14
ラッセルがクシュリナを下ろしたのは、宮境に建てられたパシクの詰所だった。白蘭庭のロトンダからはわずかな距離だが、客宮を護る要とあって、頑強な石垣に護られている。
「このような場所に、お掛けいただくご無礼をお許しください」
軍隊らしく整然と片付けられてはいるが、ぞっとするほど殺風景な寝所だった。
狭い部屋には小さな寝台が所狭しと並べられ、きちんと畳まれた衣服が一揃えずつ置かれている。壁にかけられた水筒と、革袋。棚にはわずかな酒瓶と、木の実や草などが詰まった瓶が並べられている。食料だろうか それにしては、粗末すぎるような気がする。
仮にも貴族の子息も含まれるパシクが、このようなみずぼらしい場所で寝起きしていると知り、クシュリナは眉をひそめていた。
が、もとより、そんな風に思えたのは、部屋に入った最初のひと時に過ぎず、すぐに自身の苦しみだけで一杯になる。
「ラッセル……助けて……」
「落ち着いて」
寝台のひとつにクシュリナを座らせたラッセルは、手馴れた所作で、襟飾りのリボンを外すと、胸元を締め付けていた衣服を緩めた。
クシュリナは、すがるように広い胸に額を預けたまま、忙しい呼吸を繰り返す。
苦しかった。喉が詰まって、胸は見えない圧に押しつぶされそうだ。
「姫様……」
逞しい腕が、いたわるように背にまわされる。
温かな温もりが首筋に直に触れた。包み込むようなラッセルの香り、重なった鼓動の音、頬に触れる髪が少しだけ冷えている。
「落ち着いて、呼吸を、楽にして」
耳元で囁く声。素直にうなずき、クシュリナは陶酔にも似た心地よさに全身を預けた。
「もう、治ったのだと思っていたわ」
「一度、御殿医に診てもらうことです」
お父様が嫌がるの。……
その言葉は口には出さず、クシュリナは黙って自分を抱き締めるラッセルの腕に手を添えた。
初めてこの発作が起きたのは、五つの時だ。
どういった失敗をしたのか、ハシェミに厳しく叱られている最中、不意に息ができなくなり、そのまま意識を失った。
以来、年に何度か、その忌わしい発作はクシュリナを見舞い、数年に渡って苦しめ続けることになる。
原因はいまだによく判らない。唐突に呼吸が上手くできなくなり、やがて意識が混濁する。そのまま倒れることもあれば、苦しみながらも、意識を保っていられることもある。
ぜっぜっと、肩で小刻みに息を繰り返す様を見たハシェミは、「そのような姿、絶対に人に見せてはいけないよ」と、厳しい目で囁いた。
その後も、折りに触れハシェミは、発作のことを口外しないように、きつくクシュリナに言い聞かせた。病気を理由に皇位継承権を奪われることを警戒していたのだろう……多分。
ただ、その発作は成長と共に収まり、十二歳の夏季を最後に、一度も起きたことがない。
今となっては病のことを知る者は、すでに宮を去ったかつての御殿医と昔からのハシェミの側近、そして、ラッセルしかいなかった。
「本当にごめんなさい。……ずっと発作がなかったから、油断していたのかしら」
「お喋りにならないよう」
耳元で囁かれ、高まる動悸に戸惑いながら、クシュリナは小さく頷く。
じかに伝わるラッセルの鼓動、ぬくもり 。心臓が、別の所で鼓動を早め出す。
「……このまま、もう少し」
無意識に、クシュリナは呟いている。
ラッセルは何も答えず、抱きしめる腕に、わずかな力を加えてくれた。
昔も不思議だったし、今も不思議に思っている。ただ、抱き締められているだけなのに、呼吸が少しずつ、緩く、楽になっていくのは何故だろう。
御心の病なのです。
六年も昔に、ラッセルはそう言った。
( 御心がひどくお疲れになった時、身体の中の様々な働きや均衡が崩れ、それが姫様の場合、胸や喉に出てしまうのでしょう)
ラッセルは、似た病を持つ妹を看病した経験を持っている。それは、最初に彼に抱きしめられた十一歳の時、打ち明けられたことでもあった。
( ご無礼とは存じあげますが、この時だけ、私はあなた様を妹だと思うようにしているのです)
実際、当時十七歳だったラッセルにとって、クシュリナとは、主であることを除けば、妹のような幼い女の子にすぎなかったのだろう。
