているのは間違いない。だったら、その意に歯向かうような行動は、サランナの身に害を及ぼすのではないだろうか。
「私のことなら、ご心配には及ばないわ」が、サランナは毅然として首を横に振った。
「それよりも、ユーリ様のことをご心配なさってあげて。このままでは、お命さえ危なくなるやもしれないのだから」
「……どういうこと?」
 さすがに、今の言葉は聞き捨てがならない。さっと血相を変えたクシュリナを、サランナは迷うような表情で、長い間見つめていた。
「これを、ご覧になっていただきたいの」
 クロークの胸元にそっと手を差し込んだサランナは、中から、白い布に覆われた小さな包みを取り出した。
「なぁに……」
 かすかな不安を胸に抱きつつ、クシュリナはサランナから、布包みを受け取った。
「白蘭宮殿に、ひそかに人をやって手に入れたの……ユーリ様の寝室から、出てきたものだそうよ」
     なんだろう……。
 手渡された白い包みを、手のひらの上で、そっと開く。
 中には、透明な小瓶が収められていた。瓶は、親指の先ほどの大きさで、蓋にはコンチェランの紋章。青州鷹宮家の家紋である。
 瓶の中身は、黒い、小さな丸薬のようなもので、半ばまで詰められている。
「……お姉様……」
 サランナの声が、聞き取れないほど低くなった。
「お姉様はご存知ないと思うけれど、エレオノラ様には、かねてより不穏な噂があるの。……不思議な薬を使って、殿方を意のままにされておられるという噂よ」
「どういうこと?」
 意味が判らないままに問うと、暗い表情のまま、サランナは首を横に振った。
「私にも詳しいことは判らないの。けれど噂では、その薬を一度飲むと……気が違ったようになって、もう一度薬を飲むためなら、どんなあさましい真似だってするようになるのだそうよ。ヴェルツ公爵邸では、何人もの美しい若者が、エレオノラ様とヴェルツ様の……」
 そこでわずかに頬を赤らめ、サランナは言いにくそうに視線を下げた。
 意味を半ば察したクシュリナは、ぞっとするようなおぞましい気持で、手の中の小瓶を見つめた。まさか、この薬がそうだとでもいうのだろうか。
「私、ユーリ様も同じような目にあうのかもしれないと思うと、とても黙ってはいられなかったの。……だから、危険な真似だとは思ったのだけど」
 サランナは訴えるような眼で、クシュリナを見上げた。
「お姉様、お願い。その瓶の中身がどういうものなのか、お調べになっていただけないかしら」
 調べる? 調べるといっても、どうやって。クシュリナは戸惑ったままで、妹を見つめる。
「お姉様には、パシクに信頼できる騎士がいるでしょう?……ラッセルといったかしら。いつも、お姉様のお傍にいる人よ」
 言葉に窮したクシュリナの手を、サランナは強く握りしめた。
「きっと、同じものがヴェルツの屋敷にもあるはずよ。その動かぬ証拠を掴めば、これ以上ユーリ様がお苦しみになることもなくなるわ」
 ヴェルツの屋敷    そこまで捜索するとなると、確かに頼める相手は限られてくる。
「何があっても秘密を守れる者でなければ、この秘事は絶対に打ち明けられないわ。知れてしまえば、私が、ヴェルツ様にどのような報復を受けるかわからないのですもの……。お姉様、悲しいことに、私には信用できる味方が誰もいないの……」
 妹は潤んだ瞳を瞬かせ、寂しげな笑みを浮かべた。
 ラッセル……。
 迷うまでもなく、信用という意味なら、ラッセル以外に頼める相手はいない。クシュリナが命じれば、彼は死んでも秘密を口にすることはないだろう。また、皇都を護るパシクの立場を利用すれば、ヴェルツ公爵が使用しているという薬の存在をつきとめることもできるのかもしれない。
「わかったわ……」
 迷いながらも、クシュリナは白い布包みを、胸元にしまいこんだ。
「私への連絡は、ルシエを通じてお手紙をくださればいいわ」
 サランナは囁いた。
「証拠さえ手に入れれば、私がきっとユーリ様を説得して、このような恐ろしい罠から逃げ出せるようにしてみせます」
「サランナ、あなたは本当に大丈夫なの?」
「ダンロビン様と婚約している限り」
 サランナは、寂しく微笑した。「私は、大切な人質も同然だわ。ヴェルツ様も、迂闊な真似はなさらないはずよ」
 クシュリナの手を解き、サランナはクロークを深く被りなおした。
「もう行くわ、お姉様。また、こうしてお会いできればよろしいのだけど」
「どうして……、それほど、ユーリのことを?」
 ルシエと共に立ち去ろうとしている妹に、クシュリナはふと聞いていた。
 気づいてしまえば、それは大きな疑問だった。
 舞踏会の夜、サランナはユーリに辱めを受けたのだ。怒りを覚えても不思議ではないのに、何故、ここまで。   
「私……どうしてかしら、ユーリ様をあのまま放ってはおけないような気がして」
 足を止めたサランナは、優しい瞳でクシュリナを見つめた。
「……そうね、ひどく寂しそうな眼差しをしておられるから……一人にしてはおけないような、そんな気持ちになってしまうのね……」
 言葉を切り、何かを思い切るようにサランナはつっと顔を空のほうに向けた。
「それに、ユーリ様が、ヴェルツ様と青州公様の結託の犠牲となっているのなら、それは、もとをただせば、私たち姉妹の争いごとに起因しているのですもの」
 はっとクシュリナは視線を下げている。そういったことに思いも及ばなかった自身が、ひどく恥かしいような気持だった。
 静かな口調でサランナは続けた。
「このシュミラクールで、ヴェルツ侯爵に対抗できるのはコンスタンティノ法王家だけよ。……早く、アシュラル様が戻られて、この嫌な争いを終らせてくださればいいのだけど」

 
 
 
 
 

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