彼にとってのその関係は、多分、今も変わらない。
ラッセル……。
懐かしい温もりに包まれながら、クシュリナは不意に切なくなった。
判っている。どれほど優しくされても、互いの心が通じ合っているように思えても、それは、彼にとっては恋愛とは別のものなのだ。
胸が痛い。もう呼吸は楽になったのに、心臓だけがいつまでも苦しい。……
「……姫様?」
強張ったクシュリナの表情に気付いたのか、訝しげな声がする。クシュリナは顔を背けていた。
だめ。私にとって、あなたはもう。
こんな風に抱きしめられて、平気でいられる相手じゃない。
16
「ご、ごめんなさい。……もう、随分楽になったから」
クシュリナは、少しぎこちなく、ラッセルの腕を押し戻した。
わずかに驚いた風ではあったものの、顔をのぞきこむようにしたラッセルは、すぐに安堵した風に微笑する。
「心音も正常に戻ったようです。顔色も戻られた。もう、大丈夫でございましょう」
あっさりと身体が離れた途端、不意に泣きだしたいような衝動に駆られる。クシュリナは唇を噛みしめたまま、うつむいた。
「どうなさいました」
「ううん、なんでもないの」
「まだ御気分がお悪いのでは」
「本当に大丈夫」
私は、こんなに意識している。彼の滑らかな肌も、喉も、頬に触れる鎖骨も……全部。
けれど、見下ろすラッセルの落ち着き払った表情を見るだけで、心の高揚は一気に冷める。
今も昔も、彼にとって私は、意識する対象ですらないのだ。
「お疲れなのです。……大変な経験をなさったのですから」
ラッセルはいたわるように囁き、クシュリナの前に膝をついた。
「ユーリ様が襲われた件につきましても、御心配はお尽きならないだろうと御察しします。いずれ、ハシェミ様を通じて、お話がございましょう。それまで、お心をおすこやかにお持ちくださいませ」
ラッセル……。
綺麗な双眸が見上げている。
彼の眼差しは、初めて出逢った八年前から少しも変わってはいない。
彼が、自分のためなら命さえ惜しまずに投げ出すことを、クシュリナはよく知っている。先ほど忌獣に襲われた時もそうだった。あの状況で……わずかも迷わず、身を挺して庇ってくれた。
これほどまで大切に護られている。なのに 私には、それだけでは満足できないと言うのだろうか。
「今夜はゆっくりお休みくださいませ。すぐにフラウ・オルドにお送りしましょう」
ふと、視線を止めたラッセルが、手を伸ばした。クシュリナが驚いて身を引く前に、その手は解けた襟元のリボンにかかり、なんの躊躇もなく結ぼうとしてくれる。
長い指がわずかに胸の膨らみに触れ、はっと赤くなったクシュリナは、慌てて緩んだ胸元を手で合わせた。
「どうなさいました」
「…………」
「あ、」
ようやく、ラッセルはクシュリナの態度に得心がいったようだった。余り表情を変えない端整な顔が、僅かに狼狽を見せている。
「……その、申し訳ございません、つい」
「ラッセルに結んでもらったら、絶対可愛く仕上がらないもの」
笑顔で気まずさを誤魔化しながら、内心、悲しくてやりきれなくなっている。
どうして、手を伸ばす前に、自分の羞恥に気がついてくれないのだろう。
判っている。彼にとっての私は、いつもでも昔のまま、 出あった頃の、十歳の女の子と同じなんだ。
だから、リボンを結ぶことも、抱きしめることも、何の躊躇もなくできるんだ。……
立ち上がって背を向けたラッセルが、軽く息を吐くのが判った。
「私は、外に出ておりますので」
綺麗な所作で一礼し、背を向けたラッセルが、扉を開けて外に出る。
一人、取り残されたクシュリナは、にわかにぞっと足がすくむのを感じ、急いで衣服を直すと、飛ぶように立ち上がっていた。
そうだ。まだ外は夜で、ここは白蘭宮のただ中なのだ。
「ラッセル!」
扉を開ける。
外は、露台に面した通路で、目の前には夜の静寂が広がっている。
煌々と輝く月に照らし出された白蘭宮には、まだ、数人の男たちが残っていて、惨事の後始末に従事しているようだった。
ラッセル……?
出て行ったばかりなのに、ラッセルの姿はどこにもない。
「ラッセル、どこなの?」
どうして、自分から手を離すような真似をしてしまったのだろう。
今夜だけは一人になりたくない。一人にされると思った瞬間、忘れていた恐怖が、全身を震わせている。
「姫様」
通路の突き当りから、驚いたようにラッセルの長身が現れた。「どうなさいました」
じわっと、クシュリナの目に、涙が浮かぶ。
そのまま零れた涙を、クシュリナは手のひらで払った。
「どこにいたの……」
「申し訳ございません。馬車と、それから女官の手配を申しつけていたのです」
急ぎ、駆け寄ってきたラッセルの手を、クシュリナはしっかりと掴んでいた。
「傍にいて……お願い、一人にしないで」
「姫様……」
「…………」
動かないラッセルの前で、クシュリナは再度零れた涙を拭った。そっとクロークが、周囲から隠すように肩にかけられる。
「申し訳ございません。……私の、配慮が足りなかった。……」
ラッセル……。
温かな思いで、胸が満たされていくようだった。
「……忌獣を見たのよ……私……」
ようやく胸の底に閊えていたものが溢れだし、クシュリナは本心を吐露していた。
「私にも、やっと判ったわ……ラッセルも見たでしょう? 近衛隊の方は否定していらしたけど、あれは、間違いなく忌獣だわ。そうなのでしょう?」
涙を拭いながら、クシュリナはラッセルを見上げた。
何も言わず、彼はただ、目をすがめる。
「とても怖かった……本当に死ぬかと思ったの。ラッセルに助けられなかったら……きっと殺されていたわ、私」
何かもの言いたげな目をしたものの、それでもラッセルは無言のままだった。
「……私……」
「……姫様」
「ありがとう……いつも、……当たり前みたいに……あなたに、助けられているのに」
「…………」
「我儘ばかりで、ごめんなさい……」
「そのように思ったことなど、一度もございません」
ようやく微笑したラッセルが、クシュリナを促すようにして歩き出す。その眼は何故か、故意にそらされているような気がした。
「さぁ、参りましょう。すぐにお迎えの馬車が参ります」
ラッセルの、形良く張り詰めた肩の線、月光に冴える横顔、影を落とす睫。
胸が……いっぱいになる。
「ラッセル」
歩き出したラッセルは、足を止めて、振り返る。
「昔の約束、覚えている?」
「……もちろん」
薄く締まった唇が、優しく笑んだ。「忘れたことなど、ございません」
「死ぬまでの約束だったわよね」
「ええ」
嘘つき……。
クシュリナは冗談を言うみたいに笑おうとして、出来なかった。
あなたは、フラウ・ナイトから外れてしまったんじゃないの。それに……それに、もう。
「ダーラと結婚するって……」
「………」
表情を止めたラッセルが、訝しく眉を寄せる。
「今、なんと申されました?」
何故か、言葉が繋げなかった。ずっと考えないようにしていたことを口にした瞬間、思いは堰をきった川のように胸に溢れ、クシュリナ自身も、自分の感情を抑えられなくなっている。
ラッセルの端整な目が、困惑を帯びて逸らされる。
「……姫様」
多分、気がついてしまったのだ。いや、気づかないはずがない。好きだと……大好きだと、全身で告げているようなものだから。
彼のうつむいた瞳が、戸惑いと憂いを帯びて揺れている。これを動揺というなら、なんのために揺らいでいるのかクシュリナは知りたかった。彼の心の奥底にあるものまで、全部。
「ラッセル……」
震えながら、ラッセルの胸に手を置いた。その刹那、冷静な男の身体がかすかに震えたのが、はっきりと判った。
そのまま顔をあげる。殆ど間近に、引き締まった唇がある。
見下ろす顔は、月光に被さって見えない。ただ、漆黒の瞳だけが淡い光を反射して、微かに、ある種の感情を燃えるように宿した気がした。
ラッセル……?
鋭い針で貫かれたように胸が痛んだ。気のせいかもしれない、勘違いかもしれない、でも。……
「ラッセル」
私は。
「私は……」
あなたが……。
「………」
ラッセルの形良い唇が動き、何かを呟いたような気がした。
「クシュリナ様」
大きな腕が、そっとクシュリナの肩を抱いて、ゆっくりと引き離した。
まるで夢から覚めたように、クシュリナはようやく我にかえった。
ラッセルの眼は、クシュリナを見てはいなかった。クシュリナは彼の目線の先を追った。
「お静かに」
ラッセルが低く囁く。
露台から見渡せる白蘭庭。二頭立ての豪奢な馬車が、丁度、通用門を超えて詰所の下に停車したところだった。
馬車の側面には黒獅子の紋章 クシュリナも、さっと緊張した。奥州公ヴェルツ公爵家の家紋である。
が、降り立った人の姿を見て、クシュリナはさらに驚いた。
険しい目で空を睨むようにして立っているのは、留守にしていたはずの青州公、鷹宮グレシャムだった。
16
「だからあれほど言っただろう!」
怒声を向けられたのは、バートル隊の指揮官、加賀美ジュールである。
馬車の前では、数人のバートル隊が、怒りも顕わなグレシャム公に頭を垂れている。
「まことに、面目次第もございません」
謝るジュールらを凄味を帯びた目で睨みつけ、グレシャム公は用意された馬に飛び乗った。
「蒙真の連中は、空からでも襲ってくるんだ。何が精鋭部隊だ、皇都も見下げ果てたものだな。蒙真のような蛮族の侵入を、こうも簡単に許すとは」
グレシャムを先導するジュールらは、白蘭宮の客人を、ロトンダの方角 あの凄惨な現場へ連れて行こうとしているようだった。
「参りましょう。姫様がこのようなところに長居なさってはなりません」
去っていくグレシャムらを見届け、ラッセルが低く囁く。
「蒙真と言ったわ」
クシュリナは動かず、代わりにラッセルを見上げていた。
「ユーリもそう言っていたし、……今、グレシャム公も、確かに蒙真と言われたわ。では、ユーリを狙っていたのは、蒙真の人たちなの?」
ユーリの言葉を信じるなら、蒙真はユーリの生まれ故郷である。本人が認めたわけではないが、おそらく、蒙真族の中では、相当高い身分だったに違いない。そうでなければ、イヌルダの名門である青州鷹宮家が、わざわざ蛮族の子を引き取るはずがないからだ。
「蒙真は、今……現蒙真王朝と旧三鷹王家が、政権を巡って争っていると、……そういう話だったわよね」
ラッセルは黙ったまま、ただ目だけを静かにすがめる。
彼の立場で何も言えないことが、そして自分の推測が決して外れてはいないことが、その表情から推し量られるようだった。
ユーリは確かに狙われているのだ。それは、本人が言うような御家騒動ではなく、おそらく 彼の出自と、今蒙真で起きている政変のためだろう。
そしてもうひとつ、クシュリナには直感のように閃いた不安があった。
グレシャムが乗ってきた馬車は、ヴェルツ公爵家のものである。それ自体は不思議でもなんでもない。今夜グレシャムはヴェルツの屋敷に招かれていたのだろう。
が イヌルダに来て以来、ずっと白蘭宮に閉じこもっていたグレシャム公が、何故、しかも危険な夜に、わざわざヴェルツ邸を訪問したのだろうか。 。
そこに、胸騒ぎのような不吉な暗示を覚えながら、上手く言葉にすることができず、クシュリナは問いかけるようにラッセルを見つめ続けた。
すっと、そのラッセルの眼差しが、右に逸れる。
露台の下、いきなり鋭く馬が嘶いた。振り返ったクシュリナの目に、別の馬車が詰所から外に出ていくのが映る。
真っ黒な一頭立ての馬車である。御者も全身黒づくめだ。ひどく異様な雰囲気をまとう馬車は、凄まじい速さで西の方角へ駆けて行った。
本殿から向かって西には、黄薔薇宮殿がある。 妹のサランナが住み暮らすオルドである。
馬車を見送るラッセルの目が、暗かった。
「ラッセル……」
クシュリナは不安にかられて呟いた。
今夜、この白蘭宮では、クシュリナが目にした以外の何かが、秘密裏に起きていたのだ。漠然とそれを察しながらも、やはりクシュリナは何も言葉にすることができないでいる。
「姫様」
気づくと、ラッセルは微笑している。普段の表情を取り戻した彼は、そっとクシュリナの肩に手を置いて促した。
「参りましょう。夜は冷える、お身体に障ります」
いつも通りの眼差しにほっとしながら、クシュリナはそっとラッセルを見上げた。
「……ラッセル、今のは」
「姫様」
柔らかい口調で、遮られる。
「今、お目にされた件は、うかつに口になさらない方がよろしいでしょう。クシュリナ様、今夜のことは、全てお忘れになった方がいい」
「………」
忘れられるだろうか。いや、本当に忘れていいようなことなのだろうか。
間違いなく、ユーリの身辺には不吉な危険が迫っている。それに、忌獣のことだって。
ラッセルは、ゆっくりとクシュリナを見つめた。その眼差しに、言外にこめられた何かがある。
クシュリナは息をのんだ。
「……私も、忘れます」
それだけ呟き、ラッセルはいつもの横顔を向けた。
「さぁ、参りましょう。馬車が下で待っております」
「………」
「私が、オルドまでお送りいたします」
「………」
クシュリナはうつむき、ええ、と小さく返事をした。
それからオルドに戻るまで、ラッセルの口調も、眼差しも、いつもの彼と何一つ変わりはなかった。
彼が忘れると言ったのは、忌獣のことでもユーリのことでもない。
それが 答えなのだと、ラッセルの答えなのだと クシュリナは自分に言い聞かせた。
|
|